2015年7月16日木曜日
2015年7月15日水曜日
クラス会:顔の焦点が合う
5月から7月にかけて同窓会が目白押しであった。正確に言うと“同窓会”と“同期会”であるが、最後の7月に計画されていたのは高校3年時の“クラス会”だった。10年程前、高校2年時のクラス会に参加して大変楽しい思いをしたので、今回も大いに期待して参加することにした。卒業以来57年ぶりである。昔の仲間たちが私を覚えていてくれるか多少不安な気持ちもあった。
そこで、あらかじめ卒業時の全員写真を見ながら各人の名前と顔を確認しておくことにした。しかし誰が出席するかは当日会場へ行ってみないと分からない。私も、自分の名前がすぐ分かってもらえるようにと専用の名札を胸に着けることにした(こういう会では何時も持参し用いている)。
最近は、幹事さんがあらかじめ紐付きの名札を用意していてくれて、全員がそれを首からぶら下げて会場に入るというスタイルが多いようである。しかし折角の名札が裏返しになって読み取れないこともある。胸に止める名札ならそういう心配は無用であろう。
当日会場へ行ってみると案の定知らない人ばかりのようである。私だけでなくお互いに相手を確認できないで戸惑っている人が多い。受付で渡された出席者の名簿を見ると、私と同じ会社に勤務していた人、中学、高校と一緒だった人、コンピュータ関係の集まりで何度か会っている人などが出席予定になっている。親しい人が結構多いようで少し安心する。しかし何といっても卒業以来初めて再会する人が圧倒的に多い。
席に座ってから周りの人たちと協力し名前と顔を確認し合い、何とかほぼ全員の顔の確認ができた。皆さん、それぞれ素敵に齢を重ねておられるようである。60代だった10年程前のクラス会での経験とはかなり異なっている。こうして見ると、人間は70代になると急速に容姿が変わってしまうような気がしてきた。本人にはそういう自覚はないのが普通だから、他人から見たら私も同様なのであろう。
しかしいろいろと会話を重ね各人のスピーチなどを聞いていると、時間とともに次第に記憶のネットワークがよみがえってくる。少しずつ“現在の顔”と“昔の顔”とが重なり合って、いわば“顔の焦点”が合ってくるのだ。理屈では納得していても、何となく別人(*1)のような雰囲気を感じて壁になっていたものが突然取り払われる瞬間がある。不思議なものである。しかし何故か、女性についてはまったく顔の焦点が合わなかった。
この作業をしている間に、私は参加者の顔の“今昔”をじっくりと比較する機会を得たのであった(大変失礼ながら)。
元オペラ歌手だった男は、眼光炯々として素晴らしい顔立ちになっていた。信念ととも生きてきたのであろう。“男の顔”は自分でつくるものと言われているが、なるほどと思った。
大学教授として長年活躍してきた男は、その職にふさわしい“穏和な教授”の顔立ちになっていた。企業人から大学教師に転じた私のような男にはとても身に付かない独特の雰囲気を持っている。
中学校の頃から同級で同じコンピュータ業界にいた男は、なぜか卒業以来一度も顔を合わせる機会がなかった。インターネット上に自分の顔写真は出さない主義の人らしい。卒業以来初めて再会し彼の最近の顔を確認できたのは、私にとっては最大の成果であった。
また何年か後に、再び会って“顔の焦点”が合うかどうか試してみたいものである。■
そこで、あらかじめ卒業時の全員写真を見ながら各人の名前と顔を確認しておくことにした。しかし誰が出席するかは当日会場へ行ってみないと分からない。私も、自分の名前がすぐ分かってもらえるようにと専用の名札を胸に着けることにした(こういう会では何時も持参し用いている)。
最近は、幹事さんがあらかじめ紐付きの名札を用意していてくれて、全員がそれを首からぶら下げて会場に入るというスタイルが多いようである。しかし折角の名札が裏返しになって読み取れないこともある。胸に止める名札ならそういう心配は無用であろう。
当日会場へ行ってみると案の定知らない人ばかりのようである。私だけでなくお互いに相手を確認できないで戸惑っている人が多い。受付で渡された出席者の名簿を見ると、私と同じ会社に勤務していた人、中学、高校と一緒だった人、コンピュータ関係の集まりで何度か会っている人などが出席予定になっている。親しい人が結構多いようで少し安心する。しかし何といっても卒業以来初めて再会する人が圧倒的に多い。
席に座ってから周りの人たちと協力し名前と顔を確認し合い、何とかほぼ全員の顔の確認ができた。皆さん、それぞれ素敵に齢を重ねておられるようである。60代だった10年程前のクラス会での経験とはかなり異なっている。こうして見ると、人間は70代になると急速に容姿が変わってしまうような気がしてきた。本人にはそういう自覚はないのが普通だから、他人から見たら私も同様なのであろう。
しかしいろいろと会話を重ね各人のスピーチなどを聞いていると、時間とともに次第に記憶のネットワークがよみがえってくる。少しずつ“現在の顔”と“昔の顔”とが重なり合って、いわば“顔の焦点”が合ってくるのだ。理屈では納得していても、何となく別人(*1)のような雰囲気を感じて壁になっていたものが突然取り払われる瞬間がある。不思議なものである。しかし何故か、女性についてはまったく顔の焦点が合わなかった。
【注】(*1)人間の細胞は毎日約20%が入れ替わっていると言うから本当は別人なのかもしれない。“昔の記憶”は脳細胞から成るネットワーク構造として脳内に保存され、入れ替わることなく受け継がれていくらしい。つまり昔の 記憶だけを共有する別人と考えることもできる。帰宅後、会場で撮った写真を整理し自作のアプリで編集する作業を行った。編集したものをウェッブ上にアップすれば自分の務め(?)は完了である。写真が欲しい人はそこからダウンロードすればよい。プリントするか否かは本人にまかせる。ただ、ダウンロードする場合は人それぞれ好みの画素数があるから、大中小3種類のファイルから選べるようにしておく。しかし問題は、参加者のほとんどがインターネットをあまり利用していない世代の人たちなのだ。まあ、私のやっている“務め”とは、単なる自己満足に過ぎないのだが。
この作業をしている間に、私は参加者の顔の“今昔”をじっくりと比較する機会を得たのであった(大変失礼ながら)。
元オペラ歌手だった男は、眼光炯々として素晴らしい顔立ちになっていた。信念ととも生きてきたのであろう。“男の顔”は自分でつくるものと言われているが、なるほどと思った。
大学教授として長年活躍してきた男は、その職にふさわしい“穏和な教授”の顔立ちになっていた。企業人から大学教師に転じた私のような男にはとても身に付かない独特の雰囲気を持っている。
中学校の頃から同級で同じコンピュータ業界にいた男は、なぜか卒業以来一度も顔を合わせる機会がなかった。インターネット上に自分の顔写真は出さない主義の人らしい。卒業以来初めて再会し彼の最近の顔を確認できたのは、私にとっては最大の成果であった。
また何年か後に、再び会って“顔の焦点”が合うかどうか試してみたいものである。■
2015年7月3日金曜日
2015年6月18日木曜日
素朴な疑問:入れ替え戦
交流戦が終わった。昨年に引き続きパ・リーグ(*1)の圧倒的な勝利であった。
(あまり大きな声では言えないんですけどね‥‥)私はこの時期 何時も思うんですよ。パ・リーグの最下位球団とセ・リーグ(*2)の最上位球団が入れ替え戦をやるようにしたらよいのではないか、と。なぜ、そういう提案が出てこないんでしょうね。分からない・・・。
(あまり大きな声では言えないんですけどね‥‥)私はこの時期 何時も思うんですよ。パ・リーグの最下位球団とセ・リーグ(*2)の最上位球団が入れ替え戦をやるようにしたらよいのではないか、と。なぜ、そういう提案が出てこないんでしょうね。分からない・・・。
【注】(*1)パ・リーグ(Powerful League)
(*2)セ・リーグ(Second League)
2015年6月17日水曜日
素朴な疑問:かむ
「かむ」と言うと、最近は「言い間違える」ことを指すらしいが、ここでは本来の意味である“噛む”についての疑問を取り上げる。
▼噛む1:
寝床の中でラジオを聴いていたら、男性アナウンサーが握り寿司の食べ方について話していた。
・最初にシャリの旨さを味わいたい人はそのまま口に入れる。
・寿司ネタを味わいたい人は上下を逆にして口に入れる。
・両方を同時に味わいたい人は寿司を横向きにして(えっ!)口に入れる。
色々な主義の人がいるらしい。一体どれが正しい食べ方なのか、寿司屋の主人に聞きたくなったのだそうである。
寿司屋の主人の答えは、概略以下のようなものであった(例によってウトウトしながら聴いていたから間違っているかもしれない)。
どんな形で口に入れても構わないが、寿司は本来 口中調味(*)で食するものであるから、個々の味にこだわるのではなく、口の中で噛んで唾液とまじることによって美味しさが生まれてくる。したがって飲み込む直前が一番美味しい状態なのだそうである。それを味わうべきだということであろう。
▼噛む2:
寝床の中でラジオを聴いていたら、ゲストの医師が、食事中は100回は噛みなさいと教えていた。一口、口に入れたら箸置きに箸を戻してゆっくりと噛み続ける。唾液とまざると消化に良いだけでなく高齢者に多い誤嚥も防げるという。唾液には活性酸素を殺す物質も含まれているので癌の予防にもなるのだそうである。この医師はしっかりと実践しているのであろう。
私は半分眠りながら、なるほどと思った。私も子供の頃から親に「よく噛みなさい」と注意されていたが、早食いの癖だけは直らなかった。この齢になり誤嚥性肺炎に気を付けなければならない立場であるから、「100回噛み」に何度かチャレンジしてみたが、食事の時間が長くなってしまいどうも長続きしない。困ったものである。
▼そこで、ふと思った:
100回噛みを勧める医師は寿司を食べないのだろうか。
100回噛みをした寿司は「飲み込む直前が一番美味しい」と言えるのだろうか。分からない・・・。■
▼噛む1:
寝床の中でラジオを聴いていたら、男性アナウンサーが握り寿司の食べ方について話していた。
・最初にシャリの旨さを味わいたい人はそのまま口に入れる。
・寿司ネタを味わいたい人は上下を逆にして口に入れる。
・両方を同時に味わいたい人は寿司を横向きにして(えっ!)口に入れる。
色々な主義の人がいるらしい。一体どれが正しい食べ方なのか、寿司屋の主人に聞きたくなったのだそうである。
寿司屋の主人の答えは、概略以下のようなものであった(例によってウトウトしながら聴いていたから間違っているかもしれない)。
どんな形で口に入れても構わないが、寿司は本来 口中調味(*)で食するものであるから、個々の味にこだわるのではなく、口の中で噛んで唾液とまじることによって美味しさが生まれてくる。したがって飲み込む直前が一番美味しい状態なのだそうである。それを味わうべきだということであろう。
【注】(*)口中調味 については、以下が参考になる。私は半分眠りながら、なるほどと思った。飲み込む直前が一番美味しい とは至言である。テレビを見ながら、あるいはスマホをいじりながらの食事では、旨さを生む元である唾液がそもそも出てこないから美味しさも味わえないのではないか。テレビのグルメ番組でよく見かける光景だが、ごちそうを口に入れた瞬間に顔色を変えて(表情が変わるということですよ)「うまい!」とか「ヤバイ!」とか叫んでいる芸能人がいるが、彼らは「口中調味」などという概念は到底理解できないであろう。
http://www.wasyokuken.com/health/kochu.html
▼噛む2:
寝床の中でラジオを聴いていたら、ゲストの医師が、食事中は100回は噛みなさいと教えていた。一口、口に入れたら箸置きに箸を戻してゆっくりと噛み続ける。唾液とまざると消化に良いだけでなく高齢者に多い誤嚥も防げるという。唾液には活性酸素を殺す物質も含まれているので癌の予防にもなるのだそうである。この医師はしっかりと実践しているのであろう。
私は半分眠りながら、なるほどと思った。私も子供の頃から親に「よく噛みなさい」と注意されていたが、早食いの癖だけは直らなかった。この齢になり誤嚥性肺炎に気を付けなければならない立場であるから、「100回噛み」に何度かチャレンジしてみたが、食事の時間が長くなってしまいどうも長続きしない。困ったものである。
▼そこで、ふと思った:
100回噛みを勧める医師は寿司を食べないのだろうか。
100回噛みをした寿司は「飲み込む直前が一番美味しい」と言えるのだろうか。分からない・・・。■
2015年5月8日金曜日
30分インターバル運動のすすめ
| ★本記事のリライト版を、ホームページ上に 「30分インターバル運動 ── 定期的に身体を動かすことの重要性」 として掲載しました。(2015-6-1) |
仕事をやめて以来、書斎の机の前に座っている時間が増えた。自分の自由になる時間が増えて大変結構なことなのだが、一つだけ気懸かりなことがある。コンピュータなどをいじっているとつい夢中になってしまい、気が付くと数時間も同じ姿勢で過ごしている自分に気が付くからである。私は深部静脈血栓症という病気を抱えているので、時々立ち上がっては身体を動かす必要がある。しかるに、私は何かに熱中すると集中力が高まって自分の関心事以外のことは忘れてしまう傾向がある。当然、身体を動かすという大事なことも忘れてしまう。
そこで“30分インターバル運動”というのを始めることにした。これからの高齢化社会では、特に年配者には是非とも心得ていて欲しいことなのだが、それを理解してもらうためには定期的に身体を動かすことの重要性を先ず知ってもらうことが第一であると考えた。そこで、自分のミスで右脚に血栓が出来てしまった経緯を先ず紹介しておこうと思う。
◆長時間通勤
私は大学教師をしていた頃、毎週1回は川崎市から埼玉県の久喜市にある大学のキャンパスまで電車で通っていた。JRと私鉄を乗り継いで(当初は)都合3回の乗り換えが必要であり大学まで2時間半ほど掛かる。しかし午後からの授業を担当していたので10時半頃に家を出れば午後一番の授業には間に合った。したがって、行きはそれほど苦にはならなかったが帰りはつらかった。プログラミングの授業を2コマ連続して担当していたので、貸し出したコンピュータの後片付けを責任を持ってやらなければならない。授業が終わるとぐずぐずしている学生をせきたてながらコンピュータを回収し、それをロッカーに収納して施錠するということを確実に行わねばならなかった。その間に学生から質問を受けたりする。そんなこんなで授業を終えると4時半頃になってしまう。
それから大学のバスを利用してJRの久喜駅まで行き、往路と同じルートで帰宅することになる。帰りの電車はかなり混んでいて全く空席がない。都心に近づく頃には通勤客の帰宅ラッシュの時間と重なり増々混んで来る。家に着くのは6時半から7時頃になるが、それまでの間座ることができるチャンスは皆無である。つまり授業の始まる1時から帰宅する7時頃までずっと立ちっ放しでいなければならないのだ。これはかなりつらいことではあったが、長時間通勤には慣れているので最初の頃は体力的に何とかなっていた。
その後何年かすると、埼京線が開通しそれを利用すると3回の乗換え(登戸、新宿、赤羽)が2回(登戸、新宿)で済むようになった。ラッシュ時の乗換えはかなり体力を要するからこれでかなり楽にはなった。しかし座れないという事情は変わらなかった。
◆痛恨のミステーク
更に何年かして、素晴らしい解決策が見つかったのである。実は久喜駅には私鉄の東武伊勢崎線も乗り入れている。この線が、他の私鉄と相互乗り入れをするようになったのである。これを利用すると久喜駅から東武伊勢崎線の北千住を通り、更に半蔵門線で渋谷まで、そして田園都市線で溝の口まで乗り換えなしで一気に行けることになる。私鉄の溝の口駅は、私の家の近くのJR駅の隣りの駅なので後は歩いて帰宅できる距離なのだ。なんという幸運! 信じられない程の幸運に恵まれ、私は久喜駅発の電車で最初から座ったまま一直線で帰宅できることになったのである。
このルートは距離的にはかなりの遠回りになるので乗車時間は約2時間と長くなる。そこで帰宅時だけこのルートを利用することにした。帰りで疲れていることもあり、一度利用すると以後は迷うことなくこの楽な方のルートで帰宅するようになってしまった。これが第一の間違いだったのである。
電車の柔らかい座席に長く座っていると、つい眠たくなってしまい30分位は眠ってしまう。途中で目が覚めると後は本を読んだりして過ごすのだが、ずっと同じ姿勢でいたために腰や尻のあたりが痛い。これでは血行が悪くなると思い、私はできるだけ足先を動かしたりしていた。本当は立ち上がって身体全体の筋肉をほぐしたかったのだが、最初のうちは空いていた電車内も、都心に入り今や通勤客で満員の状態になっている。とてもそんなことをする余裕はない。
こんなことを毎週繰り返しているうちに私は血栓症になってしまったらしいのである。注意していれば防げた筈の痛恨のミステークであった。
最近は上野東京ラインの開業とともにJR各線の間でも相互(直接)乗り入れが行われるようになった。「北関東から熱海まで」それこそ乗換えなしの直通で行けるようになったらしい。便利ではあるが年配者は気を付けた方がよいと思う。乗り継ぎ不要というのは良いことばかりではないのである。
◆身体を動かすことの必要性
ところで、私の深部静脈血栓症が見つかったのは偶然のことだった。たまたま脚のむくみが酷いので病院で診てもらったところ、右脚のふくらはぎの部分に血栓ができていることが分かったのである。血栓はむくみの直接の原因ではなかったが、見つかったのは幸運と言うべきであろう(むくみの原因は未だ分かっていない)。
血栓というのは存外簡単にできてしまうものらしい。治療法は血栓をそれ以上成長させないようにすることが中心となる。以来私は抗凝血薬を毎日のみ、一日中弾性ストッキングを穿いていなければならない身となってしまった。
医療専用の弾性ストッキングを着けると血流が良くなるのだという。血管が締め付けられて細くなったら逆に血流が悪くなるのではないかと思うが、そうではないらしい。足全体が圧迫され続けるため下肢の静脈のよどみが少なくなり、下肢静脈の血流がよくなるのだそうである。川幅の広い大きな川の水はゆったりと流れるが、川幅が狭いと水流は速くなるという理屈である(*1)。
【注】(*1)ここでは血液の流れを、川の流れのアナロジーで説明した。しかし交通渋滞での車列の流れの問題解決にこのアナロジーを適用するのは理論的には可能であるが、明らかに現実的ではない。医師の説明では、下肢の血液を心臓まで送り返すには大変な圧力が必要になり心臓の負担となる。そこで運動をすれば両脚の血管がポンプの役割を果たしくれて血液を押し上げる助けになる。しかし齢を取ると血管が固くなりポンプの役を果たす力が弱くなってしまう。そこでストッキングで絞めつけて筋肉が収縮した状態にしておけば、身体を動かすとそれが圧力となってポンプ機能を復活させることが期待できる、ということらしい。つまりストッキングを付けて両下肢を動かすことが血栓予防には特に重要なのである。
毎朝起床すると私はまずストッキングを身に着けるのだが、これが慣れないとなかなかうまくできない。初めの頃はかなりの時間を要していた。ストッキングを一日中身に着けているのは更に大変で苦痛以外の何物でもない。特に夏の暑い季節はつらい! 本当につらいのである。暑い夏を迎えて思うのは、ただ自分の不注意に対する悔悟の念ばかりである。
◆時間間隔
身体を動かす間隔(インターバル)を私は30分と設定したが、これは各人の事情に合わせて適当に設定するのがよいであろう。
私がまだ企業人であった頃、毎朝の電車通勤では2時間を要していた(昔から私は長時間通勤に運命付けられていたらしい)。JR線で約36分、立川で乗り換え再びJR線で約30分という具合だった。乗り継ぎではかなりの待ち時間を要したから、これが直通で行けたら1時間で済むのにと何度思ったことか。しかし今から思うと、この長時間通勤で血栓症を引き起こさずに済んだのだから、30分というは丁度良い間隔だったのだろう。そう思って30分と設定したのである。
◆実践方法
30分インターバル運動を実践するには、30分ごとにアラームを鳴らす時計が必要となる。昔の家には柱時計というのがあり、1時間ごとに「ボーン」という音を、その時の時間の数だけ鳴らしてくれたものである。夜中に目覚めたとき、この音を聞くと思わずその数を数えてしまい頭がさえてしまって困ったのを思い出す。こういう柱時計は30分になると1度だけ「ボーン」と鳴るようになっていた。そういう時計があるとよいのだが、現在ではなかなか手に入らないようだ。いろいろと考えた末、私はコンピュータ上の時計を用いることにした。普段から利用しているフリーソフトの「SGウォッチ」(これは素晴らしいソフトです)で試してみたところ、私の要求を十分に満たしているようである。
(SGウォッチ)
アラームが鳴ると私はすぐ立ち上がり、スクワット(Squat)、プランク(Plank)、ダンベル(Dumbbell)、踏み台昇降(Step aerobics)などの運動の中から適当に選んで実行することにしている。自分の定めたノルマを30分ごとにやっていると、午前中だけで一日分のノルマをほぼすべて完了してしまう。午後は専ら軽い運動だけにする。お手玉をやったり、片足立ち(1分)をやったり、ただ立ち上がるだけ、だったりといろいろである。
アラームとして何を鳴らすかも重要である。私の場合は音楽を鳴らすことにしている。何かに夢中で取り組んでいると1度のベル音のみのアラームでは気が付かない恐れがある。音楽なら安心かというとそうでもない。何かに熱中していると「あれ? いま確か音楽が鳴っていたような気がするが・・・」となることが多いのだ。慌ててタイマーの画面を確認すると今まさにアラームが鳴り終わった直後であることが分かったりする。ある程度の長さ(4分前後)のミュージック・ファイルをベル音ファイルの欄に設定しておくとよい。
たとえば、私の場合「コンドルは飛んで行く(4分22秒)」や「この広い野原いっぱい(3分55秒)」などが丁度良い長さである。一度「さとうきび畑」を使ったことがあるが、これは10分以上なので長すぎた。アラームが終わるとすぐまた次のアラームが始まるという感じになってしまい忙し過ぎてうまくいかなかった。
ここで“30分インターバル運動”の運動とは“Exercise”の意味ではなく、キャンペーン“Campaign”くらいの意味である。高齢社会で長生きし(たとえ持病を持っていても)健康で普通の生活が送れるようにするためのすすめである。
そして血液の流れを良くして脳梗塞や虚血性心疾患といった循環器系の病気を起こさないようにしたいと思う。ご同輩の方々が関心を持ってくれることを切に期待しています。■
2015年4月17日金曜日
目覚し時計
| ★本記事のリライト版を、ホームページ上に 「目覚し時計 ── 古い物の価値を見直す」 として掲載しました。(2015-5-1) |
私の寝室には古い目覚し時計が置いてある。貰い物なので、それがどの位の価値の物なのか今まで関心を持つこともなく、ただ使い続けてきた。すこぶる使い勝手が良くて私は大変気に入っている。
夜中にふと目覚めたとき「今、何時頃かな?」と思うことがよくあるが、そんな時そっと手を伸ばして時計の上部に軽く触れると『4時12分です』などと女性の声で報せてくれる。アラームのオン/オフなどは手探りで簡単に切り替えられるから、就寝前に設定し忘れたことに気がついたとしても(半分眠りながら)直すことができたりする。1分間隔で連続して時間を報せる機能もあるから、昼間でもいろいろな利用法が考えられる。「おぬし、なかなかやるのう」という感じの存在なのである。
まあ、こういった機能は大抵の目覚し時計には装備されているから別に驚く程のことではない。私が驚いたのは、これだけの機能があり しかも一日に何度も女性の声で喋らせて酷使しているのに、電池の消耗が極端に少ないことである。ここ4~5年は電池交換をした記憶がない。そして故障したことが一度もない! もしかすると、これは凄く高価な目覚し時計なのかもしれないと思うようになってきた。
普通、電池交換をすると時間がリセットされてしまう(作業の間バックアップがないので、これは仕方がない)。そこで毎回、時間設定をしなければならなくなる。ただ困るのは、こういう事態になるのは数年に一度なので時間設定の手続きにいつまでも不案内のままで毎回手こずっていることである。時間設定の手順は、不注意で時間が変更されたりしないよう意図的に複雑な手順になっている。そのため、いつもやり方が分からず時間を食ってしまう。確か4つのボタンを同時に押しながら、もう一つの(少し離れた場所にある)ボタンを押すことによってトリガーが掛かる筈なのだが、これがなかなかうまくいかない。太い指の腹で小さなボタンを同時に4つ押すというのは結構難しいのである。詳しいやり方が本体底部に張り付けられた紙に書かれているのだが、時の経過とともに色褪せてきて、おまけに汚れが付いてしまって肝心のところが読み取れなくなってきている。そこで私は、確認した手順と方法(複数のボタンを同時に押すための自己流のコツ)とをその紙の上に手書きすることにした。
こうして何年も愛用してきた我が大切な目覚し時計が、最近少し変なのである。あらぬ時に、突然『アラームは午前5時です』などと喋りだすようになってしまったのだ。『午前5時で‥‥』とぶつ切りになったり、『アラームは、アラームは、‥‥』と部分的に繰り返すこともある。認知症の兆候が出ているのかもしれない。
事ここに至り、私はこの時計の寿命が そろそろ尽きる時期に近づきつつあることを悟ったのである。一体何年使い続けてきたのだろう。昔の記憶をたどっていくと、どうやら30年位になるようである。30年も使えば、そろそろ買い替えてもいいかなと思う。これと同じものが見つかったら買い替えよう。そう思ってウェッブ上でいろいろ調べてみると同じ製品の後継機種が見つかった。価格もそれほど高いものではない。しかし外装はまったく異なっている。モデルチェンジしてしまい同じものを見つけるのは困難であることが分かった。
新しい機種に乗り換えても、多分同じように長持ちするとは思えない。最新の電子機器は性能は素晴らしいかもしれないが、長持ちしないのである。昔の機械式の構造のものは堅牢で長持ちするが、電子的な装置ではとても30年(*)はもたないであろう。
【注】(*)私めは高貴な「後期高齢者」であるからして、これから30年も長生きする予定も可能性もない。しかし不思議なもので、物を買うときは相変わらず長持ちするものを買いたいと思う。
そうなると、この時計(機械式ではないが)を壊さないようにして使い続けた方が賢明であると、私めは判断したのである。
「おぬし、たいした代物じゃのう。長生きせいよ」
2015年3月28日土曜日
河川敷スクワッティング
| ★本記事のリライト版を、ホームページ上に「河川敷」として掲載しました。(2015-4-2) |
私は天気の良い日は多摩川のサイクリングロードを歩くことにしている。昔はこの場所でサイクリングやジョギングをしていたのだが、この齢では余り激しい運動はできないからウオーキング程度にしておくのが安全というものであろう。
家を出てからしばらくは幹線道路を歩くが、東名高速の下辺りから多摩川の堤に出て川上の方へと向かうことにしている。堤の左側には多摩沿線道路が走り、右側には広大な河川敷が広がっている。多摩川の水量は豊かであるが、河川敷には普段は川の流れに影響されない豊かな自然が残されている。
堤の上のサイクリングロードを歩きながら遠方に見える山並みや東京方面の景色を眺めるのも楽しいが、毎度のこととなるとすぐ見飽きてしまう。その点、変化の激しい河川敷の様子を細かく観察することの方がはるかに興味深くまたストレス発散にもなっているような気がする。
河川敷は木や草原で占められているが、堤に近い部分には企業の運動グラウンドやテニスコートなどがある。最近ではフットサルを教える運動クラブの施設なども作られている。これらは公に許可を得ているものであるが、個人が不法に占拠(スクワット(*1))して自分の耕作地にしてしまっている場所も多い。
【注】(*1)スクワット(squat)と言うとインターネットの世界ではサイバースクワッティングが話題になるが、ここでの“スクワット”は本来の意味である「無断居住」、「不法占拠」のことである。
これらの不法耕作地は、自分の領域を明確にするためなのであろう例外なく垣根で囲われている。入口には扉を付けて鍵が掛けられるようになったものもある。物置を備えていたり、廃品を利用して作られた水槽など苦心の跡が分かるので、見ているとなかなか楽しい。
長年見ていると、不法耕作地のうちでその後放擲された区画は一つもないようだし、多分同じ持ち主(?)がずっと使い続けているように見える。不法地主は自転車などでやって来ては畑の作物の手入れに余念がない。多分、近隣に住む人達なのであろう。畑の耕し方などからズブの素人の畑仕事であることがすぐ分かる。しかし中にはかなり立派な畑もある。整然とした畝作りで季節ごとに植える物を切り替えたり休耕にしたりして農作業のプロとおぼしき人もいる。成果物の野菜類を台車に載せて運んでいるのを見ると、とても個人では消費しきれない量であるから多分八百屋等を経営している人ではあるまいか。最初の頃は批判的に見ていた私も、長年(40年位になる)見ているうちに何となく彼らに親しみを持つようになってしまった。一方彼らは、私のような通りがかりの人を見ると、苦労して作った成果物を盗もうとしているのではないかと警戒の目で見ているような気がする。これは思い過ごしであろうか。
こういった河川敷での不法占拠耕作地については、今まで何度も新聞等で報道されてきた。最近も多摩川の事例が地方版(川崎支局)で報道されたのを記憶している。その記事を読んで、これまでは不法地主の方を(心理的に)応援していた私も、これは整理しないといけないと思うようになった。
そろそろ管理が厳しくなるのではないかと予想していたのだが、はたせるかな2月頃から川下の方で何か大掛りな作業を連日行っている様子が見えるようになった。かなりの作業員が関わっており、車も数台止められているようだ。ウオーキングで来る度に観察していると、川下から私がいる川上の方に向かって作業場所を少しずつ移動してきている。間もなくそれが何であるかが明らかになった。不法耕作地を整地して関係者以外入れないよう柵で囲っているのであった。
よく見ると、まだ整地されていない畑には注意書きが張られた看板が立てられている。立ち退きの要請が書いてあるのであろう。いろいろな廃品が持ち込まれているので後片付けも大変なようである。大型のごみを搬出するためのトラックも来ている。ものすごく時間が掛かる作業のようだ。
私が堤に出て歩き始める位置にまでとうとう作業が到達した。これから先はグラウンドが続くので一区切り付く地点である。作業車に掲げられている看板には発注者名が「国土交通省 京浜河川事務所」と書いてある。県か市のやっている仕事かと思っていたが国の仕事だったのだ。なるほど、多摩川は一級河川であるから当然のことながら国が管理しているのである。
この位置から川上に向かっては、企業の運動グラウンド、テニスコート、運動クラブ等が続いているので不法耕作地は存在しない。そして更にその先には舟島稲荷神社と二ケ領用水の取水口があり、その辺りにはまた耕作地が沢山ある。
気が付くとまた不法地主の方の心配をしている自分がいる。困ったものである。■
2015年2月22日日曜日
インターネット検索でのつまみ食い
つまみ食いというのは、実にいいものである。他の人をさしおいて一人でじっくりと賞味できる特別な行為だからであろう。ただ一つ欠点があるとすれば、それは多少の後ろめたさを伴なうことだ。大人になった今でも、それは少しも変わらないような気がする。そして、つまみ食いしたものは特に美味しく感じられる。多分、スリルという隠し味が ちょっぴり加味されるからであろう。
私の子供の頃は終戦直後の食べる物のない時代であったから、尚更つまみ食いに対する憧れは強かったように思う。しかしどの家庭でも、当時は今よりかなり厳しい躾けがなされていたから、簡単につまみ食いができるような環境ではなかった。
ある時、台所にある戸棚の引き戸を開けてみると小皿が一つ置いてあり、その上に小さな白い団子が三つほど「食べてください」と言わんばかりに置かれているのを発見した。一瞬食べようかと思ったが、そこはそれ、躾けのよい子(?)であった私は、もちろん手など出したりはしなかった。後で考えると、あれはネズミ退治のための“猫いらず”が入った毒団子だったのだと思う。戸棚を覗き込むこと自体が少し後ろめたい行為だったので、私は母親にそれを確かめるようなことはしなかった。つまみ食いと言うと、私はあの白い団子のことを今でも時々思い出すのである。
インターネットの世界にも“つまみ食い”というのがある。
我々はインターネット検索を利用して何でも簡単に調べることができる。検索システムにキーワードを入力しさえすれば、それに関連する情報をピンポイントで見つけ出してくれる。便利な世の中である。しかしインターネット検索に慣れてくると、そこで得られた情報を自分の思考を深めるために利用するのではなく、自分にとって都合の良い部分だけ抜き出して別の目的に利用するようになる(これが結構オイシイ)。
得られたテキストの文脈全体から知識を得るのではなく、その中から自分が便利に使えそうだと思う“文脈の断片”だけを残し、それ以外の文脈はすべてそぎ落としてしまう。これが“つまみ食い”と呼ばれるものである。
一度この便利さを経験すると、もうやめられなくなってしまう(つまみ食い依存症)。何かリポートの作成が必要になると、直ぐさまインターネット検索でつまみ食いを繰り返すようになる。そして、集めた文脈の断片を切り貼りすることによって自分の意見らしきものを構築していく術を身に付ける(コピペ依存症)。更に依存度が深まると、他人の意見を自分の意見だと勘違いするようになる。こうしてつまみ食いから得た“自分の意見”に頼るようになり、結果として非思考型の人間へと改造されていく。
最近の若者達は本を読まないそうである。新聞記事(*)によれば、1日あたりの読書量が0分の大学生が実に4割を超えているという。本を読まない人がつまみ食い依存症になると更に困ったことになる。他人の主張に容易に乗せられてしまうからである。その結果、今話題になっている「過激な思想」にも簡単に染まってしまう。
たとえば、ある考え方を広めようと論文を作ることにしよう。これを図1で表すことにする。
(図1)
この論文の要所には、他人の論文等からつまみ食いした断片(たとえば、①,②,③,④,⑤,⑥,⑦など)をはめ込んで議論のベースとして用いる。
(図2)
ここでつまみ食いした部分は自分の意見ではなく、他人の意見であることを明確にしておく。ただ、自分に都合のよい形に解釈を微妙に変更してしまう場合もある。しかし読者はそれに気が付かない。いちいち原文を読んで確かめる人は少ないからである。
つまり、公に認められている事実をベースに論文が書かれているように見せる。したがって、そこから導かれた結論は当然正しい! と思わせるためである。このようにして作られた論文(図3)は表面的にはもっともらしく見える。
(図3)
しかし普段から書物を読みしっかりと勉強している人は、自分の頭の中に(図4)のような知識の体系ができているから騙されない。論理展開のベースとなる事実が疑わしいことにすぐ気が付く。もともと整合性のないジグソーパズルの小片(ピース)を無理やりに押し込んだものだと分かってしまう。
(図4)
しかし本を読まず、その方面の知識の体系を身に付けていない人はたちまち騙されてしまう。そして「私はすべて読みました。そして全部、ちゃんと理解しました!」などと発言する学生がでてくるようになる(具体的な事例は「インターネット検索の功罪」を参照)。
このように、文脈から切り離された知識を利用すれば、他人を惑わす論を展開することができる。普段本を読まず、つまみ食いに慣れていて非思考型の人は、それを逆に利用されて誤った方向へと容易に導かれていってしまう。論理の手順さえもっともらしく組み立てられていれば、ベースとして利用された事実(らしきもの)の信憑性には疑問を持たないからである。「インターネット上から得られた知識」というだけで信じてしまうようなものである。
若者たちが、過激な思想に簡単に取り込まれてしまうのは、こんなことも影響しているのではあるまいか。
私の子供の頃は終戦直後の食べる物のない時代であったから、尚更つまみ食いに対する憧れは強かったように思う。しかしどの家庭でも、当時は今よりかなり厳しい躾けがなされていたから、簡単につまみ食いができるような環境ではなかった。
ある時、台所にある戸棚の引き戸を開けてみると小皿が一つ置いてあり、その上に小さな白い団子が三つほど「食べてください」と言わんばかりに置かれているのを発見した。一瞬食べようかと思ったが、そこはそれ、躾けのよい子(?)であった私は、もちろん手など出したりはしなかった。後で考えると、あれはネズミ退治のための“猫いらず”が入った毒団子だったのだと思う。戸棚を覗き込むこと自体が少し後ろめたい行為だったので、私は母親にそれを確かめるようなことはしなかった。つまみ食いと言うと、私はあの白い団子のことを今でも時々思い出すのである。
インターネットの世界にも“つまみ食い”というのがある。
我々はインターネット検索を利用して何でも簡単に調べることができる。検索システムにキーワードを入力しさえすれば、それに関連する情報をピンポイントで見つけ出してくれる。便利な世の中である。しかしインターネット検索に慣れてくると、そこで得られた情報を自分の思考を深めるために利用するのではなく、自分にとって都合の良い部分だけ抜き出して別の目的に利用するようになる(これが結構オイシイ)。
得られたテキストの文脈全体から知識を得るのではなく、その中から自分が便利に使えそうだと思う“文脈の断片”だけを残し、それ以外の文脈はすべてそぎ落としてしまう。これが“つまみ食い”と呼ばれるものである。
一度この便利さを経験すると、もうやめられなくなってしまう(つまみ食い依存症)。何かリポートの作成が必要になると、直ぐさまインターネット検索でつまみ食いを繰り返すようになる。そして、集めた文脈の断片を切り貼りすることによって自分の意見らしきものを構築していく術を身に付ける(コピペ依存症)。更に依存度が深まると、他人の意見を自分の意見だと勘違いするようになる。こうしてつまみ食いから得た“自分の意見”に頼るようになり、結果として非思考型の人間へと改造されていく。
最近の若者達は本を読まないそうである。新聞記事(*)によれば、1日あたりの読書量が0分の大学生が実に4割を超えているという。本を読まない人がつまみ食い依存症になると更に困ったことになる。他人の主張に容易に乗せられてしまうからである。その結果、今話題になっている「過激な思想」にも簡単に染まってしまう。
【注】(*)大学生の1日あたりの読書量は
0分 40.5%
10分未満 1.8%
10~30分 16.2%
30~60分 20.7%
60~90分 12.7%
90~180分 5.1%
180分以上 1.9%
無回答 1.1%。
たとえば、ある考え方を広めようと論文を作ることにしよう。これを図1で表すことにする。
この論文の要所には、他人の論文等からつまみ食いした断片(たとえば、①,②,③,④,⑤,⑥,⑦など)をはめ込んで議論のベースとして用いる。
ここでつまみ食いした部分は自分の意見ではなく、他人の意見であることを明確にしておく。ただ、自分に都合のよい形に解釈を微妙に変更してしまう場合もある。しかし読者はそれに気が付かない。いちいち原文を読んで確かめる人は少ないからである。
つまり、公に認められている事実をベースに論文が書かれているように見せる。したがって、そこから導かれた結論は当然正しい! と思わせるためである。このようにして作られた論文(図3)は表面的にはもっともらしく見える。
しかし普段から書物を読みしっかりと勉強している人は、自分の頭の中に(図4)のような知識の体系ができているから騙されない。論理展開のベースとなる事実が疑わしいことにすぐ気が付く。もともと整合性のないジグソーパズルの小片(ピース)を無理やりに押し込んだものだと分かってしまう。
しかし本を読まず、その方面の知識の体系を身に付けていない人はたちまち騙されてしまう。そして「私はすべて読みました。そして全部、ちゃんと理解しました!」などと発言する学生がでてくるようになる(具体的な事例は「インターネット検索の功罪」を参照)。
このように、文脈から切り離された知識を利用すれば、他人を惑わす論を展開することができる。普段本を読まず、つまみ食いに慣れていて非思考型の人は、それを逆に利用されて誤った方向へと容易に導かれていってしまう。論理の手順さえもっともらしく組み立てられていれば、ベースとして利用された事実(らしきもの)の信憑性には疑問を持たないからである。「インターネット上から得られた知識」というだけで信じてしまうようなものである。
若者たちが、過激な思想に簡単に取り込まれてしまうのは、こんなことも影響しているのではあるまいか。
2015年1月28日水曜日
なぜ箸を正しく使えないか
新聞を読んでいたら、箸を正しく使えない人が増えているという記事を見つけた。その記事によれば、箸の正しい持ち方、正しい使い方ができる人の割合は、1984年では男女ともほとんどの年代で過半数を占めていたのに、25年後の2009年には2~3割に減ってしまっているのだそうである。
特に1940年生まれあたりを境にして、箸を正しく使えない人が増えているという。
確かに、箸を正しく使えない子供や大人を見かけることが多くなった。テレビに登場する芸能人の中にもそういう人がいて、ものを食べる場面で「実は私、箸がうまく使えなくて…」などと恐縮しながら箸を使っているのを見たことがある。
私は、大学のプログラミングの授業を担当していた頃、和食の食べ方を話題として取り上げることにしていた。これは、和食を食べる際に必要とされる作法を通じて、プログラム作りで必要となる「トップダウン」という考え方を教えるためであった(詳しくは「食事マナー」参照)。そして箸についても、いかに素晴らしいツールであるかに言及してきた(詳しくは「箸」参照)。実はその時は、正しく使えない人がこれほど多いとは思わなかったからである。
正しく使えない人が増えた原因として、その新聞記事では次のような理由が挙げられていた。
・戦中戦後の混乱期に親が子に箸のしつけをする余裕がなかった。
・箸を使う食べ物そのものが減っている。
・学校給食で先割れスプーンを使う頻度が高かった。
・幼児期にスプーンで食事する時期が長くなり、スムーズに箸に移行しにくい。
内閣府の調査では「箸の使い方を含めた食事のマナーを身につけている人ほど、幼い時に家族全員で夕食をとった頻度が高い」というデータがあるのだそうである。
これらの理由はどれも、なるほどと思わせる点もあるけれど、同時にどれも納得がいかないところがある。内閣府のデータに至っては、調査などしなくても誰でもすぐ思い付く程度のものである。
私は、箸の使い方に限らず、昔ながらの習慣やマナーが後の世代にうまく受け継がれなくなってきたのは(少し話が大きくなるけれど)戦後の教育の仕方が影響しているのではないかと思う。
戦後、日本の教育制度は大幅に変更され、昔ながらの(体罰を含む)厳しい教育方法は否定された。そして、なぜそれを学ぶ必要があるのか その必要性を本人に説明し納得させてから教えることが求められるようになった。このやり方でも大抵のことはうまくいくのだが、うまくいかないケースもある。たとえば箸の使い方のように幼い頃はどんな食べ方をしても、美味しく食べられさえすれば良いのだと思いがちである。しかし大人になってから、箸がうまく使えなくて公の場で恥ずかしい思いを経験すると、しっかり学んでおけばよかったとその必要性に初めて気が付くことになる。
学ぶ必要性が理解できる時期とそれを学んで身に付ける時期とが異なる場合は問題が残るのである。つまり、学ぶに最も適した時期(普通は、幼い時)にはまだその必要性が十分に理解できていない、ということがよくあるのだ。
たとえば、ピアノやバイオリンなどの音楽的才能を伸ばしたい場合、あるいは特定の運動能力を伸ばしたい場合などである。こういったものは学校教育では限界がある。家庭で親の熱意によって、あるいは特定の集団に属しての英才教育によって対応するのが普通である。本人が納得していなくても、なかば強制的に教えることによって才能を発掘する。そのうちに本人にも学ぶ喜びと意欲が生まれてくる可能性に期待するのである。
箸の使い方、食事マナーなどは幼い内から教え込まないと身に付かないものである。ばっかり食べ、クチャクチャと音をさせて食べる癖などは、長じてからではもはや直せない。これらのマナーを身に付けていないと、後々社会人になってから苦労することになる。これらは学校教育ではなく家庭内教育として親が教えるべき事柄である。私が小学校に入った頃は、同じクラスの子は誰もが箸を普通に使いこなしていたように記憶している。
箸を正しく使える人が「2009年には2~3割」しかいないという事実は私にとって衝撃的(*)であった。つまり逆に言うと、正しく使えない人が7~8割を占めていることになる。その内に9割を越えることになるのではあるまいか。
【注】(*)更に言えば「1940年生まれを境にして」という点も衝撃であった。何となれば、私めは“1940年生まれ以降の世代”には含まれていないからである。私はこれまで自分の年齢にはできるだけ触れないよう注意深く文章をつづってきた積りだが、これはやはり一言言及しなければいけないと思った。もはや「箸の正しい使い方」について議論する上では、当事者ではなく過去の世代の人間であることを、ここに明確にしておくべきだと思ったからである。これからは少し(少し!ですぞ)言葉を慎もうと思う。
少子高齢化の時代である。両親がともに正しく使えなくて“いい加減な使い方”(と、ここでは呼ぶことにしよう)をしている場合、その子供は間違いなくいい加減な使い方のまま成長することになる。長じてからその癖を直すのは、多分不可能であろう。したがって、いい加減な使い方をする人の割合はこれから加速度的に増えていくことであろう。
正しく使える子も、学校へ行けば変な目で見られるかもしれない。「箸の変な使い方をする子がいる」となれば、いじめの対象になる可能性もある。いじめられたくないからと、正しく使える子も学校ではいい加減な使い方の子に合わせるようになるかもしれない。そして、次第にいい加減な使い方の方が“正しい使い方”となってしまうことであろう。恐ろしいことである。
歴史が後の世代によって改変されていくのと同じように、そして用語の意味が時代とともに改変されていくように、“箸の正しい使い方”も改変されていくに違いない。恐ろしいことである。
特に1940年生まれあたりを境にして、箸を正しく使えない人が増えているという。
確かに、箸を正しく使えない子供や大人を見かけることが多くなった。テレビに登場する芸能人の中にもそういう人がいて、ものを食べる場面で「実は私、箸がうまく使えなくて…」などと恐縮しながら箸を使っているのを見たことがある。
私は、大学のプログラミングの授業を担当していた頃、和食の食べ方を話題として取り上げることにしていた。これは、和食を食べる際に必要とされる作法を通じて、プログラム作りで必要となる「トップダウン」という考え方を教えるためであった(詳しくは「食事マナー」参照)。そして箸についても、いかに素晴らしいツールであるかに言及してきた(詳しくは「箸」参照)。実はその時は、正しく使えない人がこれほど多いとは思わなかったからである。
正しく使えない人が増えた原因として、その新聞記事では次のような理由が挙げられていた。
・戦中戦後の混乱期に親が子に箸のしつけをする余裕がなかった。
・箸を使う食べ物そのものが減っている。
・学校給食で先割れスプーンを使う頻度が高かった。
・幼児期にスプーンで食事する時期が長くなり、スムーズに箸に移行しにくい。
内閣府の調査では「箸の使い方を含めた食事のマナーを身につけている人ほど、幼い時に家族全員で夕食をとった頻度が高い」というデータがあるのだそうである。
これらの理由はどれも、なるほどと思わせる点もあるけれど、同時にどれも納得がいかないところがある。内閣府のデータに至っては、調査などしなくても誰でもすぐ思い付く程度のものである。
私は、箸の使い方に限らず、昔ながらの習慣やマナーが後の世代にうまく受け継がれなくなってきたのは(少し話が大きくなるけれど)戦後の教育の仕方が影響しているのではないかと思う。
戦後、日本の教育制度は大幅に変更され、昔ながらの(体罰を含む)厳しい教育方法は否定された。そして、なぜそれを学ぶ必要があるのか その必要性を本人に説明し納得させてから教えることが求められるようになった。このやり方でも大抵のことはうまくいくのだが、うまくいかないケースもある。たとえば箸の使い方のように幼い頃はどんな食べ方をしても、美味しく食べられさえすれば良いのだと思いがちである。しかし大人になってから、箸がうまく使えなくて公の場で恥ずかしい思いを経験すると、しっかり学んでおけばよかったとその必要性に初めて気が付くことになる。
学ぶ必要性が理解できる時期とそれを学んで身に付ける時期とが異なる場合は問題が残るのである。つまり、学ぶに最も適した時期(普通は、幼い時)にはまだその必要性が十分に理解できていない、ということがよくあるのだ。
たとえば、ピアノやバイオリンなどの音楽的才能を伸ばしたい場合、あるいは特定の運動能力を伸ばしたい場合などである。こういったものは学校教育では限界がある。家庭で親の熱意によって、あるいは特定の集団に属しての英才教育によって対応するのが普通である。本人が納得していなくても、なかば強制的に教えることによって才能を発掘する。そのうちに本人にも学ぶ喜びと意欲が生まれてくる可能性に期待するのである。
箸の使い方、食事マナーなどは幼い内から教え込まないと身に付かないものである。ばっかり食べ、クチャクチャと音をさせて食べる癖などは、長じてからではもはや直せない。これらのマナーを身に付けていないと、後々社会人になってから苦労することになる。これらは学校教育ではなく家庭内教育として親が教えるべき事柄である。私が小学校に入った頃は、同じクラスの子は誰もが箸を普通に使いこなしていたように記憶している。
箸を正しく使える人が「2009年には2~3割」しかいないという事実は私にとって衝撃的(*)であった。つまり逆に言うと、正しく使えない人が7~8割を占めていることになる。その内に9割を越えることになるのではあるまいか。
【注】(*)更に言えば「1940年生まれを境にして」という点も衝撃であった。何となれば、私めは“1940年生まれ以降の世代”には含まれていないからである。私はこれまで自分の年齢にはできるだけ触れないよう注意深く文章をつづってきた積りだが、これはやはり一言言及しなければいけないと思った。もはや「箸の正しい使い方」について議論する上では、当事者ではなく過去の世代の人間であることを、ここに明確にしておくべきだと思ったからである。これからは少し(少し!ですぞ)言葉を慎もうと思う。
少子高齢化の時代である。両親がともに正しく使えなくて“いい加減な使い方”(と、ここでは呼ぶことにしよう)をしている場合、その子供は間違いなくいい加減な使い方のまま成長することになる。長じてからその癖を直すのは、多分不可能であろう。したがって、いい加減な使い方をする人の割合はこれから加速度的に増えていくことであろう。
正しく使える子も、学校へ行けば変な目で見られるかもしれない。「箸の変な使い方をする子がいる」となれば、いじめの対象になる可能性もある。いじめられたくないからと、正しく使える子も学校ではいい加減な使い方の子に合わせるようになるかもしれない。そして、次第にいい加減な使い方の方が“正しい使い方”となってしまうことであろう。恐ろしいことである。
歴史が後の世代によって改変されていくのと同じように、そして用語の意味が時代とともに改変されていくように、“箸の正しい使い方”も改変されていくに違いない。恐ろしいことである。
2015年1月26日月曜日
2015年1月1日木曜日
2014年12月25日木曜日
微分解析機
先日“「微分解析機」再生”というニュースが新聞各紙で報じられた。国内で唯一現存する微分方程式のアナログ計算機が、東京理科大学の近代科学資料館で70年振りに再整備され動作するようになったという内容であった。
たまたまこの日は、同期の友人達が久しぶりに学内を見学したいというので、私は案内役を依頼され集まることになっていた。そのため、私はその新聞を読む暇もなく朝早くに家を出てしまっていた。集合場所に着くと友人の一人がこの新聞記事の切り抜きを取り出して「これを是非見たい」と言う。私はそのニュースのことは知らなかったが、最初から資料館を見学コースに入れていたので丁度良いタイミングだと思ったのである。
そこで、卒業以来一度も大学を訪れたことがない友人もいるので、一応構内を歩き主だった建物を見学した後、近代科学資料館へと向かった。
東京理科大学の近代科学資料館は、科学技術の発展の基礎を担ってきた計算技術の発展の歴史をたどることができるよう「計算機の歴史」が展示されている。古代から現代までの代表的な計算道具、計算機械を網羅する世界有数のコレクションを誇っている場所である。先人達がいかに努力を重ねて今日の社会を築き上げてきたか、その道筋を実物によって体感できる貴重な場となっている。また江戸時代の和算書や明治初期の理数教科書の所蔵館でもある。
概略以下のような計算道具が展示されている。以前私が訪れた頃より更に内容が充実してきているようだ。
(1)算具・そろばん
算木、そろばん
(2)計算尺 機械式計算機Ⅰ
フーラー計算尺、手動計算機、クルタ計算機、アリスモメーター計算機
電気計算機、マーチャント電気計算機
(3)機械式計算機Ⅱ
手動計算機、タイガー計算器
(4)電子式計算機
電子式卓上計算機
(5)大型計算機
Bush式アナログ微分解析機
FACOM201パラメトロン電子計算機
UNIVAC120(真空管を用いた第一世代コンピュータ)
(6)パソコン・コンピュータゲーム
さて問題の微分解析機は、大型計算機のコーナーに置いてあった。見覚えがある! なつかしい! 私の在学中、2号館のお濠りが見える側のフロアーにそのまま置いてあったのを思い出した。何しろ図体が大きくて適当な置き場所がなかったのであろう。場所としてはお濠りの見える側の絶好の位置に置かれていたが、ところどころ部品が欠けていたりして到底動作しそうには見えなかった。それを動作するよう整備し直したのだから驚きである。確か、清水辰次郎先生が大阪大学から移って来られたときに持ってこられ、大学に寄贈されたものと聞いていた。
微分解析機コーナーのそばの柱には、清水先生の写真が額入りで掲げられていた。見学している友人の中に清水先生のゼミの一員で、当時先生にお世話になった人がいたので当時のことに話が及んだ。私を含めてその場にいたほとんどの者が清水先生の「実用数学」の授業を受けていたのである。授業の課題のレポートで苦労したことも思い出された。
解析機のそばでそんな思い出話で盛り上がっていると、近くにいた研究者の一人が我々に近づいてきて話に加わり、微分解析機の説明と再整備の苦労を自ら詳しく話してくれた。
微分解析機は、積分器3台、入力卓1台、出力卓1台で構成されていた。当時はそこまで理解することはできなかったが、古いものをそのまま保存することの大切さ・難しさを実感したのであった。
話に加わってくれた研究者が今度は逆に我々に質問してきた。清水先生の写真を指して「なぜ白黒写真しかないのですか?」と言う。私は一瞬びっくりしたが「当時はカラー写真はなくて、モノクロばかりだったんですよ」と答えた。
いや、いつ撮影された写真か分からないから何とも言えないが、正確に言えば、カラー写真はあったと思う。しかし高価でかつ技術的に色調の経年変化に耐えられない時代だったから肖像写真には向いていなかったと考えるべきであろう。
「古いものをそのまま保存することの大切さ・難しさ」というのは計算機械に限らず、あらゆる技術分野で考慮されなければならない問題だと思った次第である。
そうだ、私の持っている「世界初のノートパソコン」(T1100)と「初代ラップトップコンピュータ」(T3100)も、いずれはこの資料館へ寄贈することにしよう。
たまたまこの日は、同期の友人達が久しぶりに学内を見学したいというので、私は案内役を依頼され集まることになっていた。そのため、私はその新聞を読む暇もなく朝早くに家を出てしまっていた。集合場所に着くと友人の一人がこの新聞記事の切り抜きを取り出して「これを是非見たい」と言う。私はそのニュースのことは知らなかったが、最初から資料館を見学コースに入れていたので丁度良いタイミングだと思ったのである。
そこで、卒業以来一度も大学を訪れたことがない友人もいるので、一応構内を歩き主だった建物を見学した後、近代科学資料館へと向かった。
東京理科大学の近代科学資料館は、科学技術の発展の基礎を担ってきた計算技術の発展の歴史をたどることができるよう「計算機の歴史」が展示されている。古代から現代までの代表的な計算道具、計算機械を網羅する世界有数のコレクションを誇っている場所である。先人達がいかに努力を重ねて今日の社会を築き上げてきたか、その道筋を実物によって体感できる貴重な場となっている。また江戸時代の和算書や明治初期の理数教科書の所蔵館でもある。
概略以下のような計算道具が展示されている。以前私が訪れた頃より更に内容が充実してきているようだ。
(1)算具・そろばん
算木、そろばん
(2)計算尺 機械式計算機Ⅰ
フーラー計算尺、手動計算機、クルタ計算機、アリスモメーター計算機
電気計算機、マーチャント電気計算機
(3)機械式計算機Ⅱ
手動計算機、タイガー計算器
(4)電子式計算機
電子式卓上計算機
(5)大型計算機
Bush式アナログ微分解析機
FACOM201パラメトロン電子計算機
UNIVAC120(真空管を用いた第一世代コンピュータ)
(6)パソコン・コンピュータゲーム
さて問題の微分解析機は、大型計算機のコーナーに置いてあった。見覚えがある! なつかしい! 私の在学中、2号館のお濠りが見える側のフロアーにそのまま置いてあったのを思い出した。何しろ図体が大きくて適当な置き場所がなかったのであろう。場所としてはお濠りの見える側の絶好の位置に置かれていたが、ところどころ部品が欠けていたりして到底動作しそうには見えなかった。それを動作するよう整備し直したのだから驚きである。確か、清水辰次郎先生が大阪大学から移って来られたときに持ってこられ、大学に寄贈されたものと聞いていた。
微分解析機コーナーのそばの柱には、清水先生の写真が額入りで掲げられていた。見学している友人の中に清水先生のゼミの一員で、当時先生にお世話になった人がいたので当時のことに話が及んだ。私を含めてその場にいたほとんどの者が清水先生の「実用数学」の授業を受けていたのである。授業の課題のレポートで苦労したことも思い出された。
解析機のそばでそんな思い出話で盛り上がっていると、近くにいた研究者の一人が我々に近づいてきて話に加わり、微分解析機の説明と再整備の苦労を自ら詳しく話してくれた。
微分解析機は、積分器3台、入力卓1台、出力卓1台で構成されていた。当時はそこまで理解することはできなかったが、古いものをそのまま保存することの大切さ・難しさを実感したのであった。
話に加わってくれた研究者が今度は逆に我々に質問してきた。清水先生の写真を指して「なぜ白黒写真しかないのですか?」と言う。私は一瞬びっくりしたが「当時はカラー写真はなくて、モノクロばかりだったんですよ」と答えた。
いや、いつ撮影された写真か分からないから何とも言えないが、正確に言えば、カラー写真はあったと思う。しかし高価でかつ技術的に色調の経年変化に耐えられない時代だったから肖像写真には向いていなかったと考えるべきであろう。
「古いものをそのまま保存することの大切さ・難しさ」というのは計算機械に限らず、あらゆる技術分野で考慮されなければならない問題だと思った次第である。
そうだ、私の持っている「世界初のノートパソコン」(T1100)と「初代ラップトップコンピュータ」(T3100)も、いずれはこの資料館へ寄贈することにしよう。
2014年12月3日水曜日
「便器のふた」をホームページ上に掲示しました
「トイレでは、便器のふたを閉じてから流す」のリライト版を「便器のふた」というタイトルでホームページ上に掲示しました。
http://www.hi-ho.ne.jp/skinoshita/sture120.htm
http://www.hi-ho.ne.jp/skinoshita/sture120.htm
2014年11月14日金曜日
トイレでは、便器のふたを閉じてから流す
洋式トイレを使った後は、ふたを閉めてから水を流すようにすると良いそうである。このことを以前知った当初は、私もしっかりと実行していたのだが、その後なんとなくやめてしまっていた。
最近、再びこの話を聞いたのは朝方ベッドの中でうつらうつらしながらラジオを聴いていたときである。話していたのが医者だったからか、途中から真面目に聞き始めた。したがって、どこまで正確にこの話を紹介できるか自信はないのだが、概略以下のような内容であった。
医者が言うには、患者の喉から大腸菌が検出されたことがあり、その原因を追究することになった。そして最終的にトイレを使用したあとの水を流す時に発生するしぶきが原因だと特定したのだそうである。しぶきが飛ぶとそれが細かい霧状になって空気中を浮遊する。これが口や鼻から体内に吸い込まれる。そして、
・肺炎、
・溶連菌感染症、
・副鼻腔炎、
・口内炎
などの原因となるらしい。
男性用の小便器(立ってするタイプのもの)もかなりのしぶきが飛ぶので衛生的には問題がある、とのことであった。
これ以下は、私めの感想である。
しぶきや霧がどの位の高さまで来るのかは分からないが、大人より背の低い子供の方が被害を被る確率が格段に高くなるのではないかと思う。
もしかすると、子供が溶連菌にやられる事例が多いのはこれが原因ではないかと思う。いくら子供に「手洗いの励行」を言っても(しっかりと実行しているのに)あまり効果がないように思われるからである。「子供は病気になりやすい」とよく言われるが、もしこれが原因であったら盲点を突かれたことになる。
私はもう10年位前から小用の時も便座に座る習慣にしている。これは自分でトイレ掃除をするようになり、その汚れ具合のひどさを知ったからである。先ずは、汚さないように使うことが第一であると考えた。男性の中には「立ってやらなければ男が廃る」などと言う者もいるけれど、そういう人にはトイレ掃除を毎日やらせることである。
なおも私めの感想(いや、妄想と呼ぶべきかな)は続く。
「女の子より男の子の方が病気になりやすい」という説がある(これは医学的にも信憑性が高いらしい)が、この原因ももしかすると男子用トイレ内での飛沫の霧被曝(?)が原因ではないかと思うのである。
試しに、小便器(urinal)というものを廃止したらどうかと提案したい。そして男の子には立ったままでの小用をやめるよう教育する。外出先で小用をたすとき、公衆便所などにある壁あて式の「ストール型小便器」が利用されているが、これが衛生的に一番危険な場所ではないかと思う。飛沫がどの高さま達するのかは知らないが、幼い男の子の背の高さ位に達するのは容易に想像がつく。
小便器の廃止という英断(文部科学大臣を説得すればよい)が下され、教育機関から小便器が一掃されれば、数年後には男の子も女の子も同じ健康状態になれるのではないか。これが更に普及し一般化すると、高速道路等の休憩所にあるトイレなどでは、男女とも長い待ち行列が発生することになるかもしれない。これも男女格差をなくすという観点から見れば、望ましいことではないかと思うが、どうであろうか。
トイレのふたの話が、男女格差をなくすという社会問題に及んでしまった。炎上すると困るので、このくらいにしておこう。
最近、再びこの話を聞いたのは朝方ベッドの中でうつらうつらしながらラジオを聴いていたときである。話していたのが医者だったからか、途中から真面目に聞き始めた。したがって、どこまで正確にこの話を紹介できるか自信はないのだが、概略以下のような内容であった。
医者が言うには、患者の喉から大腸菌が検出されたことがあり、その原因を追究することになった。そして最終的にトイレを使用したあとの水を流す時に発生するしぶきが原因だと特定したのだそうである。しぶきが飛ぶとそれが細かい霧状になって空気中を浮遊する。これが口や鼻から体内に吸い込まれる。そして、
・肺炎、
・溶連菌感染症、
・副鼻腔炎、
・口内炎
などの原因となるらしい。
男性用の小便器(立ってするタイプのもの)もかなりのしぶきが飛ぶので衛生的には問題がある、とのことであった。
これ以下は、私めの感想である。
しぶきや霧がどの位の高さまで来るのかは分からないが、大人より背の低い子供の方が被害を被る確率が格段に高くなるのではないかと思う。
もしかすると、子供が溶連菌にやられる事例が多いのはこれが原因ではないかと思う。いくら子供に「手洗いの励行」を言っても(しっかりと実行しているのに)あまり効果がないように思われるからである。「子供は病気になりやすい」とよく言われるが、もしこれが原因であったら盲点を突かれたことになる。
私はもう10年位前から小用の時も便座に座る習慣にしている。これは自分でトイレ掃除をするようになり、その汚れ具合のひどさを知ったからである。先ずは、汚さないように使うことが第一であると考えた。男性の中には「立ってやらなければ男が廃る」などと言う者もいるけれど、そういう人にはトイレ掃除を毎日やらせることである。
なおも私めの感想(いや、妄想と呼ぶべきかな)は続く。
「女の子より男の子の方が病気になりやすい」という説がある(これは医学的にも信憑性が高いらしい)が、この原因ももしかすると男子用トイレ内での飛沫の霧被曝(?)が原因ではないかと思うのである。
試しに、小便器(urinal)というものを廃止したらどうかと提案したい。そして男の子には立ったままでの小用をやめるよう教育する。外出先で小用をたすとき、公衆便所などにある壁あて式の「ストール型小便器」が利用されているが、これが衛生的に一番危険な場所ではないかと思う。飛沫がどの高さま達するのかは知らないが、幼い男の子の背の高さ位に達するのは容易に想像がつく。
小便器の廃止という英断(文部科学大臣を説得すればよい)が下され、教育機関から小便器が一掃されれば、数年後には男の子も女の子も同じ健康状態になれるのではないか。これが更に普及し一般化すると、高速道路等の休憩所にあるトイレなどでは、男女とも長い待ち行列が発生することになるかもしれない。これも男女格差をなくすという観点から見れば、望ましいことではないかと思うが、どうであろうか。
トイレのふたの話が、男女格差をなくすという社会問題に及んでしまった。炎上すると困るので、このくらいにしておこう。
2014年11月4日火曜日
おかしな解釈
「生きた言葉」と「死んだ言葉」のリライト版 「おかしな解釈」をホームページ上に掲示しました。
http://www.hi-ho.ne.jp/skinoshita/sture119.htm
寝床の中でラジオを聞いていたら、生島ヒロシさんが「煮詰まる」という言葉を使っていました。前後の文脈から、明らかに「行き詰まった」というおかしな解釈の方で使っています。“おかしな解釈”の世代間ギャップは、もうそこまで迫ってきているのですね。驚きました。
テレビやラジオのアナウンサーが使いだすと、世代間ギャップは確実に身近な存在となってきます。もうかなり前から、NHKのアナウンサーは世論(せろん)を「よろん」と発音していますね。世論と与論(せろんとよろん)を区別できない世代間ギャップは、もう確実に私の後ろに迫っています。飲み込まれそうです。怖いですねぇ~。■
http://www.hi-ho.ne.jp/skinoshita/sture119.htm
寝床の中でラジオを聞いていたら、生島ヒロシさんが「煮詰まる」という言葉を使っていました。前後の文脈から、明らかに「行き詰まった」というおかしな解釈の方で使っています。“おかしな解釈”の世代間ギャップは、もうそこまで迫ってきているのですね。驚きました。
テレビやラジオのアナウンサーが使いだすと、世代間ギャップは確実に身近な存在となってきます。もうかなり前から、NHKのアナウンサーは世論(せろん)を「よろん」と発音していますね。世論と与論(せろんとよろん)を区別できない世代間ギャップは、もう確実に私の後ろに迫っています。飲み込まれそうです。怖いですねぇ~。■
2014年10月28日火曜日
「生きた言葉」と「死んだ言葉」
━━ 新しい言葉との出会い
日本語の慣用句の使い方について、文化庁が行った世論調査の結果が発表された。それを紹介した新聞記事を読んでいると、私はいつも自分の無知と不勉強を(密かに)恥じていたものである。ところが、今年の発表の多くは自分の理解の方が正しくて、逆に若者達(多分)の新しい解釈に驚かされることの方が多かった。これは前回発表の後、私の国語力が急に向上したとは思えないから、若者の解釈が多様になってきたと考えるべきであろう。
たとえば「煮詰まる」は、正しくは「議論や意見が出尽くして、結論が出る状態になる」ことであるが、最近は「議論が行き詰まってしまって、結論が出せない状態になる」という意味に解釈している人が4割近くいるという。しかも一部の辞書には、この両方の意味がともに載るようになったとのことである。
言葉というものは時代とともにその意味が変化していくものらしい。新しい意味が追加されると、その分だけ言葉の表現力が豊かになったと言える。しかし正反対(*1)の意味が追加されることになれば、世代間で意味の解釈が異なることになり、場合によっては正確な意思疎通の妨げになる恐れもある。そうなると、もはやその言葉に利用価値はなくなるのではないかと私は危惧するのである。そういう厄介な言葉は使いたくないと思うだろう。
【注】(*1) “正反対”という立派な言葉が存在するのに、最近「真逆」などという変な言葉が使われるようになった。私めには理解し難いことである。
同じ言葉が正反対の意味になってしまうような“おかしな解釈”が頻繁に出現するようになった背景はある程度推察することができる。
ここでは、自分の知らない“新しい言葉”に出会ったとき、我々はどのように対応しているか(あるいは対応してきたか)を考えてみよう。
私が「新しい言葉」に出会うのは、主に読書を通じてである。本を読んでいて未知の言葉に出会うと、まず前後の文脈との関係からその意味を推測して自分の脳内辞書に登録する。意味が分からなければ辞書で調べることもあるが大抵はそのまま読み進むことになる。中学生時代に習った国語教師のW先生からは、本の文章から「生きた言葉」を学ぶように、と教えられた記憶がある。辞書に書かれた言葉は、いわば「死んだ言葉」であり、いろいろな意味が列記されていてもどのような文脈で使われるのかは分からない。それに対し本の中で出会った場合は、前後の文脈を繰り返し読んでその意味を推測することができる。前後の文脈とともに覚えた「生きた言葉」を学ぶことの重要性を教えられたのである。更に、本の中で使われた言葉であるから、当然正しい使われ方をしていることが保証されていると思ってよい。
ところが、最近の若者達(多分)は本を読まない世代であると言われているから、おそらく会話を通じて、あるいはネット上の文書の中で新しい言葉に出会うのであろう。会話の場合は、録音でもしない限り前後の文脈はすぐ忘れ去られ反芻できない。そうなると前後の文脈とは無関係に、その言葉だけから意味を推察しなければならない。漢字表現も同音異義語にすり替わってしまう可能性がある。その会話の中で正しく使われたという保証もない。間違って使われた場合は間違って覚えてしまう可能性が高くなる。ネット上の文書では正しく使われているかは全く保証の限りではない。結局、「死んだ言葉」ばかりを自己流で学んでいることになるのではないかと思う。こういうステップを踏んで覚えた言葉から“おかしな解釈”が生まれてくるのではあるまいか。
新しい言葉の意味を辞書類で調べるのは、この文脈からの推察を行った後にすべきであろう。そうすれば、更に広い活用法が見つかり語彙を増やすことができるかもしれない。■
日本語の慣用句の使い方について、文化庁が行った世論調査の結果が発表された。それを紹介した新聞記事を読んでいると、私はいつも自分の無知と不勉強を(密かに)恥じていたものである。ところが、今年の発表の多くは自分の理解の方が正しくて、逆に若者達(多分)の新しい解釈に驚かされることの方が多かった。これは前回発表の後、私の国語力が急に向上したとは思えないから、若者の解釈が多様になってきたと考えるべきであろう。
たとえば「煮詰まる」は、正しくは「議論や意見が出尽くして、結論が出る状態になる」ことであるが、最近は「議論が行き詰まってしまって、結論が出せない状態になる」という意味に解釈している人が4割近くいるという。しかも一部の辞書には、この両方の意味がともに載るようになったとのことである。
言葉というものは時代とともにその意味が変化していくものらしい。新しい意味が追加されると、その分だけ言葉の表現力が豊かになったと言える。しかし正反対(*1)の意味が追加されることになれば、世代間で意味の解釈が異なることになり、場合によっては正確な意思疎通の妨げになる恐れもある。そうなると、もはやその言葉に利用価値はなくなるのではないかと私は危惧するのである。そういう厄介な言葉は使いたくないと思うだろう。
【注】(*1) “正反対”という立派な言葉が存在するのに、最近「真逆」などという変な言葉が使われるようになった。私めには理解し難いことである。
同じ言葉が正反対の意味になってしまうような“おかしな解釈”が頻繁に出現するようになった背景はある程度推察することができる。
ここでは、自分の知らない“新しい言葉”に出会ったとき、我々はどのように対応しているか(あるいは対応してきたか)を考えてみよう。
私が「新しい言葉」に出会うのは、主に読書を通じてである。本を読んでいて未知の言葉に出会うと、まず前後の文脈との関係からその意味を推測して自分の脳内辞書に登録する。意味が分からなければ辞書で調べることもあるが大抵はそのまま読み進むことになる。中学生時代に習った国語教師のW先生からは、本の文章から「生きた言葉」を学ぶように、と教えられた記憶がある。辞書に書かれた言葉は、いわば「死んだ言葉」であり、いろいろな意味が列記されていてもどのような文脈で使われるのかは分からない。それに対し本の中で出会った場合は、前後の文脈を繰り返し読んでその意味を推測することができる。前後の文脈とともに覚えた「生きた言葉」を学ぶことの重要性を教えられたのである。更に、本の中で使われた言葉であるから、当然正しい使われ方をしていることが保証されていると思ってよい。
ところが、最近の若者達(多分)は本を読まない世代であると言われているから、おそらく会話を通じて、あるいはネット上の文書の中で新しい言葉に出会うのであろう。会話の場合は、録音でもしない限り前後の文脈はすぐ忘れ去られ反芻できない。そうなると前後の文脈とは無関係に、その言葉だけから意味を推察しなければならない。漢字表現も同音異義語にすり替わってしまう可能性がある。その会話の中で正しく使われたという保証もない。間違って使われた場合は間違って覚えてしまう可能性が高くなる。ネット上の文書では正しく使われているかは全く保証の限りではない。結局、「死んだ言葉」ばかりを自己流で学んでいることになるのではないかと思う。こういうステップを踏んで覚えた言葉から“おかしな解釈”が生まれてくるのではあるまいか。
新しい言葉の意味を辞書類で調べるのは、この文脈からの推察を行った後にすべきであろう。そうすれば、更に広い活用法が見つかり語彙を増やすことができるかもしれない。■
2014年9月26日金曜日
文章を読んでもらう方法
-- 長過ぎる文章は誰も読まない(長文です)
最近、本が売れていないという。特に紙の本を読む人が少なくなったような気がする。その代わりに電子書籍が読まれているのならよいのだが、必ずしもそうなっていないのではないか。誰もが携帯端末を持ち歩き、始終画面に視線を落としているけれど、ゲームをやっていたり、文章を読んでいてもそれはメールの文面であったりする。
最近の私は、ネット上の文章を読むときはさらっと斜め読みする癖がついてしまっている。一方、紙の本を読むときは、自然と集中度が高まり「精読する」のが習慣になっているようだ。この差はどこからきているのだろうか。
私は、文章の作成者に対する信頼度の差ではないかと思う。
出版された紙の本ともなれば、必ず編集者や査読者がいて複数の人間による内容のチェックが行われている。それだけ内容への信頼度は高いと言える。
分厚い本であっても、最初から読む覚悟があって読み始めたのであるから(途中で挫折することはままあるが)兎にも角にも最後まで読み通そうとする覚悟だけはできている。そして首尾よく読了すれば、かなりの知識が得られることも分かっている。作成者の名前が知られていれば、その可能性はかなりの確率で保証されていると言えるであろう。
それに対し、ネット上の文章は読んでみないと分からない。誰の査読チェックも受けていない可能性が高いから、内容的に信頼するに足るものかどうか甚だ疑わしい。電子書籍と言っても、査読を受けずに誰でも簡単に出版できる時代である。
読了するまでにどの位の量の文章を読まされるのかも分らない。どんな成果が得られるか分からないのに、大量の文章を読まされるのはつらいことである。作成者の名が分からない場合は、作者不詳の文章を読まされているのとたいして変わらない状態である。仮に作者の名前が分かっていても信頼度の確認までは難しい。
ネット上でたまたま出会った文章と、あるテーマを関して探し続けた結果出会った文章とでは、読む側が持つ熱意・意欲にも大きな差が生ずるのは明らかであろう。普段、さらっと斜め読みしたくなるのは仕方のないことである。
このように、紙の本の文章とネット上の文章とでは、その読まれ方に著しい差があることが分かる。したがって、ネット上に文章を公開する者は、自分の文章をしっかりと読んでもらいたと思ったら何らかの工夫をしなければならないことになる。
まず、人に読んでもらいたければ、文章をできるだけ短くすることである。ネット上では、「長過ぎる文章は誰も読んではくれない」と覚悟すべきである。これはSNSの影響かもしれないが、短い文章で全体を歯切れよくまとめないと読んではもらえない時代である。長い文章だと“tl;dr”とされてしまうからだ。つまり“Too long; didn't read”の略で、「長すぎて読まなかった!」と言われてしまう。メール文化が盛んになった頃、メールで報告する際に何でも添付ファイルで送りつけておけば報告したことになると誤解していた時代があった。読んでもらえなければ、結局は報告しなかったのと同じなのである。
タイトルも含めて「冒頭の数行の書き方で勝負は決する」と思わなければならない。しかし、こうやって「文章を短くすべし」と主張しながら、その本人はダラダラと長い文章を書き連ねているのが実態である。自分の真意を間違いなく読者に伝えたければ長文を厭わず、誤解されないよう、詳しくかかなければならない。難しい問題である。この文章の冒頭に(長文です)という断り書きを付しておいたが、これが最低限の礼儀作法なのである。
そこで(無名で、他人から信頼もされておらず、文章も下手な)私めは、次のような方法を取っている。
(1)適度な長さの文章を作ったら、まずそれをブログ上に公開する。
(2)次にフェイスブック上に、その要約を数行にまとめて公開する。このとき、更に詳しく知りたいと関心を持ってくれた読者に備えて、ブログの文章を読めるようリンクを張っておく。
(3)1~2週間すると書き直したい部分が出てくるものである。ブログの文章全体を見直して完璧なものにしてから自分のホームページ上に掲載する。
フェイスブックに掲載した記事はすぐ底に沈んでいって再び読まれる可能性はなくなる。ブログの記事も同じように底に沈んでいくが、普通は日付順に管理されているので比較的簡単にサルベージできるものである。それでも、その記事の存在を知らないと探し出すのは無理であろう。検索ソフトに拾ってもらうのを期待するしかない。
一方、ホームページ上に掲載する場合は、しっかりと構造を決めて整理・分類されていれば、一般の読者でも後から容易にその記事を見つけ出してもらえる利点がある。検索ソフトに見つけ出してもらえるよう複数のキーワードを設定しておくこともできる。
どうです、貴方(女)も試してみませんか。
最近、本が売れていないという。特に紙の本を読む人が少なくなったような気がする。その代わりに電子書籍が読まれているのならよいのだが、必ずしもそうなっていないのではないか。誰もが携帯端末を持ち歩き、始終画面に視線を落としているけれど、ゲームをやっていたり、文章を読んでいてもそれはメールの文面であったりする。
最近の私は、ネット上の文章を読むときはさらっと斜め読みする癖がついてしまっている。一方、紙の本を読むときは、自然と集中度が高まり「精読する」のが習慣になっているようだ。この差はどこからきているのだろうか。
私は、文章の作成者に対する信頼度の差ではないかと思う。
出版された紙の本ともなれば、必ず編集者や査読者がいて複数の人間による内容のチェックが行われている。それだけ内容への信頼度は高いと言える。
分厚い本であっても、最初から読む覚悟があって読み始めたのであるから(途中で挫折することはままあるが)兎にも角にも最後まで読み通そうとする覚悟だけはできている。そして首尾よく読了すれば、かなりの知識が得られることも分かっている。作成者の名前が知られていれば、その可能性はかなりの確率で保証されていると言えるであろう。
それに対し、ネット上の文章は読んでみないと分からない。誰の査読チェックも受けていない可能性が高いから、内容的に信頼するに足るものかどうか甚だ疑わしい。電子書籍と言っても、査読を受けずに誰でも簡単に出版できる時代である。
読了するまでにどの位の量の文章を読まされるのかも分らない。どんな成果が得られるか分からないのに、大量の文章を読まされるのはつらいことである。作成者の名が分からない場合は、作者不詳の文章を読まされているのとたいして変わらない状態である。仮に作者の名前が分かっていても信頼度の確認までは難しい。
ネット上でたまたま出会った文章と、あるテーマを関して探し続けた結果出会った文章とでは、読む側が持つ熱意・意欲にも大きな差が生ずるのは明らかであろう。普段、さらっと斜め読みしたくなるのは仕方のないことである。
このように、紙の本の文章とネット上の文章とでは、その読まれ方に著しい差があることが分かる。したがって、ネット上に文章を公開する者は、自分の文章をしっかりと読んでもらいたと思ったら何らかの工夫をしなければならないことになる。
まず、人に読んでもらいたければ、文章をできるだけ短くすることである。ネット上では、「長過ぎる文章は誰も読んではくれない」と覚悟すべきである。これはSNSの影響かもしれないが、短い文章で全体を歯切れよくまとめないと読んではもらえない時代である。長い文章だと“tl;dr”とされてしまうからだ。つまり“Too long; didn't read”の略で、「長すぎて読まなかった!」と言われてしまう。メール文化が盛んになった頃、メールで報告する際に何でも添付ファイルで送りつけておけば報告したことになると誤解していた時代があった。読んでもらえなければ、結局は報告しなかったのと同じなのである。
タイトルも含めて「冒頭の数行の書き方で勝負は決する」と思わなければならない。しかし、こうやって「文章を短くすべし」と主張しながら、その本人はダラダラと長い文章を書き連ねているのが実態である。自分の真意を間違いなく読者に伝えたければ長文を厭わず、誤解されないよう、詳しくかかなければならない。難しい問題である。この文章の冒頭に(長文です)という断り書きを付しておいたが、これが最低限の礼儀作法なのである。
そこで(無名で、他人から信頼もされておらず、文章も下手な)私めは、次のような方法を取っている。
(1)適度な長さの文章を作ったら、まずそれをブログ上に公開する。
(2)次にフェイスブック上に、その要約を数行にまとめて公開する。このとき、更に詳しく知りたいと関心を持ってくれた読者に備えて、ブログの文章を読めるようリンクを張っておく。
(3)1~2週間すると書き直したい部分が出てくるものである。ブログの文章全体を見直して完璧なものにしてから自分のホームページ上に掲載する。
フェイスブックに掲載した記事はすぐ底に沈んでいって再び読まれる可能性はなくなる。ブログの記事も同じように底に沈んでいくが、普通は日付順に管理されているので比較的簡単にサルベージできるものである。それでも、その記事の存在を知らないと探し出すのは無理であろう。検索ソフトに拾ってもらうのを期待するしかない。
一方、ホームページ上に掲載する場合は、しっかりと構造を決めて整理・分類されていれば、一般の読者でも後から容易にその記事を見つけ出してもらえる利点がある。検索ソフトに見つけ出してもらえるよう複数のキーワードを設定しておくこともできる。
どうです、貴方(女)も試してみませんか。
2014年9月1日月曜日
自転車から身を守る法
5つ折りにできる杖を利用して、自分の肩幅程の長さの棒を用意する。

(私の護身用の杖)
この棒の使い方のコツを、以下に列挙する。
▼普段は右手に下げて持ち、後方から来る自転車に注意を促す。
▼前方から自転車が来たら、できるだけ早い段階で杖を横向きにし、両手でしっかりと保持する。
▼両手で持つ位置はベルトの下あたりがよい。すれ違う際に必要なら上下に保持位置を変えて身を守る。
▼自転車の動きに注意を払うのは当然であるが、決して自転車を走らせている人と視線を合わせてはならない。
▼十分に広い歩道上で自転車1台、歩行者1人の状況であっても決して気を許してはならない。後方の状況によっては、すれ違う直前にお互いに接近せざるを得ない状況になるかもしれないからである。
▼特に子供の運転する自転車は、突然に方向を変えることがあるから注意が必要である。守るべき位置も下になる。
▼このように、自転車の存在には常に厳しく対応するが、歩行者には逆に最優先で進路を譲るよう心がける。
詳しくは、「護身用の杖」を参照されたい。
(私の護身用の杖)
▼普段は右手に下げて持ち、後方から来る自転車に注意を促す。
▼前方から自転車が来たら、できるだけ早い段階で杖を横向きにし、両手でしっかりと保持する。
▼両手で持つ位置はベルトの下あたりがよい。すれ違う際に必要なら上下に保持位置を変えて身を守る。
▼自転車の動きに注意を払うのは当然であるが、決して自転車を走らせている人と視線を合わせてはならない。
▼十分に広い歩道上で自転車1台、歩行者1人の状況であっても決して気を許してはならない。後方の状況によっては、すれ違う直前にお互いに接近せざるを得ない状況になるかもしれないからである。
▼特に子供の運転する自転車は、突然に方向を変えることがあるから注意が必要である。守るべき位置も下になる。
▼このように、自転車の存在には常に厳しく対応するが、歩行者には逆に最優先で進路を譲るよう心がける。
詳しくは、「護身用の杖」を参照されたい。
2014年8月12日火曜日
自転車が怖い
先日、ウオーキング中に自転車と接触し怪我をしてしまった。
暑さのため熱中症に対する注意が叫ばれている時期に、何もウオーキングなどしなくても… と言われるのは重々承知しているが、私は毎日運動して汗をかかないと気がすまない性格(たち)なのである。
多摩川のサイクリングロードを1時間ほど歩いて帰路につき、家の近くの幹線道路沿いの歩道上を歩いているときに事故は起きた。この歩道は幅2メートル以上もある広い道で、普段から自転車もたくさん走っている。私はその道の右側を行儀よく歩いていたのである。向こうからも同じ側を歩いくる人が目に入ったので、遠慮深い(?)私めは早めに進路を中央側へと移すことにした。後ろから来る自転車や人に注意を払いつつ徐々に進路を左側へと移していった。相手とすれ違う間際になって、前方から突然自転車がやってきてすれ違う直前の二人の間をS字に蛇行してすり抜けていったのである。自転車はスピードを出しておりかなり危険な行為ではあったが(よくあることで)何事もなくやり過ごすことができた。しかし次の瞬間、その自転車の陰からもう1台、小学生らしき子供の乗った自転車が現れ、同じスピードで同じようにすり抜けようとした。私の振りだした右手の甲とその自転車の右ハンドルの先端とが激しくぶつかったのである。相手は振りかえりもせず、そのまま走り去ってしまった(親子連れだったのか?)。
右手を見ると、甲の部分が打撲でみるみる膨れ上がってきている。短時間の間にこれほど急激に腫れあがるのを見るのは2度目の経験であった。1度目はアメリカでの自動車事故のときであったから、それを思い出して精神的にもかなりのショックであった。急いで家に帰り患部を保冷剤で冷やし応急手当を行った。
それにしても、この程度の打撃でこれほどの怪我になってしまうとは、予想外のことであった。打撲でかなりの内出血をしているように見える。外部からの打撃に対して著しく弱くなっているようだ。齢を取ったせいもあるが、実は私は日頃から抗凝血薬を飲んでいて、血液が固まり難くしておく必要がある身なのである。その結果、切り傷や内出血などの出血ではなかなか血が止まらない。やっかいな身体なのである。もっともっと気を付けて行動しなければと反省した次第である。
歩道上での自転車の怖さについては、以前「歩道を歩くのが怖い」で述べたことがあるが、後ろからやってくる自転車の怖さについて言及したものであった。しかし最近は前から来る自転車の方が怖い。それも若者だけでなく、女子学生・子供・家庭の主婦の乗る自転車の方がぶつかる頻度が高いのである。その原因は、自転車の荷台に置いてあるもの、あるいは子供を乗せるための補助具等が両側に飛び出していて、それがすれ違いざまにこちらにぶつかるケースが多いからだ。このようなとき、相手はぶつかったという認識がない。ハンドル部分さえ無事に通れば、それより後ろのことは自分には一切関係のないことで御座んす、という訳である。
自分には責任がないと思うから大抵はそのまま行ってしまう。こちらは腕や肘の辺りに被害を受けるが泣き寝入りするしかない。
思うに自転車の側からは、通行人というのは“腰の幅”しか意識する必要のない単なる障害物と見ているのではないか。それ以外の空間は全部自分の通れる空間だと思っているふしがある。その結果、自分の自転車のハンドル部分が通過できる隙間さえあれば、絶対にすり抜けられると信じて猛然とその狭い空間に侵入してくるのである。“腰の幅”の外側には腕が振り出される領域があることなど全く予期していないらしい。少なくとも“両肩の幅”を持つ障害物と認識してほしいのである。
歩道上を歩いているときは自転車が怖くて仕方がない。これからは、両腕の肘から下の部位を衝撃から守る工夫をしなければならない。
いろいろ思案した結果、家にあった女性用の杖を利用しようと思い娘に相談したところ大反対されてしまった。自転車にぶつかると相手の自転車の方が危険だと言うのである。そうかもしれないが、こちらの命も掛かっているのだから。
何か良い護身用具(プロテクター)はないものだろうか。軽くて、強固なプロテクターを誰か考案してくれないでしょうか。
暑さのため熱中症に対する注意が叫ばれている時期に、何もウオーキングなどしなくても… と言われるのは重々承知しているが、私は毎日運動して汗をかかないと気がすまない性格(たち)なのである。
多摩川のサイクリングロードを1時間ほど歩いて帰路につき、家の近くの幹線道路沿いの歩道上を歩いているときに事故は起きた。この歩道は幅2メートル以上もある広い道で、普段から自転車もたくさん走っている。私はその道の右側を行儀よく歩いていたのである。向こうからも同じ側を歩いくる人が目に入ったので、遠慮深い(?)私めは早めに進路を中央側へと移すことにした。後ろから来る自転車や人に注意を払いつつ徐々に進路を左側へと移していった。相手とすれ違う間際になって、前方から突然自転車がやってきてすれ違う直前の二人の間をS字に蛇行してすり抜けていったのである。自転車はスピードを出しておりかなり危険な行為ではあったが(よくあることで)何事もなくやり過ごすことができた。しかし次の瞬間、その自転車の陰からもう1台、小学生らしき子供の乗った自転車が現れ、同じスピードで同じようにすり抜けようとした。私の振りだした右手の甲とその自転車の右ハンドルの先端とが激しくぶつかったのである。相手は振りかえりもせず、そのまま走り去ってしまった(親子連れだったのか?)。
右手を見ると、甲の部分が打撲でみるみる膨れ上がってきている。短時間の間にこれほど急激に腫れあがるのを見るのは2度目の経験であった。1度目はアメリカでの自動車事故のときであったから、それを思い出して精神的にもかなりのショックであった。急いで家に帰り患部を保冷剤で冷やし応急手当を行った。
それにしても、この程度の打撃でこれほどの怪我になってしまうとは、予想外のことであった。打撲でかなりの内出血をしているように見える。外部からの打撃に対して著しく弱くなっているようだ。齢を取ったせいもあるが、実は私は日頃から抗凝血薬を飲んでいて、血液が固まり難くしておく必要がある身なのである。その結果、切り傷や内出血などの出血ではなかなか血が止まらない。やっかいな身体なのである。もっともっと気を付けて行動しなければと反省した次第である。
歩道上での自転車の怖さについては、以前「歩道を歩くのが怖い」で述べたことがあるが、後ろからやってくる自転車の怖さについて言及したものであった。しかし最近は前から来る自転車の方が怖い。それも若者だけでなく、女子学生・子供・家庭の主婦の乗る自転車の方がぶつかる頻度が高いのである。その原因は、自転車の荷台に置いてあるもの、あるいは子供を乗せるための補助具等が両側に飛び出していて、それがすれ違いざまにこちらにぶつかるケースが多いからだ。このようなとき、相手はぶつかったという認識がない。ハンドル部分さえ無事に通れば、それより後ろのことは自分には一切関係のないことで御座んす、という訳である。
自分には責任がないと思うから大抵はそのまま行ってしまう。こちらは腕や肘の辺りに被害を受けるが泣き寝入りするしかない。
思うに自転車の側からは、通行人というのは“腰の幅”しか意識する必要のない単なる障害物と見ているのではないか。それ以外の空間は全部自分の通れる空間だと思っているふしがある。その結果、自分の自転車のハンドル部分が通過できる隙間さえあれば、絶対にすり抜けられると信じて猛然とその狭い空間に侵入してくるのである。“腰の幅”の外側には腕が振り出される領域があることなど全く予期していないらしい。少なくとも“両肩の幅”を持つ障害物と認識してほしいのである。
歩道上を歩いているときは自転車が怖くて仕方がない。これからは、両腕の肘から下の部位を衝撃から守る工夫をしなければならない。
いろいろ思案した結果、家にあった女性用の杖を利用しようと思い娘に相談したところ大反対されてしまった。自転車にぶつかると相手の自転車の方が危険だと言うのである。そうかもしれないが、こちらの命も掛かっているのだから。
何か良い護身用具(プロテクター)はないものだろうか。軽くて、強固なプロテクターを誰か考案してくれないでしょうか。
2014年7月11日金曜日
号泣県議
不自然な日帰り出張を繰り返していた兵庫県議が、その政務活動費の詳細を問われた記者会見の場で突然泣き叫ぶ事態となった。
昔ならローカルな珍事件としてそのまま忘れ去られてしまうところだが、今はインターネットの時代である。その映像があっと言う間に全世界に発信され、更に物議をかもすことになってしまった。何ともはや、日本人として恥ずかしい限りである。話題にするのも躊躇したくなるような出来事であった。
この県議のことを、各メディアは“号泣県議”と呼ぶことで意志統一されたようであるが、私はこの“号泣県議”という呼び方だけは大変気に入っている。最近の若者達は「号泣」の意味を誤解しているので、それを正すのに絶好の事例が見つかったからである。
大学の授業で情報倫理を教えているが、リポートを書かせると日本語の意味を取り違えている学生が予想外に多いことに気が付く。このままでは、社会人になったとき恥をかくことになるのではないか。それが心配で、私は授業中にできるだけ機会をとらえては、いろいろな用語の正しい読み方や本来の意味を教えている。
それらの経験は
「変な日本語表現(その1)」
「いい加減な日本語力」
「ネット世論」
等にまとめられている。
そこでも紹介したように、最近の若者達は「号泣」という用語をただ「泣く」という意味で気軽に用いているようだ。これは本来は「大声を上げて泣き叫ぶ」ことである。
これは若者に限らず多くの人が意味を取り違えているように思う。先に、IOC総会の場で東京オリンピックが正式決定された際も、現地取材していた記者の一人が「私も、思わず号泣してしまいました」などとリポートしていたのが今でも私の記憶に残っている。男はそんなに簡単に号泣したりしないものだ。男が号泣してよいのは、自分の親が亡くなったとき(と財布を落としたとき)だけと昔から決まっている(性差別をなくすことを重視する現在では「男は…」の部分は不要であろうが)。
某国の将軍様が亡くなったとき、国民が競って泣き叫んでいる姿をニュース映像で見たことがあると思う。泣き叫んで悲しみを表現することが忠誠心の証しだと考えている国であるから、国民は皆競って号泣し誰よりも派手に泣き喚くのである。国民性の違いとはいえ、傍から見ていても決して人の心を打つことはない。むしろ異様な光景であると思えてならない。
今まで私は、この事例を挙げて学生達に「号泣」の意味を説明していたのだが、これからはただ「号泣県議」という固有名詞(?)を出すだけで、万事了解してもらえると確信している。そして、無闇に号泣したりしない立派な大人になろうと努力してくれることであろう。
ところで、なぜ「泣く」の代わりに「号泣」という表現が使われるようになったのか。その点を少し探求してみようと思う。
週刊誌の広告などを見ていると「号泣」という語が頻繁に使われているのに気が付く。広告では簡潔な表現が求められるから「泣く」という動詞を使うよりも名詞で止めた方が全体が簡潔になる。「泣く」という意味の名詞で適当なものがなかったので「号泣」が選ばれたのではないか、と私は推測している。その広告を見た若者達は、この「号泣」という表現の方が単に「泣く」と言うよりも格好いいと思ったのであろう。
そこで「泣く」を意味する名詞を調べてみた。
涕泣(ていきゅう):涙を流してなく
嗚咽(おえつ):むせびなく
欷歔(ききょ):すすりなく
感泣(かんきゅう):感動してなく
慟哭(どうこく):声を上げて嘆きなく
哀哭(あいこく):声を上げて悲しみなく
…
「泣く」を表現する漢字には声を発するものが多い。単に「涙ぐむ」というやさしい泣き方の名詞は見当たらないようである。私が捜した限りでは、涕泣(ていきゅう)、降泣(こうるい)くらいしかない。見慣れぬものばかりである。
もっとポピュラーなものはないのかと自分でも考えてみた。そこで思いついたのが「落涙」である。これなら普通に使えると思うが、どうであろうか。
昔ならローカルな珍事件としてそのまま忘れ去られてしまうところだが、今はインターネットの時代である。その映像があっと言う間に全世界に発信され、更に物議をかもすことになってしまった。何ともはや、日本人として恥ずかしい限りである。話題にするのも躊躇したくなるような出来事であった。
この県議のことを、各メディアは“号泣県議”と呼ぶことで意志統一されたようであるが、私はこの“号泣県議”という呼び方だけは大変気に入っている。最近の若者達は「号泣」の意味を誤解しているので、それを正すのに絶好の事例が見つかったからである。
大学の授業で情報倫理を教えているが、リポートを書かせると日本語の意味を取り違えている学生が予想外に多いことに気が付く。このままでは、社会人になったとき恥をかくことになるのではないか。それが心配で、私は授業中にできるだけ機会をとらえては、いろいろな用語の正しい読み方や本来の意味を教えている。
それらの経験は
「変な日本語表現(その1)」
「いい加減な日本語力」
「ネット世論」
等にまとめられている。
そこでも紹介したように、最近の若者達は「号泣」という用語をただ「泣く」という意味で気軽に用いているようだ。これは本来は「大声を上げて泣き叫ぶ」ことである。
これは若者に限らず多くの人が意味を取り違えているように思う。先に、IOC総会の場で東京オリンピックが正式決定された際も、現地取材していた記者の一人が「私も、思わず号泣してしまいました」などとリポートしていたのが今でも私の記憶に残っている。男はそんなに簡単に号泣したりしないものだ。男が号泣してよいのは、自分の親が亡くなったとき(と財布を落としたとき)だけと昔から決まっている(性差別をなくすことを重視する現在では「男は…」の部分は不要であろうが)。
某国の将軍様が亡くなったとき、国民が競って泣き叫んでいる姿をニュース映像で見たことがあると思う。泣き叫んで悲しみを表現することが忠誠心の証しだと考えている国であるから、国民は皆競って号泣し誰よりも派手に泣き喚くのである。国民性の違いとはいえ、傍から見ていても決して人の心を打つことはない。むしろ異様な光景であると思えてならない。
今まで私は、この事例を挙げて学生達に「号泣」の意味を説明していたのだが、これからはただ「号泣県議」という固有名詞(?)を出すだけで、万事了解してもらえると確信している。そして、無闇に号泣したりしない立派な大人になろうと努力してくれることであろう。
ところで、なぜ「泣く」の代わりに「号泣」という表現が使われるようになったのか。その点を少し探求してみようと思う。
週刊誌の広告などを見ていると「号泣」という語が頻繁に使われているのに気が付く。広告では簡潔な表現が求められるから「泣く」という動詞を使うよりも名詞で止めた方が全体が簡潔になる。「泣く」という意味の名詞で適当なものがなかったので「号泣」が選ばれたのではないか、と私は推測している。その広告を見た若者達は、この「号泣」という表現の方が単に「泣く」と言うよりも格好いいと思ったのであろう。
そこで「泣く」を意味する名詞を調べてみた。
涕泣(ていきゅう):涙を流してなく
嗚咽(おえつ):むせびなく
欷歔(ききょ):すすりなく
感泣(かんきゅう):感動してなく
慟哭(どうこく):声を上げて嘆きなく
哀哭(あいこく):声を上げて悲しみなく
…
「泣く」を表現する漢字には声を発するものが多い。単に「涙ぐむ」というやさしい泣き方の名詞は見当たらないようである。私が捜した限りでは、涕泣(ていきゅう)、降泣(こうるい)くらいしかない。見慣れぬものばかりである。
もっとポピュラーなものはないのかと自分でも考えてみた。そこで思いついたのが「落涙」である。これなら普通に使えると思うが、どうであろうか。
2014年6月26日木曜日
親知らず
どうやら、長らく眠っていた私めの“親知らず”(第三大臼歯)が、この齢になって急に目を覚まし動き出したようである。
実は2か月程前、口の中の左上部に口内炎ができてしまった(これは、よくあること)。その口内炎は直ぐ治ったのだが、その中心の部分にどういう訳か小さなポチッとした突起状のものが残ってしまった。2か月程経ってもその状態が変わらないので口腔外科で診てもらうことにした。
診察してくれた医師は「これは骨ですねぇ~」と言う。つまり骨の部分が出っ張っているのだと言うのだ。予想外の診断結果に、癌だと言われるかもしれないと内心(ちょっぴり)覚悟していたので正直なところホッとしたのである。そこで「安心しました」と言ってそのまま帰ってきてもよかったのだが、どうも何か合点がいかない。骨が出っ張っているのなら以前から気が付いていた筈である。最近出っ張ってきたとしか思えない。そのとき、ふと私は気が付いた。これは親知らずではなかろうかと。
医師もその可能性はあると私の意見に同意してくれて、早速X線写真を撮って調べてくれた。その結果、可能性は益々高くなってきたのだが、まだ確定できる段階ではない。少し様子を見ましょう、ということになったのである。
親知らずという歯は、20歳前後に生えてくるのが普通であるという。平均寿命が短かった昔は、子供の親知らずが生えてくる前に親は亡くなってしまうから、親知らずと呼ばれるようになったらしい。
医師よりも先に「親知らずではないか?」と気が付いたのには実は理由があった。私は歯の手入れは十分にしてきた積りなので、この齢になるまで無事にすべての歯を維持してきている。ただ残念なことに、生来左下の奥歯(第二大臼歯)が1本欠けていた。そのため、対応する左上の奥歯の方が、噛み合う相手がなくて役目を果たすことなくさびしく存在し続けていたのである。
その歯が、長い年月の間に少しずつ下に伸びてきていた。なぜ伸びてくるのかは分からないが、下からの圧力がないのが最大の原因ではないかと思う。更に悪いことに、下に伸びた歯が少し外側に傾きだしていた。そのことに気が付かなかったので、隣りの第一大臼歯との間が少し開いてきたことにも気が付かなかった。そして両方の歯の間のみがき方が足りなかったのであろう、気が付いたときには虫歯になりかかっていたのである。その虫歯を治療するよりも(どうせ使われていない歯なら)抜いてしまった方がよい、というのが歯科医の判断であった。かくして私めは、生まれて初めて“抜歯”というものを経験することになったのである。そのとき歯医者に言われたのは、この歯の後ろに親知らずがあるから、もしかするとそれが生えてくるかもしれませんよ。そう警告されていたのである。
親知らずも表に出たかったのであろう。それを邪魔している第二大臼歯を長年上から少しずつ押し続けていたのかもしれない。この齢になって親知らずの抜歯を受けるのかと思うと、気が重くなることである。
年寄りになると誰でも入れ歯のお世話になるものだが、入れ歯ではなく本物の自分の歯(それも新品の!)を与えられるのだから喜ばなければいけないのかもしれない。高貴な年寄りになったことへのご褒美という風に考えられると良いのであるが。
実は2か月程前、口の中の左上部に口内炎ができてしまった(これは、よくあること)。その口内炎は直ぐ治ったのだが、その中心の部分にどういう訳か小さなポチッとした突起状のものが残ってしまった。2か月程経ってもその状態が変わらないので口腔外科で診てもらうことにした。
診察してくれた医師は「これは骨ですねぇ~」と言う。つまり骨の部分が出っ張っているのだと言うのだ。予想外の診断結果に、癌だと言われるかもしれないと内心(ちょっぴり)覚悟していたので正直なところホッとしたのである。そこで「安心しました」と言ってそのまま帰ってきてもよかったのだが、どうも何か合点がいかない。骨が出っ張っているのなら以前から気が付いていた筈である。最近出っ張ってきたとしか思えない。そのとき、ふと私は気が付いた。これは親知らずではなかろうかと。
医師もその可能性はあると私の意見に同意してくれて、早速X線写真を撮って調べてくれた。その結果、可能性は益々高くなってきたのだが、まだ確定できる段階ではない。少し様子を見ましょう、ということになったのである。
親知らずという歯は、20歳前後に生えてくるのが普通であるという。平均寿命が短かった昔は、子供の親知らずが生えてくる前に親は亡くなってしまうから、親知らずと呼ばれるようになったらしい。
医師よりも先に「親知らずではないか?」と気が付いたのには実は理由があった。私は歯の手入れは十分にしてきた積りなので、この齢になるまで無事にすべての歯を維持してきている。ただ残念なことに、生来左下の奥歯(第二大臼歯)が1本欠けていた。そのため、対応する左上の奥歯の方が、噛み合う相手がなくて役目を果たすことなくさびしく存在し続けていたのである。
その歯が、長い年月の間に少しずつ下に伸びてきていた。なぜ伸びてくるのかは分からないが、下からの圧力がないのが最大の原因ではないかと思う。更に悪いことに、下に伸びた歯が少し外側に傾きだしていた。そのことに気が付かなかったので、隣りの第一大臼歯との間が少し開いてきたことにも気が付かなかった。そして両方の歯の間のみがき方が足りなかったのであろう、気が付いたときには虫歯になりかかっていたのである。その虫歯を治療するよりも(どうせ使われていない歯なら)抜いてしまった方がよい、というのが歯科医の判断であった。かくして私めは、生まれて初めて“抜歯”というものを経験することになったのである。そのとき歯医者に言われたのは、この歯の後ろに親知らずがあるから、もしかするとそれが生えてくるかもしれませんよ。そう警告されていたのである。
親知らずも表に出たかったのであろう。それを邪魔している第二大臼歯を長年上から少しずつ押し続けていたのかもしれない。この齢になって親知らずの抜歯を受けるのかと思うと、気が重くなることである。
年寄りになると誰でも入れ歯のお世話になるものだが、入れ歯ではなく本物の自分の歯(それも新品の!)を与えられるのだから喜ばなければいけないのかもしれない。高貴な年寄りになったことへのご褒美という風に考えられると良いのであるが。
2014年5月22日木曜日
待ち時間に読む本
私は外出するとき何時もショルダーバッグに本を一冊入れておく。待ち時間に読むための本である。銀行でATMの行列に並んでいる時や、病院の受付あるいは診療待合室で待っている間などに取り出して読む。待ち時間に本を読んでいると、少なくともその時間を“無駄にはしなかった”ような気分になれるのである(有効に使ったとまでは思わないが)。特に、駅で電車の到着を待っているような時はすぐさま本を取り出して読み始める。慣れてくると瞬時に物語の世界に没入できる。すると、不思議なもので電車は直ぐにやって来る。
携帯する本は、バッグからの出し入れがしやすい文庫本サイズのコンパクトなものが向いている。更に、頻繁の出し入れに耐えられるよう、あらかじめ丈夫なカバーを掛けておくとよい。
本の種類は技術書のような難しい本ではなく、血沸き肉躍る面白い内容の本であることが望ましい。この条件さえ満たしていれば、電車は直ぐに来る! それこそ、あっという間にやって来る(これは私が保証する)。
待ち時間向きの本として私は海外作品のリーガルサスペンス物が一番好きなのだが、最近読んだものでは本屋で偶然に見つけた「素数の音楽」(*)という本が最高であった。
【注】(*)新潮文庫「素数の音楽」マーカス・デュ・ソートイ(冨永星訳)
周知の通り「素数」というのは数学の世界では最も注目度の高いテーマであるから、どちらかと言えば技術書という分類に属する本である。しかし素数の研究に取り組んだ数学者たちの業績、歴史、あるいはその裏にある人間臭い数々のエピソードを読んでいると、面白くて、面白くて、思わずのめり込んでしまうのである。もちろん数式も沢山登場するが(残念ながら1か所だけ数式が間違っている)、意味を理解するのにそれほど苦労することはない。
著者のデュ・ソートイは、オックスフォード大学数学研究所の教授であり、科学啓蒙という業績により大英帝国勲章を受章している。難しい科学のテーマを分かりやすく教える特技を持っている人らしい。そういう人が書いた本であるから尚更興味深いのである。
待ち時間に読もうとすると、以前中断した箇所から読み継ぐ際に少し戻ってもう一度読み返す必要に迫られることもある。そうやって復習している間に電車が来てしまい、結局一行も前へ読み進めないまま再び中断しなければならなくなることもある。これは過密ダイヤのせいなのかもしれないが。
断片的に少しづつ読み進んでいくと、どうしても読了するまでに時間が掛かる。それだけ長く楽しめるとも言えるが、全体的な感銘度や理解度は少し落ちるのではないかと思う。できれば、電車が絶対に来ないところで、もう一度最初からじっくりと読んで見たいと思う。
携帯する本は、バッグからの出し入れがしやすい文庫本サイズのコンパクトなものが向いている。更に、頻繁の出し入れに耐えられるよう、あらかじめ丈夫なカバーを掛けておくとよい。
本の種類は技術書のような難しい本ではなく、血沸き肉躍る面白い内容の本であることが望ましい。この条件さえ満たしていれば、電車は直ぐに来る! それこそ、あっという間にやって来る(これは私が保証する)。
待ち時間向きの本として私は海外作品のリーガルサスペンス物が一番好きなのだが、最近読んだものでは本屋で偶然に見つけた「素数の音楽」(*)という本が最高であった。
【注】(*)新潮文庫「素数の音楽」マーカス・デュ・ソートイ(冨永星訳)
周知の通り「素数」というのは数学の世界では最も注目度の高いテーマであるから、どちらかと言えば技術書という分類に属する本である。しかし素数の研究に取り組んだ数学者たちの業績、歴史、あるいはその裏にある人間臭い数々のエピソードを読んでいると、面白くて、面白くて、思わずのめり込んでしまうのである。もちろん数式も沢山登場するが(残念ながら1か所だけ数式が間違っている)、意味を理解するのにそれほど苦労することはない。
著者のデュ・ソートイは、オックスフォード大学数学研究所の教授であり、科学啓蒙という業績により大英帝国勲章を受章している。難しい科学のテーマを分かりやすく教える特技を持っている人らしい。そういう人が書いた本であるから尚更興味深いのである。
待ち時間に読もうとすると、以前中断した箇所から読み継ぐ際に少し戻ってもう一度読み返す必要に迫られることもある。そうやって復習している間に電車が来てしまい、結局一行も前へ読み進めないまま再び中断しなければならなくなることもある。これは過密ダイヤのせいなのかもしれないが。
断片的に少しづつ読み進んでいくと、どうしても読了するまでに時間が掛かる。それだけ長く楽しめるとも言えるが、全体的な感銘度や理解度は少し落ちるのではないかと思う。できれば、電車が絶対に来ないところで、もう一度最初からじっくりと読んで見たいと思う。
2014年4月15日火曜日
Windows XP マシンを捨てる?
Windows XP のサポートが終了するという事態になり、世間の動向に押されて私めも重い腰を上げざるを得なくなった。自分の手持ちのパソコンを見直すことにしたのである。
普段から、Windows系のパソコンは常に複数台を確保し、非常事態に備えつつ自分の開発環境を守ってきた。現在は主力マシンはWin-7マシンで、補助のマシンとしてWin-XPマシンを充てている。このXPマシンの方を処分しなければならないのだ。Win-8マシンはまだ入手していなかったので、この際消費税が8%になる直前の機会を捉えて買い換えることにした。
Win-8マシンはタブレット指向で使い難く今まで敬遠していたが、Win-8.1にバージョンアップされ少しは使い勝手も改善されたようである。かくして、私はWin-7マシンとWin-8.1マシンの利用者となった。
しかし何か割り切れないものがある。自動車や電化製品等で欠陥が明らかになると、普通はリコールされたり、命に関わるような事故が予想される場合は最後の1台まで見付け出して代替品に無償交換するのがメーカー側の務めであるように思う。そう思ってきたから、大量のWin-XPマシンが世の中に存在しているのにソフトウェア会社(MS)側が「もはや、これまで!」とすべて買い替えるよう勧めるキャンペーンを始めたのには正直驚いた。これからは、こういう売り方をするのが主流になるのであろうか。それに対し誰も異論をとなえようとしない。これは少しおかしいのではないか。
新聞記事では「13年間もサポートしてくれた」とか、TVニュースの女性キャスターが、ふと「無料でソフトを提供してくれればいいのに…」ともらすと(私はまったく同感なのだが)、直ぐさま批判の声が起こったりしている。全員がソフトウェア会社の側に立っているように思える。Windowsというソフトウェアに不具合があり、その作成に携わったソフトウェア会社が「もはやこれ以上は直せない」と言って投げ出してしまったのである。
一方、それをささえるコンピュータ本体(ハードウェア)の方には何の欠陥もない! コンピュータ会社は、お客が買い替えで新たなコンピュータを沢山買ってくれればよい訳だから、ただ黙っているのが得策であろう。私もコンピュータ会社の一員であったから、その点はよく理解できる。しかし同時に、苦労して造ったマシンが何の欠陥もないのに、ただソフトがないからという理由だけであっさりと捨てられてしまう。この事態を見て悔しい気持ちにならないとしたら、それは開発に携わった技術者として少しおかしいのではないか。
(Win-XPマシン)
私は不要になったWin-XPマシンを前にして、一人悔しい思いをしている。特にこのマシンは、大学の講義で使うために携帯に便利なようにと超薄型で超軽量のものを選んで買ったので当然高価であった。Win-Vistaマシンとして購入したが、Vista が実用にならないのでXPにダウングレードしたものである。まだ6年しか(!)使っていない。こんなデザインの良いものを、悔しい! 昔の仲間達が造ったものを簡単に捨ててたまるか。何とかこのマシンを使えるようにしたい。私はそう思いつつ思案しているところである。
普段から、Windows系のパソコンは常に複数台を確保し、非常事態に備えつつ自分の開発環境を守ってきた。現在は主力マシンはWin-7マシンで、補助のマシンとしてWin-XPマシンを充てている。このXPマシンの方を処分しなければならないのだ。Win-8マシンはまだ入手していなかったので、この際消費税が8%になる直前の機会を捉えて買い換えることにした。
Win-8マシンはタブレット指向で使い難く今まで敬遠していたが、Win-8.1にバージョンアップされ少しは使い勝手も改善されたようである。かくして、私はWin-7マシンとWin-8.1マシンの利用者となった。
しかし何か割り切れないものがある。自動車や電化製品等で欠陥が明らかになると、普通はリコールされたり、命に関わるような事故が予想される場合は最後の1台まで見付け出して代替品に無償交換するのがメーカー側の務めであるように思う。そう思ってきたから、大量のWin-XPマシンが世の中に存在しているのにソフトウェア会社(MS)側が「もはや、これまで!」とすべて買い替えるよう勧めるキャンペーンを始めたのには正直驚いた。これからは、こういう売り方をするのが主流になるのであろうか。それに対し誰も異論をとなえようとしない。これは少しおかしいのではないか。
新聞記事では「13年間もサポートしてくれた」とか、TVニュースの女性キャスターが、ふと「無料でソフトを提供してくれればいいのに…」ともらすと(私はまったく同感なのだが)、直ぐさま批判の声が起こったりしている。全員がソフトウェア会社の側に立っているように思える。Windowsというソフトウェアに不具合があり、その作成に携わったソフトウェア会社が「もはやこれ以上は直せない」と言って投げ出してしまったのである。
一方、それをささえるコンピュータ本体(ハードウェア)の方には何の欠陥もない! コンピュータ会社は、お客が買い替えで新たなコンピュータを沢山買ってくれればよい訳だから、ただ黙っているのが得策であろう。私もコンピュータ会社の一員であったから、その点はよく理解できる。しかし同時に、苦労して造ったマシンが何の欠陥もないのに、ただソフトがないからという理由だけであっさりと捨てられてしまう。この事態を見て悔しい気持ちにならないとしたら、それは開発に携わった技術者として少しおかしいのではないか。
私は不要になったWin-XPマシンを前にして、一人悔しい思いをしている。特にこのマシンは、大学の講義で使うために携帯に便利なようにと超薄型で超軽量のものを選んで買ったので当然高価であった。Win-Vistaマシンとして購入したが、Vista が実用にならないのでXPにダウングレードしたものである。まだ6年しか(!)使っていない。こんなデザインの良いものを、悔しい! 昔の仲間達が造ったものを簡単に捨ててたまるか。何とかこのマシンを使えるようにしたい。私はそう思いつつ思案しているところである。
2014年3月19日水曜日
メダルをかじる
オリンピックやパラリンピックでのメダル授与式で、メダルをかじるパフォーマンスが話題になっている。私は以前から何故選手が“メダルをかじる”のか理解に苦しんでいたが、その関係の新聞記事を読んでやっと合点がいったのである。どうやらメディア関係者が選手にそういう行為をするよう要求するのが原因であるらしい。しかしメダルをかじる行為が何を意味するのかに言及したものはなかった。
昔流行った西部劇映画の熱烈なファンなら誰でも知っていることだが、昔は金貨を手に入れたらそれが本物の金であることを確かめる必要があった。その確認のために“咬んで”みるのである。歯型が付く程度に柔らかければ本物の可能性が高いが、固くて歯型が付かなければ間違いなく偽物なのだ。決して“かじって”いる訳ではない。
そういう習慣があったことを知っていれば、表彰式でメダルを噛む(かじるのではない!)という行為は、それが本物であることを疑っていることになるから甚だ礼を失した行為であるといえよう。ましてや、金ではない(銀メダルや銅メダルの)受賞者にメダルを噛む行為を要求するのはあり得ないことである。
私は、メディア関係者に以下2点の間違いを指摘したい。
・金メダルは“咬む”のは構わないが“かじる”ものではない。
・金メダル以外のメダル獲得者にメダルを咬むことを要求するべきではない。
昔流行った西部劇映画の熱烈なファンなら誰でも知っていることだが、昔は金貨を手に入れたらそれが本物の金であることを確かめる必要があった。その確認のために“咬んで”みるのである。歯型が付く程度に柔らかければ本物の可能性が高いが、固くて歯型が付かなければ間違いなく偽物なのだ。決して“かじって”いる訳ではない。
そういう習慣があったことを知っていれば、表彰式でメダルを噛む(かじるのではない!)という行為は、それが本物であることを疑っていることになるから甚だ礼を失した行為であるといえよう。ましてや、金ではない(銀メダルや銅メダルの)受賞者にメダルを噛む行為を要求するのはあり得ないことである。
私は、メディア関係者に以下2点の間違いを指摘したい。
・金メダルは“咬む”のは構わないが“かじる”ものではない。
・金メダル以外のメダル獲得者にメダルを咬むことを要求するべきではない。
2014年2月8日土曜日
リケジョ
“リケジョ”という言葉が流行っている。小保方晴子さんのSTAP細胞に関する研究成果の劇的な報道があった後は、尚更話題になる機会が増えたように思う。
リケジョとは、理科系の科目を学んでいる(あるいは、学んだことのある)女性を指しているが、そういう経歴を持つ職業人(主に、技術者、研究者等)に対しても使われているようである。確かに、理科系の科目を専攻する女性は、比率的には理科系男子より数が少ないかもしれない。しかし専攻する科目によっては女性の方が多い科目も存在する。
世間では、将来の進むべき方向を「理系か」,「文系か」という二者択一で選ぶ傾向があり、女性は文系のコースに進むのが普通だと考える ある種の偏見のようなものがあるのだろう。それなら、文系に進む男子の数は少ないかというと、必ずしもそうとも言えない。その証拠とはならないけれど、文系男子を“ブンダン”とか“ブンメン”とか呼んで特別視する造語は(私の知る限り、今のところ)存在しないじゃないですか。
“リケジョ”という表現は、理系の女性を一括して表現できる便利な言葉だと私も思う。しかし、このようなカナ表現の4文字造語はどうもいただけない。初めて聞いたとき、直ぐその意味を理解できないからである。それに対し“就活”,“婚活”,“終活”などの造語は、使い慣れている生活という言葉から容易に意味を想像することができる。カナ文字だけの表現ではそうはいかない。日本人は漢字という表意文字を持っているのだから、もう少し表現方法を工夫したらどうかと思うのである。
以前、書道をやっている母親から“妍”という字を教えてもらったことがある。女偏の付く字にはあまり良い意味がない。
“嫌”,“妾”,“姦”,“婬”,・・・
“嫁”という字にしたところで、“女”は常に“家”に居るものだという封建的な考え方から発する字なのである。しかし“妍”という字は「けん」と読み「女をみがく(磨く、研く)」という良い意味があるというのである。つまり、
(女 + 研) ⇒
⇒ 
ということである。
これを真似て、女偏の付く新しい漢字の造語を作ったらどうか。たとえばリケジョは、(女+理)系、つまり“
系”あるいは (女+里)(*)系、つまり“
系”と書いて表現するのである。
たとえば、小説の中などで、
「ワタシ、
系なんですぅ~」
というように用いる。
「ワタシ、リケジョなんですぅ~」
などと表現する女性がどこにいるというのか?
今や我々は、日本語ワープロを用いて文章を書ける環境にいるのだから、ちょっとしたアドインソフトを用意すれば、誰でも簡単にこういった漢字の造語を作れる時代になったのではないかと思う。
(男 + 理) ⇒
(女 + 理) ⇒
⇒ 
(女 + 研) ⇒
⇒ 
貴方(女)いや、…貴
も挑戦してみては如何?■
リケジョとは、理科系の科目を学んでいる(あるいは、学んだことのある)女性を指しているが、そういう経歴を持つ職業人(主に、技術者、研究者等)に対しても使われているようである。確かに、理科系の科目を専攻する女性は、比率的には理科系男子より数が少ないかもしれない。しかし専攻する科目によっては女性の方が多い科目も存在する。
世間では、将来の進むべき方向を「理系か」,「文系か」という二者択一で選ぶ傾向があり、女性は文系のコースに進むのが普通だと考える ある種の偏見のようなものがあるのだろう。それなら、文系に進む男子の数は少ないかというと、必ずしもそうとも言えない。その証拠とはならないけれど、文系男子を“ブンダン”とか“ブンメン”とか呼んで特別視する造語は(私の知る限り、今のところ)存在しないじゃないですか。
“リケジョ”という表現は、理系の女性を一括して表現できる便利な言葉だと私も思う。しかし、このようなカナ表現の4文字造語はどうもいただけない。初めて聞いたとき、直ぐその意味を理解できないからである。それに対し“就活”,“婚活”,“終活”などの造語は、使い慣れている生活という言葉から容易に意味を想像することができる。カナ文字だけの表現ではそうはいかない。日本人は漢字という表意文字を持っているのだから、もう少し表現方法を工夫したらどうかと思うのである。
以前、書道をやっている母親から“妍”という字を教えてもらったことがある。女偏の付く字にはあまり良い意味がない。
“嫌”,“妾”,“姦”,“婬”,・・・
“嫁”という字にしたところで、“女”は常に“家”に居るものだという封建的な考え方から発する字なのである。しかし“妍”という字は「けん」と読み「女をみがく(磨く、研く)」という良い意味があるというのである。つまり、
(女 + 研) ⇒
ということである。
これを真似て、女偏の付く新しい漢字の造語を作ったらどうか。たとえばリケジョは、(女+理)系、つまり“
【注】(*)(女+里)という文字は存在するが、ここには表示できない。
たとえば、小説の中などで、
「ワタシ、
というように用いる。
「ワタシ、リケジョなんですぅ~」
などと表現する女性がどこにいるというのか?
今や我々は、日本語ワープロを用いて文章を書ける環境にいるのだから、ちょっとしたアドインソフトを用意すれば、誰でも簡単にこういった漢字の造語を作れる時代になったのではないかと思う。
(男 + 理) ⇒
(女 + 理) ⇒
(女 + 研) ⇒
貴方(女)いや、…貴
2014年1月20日月曜日
“ながらスマホ”の時代
歩きながらスマートフォンを使うことを「歩きスマホ」と呼ぶようになって間もないのに、もうこの言葉が国語辞典等に取り上げられているという。驚きである。これは、歩きスマホという行為が世間に及ぼす影響の大きさを示すものでもあろう。歩きながらケータイを使うのに比べて、スマホの場合ははるかに危険な行為であることが分かってきたからである。
「走りスマホ」と言うのもある。これは、マラソンや駅伝の選手がスマホを活用して自分の予想ラップタイムを確認したり、コーチからの指示をメールで受け取ったりするのに利用する行為(そんな訳ないだろ)… ではなく、自転車で走りながらスマホを利用することを言う。まあ「自転車スマホ」と呼ぶ方が分かりやすいかもしれない。
私は先日、この「自転車スマホ」をしている人にたまたま遭遇してしまった。それはそれは見事にスマホを使いこなしているように見えた。両腕を肘のところで曲げて自転車のハンドルの上に置き、肘から下の腕の部分だけでハンドル操作をする。そして空いている両手でスマホを持ち指先で画面操作をしながら時々前方に視線を走らせる(実は、このとき私としっかりと視線が合ってしまったのだ)。このようにして、ゆっくりと、ゆっくりと自転車を走らせていたのである(決して真似をしてはいけません)。
「授業中スマホ」と言うのもある。授業中、講義も聞かずに机の下あるいは机上に置いたスマホの画面を指の先でつついている姿をよく見かけるようになった。もちろん私は「授業中スマホ」を禁止しているのだが、そんな注意は聞きもしない。注意した直後は止めた振りをするが、しばらくするとまたスマホに没入してしまっている。困ったことである。
「久しぶりにスマホに90分間触らないでいました」という感想を寄せた学生もいた。他の授業の先生は、まったく注意をしていないらしい。
企業人から大学教師に転じた当座、私は授業中の私語(おしゃべり)に悩まされたものだが、ある年を境にして授業中の私語がまったくなくなった。後から気が付いたのだが、それはケータイが流行りだした頃であった。私語するよりケータイで遊んでいる方がはるかに楽しかったのであろう。このように、携帯端末の存在が授業に及ぼす影響は年々大きくなってきている。そして今年は、スマホの存在(とその性能)が授業に影響を及ぼした年として後々まで記憶されるのではないかと思う。「授業中スマホ」を禁止しても、もはや守られなくなった年として。
更に、スマホの充電能力が貧弱なので授業中に充電しようとするけしからん輩が増えてきたことである。家で十分に充電しておいても、大学へ行くまでの電車の中で使い、授業中にも使い、休憩時間にも使い…していると、その日の午後になるともう電池切れになってしまうのだという。したがって常に学生達は電源を求めて歩き回っている。いつでも充電、どこでも充電… と。
私は「情報倫理」の授業中に、教室の後ろの方まで歩いていった折に教室の隅のコンセントに2台のスマホが接続されて充電中であるのを発見した。こういう行為を「盗電」と呼ぶことを事前に教えていたのであるが。
授業のついでに充電していると言うよりも、充電のついでに講義を聞いているという感じなのである。
食事中のスマホ、授乳中のスマホ、デート中のスマホ、… 。
恋人同士が手をつないで歩きながら、それぞれの空いている方の手にスマホを持ち、それぞれがスマホを指で巧みに操っている。これが普通の風景となる日も近いのではないか。いよいよ「ながらスマホ」の時代になったということであろう。
「走りスマホ」と言うのもある。これは、マラソンや駅伝の選手がスマホを活用して自分の予想ラップタイムを確認したり、コーチからの指示をメールで受け取ったりするのに利用する行為(そんな訳ないだろ)… ではなく、自転車で走りながらスマホを利用することを言う。まあ「自転車スマホ」と呼ぶ方が分かりやすいかもしれない。
私は先日、この「自転車スマホ」をしている人にたまたま遭遇してしまった。それはそれは見事にスマホを使いこなしているように見えた。両腕を肘のところで曲げて自転車のハンドルの上に置き、肘から下の腕の部分だけでハンドル操作をする。そして空いている両手でスマホを持ち指先で画面操作をしながら時々前方に視線を走らせる(実は、このとき私としっかりと視線が合ってしまったのだ)。このようにして、ゆっくりと、ゆっくりと自転車を走らせていたのである(決して真似をしてはいけません)。
「授業中スマホ」と言うのもある。授業中、講義も聞かずに机の下あるいは机上に置いたスマホの画面を指の先でつついている姿をよく見かけるようになった。もちろん私は「授業中スマホ」を禁止しているのだが、そんな注意は聞きもしない。注意した直後は止めた振りをするが、しばらくするとまたスマホに没入してしまっている。困ったことである。
「久しぶりにスマホに90分間触らないでいました」という感想を寄せた学生もいた。他の授業の先生は、まったく注意をしていないらしい。
企業人から大学教師に転じた当座、私は授業中の私語(おしゃべり)に悩まされたものだが、ある年を境にして授業中の私語がまったくなくなった。後から気が付いたのだが、それはケータイが流行りだした頃であった。私語するよりケータイで遊んでいる方がはるかに楽しかったのであろう。このように、携帯端末の存在が授業に及ぼす影響は年々大きくなってきている。そして今年は、スマホの存在(とその性能)が授業に影響を及ぼした年として後々まで記憶されるのではないかと思う。「授業中スマホ」を禁止しても、もはや守られなくなった年として。
更に、スマホの充電能力が貧弱なので授業中に充電しようとするけしからん輩が増えてきたことである。家で十分に充電しておいても、大学へ行くまでの電車の中で使い、授業中にも使い、休憩時間にも使い…していると、その日の午後になるともう電池切れになってしまうのだという。したがって常に学生達は電源を求めて歩き回っている。いつでも充電、どこでも充電… と。
私は「情報倫理」の授業中に、教室の後ろの方まで歩いていった折に教室の隅のコンセントに2台のスマホが接続されて充電中であるのを発見した。こういう行為を「盗電」と呼ぶことを事前に教えていたのであるが。
授業のついでに充電していると言うよりも、充電のついでに講義を聞いているという感じなのである。
食事中のスマホ、授乳中のスマホ、デート中のスマホ、… 。
恋人同士が手をつないで歩きながら、それぞれの空いている方の手にスマホを持ち、それぞれがスマホを指で巧みに操っている。これが普通の風景となる日も近いのではないか。いよいよ「ながらスマホ」の時代になったということであろう。
2013年12月26日木曜日
電話詐欺への対応
家に電話が掛かってくる。受話器を取り上げるとプツンと切れてしまう。そういうことがこれまで何度もあった。
ベル が鳴ると、その時やっていた仕事を中断し急いで電話機(または子機)の置いてあるところへ駆けつけるのだが間に合わない。5回くらいのコールで受話器を取ってもすぐ切れてしまうのだから相当に気の短い人が掛けてきたのだろうと考えたりしていた。
書斎で仕事をしていて机上の子機が鳴った時も、ワンコールで直ぐに取ったのに切れてしまう。これは怪しい! 家に人が居るかどうかの確認をしているのだろうか。そこで気が付いたのである。いわゆる“オレオレ詐欺”の電話かもしれないと。
“オレオレ詐欺”は、そこで使われる手法が進化(?)する度に名称変更を迫られ、現在は“振り込め詐欺”とか“母さん助けて詐欺”とか、これら三つの名称のいずれかが使われているようである。しかし切っ掛けはいつも家の固定電話のベルが鳴るところから始まるのだから“電話詐欺”と呼ぶのが妥当ではないかと思う。
私は電話詐欺らしき電話が掛かってきたら、その話に乗った振りをして犯人逮捕に協力したいとかねがね思っていた。しかしこれまでそういう会話をする段階まで進んだことは残念ながら一度もない。どうやら、電話に出た時のこちらの声の調子から、カモには不向きと思われたのかもしれない。そう反省(?)した私めは、できるだけ弱々しい元気のない声で電話に出ることにした。だが、今までのところ効果はないようである。
“声の調子”ということで気が付いたのだが、今まで「受話器を取り上げたら直ぐ切れた」と表現してきたが、実は受話器を取った直後に、私は「もしもし」という声を発していたのである。それだ! その声から、こちらが男であることを相手に知られてしまったのだ。相手は女性のカモを捜していたのではなかろうか。詐欺師は女性の方が騙しやすいと思っているのかもしれない。
そこで私は、受話器を取っても一言も声を発しないことにした。これは、はっきり言って効果があった。電話は直ぐには切られなくなった! こちらがしっかりと聞き耳を立てていると、相手の職場(?)の背後の騒音が聞こえてくることがある。事務所のような所で電話している声も聞こえる。あるいは受話器を取った直後に男の声の会話が突然中断された瞬間を捉えることがある。雑談していて電話の相手が出たので雑談を打ち切りこちらに意識を向けた瞬間なのだ。お互いに耳を澄まして相手の出方を窺がう。ドキドキするような瞬間である。こちらは絶対に声を発しない。
ある程度沈黙の時間が流れると、相手はあきらめて一言も発することなく電話を切るようだ。その直前にこちらから電話を切るのがコツである。何度もやっているとその時間間隔の頃合いが分かってくる。相手に“プツン”とやられるのは気分が悪いものですからね。こちらから“プツン”とやってやると逆に実に気分が良い。
これはあまり他人には勧められないが、私はその瞬間に相手を侮辱する言葉(2~3音の短い言葉がよい)を発してから素早く電話を切ることにしている(おぬしもワルよのう…)。
こういうワルいことをする(不作法な)男の提言など聞いてもらえないかもしれないが、私は電話というものは掛けた方がまず第一声を発するべきではないかと思う。電話を掛けられた方はそれを待ってから応答の声を発する。それが礼儀作法(マナー)と言うものではないか。あるいは、それを習慣にしてはどうかと提言したい。電話詐欺対策としても有効になるのではないかと思う。
ベル が鳴ると、その時やっていた仕事を中断し急いで電話機(または子機)の置いてあるところへ駆けつけるのだが間に合わない。5回くらいのコールで受話器を取ってもすぐ切れてしまうのだから相当に気の短い人が掛けてきたのだろうと考えたりしていた。
書斎で仕事をしていて机上の子機が鳴った時も、ワンコールで直ぐに取ったのに切れてしまう。これは怪しい! 家に人が居るかどうかの確認をしているのだろうか。そこで気が付いたのである。いわゆる“オレオレ詐欺”の電話かもしれないと。
“オレオレ詐欺”は、そこで使われる手法が進化(?)する度に名称変更を迫られ、現在は“振り込め詐欺”とか“母さん助けて詐欺”とか、これら三つの名称のいずれかが使われているようである。しかし切っ掛けはいつも家の固定電話のベルが鳴るところから始まるのだから“電話詐欺”と呼ぶのが妥当ではないかと思う。
私は電話詐欺らしき電話が掛かってきたら、その話に乗った振りをして犯人逮捕に協力したいとかねがね思っていた。しかしこれまでそういう会話をする段階まで進んだことは残念ながら一度もない。どうやら、電話に出た時のこちらの声の調子から、カモには不向きと思われたのかもしれない。そう反省(?)した私めは、できるだけ弱々しい元気のない声で電話に出ることにした。だが、今までのところ効果はないようである。
“声の調子”ということで気が付いたのだが、今まで「受話器を取り上げたら直ぐ切れた」と表現してきたが、実は受話器を取った直後に、私は「もしもし」という声を発していたのである。それだ! その声から、こちらが男であることを相手に知られてしまったのだ。相手は女性のカモを捜していたのではなかろうか。詐欺師は女性の方が騙しやすいと思っているのかもしれない。
そこで私は、受話器を取っても一言も声を発しないことにした。これは、はっきり言って効果があった。電話は直ぐには切られなくなった! こちらがしっかりと聞き耳を立てていると、相手の職場(?)の背後の騒音が聞こえてくることがある。事務所のような所で電話している声も聞こえる。あるいは受話器を取った直後に男の声の会話が突然中断された瞬間を捉えることがある。雑談していて電話の相手が出たので雑談を打ち切りこちらに意識を向けた瞬間なのだ。お互いに耳を澄まして相手の出方を窺がう。ドキドキするような瞬間である。こちらは絶対に声を発しない。
ある程度沈黙の時間が流れると、相手はあきらめて一言も発することなく電話を切るようだ。その直前にこちらから電話を切るのがコツである。何度もやっているとその時間間隔の頃合いが分かってくる。相手に“プツン”とやられるのは気分が悪いものですからね。こちらから“プツン”とやってやると逆に実に気分が良い。
これはあまり他人には勧められないが、私はその瞬間に相手を侮辱する言葉(2~3音の短い言葉がよい)を発してから素早く電話を切ることにしている(おぬしもワルよのう…)。
こういうワルいことをする(不作法な)男の提言など聞いてもらえないかもしれないが、私は電話というものは掛けた方がまず第一声を発するべきではないかと思う。電話を掛けられた方はそれを待ってから応答の声を発する。それが礼儀作法(マナー)と言うものではないか。あるいは、それを習慣にしてはどうかと提言したい。電話詐欺対策としても有効になるのではないかと思う。
2013年11月23日土曜日
ほうていしき
私は、大学では数学科出身だったので 「ほうていしき」 と言えば “方程式” のことしか思い浮かばない。しかし “奉呈式” というのもあるらしいことを知った。
米国のキャロライン・ケネディ新駐日大使が華麗な馬車に乗って皇居に向かい、天皇陛下に信任状を提出する儀式に臨んだ、とニュースは伝えている。新任の大使は必ず皇居で信任状を提出する慣わしがあることは承知していたが、寡聞にしてそれを奉呈式(Diplomatic accreditation)と呼ぶとは知らなかった。普通ならこれほど大きく報じられることはないが、ケネディ家の人だからこそ注目されニュースに取りあげられたのであろう。
日本語変換ソフトの開発担当者は、開発中の辞書にちゃんと登録されているかどうか慌てて確認していることであろう。私が普段使っているパソコンの変換辞書には登録されていないが、滅多に使わない用語であるからよしとしよう。
しかし“奉”は“捧”の字を当てているメディアもある。統一してほしいものである。
米国のキャロライン・ケネディ新駐日大使が華麗な馬車に乗って皇居に向かい、天皇陛下に信任状を提出する儀式に臨んだ、とニュースは伝えている。新任の大使は必ず皇居で信任状を提出する慣わしがあることは承知していたが、寡聞にしてそれを奉呈式(Diplomatic accreditation)と呼ぶとは知らなかった。普通ならこれほど大きく報じられることはないが、ケネディ家の人だからこそ注目されニュースに取りあげられたのであろう。
日本語変換ソフトの開発担当者は、開発中の辞書にちゃんと登録されているかどうか慌てて確認していることであろう。私が普段使っているパソコンの変換辞書には登録されていないが、滅多に使わない用語であるからよしとしよう。
しかし“奉”は“捧”の字を当てているメディアもある。統一してほしいものである。
2013年11月1日金曜日
川上一塁手の守備力
元巨人軍監督の川上哲治氏が亡くなった。
現役選手の時代には“赤バットの川上”と“青バットの大下”と並び称されて、大下選手とともに野球ファンの人気を二分していたものである。
しかし色々な論評を見ていると打者としての川上、監督としての川上の話は多く出てくるが、一塁手としての守備の話はまるで出てこない。何故か? それは川上一塁手の守備が恐ろしく下手だったからである。
野手がボールを一塁に投げるとき、川上一塁手のグラブにスッポリと納まるようなストライクでないと川上御大から睨まれることになる。ショートバウンドするようなボールを投げたりしたらそれこそ一大事である。しかし高い球ならそれほど睨まれることはなかったようだ。普通、高い球ならベースから足を離してでもジャンプしたりして捕球しようとするものであるが、川上選手は決してそのようなことはしなかった。ボールが一塁ベース近くに届く前に彼はクルリとボールに背を向け、ボールが転がるであろう方角に向けて一目散に走り出すのであった。本来、そちらの方は捕手がバックアップにまわることになっているから、一塁手の務めはボールをとにかく止めて打者の進塁を防ぐ努力をすべきなのである。しかし彼はそれをしなかったのだ。
川上選手の動作を遠くから見ていると一塁手にはとても取れないような大暴投だったように見える。それが彼の狙いなのだ。ジャンプして取り損ねたりエラーする危険を冒すよりもボールを投げた野手の責任にしてしまった方が面倒がない。16の背番号を揺らしながら、そして少し“がに股”でボールを追いかけようとする後ろ姿がTV画面に映ると、私は「あっ! またやっている」と思ったものである。しかしTVの解説者は決してそのことに触れようとはしなかった。
熱心な巨人ファンがこれを読んだら憤慨するに違いない。野球の神様に向かって何と言うことを言うのか! と。最悪の場合、名誉棄損あるいは侮辱罪で訴えられるかもしれない。
名誉毀損は、刑法230条1項「公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、3年以下の懲役若しくは禁錮亦は50万円以下の罰金に処する」と定めているから、事実を述べていても罰せられるのである。刑法231条の侮辱罪にあたる可能性もある。
もし訴えられたら、誰かに“アンチ巨人”の有能な弁護士を紹介してもらいたいものである。誰か高校時代の友人にいないであろうか。
最悪の場合には亡命も考えておくべきであろう。それには、中学時代の同級生の I 氏に頼んでオーストラリア政府に亡命申請してもらおうかと考えている。
現役選手の時代には“赤バットの川上”と“青バットの大下”と並び称されて、大下選手とともに野球ファンの人気を二分していたものである。
しかし色々な論評を見ていると打者としての川上、監督としての川上の話は多く出てくるが、一塁手としての守備の話はまるで出てこない。何故か? それは川上一塁手の守備が恐ろしく下手だったからである。
野手がボールを一塁に投げるとき、川上一塁手のグラブにスッポリと納まるようなストライクでないと川上御大から睨まれることになる。ショートバウンドするようなボールを投げたりしたらそれこそ一大事である。しかし高い球ならそれほど睨まれることはなかったようだ。普通、高い球ならベースから足を離してでもジャンプしたりして捕球しようとするものであるが、川上選手は決してそのようなことはしなかった。ボールが一塁ベース近くに届く前に彼はクルリとボールに背を向け、ボールが転がるであろう方角に向けて一目散に走り出すのであった。本来、そちらの方は捕手がバックアップにまわることになっているから、一塁手の務めはボールをとにかく止めて打者の進塁を防ぐ努力をすべきなのである。しかし彼はそれをしなかったのだ。
川上選手の動作を遠くから見ていると一塁手にはとても取れないような大暴投だったように見える。それが彼の狙いなのだ。ジャンプして取り損ねたりエラーする危険を冒すよりもボールを投げた野手の責任にしてしまった方が面倒がない。16の背番号を揺らしながら、そして少し“がに股”でボールを追いかけようとする後ろ姿がTV画面に映ると、私は「あっ! またやっている」と思ったものである。しかしTVの解説者は決してそのことに触れようとはしなかった。
熱心な巨人ファンがこれを読んだら憤慨するに違いない。野球の神様に向かって何と言うことを言うのか! と。最悪の場合、名誉棄損あるいは侮辱罪で訴えられるかもしれない。
名誉毀損は、刑法230条1項「公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、3年以下の懲役若しくは禁錮亦は50万円以下の罰金に処する」と定めているから、事実を述べていても罰せられるのである。刑法231条の侮辱罪にあたる可能性もある。
もし訴えられたら、誰かに“アンチ巨人”の有能な弁護士を紹介してもらいたいものである。誰か高校時代の友人にいないであろうか。
最悪の場合には亡命も考えておくべきであろう。それには、中学時代の同級生の I 氏に頼んでオーストラリア政府に亡命申請してもらおうかと考えている。
2013年10月31日木曜日
仕事に対する責任感
今年は大型の台風が多かったが10月の後半に入りやっと台風の季節も終ったようである。
台風26号が関東地方に接近した時には大学の授業が休講になるかどうかの騒ぎになった。幸いにも関東地方は直撃をまぬがれたが、その影響で午前中の授業はすべて休講となってしまった。私の担当科目は午後だったので休講とはならなかったが、それでもいつもより学生の出席率は悪かったようである。
会社員の場合、最近はこういう非常時には無理に出社したりせず在宅で仕事をする人が増えてきているから、学生達も同じように無理して出席することもないと考える人が増えたのであろう。
私が会社勤めをしていた頃は、台風や交通ストなどで出社に影響するような事態になると、普段以上に頑張って出社しようと努力したものである。仕事に取り組む姿勢や責任感を誇示するには絶好の機会だった。特に大切な会議が予定されているような場合は、意地でも遅刻しないよう最大限の努力をするのがサラリーマンとしてのマナーであったような気がする。つまり、その程度のことでしか自己表現ができない社員ばかりだったとも言えるのだが。
昔、T社とN社の合弁会社に出向していたことがあった。T社からN社へ技術移転をするのが目的だったから、両方の親会社からかなりの人数の技術者(取締役クラスも含めて)が出向して一緒に仕事をしていたのである。
ある時、全国的な交通ストライキがあり、我々T社から出向している社員達は当然のごとく、定時に仕事が始められるようあらかじめ準備しておくことにした。T社ではそれが普通だった。
交通手段のない者は全員寝袋を用意したり布団を借りたりして前日から会社に泊まり込んだのである。翌日T社出身の社員は全員、何事もなかったかのように朝一番から普段通りに執務していた。
その時、N社から出向していた幹部(取締役)が社員の出社状況を確認しようと各職場の見廻りにやってきた。そして、T社のエリアでは全員がそろって普段通り執務しているのを見て「何だ、これは!」と驚嘆することになった。それに反しN社の社員がいるエリアはガラ空きだったのであろう。これは社風の違いかもしれないが、社員の仕事に対する姿勢、責任感、意気込みの違いを見せつけられたと感じたのではないかと思う。T社の一員として私は溜飲を下げたのであった。
当時は、こういったことが 仕事に対する責任感 があるかどうかを知る指標の一つになっていたのである。最近は誰でもモバイル機器を持っているし、在宅に限らず何処に居ても仕事をすることが容易になっているから、必ずしも仕事に対する責任感の有無を判別する指標とはならなくなってきている。結構なことではないか。
台風26号が関東地方に接近した時には大学の授業が休講になるかどうかの騒ぎになった。幸いにも関東地方は直撃をまぬがれたが、その影響で午前中の授業はすべて休講となってしまった。私の担当科目は午後だったので休講とはならなかったが、それでもいつもより学生の出席率は悪かったようである。
会社員の場合、最近はこういう非常時には無理に出社したりせず在宅で仕事をする人が増えてきているから、学生達も同じように無理して出席することもないと考える人が増えたのであろう。
私が会社勤めをしていた頃は、台風や交通ストなどで出社に影響するような事態になると、普段以上に頑張って出社しようと努力したものである。仕事に取り組む姿勢や責任感を誇示するには絶好の機会だった。特に大切な会議が予定されているような場合は、意地でも遅刻しないよう最大限の努力をするのがサラリーマンとしてのマナーであったような気がする。つまり、その程度のことでしか自己表現ができない社員ばかりだったとも言えるのだが。
昔、T社とN社の合弁会社に出向していたことがあった。T社からN社へ技術移転をするのが目的だったから、両方の親会社からかなりの人数の技術者(取締役クラスも含めて)が出向して一緒に仕事をしていたのである。
ある時、全国的な交通ストライキがあり、我々T社から出向している社員達は当然のごとく、定時に仕事が始められるようあらかじめ準備しておくことにした。T社ではそれが普通だった。
交通手段のない者は全員寝袋を用意したり布団を借りたりして前日から会社に泊まり込んだのである。翌日T社出身の社員は全員、何事もなかったかのように朝一番から普段通りに執務していた。
その時、N社から出向していた幹部(取締役)が社員の出社状況を確認しようと各職場の見廻りにやってきた。そして、T社のエリアでは全員がそろって普段通り執務しているのを見て「何だ、これは!」と驚嘆することになった。それに反しN社の社員がいるエリアはガラ空きだったのであろう。これは社風の違いかもしれないが、社員の仕事に対する姿勢、責任感、意気込みの違いを見せつけられたと感じたのではないかと思う。T社の一員として私は溜飲を下げたのであった。
当時は、こういったことが 仕事に対する責任感 があるかどうかを知る指標の一つになっていたのである。最近は誰でもモバイル機器を持っているし、在宅に限らず何処に居ても仕事をすることが容易になっているから、必ずしも仕事に対する責任感の有無を判別する指標とはならなくなってきている。結構なことではないか。
2013年8月15日木曜日
野外コンサートでのマナー
私の兄が所属する合唱団が、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂付きジュリア聖歌隊500年祭に招かれ、サン・ピエトロ大聖堂で日本語による聖歌を歌うためバチカンを訪問することになった。その後でサン・ピエトロ広場での法王ミサにも参列する予定になっていたので、兄嫁、妹、姪も同行して一緒に参列したのだそうである。このイベントは、一部の新聞でも報じられていたからご存知の方もおられよう。
以下は兄嫁が、私に語ってくれた話である。
サン・ピエトロ広場での法王ミサの当日は、生憎の雨模様で傘を持ってはいたがずぶ濡れになってしまった。5月初旬のことでまだ寒い。法王の登場を待っている間に義姉はトイレへ行きたくなってしまった。トイレは広場の前方にあり、法王が通る通路の向こう側にあった。時間も迫っていたので衛視がその通路を横切るのを禁止したので通れない。仕方なく隙を見て渡ってしまった。帰りも同様に通してくれないので再び衛視の隙を付いて通過したのだそうである。
その後で、合唱団関係の人にその話をしたところ、野外で合唱する人達は常におむつを着用しているのが常識ですよと諭されたのだそうである。知らなかったなぁ~。
若者達に人気のあるグループの野外コンサートなどでは聴衆の方々もおむつを着用して参加しているのだろうか。知らなかった、知らなかった。
おむつ着用で音楽を楽しむなんて、何ともほほえましい光景ではないか。彼らは将来、年寄りの身になって老人介護に当ってくれることであろう。
マラソンや駅伝中継などを担当する放送関係者は、長時間の放送に備えておむつを着用するというのは知っていた。どうしても尿意を我慢できなくなったら、おむつの世話になるのであろう。私はまだ経験したことはないが。
日本のおむつはすぐれた保水力を持っており、合唱団関係者の間では「4回は使える」ということになっているらしい。私は介護の経験もあるので、日本製おむつのすぐれた品質をよく承知していた。
その時、義姉は私に聞くのである。おむつを利用するとなると「オシッコをした後どうなるか分かる?」
「?」
「重くなるのよ」
なるほど、それはそうだ。
いや、待てよ 膀胱の中身がおむつの方に移動するだけだから重くなるはずはない。私はすかさず異議をとなえたのであった。
尿意を我慢できなくなっておむつの世話になるのだから、一回の利用ではかなりの量のオシッコが出るはずである。それを4回繰り返すことができるというのだから、かなり強力な保水力を持っていると言えるであろう。
ところで、5回目はどうなるのだろうか。「4回は可能」と限定したということは、5回目はうまくいかないということだろうか? どう、うまくいかないのか? 保水力の上限を越えてしまうのなら解決策としてオシッコをした後、素早くその場におむつをストンと落としてしまえばよいのではないか、などと私は無責任な想像をしていたのであった。
しかし、それではマナーに反する。野外コンサートの終った跡におむつが沢山残されていたという話は聞いた事がないから、多分日本の若者達の礼儀作法は万全なのであろう。持ってきたものは、しっかりと持ち帰っているのだろう。
どういう方法で持ち帰るのか、そこは私にも分からないが、さぞかし重い事であろう。私は「オシッコをした後のおむつは重くなる」という義姉の主張を理解できたような気がしたのであった。
以下は兄嫁が、私に語ってくれた話である。
サン・ピエトロ広場での法王ミサの当日は、生憎の雨模様で傘を持ってはいたがずぶ濡れになってしまった。5月初旬のことでまだ寒い。法王の登場を待っている間に義姉はトイレへ行きたくなってしまった。トイレは広場の前方にあり、法王が通る通路の向こう側にあった。時間も迫っていたので衛視がその通路を横切るのを禁止したので通れない。仕方なく隙を見て渡ってしまった。帰りも同様に通してくれないので再び衛視の隙を付いて通過したのだそうである。
その後で、合唱団関係の人にその話をしたところ、野外で合唱する人達は常におむつを着用しているのが常識ですよと諭されたのだそうである。知らなかったなぁ~。
若者達に人気のあるグループの野外コンサートなどでは聴衆の方々もおむつを着用して参加しているのだろうか。知らなかった、知らなかった。
おむつ着用で音楽を楽しむなんて、何ともほほえましい光景ではないか。彼らは将来、年寄りの身になって老人介護に当ってくれることであろう。
マラソンや駅伝中継などを担当する放送関係者は、長時間の放送に備えておむつを着用するというのは知っていた。どうしても尿意を我慢できなくなったら、おむつの世話になるのであろう。私はまだ経験したことはないが。
日本のおむつはすぐれた保水力を持っており、合唱団関係者の間では「4回は使える」ということになっているらしい。私は介護の経験もあるので、日本製おむつのすぐれた品質をよく承知していた。
その時、義姉は私に聞くのである。おむつを利用するとなると「オシッコをした後どうなるか分かる?」
「?」
「重くなるのよ」
なるほど、それはそうだ。
いや、待てよ 膀胱の中身がおむつの方に移動するだけだから重くなるはずはない。私はすかさず異議をとなえたのであった。
尿意を我慢できなくなっておむつの世話になるのだから、一回の利用ではかなりの量のオシッコが出るはずである。それを4回繰り返すことができるというのだから、かなり強力な保水力を持っていると言えるであろう。
ところで、5回目はどうなるのだろうか。「4回は可能」と限定したということは、5回目はうまくいかないということだろうか? どう、うまくいかないのか? 保水力の上限を越えてしまうのなら解決策としてオシッコをした後、素早くその場におむつをストンと落としてしまえばよいのではないか、などと私は無責任な想像をしていたのであった。
しかし、それではマナーに反する。野外コンサートの終った跡におむつが沢山残されていたという話は聞いた事がないから、多分日本の若者達の礼儀作法は万全なのであろう。持ってきたものは、しっかりと持ち帰っているのだろう。
どういう方法で持ち帰るのか、そこは私にも分からないが、さぞかし重い事であろう。私は「オシッコをした後のおむつは重くなる」という義姉の主張を理解できたような気がしたのであった。
2013年8月6日火曜日
“LINE”の発音とアクセント
メールアプリの LINE が記録的な早さで普及しているらしい。しかも海外でも利用されていて、海外利用が全体の80%にも達するという。
LINE は“ら(')いん”ではなく“らい(-)ん”と発音する(*)のだそうである。つまり、2文字目以降を平板に発音する。私は寡聞にして知らないのだが、LINE の製造元が決めたことではないと思う。普通アプリ製品は、その名前の発音の仕方まで規定するとは思えないからである。日本での初期の利用者(多分若者達であろう)が慣用的に用いた発音ではないかと思う。
【注】(*)ここで、
(')は、直前の文字のみにアクセントを付ける。
(-)は、直前の文字以降終りまでアクセントを付ける。
若者言葉の発音は、2文字目以降にアクセントを移動させる例が多い。正確には“アクセントの平板化”と言うらしい。たとえば、
彼氏(かれ(-)し)、クラブ(くら(-)ぶ)・・・
などが代表的なものである。
市川海老蔵さんが傷害事件に巻き込まれた場所は“クラブ”(くら(-)ぶ)であり、倶楽部(く(')らぶ)とは異なる。アクセントは2文字目以降になり平板に発音する。NHKのアナウンサーはこれを正確に区別して発音しているのだそうである。ご苦労なことだ。
箸(は(')し)、端(はし('))、橋(は(-)し)のような、同音異義語に新たな分野が加わったことになる。
ところで私は思うのだが、若者言葉に現れるアクセントの平板化は、実は“橋”の発音アクセントと共通のものではないか。つまりアクセントの平板化と言うよりも、アクセントを一切無視しているのではないかと思う。
その発音をよく聞いてみると、
彼氏(かれ(-)し)は、彼氏(か(-)れし)
クラブ(くら(-)ぶ)は、クラブ(く(-)らぶ)
と発音しているように私には聞こえるのである。
つまり、若者言葉における発音・アクセントの変化は“アクセントの平板化”ではなく“アクセントの無視”ではないかと思う。
最後に素朴な疑問を一つ。
LINE の利用者の80%が海外の人だすると、彼らは“LINE”をどう発音しているのだろう。英語が主言語ならば「ラ(')イン」と発音しているのではあるまいか。
もし“ら(-)いん”と発音しているのが日本人だけだとすれば、将来の日本人は英語の“直線”を意味する“line”も同じように“ら(-)いん”と発音するようになってしまうのではなかろうか。日本人は“r”と“l”の発音を区別するのが苦手だと言われているが「アクセントまでおかしい」と言われるようになるのかもしれない。心配なことである。
LINE は“ら(')いん”ではなく“らい(-)ん”と発音する(*)のだそうである。つまり、2文字目以降を平板に発音する。私は寡聞にして知らないのだが、LINE の製造元が決めたことではないと思う。普通アプリ製品は、その名前の発音の仕方まで規定するとは思えないからである。日本での初期の利用者(多分若者達であろう)が慣用的に用いた発音ではないかと思う。
【注】(*)ここで、
(')は、直前の文字のみにアクセントを付ける。
(-)は、直前の文字以降終りまでアクセントを付ける。
若者言葉の発音は、2文字目以降にアクセントを移動させる例が多い。正確には“アクセントの平板化”と言うらしい。たとえば、
彼氏(かれ(-)し)、クラブ(くら(-)ぶ)・・・
などが代表的なものである。
市川海老蔵さんが傷害事件に巻き込まれた場所は“クラブ”(くら(-)ぶ)であり、倶楽部(く(')らぶ)とは異なる。アクセントは2文字目以降になり平板に発音する。NHKのアナウンサーはこれを正確に区別して発音しているのだそうである。ご苦労なことだ。
箸(は(')し)、端(はし('))、橋(は(-)し)のような、同音異義語に新たな分野が加わったことになる。
ところで私は思うのだが、若者言葉に現れるアクセントの平板化は、実は“橋”の発音アクセントと共通のものではないか。つまりアクセントの平板化と言うよりも、アクセントを一切無視しているのではないかと思う。
その発音をよく聞いてみると、
彼氏(かれ(-)し)は、彼氏(か(-)れし)
クラブ(くら(-)ぶ)は、クラブ(く(-)らぶ)
と発音しているように私には聞こえるのである。
つまり、若者言葉における発音・アクセントの変化は“アクセントの平板化”ではなく“アクセントの無視”ではないかと思う。
最後に素朴な疑問を一つ。
LINE の利用者の80%が海外の人だすると、彼らは“LINE”をどう発音しているのだろう。英語が主言語ならば「ラ(')イン」と発音しているのではあるまいか。
もし“ら(-)いん”と発音しているのが日本人だけだとすれば、将来の日本人は英語の“直線”を意味する“line”も同じように“ら(-)いん”と発音するようになってしまうのではなかろうか。日本人は“r”と“l”の発音を区別するのが苦手だと言われているが「アクセントまでおかしい」と言われるようになるのかもしれない。心配なことである。
2013年7月2日火曜日
“つぶやき” は誤訳ではないか?
私は Twitter を使ったことはないが、有用なツールであることは十分に理解している。しかし“Twitter”を“つぶやく”と日本語訳したのは間違いだったのではないかと思う。
そもそも“つぶやく”というのは、自分の思いの一端がポロっと出てしまった時に用いる表現ではないかと思う。本来、人に伝える積りではなかったものが、心ならずも外部に発せられてしまったという感じである。したがって、独り言の一種ではないかと思う。誰もが最初はそういう理解のもとで、気楽に、自由に、そして(ある意味で)無責任に、発言している積りだったのに、実はそれが世界中に聞こえてしまうような環境で発せられていた、という重大性に誰も気が付かなかった。
多くの人に自分の思いを正確に伝えるのは難しい。ましてや、つぶやき程度では到底無理なのだ。それが、現在世の中を騒がせている政治家、官僚、あるいは一部の有名人の引き起こす舌禍(筆禍)事件の原因ではないかと思うのである。
有名人でなくても“炎上”という懲罰を受けることがあるから、私も表現には気を付けたいと思う。誤解のないように、詳しくは「つぶやきの病理」を参照してくださいネ。
そもそも“つぶやく”というのは、自分の思いの一端がポロっと出てしまった時に用いる表現ではないかと思う。本来、人に伝える積りではなかったものが、心ならずも外部に発せられてしまったという感じである。したがって、独り言の一種ではないかと思う。誰もが最初はそういう理解のもとで、気楽に、自由に、そして(ある意味で)無責任に、発言している積りだったのに、実はそれが世界中に聞こえてしまうような環境で発せられていた、という重大性に誰も気が付かなかった。
多くの人に自分の思いを正確に伝えるのは難しい。ましてや、つぶやき程度では到底無理なのだ。それが、現在世の中を騒がせている政治家、官僚、あるいは一部の有名人の引き起こす舌禍(筆禍)事件の原因ではないかと思うのである。
有名人でなくても“炎上”という懲罰を受けることがあるから、私も表現には気を付けたいと思う。誤解のないように、詳しくは「つぶやきの病理」を参照してくださいネ。
2013年6月22日土曜日
土光さんとメザシ
今朝の新聞に「土光敏夫さんとメザシ」の話が載っていた。晩飯をメザシですます質素な生活をされていたという話は有名である。当時私も、テレビでご夫婦がメザシを食べている食卓風景を見た記憶がある。そのとき、メザシとは随分大きな魚なんだなぁ とちょっと違和感を覚えた。後年、そのときの事情に詳しい人に聞いたところでは、土光さんが普段食していたのは、本当は“メザシ”ではなく“にぼし”だったのだそうである。土光さんがにぼしを食べているのではあまりにまずい(「美味しくない」という意味ではない)ので、無理やりメザシに替えてもらったのだそうである。
これは、人伝に聞いた話であるから真偽の程はわからない。しかしあのとき土光さんが憮然とした表情で大きなメザシを無理やりほおばっていた様子を思い出し、なるほどと合点がいったのであった。
これは、人伝に聞いた話であるから真偽の程はわからない。しかしあのとき土光さんが憮然とした表情で大きなメザシを無理やりほおばっていた様子を思い出し、なるほどと合点がいったのであった。
2013年5月27日月曜日
しっぽの痛み
私は毎日70分程のウォーキングをしている。腰部脊柱管狭窄の影響で足裏にしびれがあるので、砂利道を素足のまま歩いているような感じのウォーキングである。正直に言うと、もはや“しびれ”ではなく“痛み”と言ってもいいくらいの状態である。しかし、できるだけ痛いという事実を忘れて、自然の姿勢のまま歩くよう努めている。
最近は、その砂利の中に“釘”が混じっているのではないかと思う程の痛みに突然襲われることがある。そういう時は少し歩幅を狭めてゆっくりと歩くけれど、基本的にはそのまま歩き続けることにしている。決して立ち止まったりはしない。そうしていると、次第に“釘”の痛みは弱まっていく。
足を怪我している場合の痛みなら、多分私は歩き続けるのは難しいと思う。しかし脊柱管が狭くなっていて、そこを通る神経が圧迫されその刺激が脳に伝えられているだけだと考えれば少しは気が楽になる。問題は、脳がそのノイズを「痛み」の信号と錯覚しているだけのことなのだ。だから私は「これはノイズだ!」「ノイズだ!」と自分自身に言い聞かせつつ我慢して歩いているのである。
そしてその間に、自然と「痛み」というものについて考える機会が多くなっていった。
事故で足を失った人が、今は存在しないその足の特定の部位に「痛み」を感じるという話をよく聞く。このことは、実際に痛みを感じているのはその特定部位ではなく、脳の方で感じているのだということを明白に示している。
人類はその昔、尾を持っていたと言われている。尾を踏まれたらさぞかし痛いことであろう。進化の過程で失われたその尾の神経の一部が、もし今の人類の身体にまだ残っているとすれば、事故で失われた部位が痛むのと同じように「尾を踏まれた痛み」を我々も体験することができるのではないか。つまり、今は存在しない部位であっても「痛さ」を通じてその存在を感じることができるのではないか、などとしょうもないことを考えながら歩いているのである。
ところで、あなたは「しっぽの痛み」を感じたことがありますか?
えっ? そんなの感じたことはない?
そうでしょうね。今まで一度も尾を踏まれた経験がありませんからね。
しかし私は子供の頃から何度も経験しているような気がするのです。
いじめにあって、しっぽを踏まれた経験が。
身体のどこが痛いかその部位を具体的に示せない場合、子供はとりあえず「腹が痛い」と言ってごまかします。しかし大人になると、その痛みのことを「心の痛み」と言って区別する智恵を身に付けます。しかし、あれは「しっぽの痛み」と言うべきではないでしようか。
自分の心の痛みが分からない人は、しょせん他人の心の痛みなど理解できないと言いますからね。私もこの際一度、自分の「心の痛み」と向き合ってみようと思うのです。
「痛っ!」 また“釘”だ!
最近は、その砂利の中に“釘”が混じっているのではないかと思う程の痛みに突然襲われることがある。そういう時は少し歩幅を狭めてゆっくりと歩くけれど、基本的にはそのまま歩き続けることにしている。決して立ち止まったりはしない。そうしていると、次第に“釘”の痛みは弱まっていく。
足を怪我している場合の痛みなら、多分私は歩き続けるのは難しいと思う。しかし脊柱管が狭くなっていて、そこを通る神経が圧迫されその刺激が脳に伝えられているだけだと考えれば少しは気が楽になる。問題は、脳がそのノイズを「痛み」の信号と錯覚しているだけのことなのだ。だから私は「これはノイズだ!」「ノイズだ!」と自分自身に言い聞かせつつ我慢して歩いているのである。
そしてその間に、自然と「痛み」というものについて考える機会が多くなっていった。
事故で足を失った人が、今は存在しないその足の特定の部位に「痛み」を感じるという話をよく聞く。このことは、実際に痛みを感じているのはその特定部位ではなく、脳の方で感じているのだということを明白に示している。
人類はその昔、尾を持っていたと言われている。尾を踏まれたらさぞかし痛いことであろう。進化の過程で失われたその尾の神経の一部が、もし今の人類の身体にまだ残っているとすれば、事故で失われた部位が痛むのと同じように「尾を踏まれた痛み」を我々も体験することができるのではないか。つまり、今は存在しない部位であっても「痛さ」を通じてその存在を感じることができるのではないか、などとしょうもないことを考えながら歩いているのである。
ところで、あなたは「しっぽの痛み」を感じたことがありますか?
えっ? そんなの感じたことはない?
そうでしょうね。今まで一度も尾を踏まれた経験がありませんからね。
しかし私は子供の頃から何度も経験しているような気がするのです。
いじめにあって、しっぽを踏まれた経験が。
身体のどこが痛いかその部位を具体的に示せない場合、子供はとりあえず「腹が痛い」と言ってごまかします。しかし大人になると、その痛みのことを「心の痛み」と言って区別する智恵を身に付けます。しかし、あれは「しっぽの痛み」と言うべきではないでしようか。
自分の心の痛みが分からない人は、しょせん他人の心の痛みなど理解できないと言いますからね。私もこの際一度、自分の「心の痛み」と向き合ってみようと思うのです。
「痛っ!」 また“釘”だ!
2013年4月29日月曜日
人との出会い
新聞を読んでいたら、45年ほど前の日本初の心臓移植の話が出ていた。
1968年、札幌医科大学付属病院で心臓外科の和田寿郎教授により脳死状態の若者から重症の心臓弁膜症と診断された少年への心臓移植が行われた。少年は6日後に意識を回復。当時心臓外科1年目だったK氏は「覚醒状態は短く、記者を呼んでの写真撮影では、私がベッドの下で足をつねって目覚めさせた」と打ち明けている。車いすで散歩するまでに回復したが、術後83日目に死亡した、とある。
よく知られているように、その後脳死判定がいい加減だったとか、少年は心臓移植を必要とするほど重症ではなかったとか、色々と疑問点が出てきた。そして和田教授は「栄光の医師」から一転「疑惑の医師」となってしまった。その結果「和田心臓移植」は、移植医療そのものに不信感を植え付けてしまった。
このK氏こそ、私が米国アリゾナ州のフェニックス市に仕事で1年間滞在していたとき、家族ぐるみでお付き合いさせていただいたあのK氏である。時系列で考えると移植事件の数年後のことではないかと思う。当時日本中を騒がせた事件に関係していた方であるとは、私は全く知らなかった。どういう仕事をしているかはお互いに知ってはいたが、仕事の内容には全く触れることがなかったからである。帰国後も、私の家内は奥さん同士で毎年の賀状交換を続けてきた。
新聞の記述によれば、K氏は心臓移植がしたくて心臓外科を志した。「移植したかった。今も一抹の未練はある」長く空白の期間が続いたことに「あれだけマスコミにたたかれてはね。ただ、心臓外科医が和田移植を『移植できない口実』にした面はある」と述べている、とのこと。
今になって分かるのだが、当時のK氏は傷心の思いで海外の病院勤務をされていたのであろう。人生における人と人との出会いには、後年になってから初めてその意味が分かる事もある。どんなに短い出会いであろうと、人との出会いは大切にしたいものである。
1968年、札幌医科大学付属病院で心臓外科の和田寿郎教授により脳死状態の若者から重症の心臓弁膜症と診断された少年への心臓移植が行われた。少年は6日後に意識を回復。当時心臓外科1年目だったK氏は「覚醒状態は短く、記者を呼んでの写真撮影では、私がベッドの下で足をつねって目覚めさせた」と打ち明けている。車いすで散歩するまでに回復したが、術後83日目に死亡した、とある。
よく知られているように、その後脳死判定がいい加減だったとか、少年は心臓移植を必要とするほど重症ではなかったとか、色々と疑問点が出てきた。そして和田教授は「栄光の医師」から一転「疑惑の医師」となってしまった。その結果「和田心臓移植」は、移植医療そのものに不信感を植え付けてしまった。
このK氏こそ、私が米国アリゾナ州のフェニックス市に仕事で1年間滞在していたとき、家族ぐるみでお付き合いさせていただいたあのK氏である。時系列で考えると移植事件の数年後のことではないかと思う。当時日本中を騒がせた事件に関係していた方であるとは、私は全く知らなかった。どういう仕事をしているかはお互いに知ってはいたが、仕事の内容には全く触れることがなかったからである。帰国後も、私の家内は奥さん同士で毎年の賀状交換を続けてきた。
新聞の記述によれば、K氏は心臓移植がしたくて心臓外科を志した。「移植したかった。今も一抹の未練はある」長く空白の期間が続いたことに「あれだけマスコミにたたかれてはね。ただ、心臓外科医が和田移植を『移植できない口実』にした面はある」と述べている、とのこと。
今になって分かるのだが、当時のK氏は傷心の思いで海外の病院勤務をされていたのであろう。人生における人と人との出会いには、後年になってから初めてその意味が分かる事もある。どんなに短い出会いであろうと、人との出会いは大切にしたいものである。
2013年3月29日金曜日
2013年3月28日木曜日
桜の花の色について
最近の桜の花は、昔に比べて白くなっているのではないかと言う人が多い。もちろん桜にも色々な種類があるが、ここでは染井吉野に限った話である。
その理由として、次の二つが考えられる。
(1)単なる気のせい
(2)紫外線の影響
高齢者は紫外線を長年浴びてきたので色覚に異常が生じ、そう感じるだけ。
成程、高齢者が派手な赤い衣服を着ていて時々違和感を感じることがあるが、本人は茶系のシックな身なりをしている積りなのだという話を以前聞いたことがある。それと同じことなのかもしれない。
しかし若い人の中にも「白くなっている」と感じる人が多いというから、必ずしも色覚異常だけが原因とも思えない。
もう一つある。
(3)勘違い
これは私の感想だが、“桜”と言えば“入学式”を思い出すように、校門の前で親子の晴れ姿を写したものをよく見かける。パンフレット等に載っているそういう写真では、必ず背景に桜が入っていることが多い。“入学式”をアピールする際に使われる典型的なパターンといえよう。しかもその桜の花の色合いは桃の花かとみまごう程の強いピンク色なのである。そういう写真を長年見せられていると、誰でも桜の花の色と言えばこの強いピンク色であると頭の中に刷り込まれてしまうのではないか。
年配者の思う桜は入学式と結びつき、ただ思い出の中にある遠い昔の桜を見ているに過ぎない。そしてその桜の花の色は、後から刷り込まれたものであろう。何しろ彼らの時代は、モノクロ写真全盛の時代であったから、当時の桜の花の色などどこにも記録されてはいないのである。
昨夜、雨戸を閉めようとした時、庭にある満開の桜の木から白い花びらが、静かに、静かに、降り続けているのに気がついた。人けのない暗闇の中で、ただ黙々と自分の役割を果たし続けているかのように見えた。
霏々として 桜降り積む 雪の如くに (字余り)
しかし今思い出してみると、あれはピンク色の花びらだったような気もしてくる。勘違いであろうか。
桜の花が、次の日曜日までもってくれると良いのだが…。
その理由として、次の二つが考えられる。
(1)単なる気のせい
(2)紫外線の影響
高齢者は紫外線を長年浴びてきたので色覚に異常が生じ、そう感じるだけ。
成程、高齢者が派手な赤い衣服を着ていて時々違和感を感じることがあるが、本人は茶系のシックな身なりをしている積りなのだという話を以前聞いたことがある。それと同じことなのかもしれない。
しかし若い人の中にも「白くなっている」と感じる人が多いというから、必ずしも色覚異常だけが原因とも思えない。
もう一つある。
(3)勘違い
これは私の感想だが、“桜”と言えば“入学式”を思い出すように、校門の前で親子の晴れ姿を写したものをよく見かける。パンフレット等に載っているそういう写真では、必ず背景に桜が入っていることが多い。“入学式”をアピールする際に使われる典型的なパターンといえよう。しかもその桜の花の色合いは桃の花かとみまごう程の強いピンク色なのである。そういう写真を長年見せられていると、誰でも桜の花の色と言えばこの強いピンク色であると頭の中に刷り込まれてしまうのではないか。
年配者の思う桜は入学式と結びつき、ただ思い出の中にある遠い昔の桜を見ているに過ぎない。そしてその桜の花の色は、後から刷り込まれたものであろう。何しろ彼らの時代は、モノクロ写真全盛の時代であったから、当時の桜の花の色などどこにも記録されてはいないのである。
昨夜、雨戸を閉めようとした時、庭にある満開の桜の木から白い花びらが、静かに、静かに、降り続けているのに気がついた。人けのない暗闇の中で、ただ黙々と自分の役割を果たし続けているかのように見えた。
霏々として 桜降り積む 雪の如くに (字余り)
しかし今思い出してみると、あれはピンク色の花びらだったような気もしてくる。勘違いであろうか。
桜の花が、次の日曜日までもってくれると良いのだが…。
2013年3月16日土曜日
私の特製マスクとメガネ
杉花粉の飛ぶシーズンもそろそろ山を越える頃ではないかと思う。
最近の私は、外出に際して、リストアップしたメモを用意しておかないとつい忘れてしまいそうになるくらいに色々な準備作業が必要となっている。それを逐一紹介する積りはないが、その中でもまず特製マスクは必須のものである。
「かぜ、花粉、ほこりを99%カットする」と称する使い捨てマスクを二重にして着用する。これにより99.99%位までカットできるのではないかと期待しているのである。
もっとも、マスクを二重にしてもカット率は99%のままだと主張する人がいるかもしれない。最初のマスクを一度通り抜けてしまった異物は、次のマスクはそのまま100%通過してしまうという可能性もあるからだ。しかしカット率というのは、不織布から成るフィルターの繊維状部分に、異物が引っ掛かるかどうかの確率の問題と考えれば、再び99%はカットされるのではないかと私は思うのである。
更に私は、二つのマスクの間にウェットティッシュを一枚、四つ折りにして挿入することにしている。これでカット率は更に増すのではないかと期待している。多分(超楽観的に見て)99.995%位にはなるのではないか。これで、普通の人よりはカット率の高い特製マスクをしていると(密かに)自負しながら外を歩いているのである。
実はマスクを二重にすると更なる利点があるのだ。マスクが少しきつくなり顔面にぴったりと装着されるので、少し動いたくらいでは隙間が生じることがない。普通にマスクをしているだけの人を見ると益々気の毒になってくるのである(これ、全くの独りよがりですけどね)。
今年は花粉症の症状がまったく出ていないから、これで効果があったのであろう。ただし眼のかゆみの方だけはどうにもならない。花粉除けのメガネを購入して外出時のみ着用しているのだが、マスクから漏れる呼気のためにガラス面が直ぐ曇ってしまって前がよく見えなくなる。結局メガネなしで歩くことになってしまう。
ただ、ウオーキングの際だけは役に立っている。多摩川の河原に出てサイクリングコースを歩く時は虫除けになるからである。啓蟄の日以降の暖かい日で風がない日は大量の虫(何という虫かは知らぬ)が飛び交っていて、両手で追い払っても「全くの無駄」と最初から分かるくらい大量に押し寄せてくる。その中をジョガーやサイクリスト達が走り抜けて行くのである。私もその時だけはメガネを着用して何事もないような顔をして歩いている。メガネなしの人達が気の毒になるくらいのものだ。
最近は、黄砂や PM2.5 も西の方の国から飛んでくるらしい。世間では PM2.5 で大騒ぎしているが、昔の日本の公害騒ぎの際にも飛び交っていたはずである。 PM2.5 は、煙草の煙の中にも含まれているという説もあるから、私などは長年の会社勤務の間に受動喫煙でずっと被害を受けてきたことになる。私の特製マスク程度では今更どうにもならないであろう。ただ、唯一の対策として午後“2時50分”頃のウオーキングだけは避けるようにしている。でも、これ全くの誤解ですよね。本当は午後の“2時半”ということでしょう? えっ? それも違う? こりゃまた失礼いたしました。
最近の私は、外出に際して、リストアップしたメモを用意しておかないとつい忘れてしまいそうになるくらいに色々な準備作業が必要となっている。それを逐一紹介する積りはないが、その中でもまず特製マスクは必須のものである。
「かぜ、花粉、ほこりを99%カットする」と称する使い捨てマスクを二重にして着用する。これにより99.99%位までカットできるのではないかと期待しているのである。
もっとも、マスクを二重にしてもカット率は99%のままだと主張する人がいるかもしれない。最初のマスクを一度通り抜けてしまった異物は、次のマスクはそのまま100%通過してしまうという可能性もあるからだ。しかしカット率というのは、不織布から成るフィルターの繊維状部分に、異物が引っ掛かるかどうかの確率の問題と考えれば、再び99%はカットされるのではないかと私は思うのである。
更に私は、二つのマスクの間にウェットティッシュを一枚、四つ折りにして挿入することにしている。これでカット率は更に増すのではないかと期待している。多分(超楽観的に見て)99.995%位にはなるのではないか。これで、普通の人よりはカット率の高い特製マスクをしていると(密かに)自負しながら外を歩いているのである。
実はマスクを二重にすると更なる利点があるのだ。マスクが少しきつくなり顔面にぴったりと装着されるので、少し動いたくらいでは隙間が生じることがない。普通にマスクをしているだけの人を見ると益々気の毒になってくるのである(これ、全くの独りよがりですけどね)。
今年は花粉症の症状がまったく出ていないから、これで効果があったのであろう。ただし眼のかゆみの方だけはどうにもならない。花粉除けのメガネを購入して外出時のみ着用しているのだが、マスクから漏れる呼気のためにガラス面が直ぐ曇ってしまって前がよく見えなくなる。結局メガネなしで歩くことになってしまう。
ただ、ウオーキングの際だけは役に立っている。多摩川の河原に出てサイクリングコースを歩く時は虫除けになるからである。啓蟄の日以降の暖かい日で風がない日は大量の虫(何という虫かは知らぬ)が飛び交っていて、両手で追い払っても「全くの無駄」と最初から分かるくらい大量に押し寄せてくる。その中をジョガーやサイクリスト達が走り抜けて行くのである。私もその時だけはメガネを着用して何事もないような顔をして歩いている。メガネなしの人達が気の毒になるくらいのものだ。
最近は、黄砂や PM2.5 も西の方の国から飛んでくるらしい。世間では PM2.5 で大騒ぎしているが、昔の日本の公害騒ぎの際にも飛び交っていたはずである。 PM2.5 は、煙草の煙の中にも含まれているという説もあるから、私などは長年の会社勤務の間に受動喫煙でずっと被害を受けてきたことになる。私の特製マスク程度では今更どうにもならないであろう。ただ、唯一の対策として午後“2時50分”頃のウオーキングだけは避けるようにしている。でも、これ全くの誤解ですよね。本当は午後の“2時半”ということでしょう? えっ? それも違う? こりゃまた失礼いたしました。
2013年3月1日金曜日
類似度検出プログラムの改良(V3.0)
前に紹介した“数独問題の類似度をチェックするプログラム(V2.0)”には、いろいろ未熟な点があったので、それを改良した V3.0 を作りました。
詳しくは、ホームページ上で紹介されています。
▼Perlで記述されたプログラムの全体
▼実行結果の例
最後に
▼このプログラムで使ったアルゴリズムの説明
が掲載されています。これで検出度はかなり向上したと思います。
この過程で、Perlと数独とはかなり相性がいいなぁと思いました。その時の感想を「プログラミングの楽しみ」としてまとめました。これも参考にして下さい。
詳しくは、ホームページ上で紹介されています。
▼Perlで記述されたプログラムの全体
▼実行結果の例
最後に
▼このプログラムで使ったアルゴリズムの説明
が掲載されています。これで検出度はかなり向上したと思います。
この過程で、Perlと数独とはかなり相性がいいなぁと思いました。その時の感想を「プログラミングの楽しみ」としてまとめました。これも参考にして下さい。
2013年2月4日月曜日
数独の問題の類似度を調べる
数独の問題の類似度を調べるプログラムを作って、手持ち(約3万4千個余り)のデータを入力してみたところ類似した問題は一つも発見されなかった、ということを以前この欄で紹介した。
これは予想通りの結果ではあったが、プログラムが期待通り動作したという実感が得られず少し残念な気もした。
そこで、類似度を確認する方法をより高度なものにしたバージョン(V2.0)を作成した。そのプログラム(ホームページ上で紹介されている)を利用すると「類似している」とみなされる問題が1件検出された。ただ、これは偶然似てしまったものと思う。と言うことは、更なるアルゴリズムの改良が必要ということであろう。下記に示すので、読者の皆さんも自分で目で確認してみてください。


これは予想通りの結果ではあったが、プログラムが期待通り動作したという実感が得られず少し残念な気もした。
そこで、類似度を確認する方法をより高度なものにしたバージョン(V2.0)を作成した。そのプログラム(ホームページ上で紹介されている)を利用すると「類似している」とみなされる問題が1件検出された。ただ、これは偶然似てしまったものと思う。と言うことは、更なるアルゴリズムの改良が必要ということであろう。下記に示すので、読者の皆さんも自分で目で確認してみてください。
2013年1月23日水曜日
数独の問題を集める
数独問題の“初出”を確認するプログラムを作ったが、それが実用的かどうか確認するにはもっと沢山の数独問題が必要となる。そこで、あるサイトからまとめて入手することを試みた。
毎日定期的に新しい問題が出題されているらしいので、その各画面上からデータ部分だけを抜き出してくるのである。人手で一つ一つデータを書き写していたのでは時間が掛かり過ぎて現実的ではない。そこで、あらかじめデータの構造を調べておいて、それに対応する抜き出しプログラムを作ることにした。これを動作させすべて自動的に抜き出してしまおうという魂胆である(プログラム作りのネタはいたる所にあるものだ)。その結果、時間は掛かったが、34,125個の問題を一挙に手に入れることができた。
“初出”を確認するプログラムにこのデータを入力してみたところ、重複した問題は一つも含まれていないことが確認できた。数独作りの立場からは「期待通りの結果」ではあったが、プログラム作りの立場からは「少し残念」な気もした。複雑な心境である。
しかし、3万4千個余りの膨大な問題データが(文字通り)あっという間に処理されて、結果が表示されたのは痛快であった。良しとしよう。
ところで、正式に公開さているものとはいえ、このようにデータ構造を調べて(プログラムで)データの一部だけを抜き出すという行為は倫理的に許される行為なのだろうか。いささか疑問が残る。(ブラックハットの)ハッカーになって犯罪を犯しているような気持ちになってきた。検査のために使うだけにして、終了後は破棄する方が無難であろう。こんな膨大な数独問題を持っていても、到底すべてを解くことはできないのだから。
毎日定期的に新しい問題が出題されているらしいので、その各画面上からデータ部分だけを抜き出してくるのである。人手で一つ一つデータを書き写していたのでは時間が掛かり過ぎて現実的ではない。そこで、あらかじめデータの構造を調べておいて、それに対応する抜き出しプログラムを作ることにした。これを動作させすべて自動的に抜き出してしまおうという魂胆である(プログラム作りのネタはいたる所にあるものだ)。その結果、時間は掛かったが、34,125個の問題を一挙に手に入れることができた。
“初出”を確認するプログラムにこのデータを入力してみたところ、重複した問題は一つも含まれていないことが確認できた。数独作りの立場からは「期待通りの結果」ではあったが、プログラム作りの立場からは「少し残念」な気もした。複雑な心境である。
しかし、3万4千個余りの膨大な問題データが(文字通り)あっという間に処理されて、結果が表示されたのは痛快であった。良しとしよう。
ところで、正式に公開さているものとはいえ、このようにデータ構造を調べて(プログラムで)データの一部だけを抜き出すという行為は倫理的に許される行為なのだろうか。いささか疑問が残る。(ブラックハットの)ハッカーになって犯罪を犯しているような気持ちになってきた。検査のために使うだけにして、終了後は破棄する方が無難であろう。こんな膨大な数独問題を持っていても、到底すべてを解くことはできないのだから。
2013年1月19日土曜日
「初出」の検出(「数独の問題について」の続き)
先に、数独の問題で 同じ問題が重複して作られないようにするためのプログラムを作った話を紹介した。私は、それをPerlというプログラム言語で記述したのだが、もっと詳しく書くとハッシュ(hash)という記憶方式を利用したのである。これは人間の脳の記憶方法を真似たもので、実に使い勝手がよい。人間の脳は“初出”(初めて出現したものであるかどうか)を簡単に判別できる機能を持っている。
受験勉強の時の経験だが、意味の分からない英単語に出会うと辞書を引いて調べる。そして辞書の中でその単語を見つけた瞬間、以前調べたことのある単語であることを思い出し悔しい思いをすることが多い。それが何度も繰り返されると、かなり落ち込むことになる。そして自分の記憶力に自信がなくなってきたりする。
しかしよく考えてみると、以前一度調べたことがあるという“事実”の方は、しっかりと記憶されるていることに気が付く。忘れているのは、その“意味”の方なのだ。人間の脳は“初出”だけはしっかりと記憶していて、脳は素早く反応してその事実を教えてくれる。我々はこの機能を自信を持って活用した方がよい。
年寄りが同じ話を繰り返すと、それを聞いた若者の脳は素早く「初出ではない」ことを感知できるから「その話は聞いたよ!」と返すことになる。中には「3回目だよ!」などと回数まで記憶している人もいる。
人間は齢を取るとこの機能が衰えるから、同じ話を繰り返すようになるのかと了解したとすれば、それは少し違うのではないかと思う。年寄りでも初出はしっかりと覚えている。何度も同じ話をしていると、段々と話し方がうまくなってきて、話の展開も華々しくなり場合によっては誇張されていくものである。だから初出でない(その話をしたことがある)という事実は十分に理解しているのである。年寄りが忘れてしまうのは「誰に対してその話をしたか」ということの方である。
これからは、年寄りはブログ上などでその話を一度だけ公開すればよい。そして“初出”のマークをしっかりと付ける。そしてすべての人に話したと理解し、もう誰にも話したりしないようにする。そうすれば、誰に話したかのデータを保存したりする必要もなくなるわけだ(どうせ忘れるのだし)。
こうすれば、若者達も、年寄りの同じ話に悩まされることはなくなるだろう。
ねっ! この話、いい話でしょ。
今度、誰かに話してみようかな。
受験勉強の時の経験だが、意味の分からない英単語に出会うと辞書を引いて調べる。そして辞書の中でその単語を見つけた瞬間、以前調べたことのある単語であることを思い出し悔しい思いをすることが多い。それが何度も繰り返されると、かなり落ち込むことになる。そして自分の記憶力に自信がなくなってきたりする。
しかしよく考えてみると、以前一度調べたことがあるという“事実”の方は、しっかりと記憶されるていることに気が付く。忘れているのは、その“意味”の方なのだ。人間の脳は“初出”だけはしっかりと記憶していて、脳は素早く反応してその事実を教えてくれる。我々はこの機能を自信を持って活用した方がよい。
年寄りが同じ話を繰り返すと、それを聞いた若者の脳は素早く「初出ではない」ことを感知できるから「その話は聞いたよ!」と返すことになる。中には「3回目だよ!」などと回数まで記憶している人もいる。
人間は齢を取るとこの機能が衰えるから、同じ話を繰り返すようになるのかと了解したとすれば、それは少し違うのではないかと思う。年寄りでも初出はしっかりと覚えている。何度も同じ話をしていると、段々と話し方がうまくなってきて、話の展開も華々しくなり場合によっては誇張されていくものである。だから初出でない(その話をしたことがある)という事実は十分に理解しているのである。年寄りが忘れてしまうのは「誰に対してその話をしたか」ということの方である。
これからは、年寄りはブログ上などでその話を一度だけ公開すればよい。そして“初出”のマークをしっかりと付ける。そしてすべての人に話したと理解し、もう誰にも話したりしないようにする。そうすれば、誰に話したかのデータを保存したりする必要もなくなるわけだ(どうせ忘れるのだし)。
こうすれば、若者達も、年寄りの同じ話に悩まされることはなくなるだろう。
ねっ! この話、いい話でしょ。
今度、誰かに話してみようかな。
2013年1月16日水曜日
数独の問題の問題点
今まで新聞や雑誌に紹介される数独パズルの問題を解いては、それを個人的に保存してきた。その問題の数が400件近くになった。そこで、かねてから気になっていたことに挑戦してみようと考えた。
数独の問題の組み合わせは無限にある(約54億パターン以上あると言われている)が、実際に自分で問題を作るとなるとこれが結構難しい。“難しい”という意味は、既存の問題とは異なることを確認するのが大変だからである。したがって、誰も確認などしないでそのまま発表しているのが現実なのであろう。
そうなると、偶然に一致した問題が作られて、誰もそれに気が付かないで新しい問題だと思い込んでいる可能性も十分にあり得るのではないか。沢山の問題を集めて“問題集”を持っているなどと威張っていても、かなり重複した問題が含まれているのかもしれない。
そこで、この約400個の問題に対して同じものが含まれていないかどうか確認するプログラムを作ってみた。以前から Perl言語を使えば簡単にできるのではないかと考えていたからである。大学の授業も区切りがついたこの時期に、挑戦してみることにした。
その結果は、自分でも驚くほどのものであった。
・同じ問題が3個見つかったケース(2回)
・同じ問題が2個見つかったケース(3回)
つまり、12個の問題が実際は5個になってしまったのである。
しかし私の問題集に重複登録されてしまったのは、どうやら大半は私の方に原因があるように思われる。最初の頃は個々の問題に適当に命名していたので、データベース化する時点で別のものと判断されたのかもしれない。現在は統一した命名法で出典を辿れるようにしてある。
もう一つの原因は、「例題-1」という名称の問題だったから、以前に発表した問題を「例」として取り上げたのであろう。偶然の一致と確認できたものは、今までのところ存在していない。
数独の問題は、異なるものをほぼ無限に作れるから重複することは滅多にないが、新たに作って公表する際は、少なくとも自分が過去に作ったものの中に同じものが含まれていないことを確認してからにすべきではないかと思う。
数独の問題の組み合わせは無限にある(約54億パターン以上あると言われている)が、実際に自分で問題を作るとなるとこれが結構難しい。“難しい”という意味は、既存の問題とは異なることを確認するのが大変だからである。したがって、誰も確認などしないでそのまま発表しているのが現実なのであろう。
そうなると、偶然に一致した問題が作られて、誰もそれに気が付かないで新しい問題だと思い込んでいる可能性も十分にあり得るのではないか。沢山の問題を集めて“問題集”を持っているなどと威張っていても、かなり重複した問題が含まれているのかもしれない。
そこで、この約400個の問題に対して同じものが含まれていないかどうか確認するプログラムを作ってみた。以前から Perl言語を使えば簡単にできるのではないかと考えていたからである。大学の授業も区切りがついたこの時期に、挑戦してみることにした。
その結果は、自分でも驚くほどのものであった。
・同じ問題が3個見つかったケース(2回)
・同じ問題が2個見つかったケース(3回)
つまり、12個の問題が実際は5個になってしまったのである。
しかし私の問題集に重複登録されてしまったのは、どうやら大半は私の方に原因があるように思われる。最初の頃は個々の問題に適当に命名していたので、データベース化する時点で別のものと判断されたのかもしれない。現在は統一した命名法で出典を辿れるようにしてある。
もう一つの原因は、「例題-1」という名称の問題だったから、以前に発表した問題を「例」として取り上げたのであろう。偶然の一致と確認できたものは、今までのところ存在していない。
数独の問題は、異なるものをほぼ無限に作れるから重複することは滅多にないが、新たに作って公表する際は、少なくとも自分が過去に作ったものの中に同じものが含まれていないことを確認してからにすべきではないかと思う。
2012年12月27日木曜日
大学の恩師
大学時代の恩師、H先生が亡くなられた。ご高齢であったので、この寒い時季は特に心配していたところだった。
先生に習ったコンピュータ関係の授業が契機となって、私は教師になる道をやめてコンピュータ関係の仕事へ進むことを決心したのである。大学卒業後もいろいろとお世話になってきた。コンピュータ関係から医用機器の仕事に転勤となった際はかなり落ち込んだが、報告がてら先生のお部屋を訪ねると、激励されるかと思いきや、意外にも「大学に戻らないか」と声を掛けられたのを覚えている。そんなことは無理であることを私は重々承知していたが、やはり救われたような気持ちになったものである。しかしその後も一度ならず声を掛けられたから、落ち込んでいる私を単に励まそうとされた訳ではなかったらしい。
結局、先生の期待には応えられなかったが、大学のコンピュータ関係の科目で、指導教官がみつからない場合など、急遽先生から講師を頼まれることが多かった。負い目があったので、そういう時は必ず引き受けることにしていた。会社の了解を得て非常勤講師として学生を教えてきたのである。振り返ってみると、全部で6教科も担当したことになる。
先生が定年で大学を退かれることになった時、先生が担当していた科目の「データベース論」も同じように引き継いでほしいと依頼された。しかしこればかりは任が重く、怖れ多いという気持ちもあってご辞退申しあげた。その後、お引き受けできなかったことが、ずっと悔いとして長く心に残っていた。先生逝去の報に接し益々その気持ちが強くなってきている。十分に職責を果たせたかどうか自信はないが、ここらで教師としての自分の仕事にも区切りを付ける時期にきたのではないかと思う。ご冥福をお祈りしたい。
先生に習ったコンピュータ関係の授業が契機となって、私は教師になる道をやめてコンピュータ関係の仕事へ進むことを決心したのである。大学卒業後もいろいろとお世話になってきた。コンピュータ関係から医用機器の仕事に転勤となった際はかなり落ち込んだが、報告がてら先生のお部屋を訪ねると、激励されるかと思いきや、意外にも「大学に戻らないか」と声を掛けられたのを覚えている。そんなことは無理であることを私は重々承知していたが、やはり救われたような気持ちになったものである。しかしその後も一度ならず声を掛けられたから、落ち込んでいる私を単に励まそうとされた訳ではなかったらしい。
結局、先生の期待には応えられなかったが、大学のコンピュータ関係の科目で、指導教官がみつからない場合など、急遽先生から講師を頼まれることが多かった。負い目があったので、そういう時は必ず引き受けることにしていた。会社の了解を得て非常勤講師として学生を教えてきたのである。振り返ってみると、全部で6教科も担当したことになる。
先生が定年で大学を退かれることになった時、先生が担当していた科目の「データベース論」も同じように引き継いでほしいと依頼された。しかしこればかりは任が重く、怖れ多いという気持ちもあってご辞退申しあげた。その後、お引き受けできなかったことが、ずっと悔いとして長く心に残っていた。先生逝去の報に接し益々その気持ちが強くなってきている。十分に職責を果たせたかどうか自信はないが、ここらで教師としての自分の仕事にも区切りを付ける時期にきたのではないかと思う。ご冥福をお祈りしたい。
2012年10月20日土曜日
変な日本語(7) 「真逆」
先日、言葉の意味を間違って理解している人が多い例として、文化庁の調査結果からいくつかの例が紹介されていた。新聞のニュースなど読んだ方も多いと思う。
「気が置けない」
「にやける」
「うがった見方」
「失笑」
などである。
その中に「正反対」の意味で「真逆」という表現を使う人が多いという記述があった。若い頃はまだ表現力が未熟だから、そんな間違いをしてしまうのかもしれない。もっと分かりやすい表現を覚えて、普通の言葉を普通に使うようになってほしいものである。
こういうことを言うと「言葉は通じなきゃ意味がない。時代が変われば意味も変わっていく」などという反論をよく耳にする。「真逆」などという造語を作らなくても、「正反対」という言葉がある。それを使えばよいのである。そんなことを考えていたら、次のような新聞記事を発見した。
いやはや、新聞記者ともあろう者が、記事の中でこんな表現を使うとは。多分、未熟な表現力しか持たない若者が、そのまま新聞記者に採用されてしまったのであろう。しかも「真逆」に「まぎゃく」などと 重箱読み のふりがなまで付けている。そんな表現法を使わなければならない必要がどこにあるのか。それをチェックしなければならない校閲やデスクも、その役割をはたしていない。彼等も同じように未熟な表現力しか身に付けていないのかもしれない。嘆かわしいことである。
「気が置けない」
「にやける」
「うがった見方」
「失笑」
などである。
その中に「正反対」の意味で「真逆」という表現を使う人が多いという記述があった。若い頃はまだ表現力が未熟だから、そんな間違いをしてしまうのかもしれない。もっと分かりやすい表現を覚えて、普通の言葉を普通に使うようになってほしいものである。
こういうことを言うと「言葉は通じなきゃ意味がない。時代が変われば意味も変わっていく」などという反論をよく耳にする。「真逆」などという造語を作らなくても、「正反対」という言葉がある。それを使えばよいのである。そんなことを考えていたら、次のような新聞記事を発見した。
いやはや、新聞記者ともあろう者が、記事の中でこんな表現を使うとは。多分、未熟な表現力しか持たない若者が、そのまま新聞記者に採用されてしまったのであろう。しかも「真逆」に「まぎゃく」などと 重箱読み のふりがなまで付けている。そんな表現法を使わなければならない必要がどこにあるのか。それをチェックしなければならない校閲やデスクも、その役割をはたしていない。彼等も同じように未熟な表現力しか身に付けていないのかもしれない。嘆かわしいことである。
2012年9月23日日曜日
スペード曲線を描く
ハート曲線に続いてスペード曲線なるものを描いてみました。
前提条件として、前作のハートマークの場合と同じように、円を出発点として作ることにしてあります(それに特別な意味はありませんが)。
かなり苦労しましたが、円からダイヤマークを作るのに比べれば、はるかに易しいと信じて取り組みました。これを“スペード曲線”と呼んでよいのかどうか分かりませんが、スペードの幹(?)の部分まで含めてスペードを描いたものは存在しないのではないかと思います。多分、世界初の完全な形(?)のスペード曲線を作成したのではないか、と愚考しているところであります。
今年の夏休みは、ハート曲線とスペード曲線に取り組んで過ごしました。楽しい遊びは終りました。
前提条件として、前作のハートマークの場合と同じように、円を出発点として作ることにしてあります(それに特別な意味はありませんが)。
かなり苦労しましたが、円からダイヤマークを作るのに比べれば、はるかに易しいと信じて取り組みました。これを“スペード曲線”と呼んでよいのかどうか分かりませんが、スペードの幹(?)の部分まで含めてスペードを描いたものは存在しないのではないかと思います。多分、世界初の完全な形(?)のスペード曲線を作成したのではないか、と愚考しているところであります。
今年の夏休みは、ハート曲線とスペード曲線に取り組んで過ごしました。楽しい遊びは終りました。
2012年8月27日月曜日
2012年8月2日木曜日
2012年7月20日金曜日
学生のマナー
企業で働いていた頃の友人と話をしていて、最近の若者のマナーの悪さが話題になることが多い。そしてその原因の一つとして、とどのつまりは学校時代に十分教育されていないからでは、ということになる。企業をやめて今や教育の場にいる私めとしては、いささが憮然たる心持ちになるのが常であった。
そんなこともあり、私は毎回の授業の中で機会を捉えては「社会人になるに当っての心構え」として各種の社会常識を教えることにしている。何しろ、名前を呼ばれても返事ができない学生、はがきでリポートの提出をさせれば手紙の書き方も知らない学生、… など驚くべき状態の学生がときどきいるからである。
前期の最後の授業では、今期のすべての予定が順調に消化でき余裕もあったので、残りの時間は社会常識、情報倫理、仕事に取り組む姿勢、などにしぼった話をして講義を締めくくった。そして資料を片づけ帰り支度をしてから、構内にあるバス停に並んで学生達と一緒にバスの到着を待つことにした。
このバスは大学と最寄り駅とを結ぶ大学専用のものである。既に多くの学生達が並んで待っているが、この位置なら何とか座れそうである。しかし学生達は、仲間を見つけては前の方に割り込んでくるから、バスが来る頃にはかなり後ろの位置になってしまうことが多い。それはもう最初から覚悟していた。
以前のことだが、足を怪我して松葉づえをついている学生が乗ってきたことがあった。バスが動き出しても誰も席を譲ってあげようとしない。ゆられて転んだらまずいと思った私は、立ち上がって席を譲ってあげることにした。しかしその学生は特に礼を言うでもなく、恐縮するでもなく、そのまま座って友人達と談笑していた。どうも社会一般の反応とは異なるようである。電車内で席を譲る行為も恥ずかしくてできない、あるいは躊躇したりする学生が多い。譲られる経験も少ないのであろう。
バスを待つ学生がかなり増えた頃、やっとバスが到着した。その時私の真後ろにいた学生が、突然「木下先生。どんどん割り込んでいますよ!」と声を掛けてきた。振り向くと先程の私の授業に出席していた学生である。「どんどん割り込んでますよ。先生、前に行きましょうよ!」とかなり憤慨した様子である。なるほど、気が付くとかなりの人が前に割り込んだ結果、もうかなり後ろの位置になってしまっている。「そんなに割り込みが許せないのかい?」と私が言っても、視線を前方に向けたままで、まるで聞いていないようだ。次の瞬間「先に行きますよ!」と言って、一人で前の方に走って行き20人ほど追い越してさっさと乗車してしまった。
私が日頃から情報倫理に関連して道徳とかマナーに言及することが多いので、私を公徳心の塊りのような人間と思っていたのかもしれない。その“公徳心の塊り”を追い越して割り込み行為に加わるには、一言断ってからにする必要がある、それが最低限の礼儀であるとでも思ったのであろうか。なに、教えていることと実際の自分とは別物だから“公徳心の塊り”を追い越しても何の不都合もなかろう。
私はこの学生が取った行為に少し驚きながら、そのまま列の動きにしたがって乗車口へと進んでいった。私が動かなかったのは公徳心からではない。単に大人としてそんな恥ずかしい行為はしたくなかっただけのことである。
さて、いよいよバスに乗ろうとした時、少し離れた所から一人の男性がカメラをこちらに向けて構え、バスの乗車口の様子を撮影していることに気が付いた。変に思ったが、私はそのまま乗車した。見ると先程の学生は後方の座席に自分の席をしっかりと確保したようであった。よかった、よかった。私は、もう最初から座るのを諦めていたから、多くの学生と一緒に入り口付近に立つことにした。
ところが、ふと見ると私の目の前の席が一つ空いているではないか。様子を見たが誰もそこに座ろうとしない。私は恐る恐るというか、これ幸いというか、その席に(できるだけ遠慮がちに)ゆっくりと座ったのであった。どうやら割り込んだ学生達も、年寄りの先生の為に一つだけ席を残しておいてくれたらしい。私はほんの少し、ほのぼのとした気持ちになった。やはり礼儀をわきまえた学生もいるのだ。
それにしても、あの時私が学生と一緒になって前に割り込んだりしていたら(そんな可能性は全くないが)…、そうだ、あのカメラにしっかりと記録されていたかもしれない。「バスの乗車の列に割り込む先生」という傑作写真をものされていたかもしれない。その結果、授業で礼儀作法や道徳の話はできなくなっていたことであろう。危ういところであった。しかし、あのカメラは一体何だったのだろう。今もって分からないでいる。
そんなこともあり、私は毎回の授業の中で機会を捉えては「社会人になるに当っての心構え」として各種の社会常識を教えることにしている。何しろ、名前を呼ばれても返事ができない学生、はがきでリポートの提出をさせれば手紙の書き方も知らない学生、… など驚くべき状態の学生がときどきいるからである。
前期の最後の授業では、今期のすべての予定が順調に消化でき余裕もあったので、残りの時間は社会常識、情報倫理、仕事に取り組む姿勢、などにしぼった話をして講義を締めくくった。そして資料を片づけ帰り支度をしてから、構内にあるバス停に並んで学生達と一緒にバスの到着を待つことにした。
このバスは大学と最寄り駅とを結ぶ大学専用のものである。既に多くの学生達が並んで待っているが、この位置なら何とか座れそうである。しかし学生達は、仲間を見つけては前の方に割り込んでくるから、バスが来る頃にはかなり後ろの位置になってしまうことが多い。それはもう最初から覚悟していた。
以前のことだが、足を怪我して松葉づえをついている学生が乗ってきたことがあった。バスが動き出しても誰も席を譲ってあげようとしない。ゆられて転んだらまずいと思った私は、立ち上がって席を譲ってあげることにした。しかしその学生は特に礼を言うでもなく、恐縮するでもなく、そのまま座って友人達と談笑していた。どうも社会一般の反応とは異なるようである。電車内で席を譲る行為も恥ずかしくてできない、あるいは躊躇したりする学生が多い。譲られる経験も少ないのであろう。
バスを待つ学生がかなり増えた頃、やっとバスが到着した。その時私の真後ろにいた学生が、突然「木下先生。どんどん割り込んでいますよ!」と声を掛けてきた。振り向くと先程の私の授業に出席していた学生である。「どんどん割り込んでますよ。先生、前に行きましょうよ!」とかなり憤慨した様子である。なるほど、気が付くとかなりの人が前に割り込んだ結果、もうかなり後ろの位置になってしまっている。「そんなに割り込みが許せないのかい?」と私が言っても、視線を前方に向けたままで、まるで聞いていないようだ。次の瞬間「先に行きますよ!」と言って、一人で前の方に走って行き20人ほど追い越してさっさと乗車してしまった。
私が日頃から情報倫理に関連して道徳とかマナーに言及することが多いので、私を公徳心の塊りのような人間と思っていたのかもしれない。その“公徳心の塊り”を追い越して割り込み行為に加わるには、一言断ってからにする必要がある、それが最低限の礼儀であるとでも思ったのであろうか。なに、教えていることと実際の自分とは別物だから“公徳心の塊り”を追い越しても何の不都合もなかろう。
私はこの学生が取った行為に少し驚きながら、そのまま列の動きにしたがって乗車口へと進んでいった。私が動かなかったのは公徳心からではない。単に大人としてそんな恥ずかしい行為はしたくなかっただけのことである。
さて、いよいよバスに乗ろうとした時、少し離れた所から一人の男性がカメラをこちらに向けて構え、バスの乗車口の様子を撮影していることに気が付いた。変に思ったが、私はそのまま乗車した。見ると先程の学生は後方の座席に自分の席をしっかりと確保したようであった。よかった、よかった。私は、もう最初から座るのを諦めていたから、多くの学生と一緒に入り口付近に立つことにした。
ところが、ふと見ると私の目の前の席が一つ空いているではないか。様子を見たが誰もそこに座ろうとしない。私は恐る恐るというか、これ幸いというか、その席に(できるだけ遠慮がちに)ゆっくりと座ったのであった。どうやら割り込んだ学生達も、年寄りの先生の為に一つだけ席を残しておいてくれたらしい。私はほんの少し、ほのぼのとした気持ちになった。やはり礼儀をわきまえた学生もいるのだ。
それにしても、あの時私が学生と一緒になって前に割り込んだりしていたら(そんな可能性は全くないが)…、そうだ、あのカメラにしっかりと記録されていたかもしれない。「バスの乗車の列に割り込む先生」という傑作写真をものされていたかもしれない。その結果、授業で礼儀作法や道徳の話はできなくなっていたことであろう。危ういところであった。しかし、あのカメラは一体何だったのだろう。今もって分からないでいる。
2012年7月13日金曜日
ハート係数
最近、インターネット上でハート曲線を表す式に出会った。見事なほどに美しい式である。
この式が表現するハート曲線の形状をつぶさに見ていて、図の曲線が実は上下の方向に若干圧縮されていることに気が付いた。式の表すハートの型を作者の好みに合わせて修正したのであろう。
もし圧縮されていなければ、この式はどういう形状になるのだろうか。私は知的好奇心を刺激され、早速コンピュータ上でやってみることにした。それが以下のものである。コンピュータ上で実装する際には、上下の方向に伸び縮みできるように、式を若干変更してみた。定数 h を導入し“ハート係数”と名付けてプログラム化したのである。
ハート係数 h の値を 1.2 とすると程良い形になった。ハートの形とは不思議な物で、上下に長いと何か上品な印象を受ける。逆に短いと幼い感じになる。これは個人的な好みに類するものであろうが。
私が推奨するハート曲線方程式は以下のものである。
ハート係数の値をいろいろに変えて表示してみた。
貴方(女)の好みのハート係数の値は、どのくらいですか。
プログラムの詳細は、いずれホームページ上に公開する積りである。
この式が表現するハート曲線の形状をつぶさに見ていて、図の曲線が実は上下の方向に若干圧縮されていることに気が付いた。式の表すハートの型を作者の好みに合わせて修正したのであろう。
もし圧縮されていなければ、この式はどういう形状になるのだろうか。私は知的好奇心を刺激され、早速コンピュータ上でやってみることにした。それが以下のものである。コンピュータ上で実装する際には、上下の方向に伸び縮みできるように、式を若干変更してみた。定数 h を導入し“ハート係数”と名付けてプログラム化したのである。
ハート係数 h の値を 1.2 とすると程良い形になった。ハートの形とは不思議な物で、上下に長いと何か上品な印象を受ける。逆に短いと幼い感じになる。これは個人的な好みに類するものであろうが。
私が推奨するハート曲線方程式は以下のものである。
ハート係数の値をいろいろに変えて表示してみた。
貴方(女)の好みのハート係数の値は、どのくらいですか。
プログラムの詳細は、いずれホームページ上に公開する積りである。
2012年6月30日土曜日
高齢化社会での交通標語
交通標語で「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」というのがあったが、日本では車を使わず電車やバスや徒歩の方が早い場合が多い。特に年輩者にとって、歩くことは運動にもなるから、健康にも良いに違いない。高齢者による自動車事故のニュースを聞くたびに思うのだが、都会に住む高齢者に対して「そろそろ車をやめたらどうですか」とすすめたい。
高齢化社会となる今後は
「狭い日本、自分で歩かず どこへ行く」
というのを交通標語として採用してもらいたいものである。
高齢化社会となる今後は
「狭い日本、自分で歩かず どこへ行く」
というのを交通標語として採用してもらいたいものである。
(賛同者は、この画像を自由に使ってください)
2012年6月11日月曜日
情報マナー・クリニック
かねてから、自分が実行している情報セキュリティーに関するマナーを、まとめてみたいと思っていた。試作中のものは大学の授業で一部使用していたが、やっとある程度まとまりのある形になってきたので、ここに紹介しようと思う。
大きく分けて以下の6項目であるが、ハッキング被害に遭わぬためにも是非参考にしてもらいたい。
・拡張子をよく見る
・パスワードの扱い方
・ファイルの開き方
・メール受信の仕方
・添付ファイルの扱い方
・USBメモリの扱い方
詳しくは「情報マナー・クリニック」の方を参照してもらうが、特に二番目の「パスワードの扱い方」については、サイバー攻撃の被害に遭わないために、特に重要な部分なのでここに再掲する。
(1)安全なパスワードを使う(長さ、字種)
パスワードの長さは、必ず10文字以上とする。英字、数字、特殊文字を、それぞれ混在させる。英字も大文字と小文字を混ぜるとよい。
(2)同じパスワードを使いまわししない
誰しも、いろいろな場所で同じパスワードを使い勝ちであるが、一つ破られると被害が拡大する可能性がある。したがって、必ずそれぞれ異なるパスワードを使うようにする。
(3)パスワードは定期的に変更する
一定期間使い続けたら変更する習慣にする。
(4)パスワードを無闇にメモに残さない
手帳やメモ用紙、あるいは預金通帳等に不用意にメモ書き残さない。
これらの注意事項は、誰でも知っていることばかりである。しかし、いずれも“言うは易く、行うは難し”なのである。
これらをすべて実践するには、それなりの技術とコツが必要になる。しかし、その方法をここに具体的に記すわけにはいかないので、各人が工夫し実現してほしい部分である(*)。
【注】(*)ここに書き記すと、自分のパスワードを世間に公開するようなもので、愚かな行為というべきであろう。
授業では「他言無用!」という条件付きでそのやり方を教えたのであるが、学生達が本当にこれを実践してくれているか、残念ながらそれは確かめようがない。
大きく分けて以下の6項目であるが、ハッキング被害に遭わぬためにも是非参考にしてもらいたい。
・拡張子をよく見る
・パスワードの扱い方
・ファイルの開き方
・メール受信の仕方
・添付ファイルの扱い方
・USBメモリの扱い方
詳しくは「情報マナー・クリニック」の方を参照してもらうが、特に二番目の「パスワードの扱い方」については、サイバー攻撃の被害に遭わないために、特に重要な部分なのでここに再掲する。
(1)安全なパスワードを使う(長さ、字種)
パスワードの長さは、必ず10文字以上とする。英字、数字、特殊文字を、それぞれ混在させる。英字も大文字と小文字を混ぜるとよい。
(2)同じパスワードを使いまわししない
誰しも、いろいろな場所で同じパスワードを使い勝ちであるが、一つ破られると被害が拡大する可能性がある。したがって、必ずそれぞれ異なるパスワードを使うようにする。
(3)パスワードは定期的に変更する
一定期間使い続けたら変更する習慣にする。
(4)パスワードを無闇にメモに残さない
手帳やメモ用紙、あるいは預金通帳等に不用意にメモ書き残さない。
これらの注意事項は、誰でも知っていることばかりである。しかし、いずれも“言うは易く、行うは難し”なのである。
これらをすべて実践するには、それなりの技術とコツが必要になる。しかし、その方法をここに具体的に記すわけにはいかないので、各人が工夫し実現してほしい部分である(*)。
【注】(*)ここに書き記すと、自分のパスワードを世間に公開するようなもので、愚かな行為というべきであろう。
授業では「他言無用!」という条件付きでそのやり方を教えたのであるが、学生達が本当にこれを実践してくれているか、残念ながらそれは確かめようがない。
2012年4月8日日曜日
「数独ボード v2.1」をリリースしました
数独ボード SDB v2.1 が完成しました。説明書「数独ボード v2.1 の使い方」も出来上がったので同時にアップしました。
特に“先読みモード”の使い方の例を豊富な掲載しました。活用してみてください。難しい問題で使ってみた経験が、そのまま記録されています。
以下の場所からダウンロードし、自由に利用できます。
「数独ボード」のダウンロード
特に“先読みモード”の使い方の例を豊富な掲載しました。活用してみてください。難しい問題で使ってみた経験が、そのまま記録されています。
以下の場所からダウンロードし、自由に利用できます。
「数独ボード」のダウンロード
2012年3月31日土曜日
「数独ボード v2.1」を開発中
「数独ボード」の第2版を2月にリリースしたが、利用してくださる方が徐々に増えてきたようである。うれしいことである。
しかし最も利用しているのは、もちろん私めであろう。ただ、使っている内にすぐ改良したくなるのが欠点で、今は v2.1 という版を使っている。近く公開したいのだが、あまり頻繁にバージョンアップしたのでは利用者に迷惑をかけるような気がして控えている。使い方の説明書が完成したら公開の時期を考えることにしたい。
しかし最も利用しているのは、もちろん私めであろう。ただ、使っている内にすぐ改良したくなるのが欠点で、今は v2.1 という版を使っている。近く公開したいのだが、あまり頻繁にバージョンアップしたのでは利用者に迷惑をかけるような気がして控えている。使い方の説明書が完成したら公開の時期を考えることにしたい。
2012年2月20日月曜日
自作ソフト「数独ボード」の第2版
私の友人に数独の問題を作るのを趣味としている男がいる。市販の本にする度に私に贈呈してくれる。そういう贈呈本がもう3冊にもなる。
ところが、彼の作る問題は難しい問題ばかりである。私の能力ではなかなか対応できない。一般に数独問題を解くには、論理的にこの手しかあり得ないと判断できる“自明な手”を続けていって、最終局面に至るのが本来の姿だと思っている。次の一手が分からないので適当にうめていったら完成してしまった、というのでは本当の意味で解決したとは言えない。少なくとも私はそういう姿勢でゲームに臨んでいる。
そうなると、彼の作る難しい問題に挑戦するには、かなり先まで読まなければならない。それにはどうしたらよいか。たとえば“自明な手”を発見できなかった場合、あるます目に対して【2】か【3】のどちらか、までは分かるがそれ以上は判断できない時、一応“自明でない手”ではあるが【3】をうめることにする。その後“自明な手”を続けていって、もし行き詰まったら最初の“自明でない手”【3】が間違っていたことになる。つまり【2】の方が“自明な手”であったと判断できることになる。その時点まで逆戻りすればよいのである。そのための手順を助ける機能を、第2版では追加した。
同時に、取り組んだ数独の問題をデータベース上に保存しておいて、後で再度挑戦できるような環境も用意した。こういう動機で作ったのが「数独ボードV2.0」である。是非活用してみてください。詳しくは http://www.hi-ho.ne.jp/skinoshita/suudoku.htm を参照してください。
V2.0 では、以下の機能が新たに付加されています。
・ボード上のデータに名前を付けて保存できる。
・保存したデータをボード上の取り出すことができる。
・先読みを助ける「Test Mode」機能が付加された。
・問題集を他の利用者と共有できる。
たとえば、朝日新聞 土曜版に掲載された数独の問題(過去4年分)をダウンロードできるようにしたかったのだが、朝日新聞beパズル係に許可申請したのだが返信がない。多分、拒否されたのであろう。
ところが、彼の作る問題は難しい問題ばかりである。私の能力ではなかなか対応できない。一般に数独問題を解くには、論理的にこの手しかあり得ないと判断できる“自明な手”を続けていって、最終局面に至るのが本来の姿だと思っている。次の一手が分からないので適当にうめていったら完成してしまった、というのでは本当の意味で解決したとは言えない。少なくとも私はそういう姿勢でゲームに臨んでいる。
そうなると、彼の作る難しい問題に挑戦するには、かなり先まで読まなければならない。それにはどうしたらよいか。たとえば“自明な手”を発見できなかった場合、あるます目に対して【2】か【3】のどちらか、までは分かるがそれ以上は判断できない時、一応“自明でない手”ではあるが【3】をうめることにする。その後“自明な手”を続けていって、もし行き詰まったら最初の“自明でない手”【3】が間違っていたことになる。つまり【2】の方が“自明な手”であったと判断できることになる。その時点まで逆戻りすればよいのである。そのための手順を助ける機能を、第2版では追加した。
同時に、取り組んだ数独の問題をデータベース上に保存しておいて、後で再度挑戦できるような環境も用意した。こういう動機で作ったのが「数独ボードV2.0」である。是非活用してみてください。詳しくは http://www.hi-ho.ne.jp/skinoshita/suudoku.htm を参照してください。
V2.0 では、以下の機能が新たに付加されています。
・ボード上のデータに名前を付けて保存できる。
・保存したデータをボード上の取り出すことができる。
・先読みを助ける「Test Mode」機能が付加された。
・問題集を他の利用者と共有できる。
たとえば、朝日新聞 土曜版に掲載された数独の問題(過去4年分)をダウンロードできるようにしたかったのだが、朝日新聞beパズル係に許可申請したのだが返信がない。多分、拒否されたのであろう。
2012年1月16日月曜日
変な日本語(6) 「マジ」
「マジ」はNASAでも普及している?
「マジ」という表現は、もう十分に日常会話に浸透しているから、これに異議を唱えたりしたら逆におかしいと思われるであろう。
この表現は、多分「真面目に言って」の“真面目”から発しているのではないかと思う。相手の発言に「マジですか?」と応じたり、「マジで・・・」と強調したりするときに用いるらしい。“らしい”と書いたのは、自分では使ったことがないから、正確なニュアンスをまだ身に付けていない恐れがある。それで、少し遠慮して書いたのである。
この表現は、自分が会社勤めをしていた頃から既に若い技術者間でしばしば使われていたように思う。今ではどの職場でも普通に使われている表現ではなかろうか。その証拠に、テレビドラマの中では中年の男女が普通に使っている場面をよく見かける。もうそろそろ、新聞記事の中にも登場するのではないか、と私は半分は冗談で思ったりしていた。ところが本当に登場したのである! しかも、NASAの専門家も使っているらしい?!
太陽のすぐ近くを通過した彗星が、予想に反して消滅しなかった事実を観測した米航空宇宙局(NASA)の専門家が「マジで度肝を抜かれた」とのコメントを発したという紹介記事(2012-1-4付)を発見したのである。新聞記事として登場しただけでなく、もはやNASAの専門家の間でも「マジ」という表現が普及していたとは!(まさかねぇ~)。
マジ、驚いた次第である。(初めて“マジ”を使ってみましたが、これでよいのでしようか。やはり普通の会話体の中でないと変ですね。ここは、「マジ、驚いた!」と言い切るべきでしょうね。)
「マジ」という表現は、もう十分に日常会話に浸透しているから、これに異議を唱えたりしたら逆におかしいと思われるであろう。
この表現は、多分「真面目に言って」の“真面目”から発しているのではないかと思う。相手の発言に「マジですか?」と応じたり、「マジで・・・」と強調したりするときに用いるらしい。“らしい”と書いたのは、自分では使ったことがないから、正確なニュアンスをまだ身に付けていない恐れがある。それで、少し遠慮して書いたのである。
この表現は、自分が会社勤めをしていた頃から既に若い技術者間でしばしば使われていたように思う。今ではどの職場でも普通に使われている表現ではなかろうか。その証拠に、テレビドラマの中では中年の男女が普通に使っている場面をよく見かける。もうそろそろ、新聞記事の中にも登場するのではないか、と私は半分は冗談で思ったりしていた。ところが本当に登場したのである! しかも、NASAの専門家も使っているらしい?!
太陽のすぐ近くを通過した彗星が、予想に反して消滅しなかった事実を観測した米航空宇宙局(NASA)の専門家が「マジで度肝を抜かれた」とのコメントを発したという紹介記事(2012-1-4付)を発見したのである。新聞記事として登場しただけでなく、もはやNASAの専門家の間でも「マジ」という表現が普及していたとは!(まさかねぇ~)。
マジ、驚いた次第である。(初めて“マジ”を使ってみましたが、これでよいのでしようか。やはり普通の会話体の中でないと変ですね。ここは、「マジ、驚いた!」と言い切るべきでしょうね。)
2012年1月6日金曜日
変な日本語(5) 「そうですね」
この正月休みの間、私はテレビでスポーツ番組を見る機会が多かった。そこで気になったのは、アナウンサーの問いかけに対して、スポーツ選手、テレビ解説者、あるいはコメンテイター達が、先ず最初に一言「そうですね」と言ってからコメントを始めていた点である。
私はアナウンサーが質問を発する度に、また「そうですね」と応えるのではないかと思い聞き耳を立てていると、果たせるかな「そうですね」の一言が返ってくる。必ずと言ってもよいくらいのものだ。こうなると耳障りになってくる。気にしなければ何でもない一言が、一度気になるとその異常なくらいの繰り返しに「もう、何とかしてくれ!」と叫びたくなるくらい嫌な表現になってしまう。不思議なものである。
この「そうですね」は、先ず質問者の考えに同意する姿勢を示しておいて、それから自分の話を展開していこうとするもの、との説があるらしい。もしそうなら、その反対語は「て言うか…」なのかもしれない(これも嫌な表現ですね)。
しかし私は少し違うのではないかと思う。質問されて「そうですねぇ~」と暫し考え、それからおもむろに自分の考えを述べる時などに使うべき表現ではないかと思う。英語の“Well, let me see. …”みたいなものではないか。「そうですね」の一言の後、間髪を入れずにコメントし始めるのだから事実上不要な表現であるとも言える。だから、この「そうですね」は単なる口癖なのではないかと思うのである。
日常会話の中で、癖のある表現を繰り返し用いていると、聞き手にとっては聞き苦しいものになる。できるだけ無駄な表現は排除して、なめらかに話す努力をすべきではなかろうか。
ところで、貴方(女)はどう思いますか? (決して「そうですね」と応じてはいけませんよ)
私はアナウンサーが質問を発する度に、また「そうですね」と応えるのではないかと思い聞き耳を立てていると、果たせるかな「そうですね」の一言が返ってくる。必ずと言ってもよいくらいのものだ。こうなると耳障りになってくる。気にしなければ何でもない一言が、一度気になるとその異常なくらいの繰り返しに「もう、何とかしてくれ!」と叫びたくなるくらい嫌な表現になってしまう。不思議なものである。
この「そうですね」は、先ず質問者の考えに同意する姿勢を示しておいて、それから自分の話を展開していこうとするもの、との説があるらしい。もしそうなら、その反対語は「て言うか…」なのかもしれない(これも嫌な表現ですね)。
しかし私は少し違うのではないかと思う。質問されて「そうですねぇ~」と暫し考え、それからおもむろに自分の考えを述べる時などに使うべき表現ではないかと思う。英語の“Well, let me see. …”みたいなものではないか。「そうですね」の一言の後、間髪を入れずにコメントし始めるのだから事実上不要な表現であるとも言える。だから、この「そうですね」は単なる口癖なのではないかと思うのである。
日常会話の中で、癖のある表現を繰り返し用いていると、聞き手にとっては聞き苦しいものになる。できるだけ無駄な表現は排除して、なめらかに話す努力をすべきではなかろうか。
ところで、貴方(女)はどう思いますか? (決して「そうですね」と応じてはいけませんよ)
2012年1月1日日曜日
「変更通知の法則」は正しかった?
今年も年賀状が届いた。
去年の年賀状では、住居表記の変更を報せる文を書き添えておいたのだが、残念ながらその効果はなかったようである。今年の年賀状の約3分の1は、旧住居表記のままであった。昨年は、確か以下のような法則も書き添えておいたのだが・・・。
【変更通知の法則】
・どんな変更も、最初は「たいした影響はない」
ように見える。
・したがって、変更を通知しても誰もそのこと
に関心を払わない。
・変更にともなうトラブルが発生すると、初め
て問題の重要性が理解される。
ゆえに、変更を伝えるのは無駄である。
残念ながら、この法則の正しさが証明されてしまったようである。
最近は、住所録がパソコンで管理され、そのままはがきに印刷されるので変更が反映される機会、努力も少なくなっているのが一因かもしれない。困ったことである。
去年の年賀状では、住居表記の変更を報せる文を書き添えておいたのだが、残念ながらその効果はなかったようである。今年の年賀状の約3分の1は、旧住居表記のままであった。昨年は、確か以下のような法則も書き添えておいたのだが・・・。
【変更通知の法則】
・どんな変更も、最初は「たいした影響はない」
ように見える。
・したがって、変更を通知しても誰もそのこと
に関心を払わない。
・変更にともなうトラブルが発生すると、初め
て問題の重要性が理解される。
ゆえに、変更を伝えるのは無駄である。
残念ながら、この法則の正しさが証明されてしまったようである。
最近は、住所録がパソコンで管理され、そのままはがきに印刷されるので変更が反映される機会、努力も少なくなっているのが一因かもしれない。困ったことである。
2011年12月17日土曜日
コンプライアンス と コーポレートガバナンス
大学の情報倫理の授業で「企業はどこまで倫理的になれるか」というテーマを取りあげた。その中で、企業の社会的責任(CSR)とは、法令を順守した経営を行い、きっちりとした意思決定システムや内部統制システムを確立している企業の経営姿勢あるいは経営戦略を意味している。これは企業の義務を超えたところにある。という意味のことを話し、以下の用語をスクリーン上に表記した。
・CSR
・コンプライアンス
・コーポレートガバナンス
こういった用語が新聞等にしばしば登場するから、少なくとも用語の意味くらいは理解しておいてもらいたかったからである。
そう言えば、巨人軍の元GM清武氏が記者会見で「コンプライアンス違反」という言葉を繰り返し使って読売新聞主筆の行為の不当性を訴えていたのを思い出した。あの「コンプライアンス違反」というのは妥当な表現なのだろうか。コンプライアンスとは本来「法令を守る」ことであるが、最近では、社内規則を守ることも「法令順守」に含まれるらしい。しかし私は思うのだが、あれこそ「コンプライアンス」ではなく「コーポレートガバナンス」の問題と言うべきではなかろうか。
コーポレートガバナンス(企業統治)とは、企業の意思決定や内部統制はどうあるべきかを考えることである。つまり、元GMは、正規の手順を踏んで決めた人事案が「鶴の一声」で変えられてしまうような読売グループ内の体質、つまりコーポレートガバナンスが確立されていないことを指摘したかったのではないか。「法令違反」を訴えるのではなく「企業統治が体をなしていない」という事実を公にすることが、記者会見の(実質的な)目的になっていたように思う。
もっとも、読売グループ内では、主筆の判断に異を唱えることは法に触れるのと同程度の重大な背信行為であって、当然コンプライアンス(法令順守)に属する問題とみなされているのかもしれない。何しろ、その地位を追われるだけでなく、会社を首になったのである。しかもその上に罰金として1億円の支払いを求められている。起訴されて法的に罰せられるよりも、はるかに重い罪と言えるのではないだろうか。
【注】
・CSR(Corporate Social Responsibility)
・コンプライアンス(Compliance)
・コーポレートガバナンス(Corporate Governance)
・CSR
・コンプライアンス
・コーポレートガバナンス
こういった用語が新聞等にしばしば登場するから、少なくとも用語の意味くらいは理解しておいてもらいたかったからである。
そう言えば、巨人軍の元GM清武氏が記者会見で「コンプライアンス違反」という言葉を繰り返し使って読売新聞主筆の行為の不当性を訴えていたのを思い出した。あの「コンプライアンス違反」というのは妥当な表現なのだろうか。コンプライアンスとは本来「法令を守る」ことであるが、最近では、社内規則を守ることも「法令順守」に含まれるらしい。しかし私は思うのだが、あれこそ「コンプライアンス」ではなく「コーポレートガバナンス」の問題と言うべきではなかろうか。
コーポレートガバナンス(企業統治)とは、企業の意思決定や内部統制はどうあるべきかを考えることである。つまり、元GMは、正規の手順を踏んで決めた人事案が「鶴の一声」で変えられてしまうような読売グループ内の体質、つまりコーポレートガバナンスが確立されていないことを指摘したかったのではないか。「法令違反」を訴えるのではなく「企業統治が体をなしていない」という事実を公にすることが、記者会見の(実質的な)目的になっていたように思う。
もっとも、読売グループ内では、主筆の判断に異を唱えることは法に触れるのと同程度の重大な背信行為であって、当然コンプライアンス(法令順守)に属する問題とみなされているのかもしれない。何しろ、その地位を追われるだけでなく、会社を首になったのである。しかもその上に罰金として1億円の支払いを求められている。起訴されて法的に罰せられるよりも、はるかに重い罪と言えるのではないだろうか。
【注】
・CSR(Corporate Social Responsibility)
・コンプライアンス(Compliance)
・コーポレートガバナンス(Corporate Governance)
2011年12月2日金曜日
転ばない歩き方のコツ
最近つまずいて転びそうになることが多くなった。足を十分に持ち上げないで引きずるように前に出すのが原因なのだ。もっと腿の部分を持ち上げて、前へ振り出すようにして歩かなければいけない。このことに気が付いてからは、意識的に腿を上げて歩くよう努力するようになった。しかし、これがなかなか長続きしない。歩きながら考え事をしていると直ぐ「腿上げ」のことを忘れてしまう。
そこで、振り出した方の足を着地させる際に、意識的に踵の部分から接地させるようにしてみた。“踵着地”の方が“腿上げ”よりも意識を集中しやすいからである。しかも、踵着地を実行していると自然に腿上げができるような気がしたのである。後ろの足を力強くキックする気持ちで前方に振り出すと、更に効果的であることにも気が付いた。
ウォーキングの際は常に大股で歩くことが勧められている。私の経験では、考え事をしていても大股で歩くのを忘れることは滅多にない。始終意識していなくても“大股歩行”なら続けられそうに思えた。
以来、私の歩行習慣は、
・大股歩行
・踵着地
・後足キック
・腿上げ
を実践することとなった。
それにしても、私は生まれて来てこの方「歩き方」について、誰かから教えを受けたという記憶がない。正しい「歩き方」というものは、人生の終盤になって初めて意識的に学ぶ必要が出てくる類いのものなのかもしれない。もっとも「人生の歩き方」の方は、人生のできるだけ早い時期に考えておくべきものであろうが。
【追記】より詳しくは「歩き方について」を参照してください。
そこで、振り出した方の足を着地させる際に、意識的に踵の部分から接地させるようにしてみた。“踵着地”の方が“腿上げ”よりも意識を集中しやすいからである。しかも、踵着地を実行していると自然に腿上げができるような気がしたのである。後ろの足を力強くキックする気持ちで前方に振り出すと、更に効果的であることにも気が付いた。
ウォーキングの際は常に大股で歩くことが勧められている。私の経験では、考え事をしていても大股で歩くのを忘れることは滅多にない。始終意識していなくても“大股歩行”なら続けられそうに思えた。
以来、私の歩行習慣は、
・大股歩行
・踵着地
・後足キック
・腿上げ
を実践することとなった。
それにしても、私は生まれて来てこの方「歩き方」について、誰かから教えを受けたという記憶がない。正しい「歩き方」というものは、人生の終盤になって初めて意識的に学ぶ必要が出てくる類いのものなのかもしれない。もっとも「人生の歩き方」の方は、人生のできるだけ早い時期に考えておくべきものであろうが。
2011年11月5日土曜日
免許自転車 と 無免許自転車
最近、歩道を歩くのが怖い。
家の近くの幹線道路に沿う歩道には、200メートル程の区間、ひと一人通るのがやっとの狭い部分が続いている。車道とはガードレールで区切られているので安全なのだが、他の歩行者と行き違う際はお互いに身体の向きを変えてすれ違う必要がある。ところが、こんな狭い歩道にも自転車が入ってくるから驚きである。ガードレールがあるので自転車が一時的に車道へ避ける訳にもいかず、歩行者たる私の方が、端によけて自転車をやり過ごす必要が出てくる。自転車の方は、恐縮して挨拶してくれる場合もあるが、大抵は当然の権利を行使しているという表情でそのまま通り過ぎていく場合の方がはるかに多い。
一番怖いのは、後ろから自転車が来た場合である。気が付かないでいるとベルを鳴らされたりする。場合によっては「邪魔だ」とどやされたりもする。良い年をしたオバチャンから邪魔だと言われたこともあった。私の性格では、こういう時はすぐさま対抗弁論の理論(つまり、言われたら言い返せ)を実践したくなるところだが、喧嘩になるのは明らかだから最近はできるだけ我慢するようにしている。いつまでこの我慢を続けられるか、甚だ疑問ではあるが。
思えば、自転車が一部の歩道(「自転車通行可」と表示されたものだけ)を走れるように法規改定されたのが間違いのもとだったのではないか。それ以来、すべての歩道を走れると勘違いしている自転車(乗り)ばかりになってしまった。
自転車で公道を走るのに特別な免許はいらない。ただ二輪車に乗るコツさえ身に付けていれば誰でも走行できることになっている。したがって交通法規を全く知らない自転車(乗り)が、歩道を突っ走ったり、赤信号を無視しての暴走を繰り返したりしている。その挙句に歩行者と接触事故を起こたりしているのである。一方では、しっかりと交通ルールを守って車道の左側を走っている自転車(乗り)も沢山いるのだ。そういう人を見かけると、私は逆に尊敬の目で見てしまうのである。
私は思うのだが、自動車の運転免許を持っている人が自転車に乗れば、多分交通法規を守る真っ当な自転車(乗り)となるのではないか。自転車で暴走しているのは、多分自動車の運転免許を持っていない人ではないか、と私は推測している。こういう人を「無免許自転車(乗り)」と呼び、真っ当な自転車(乗り)を「免許自転車(乗り)」と呼んで区別すべきではないかと思うが、どうであろうか。
道幅のある普通の歩道上を歩いている時も、私は後ろから無免許自転車が突然ぶつかってくるのではないかと常に恐れているのである。ホント、怖いよなぁ。
家の近くの幹線道路に沿う歩道には、200メートル程の区間、ひと一人通るのがやっとの狭い部分が続いている。車道とはガードレールで区切られているので安全なのだが、他の歩行者と行き違う際はお互いに身体の向きを変えてすれ違う必要がある。ところが、こんな狭い歩道にも自転車が入ってくるから驚きである。ガードレールがあるので自転車が一時的に車道へ避ける訳にもいかず、歩行者たる私の方が、端によけて自転車をやり過ごす必要が出てくる。自転車の方は、恐縮して挨拶してくれる場合もあるが、大抵は当然の権利を行使しているという表情でそのまま通り過ぎていく場合の方がはるかに多い。
一番怖いのは、後ろから自転車が来た場合である。気が付かないでいるとベルを鳴らされたりする。場合によっては「邪魔だ」とどやされたりもする。良い年をしたオバチャンから邪魔だと言われたこともあった。私の性格では、こういう時はすぐさま対抗弁論の理論(つまり、言われたら言い返せ)を実践したくなるところだが、喧嘩になるのは明らかだから最近はできるだけ我慢するようにしている。いつまでこの我慢を続けられるか、甚だ疑問ではあるが。
思えば、自転車が一部の歩道(「自転車通行可」と表示されたものだけ)を走れるように法規改定されたのが間違いのもとだったのではないか。それ以来、すべての歩道を走れると勘違いしている自転車(乗り)ばかりになってしまった。
自転車で公道を走るのに特別な免許はいらない。ただ二輪車に乗るコツさえ身に付けていれば誰でも走行できることになっている。したがって交通法規を全く知らない自転車(乗り)が、歩道を突っ走ったり、赤信号を無視しての暴走を繰り返したりしている。その挙句に歩行者と接触事故を起こたりしているのである。一方では、しっかりと交通ルールを守って車道の左側を走っている自転車(乗り)も沢山いるのだ。そういう人を見かけると、私は逆に尊敬の目で見てしまうのである。
私は思うのだが、自動車の運転免許を持っている人が自転車に乗れば、多分交通法規を守る真っ当な自転車(乗り)となるのではないか。自転車で暴走しているのは、多分自動車の運転免許を持っていない人ではないか、と私は推測している。こういう人を「無免許自転車(乗り)」と呼び、真っ当な自転車(乗り)を「免許自転車(乗り)」と呼んで区別すべきではないかと思うが、どうであろうか。
道幅のある普通の歩道上を歩いている時も、私は後ろから無免許自転車が突然ぶつかってくるのではないかと常に恐れているのである。ホント、怖いよなぁ。
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