2016年8月5日金曜日

20年前のたわごと

 以前(20年程前のこと)【素朴な疑問】という欄で
 『新聞はなぜ「ソフトウエア」と書くのだろう
 { http://www.hi-ho.ne.jp/skinoshita/gimon04.htm }
という記事を書いたことがある。要するに「ソフトウェア」と書くか「ソフトウエア」と書くかの論争である。それが、何故か未だに読まれ続けている(しかも一日に複数回も)。

 どこが面白いのか、私はかねてから不思議に思っていた。今日、たまたま時間があったので自分も読んでみようと思い立ったのである。読んでみて、確かに面白かった。20年前にこんな「たわごと」を書き連ねていたのか、と。

 当時はテキスト入力法として「ローマ字入力」と「ひらがな入力」とが競っていた時代だった。これを読んで、現在のケータイやスマホ利用者が愛用しているであろう入力法をベースに考えると、どんな感想を持つか知りたくなったのである。

以下、本文は省略して【追記】の部分だけ紹介する。なお“悩める相談者”とは私めのことである。


【悩める相談者による追記】1997-01-27

 私がなぜこんな些細なことにこだわるのかというと、“ソフトウェア”というのは私の勤める会社の社名の一部になっているからである。よく、社内旅行などで温泉場を訪れると、団体バスで乗り付けた旅館の玄関には仰々しくも華々しくも、大きな黒い看板に白で“歓迎”の印とともに我が社の社名が大書されていたりする。それを見ると、何時も大抵はどこか字が間違っているのである。「東芝ソフトエンジニアリング御一行様」とか、「東芝ソフトウエアエンジニア御一行様」などと書いてある。こんなのはまだいい方で、「東芝ソフトエンジニヤリング御一行様」などと書かれていることもある。
 そういうのを見つけると私は、またかと思い、思わず「ニヤリ」と苦笑いしてしまうのである。

 しかし考えてみれば「ソフトウェア」も「エンジニアリング」も、彼ら旅館経営者にとってはまったく無縁な存在の言葉なのであろう。こんな些細な字の誤りなど「ニヤリ」と笑って見逃してあげるのが武士の情けというものである。

 ところが新聞紙上でこの字を見つけると、旅館経営者に対するのと同じような寛容な気持ちには決してなれない。「ソフトウェア」も「エンジニアリング」も彼らにとっては身近な話題でなければならないはずだ。とても「武士の情け」などとはいっていられないのである。

 こだわる理由はもう一つある。以前「ソフトウェアの法則」という本を書いたとき、夏目漱石「坊っちゃん」の一節を引用したことがあった。間違いのないようにと、私は夏目漱石全集を引っ張り出して詳細に文章をチェックしたのである。そして自信を持って原稿を編集者に渡したのであるが、やはり間違いを指摘されてしまった。編集者が言うには「坊っちゃん」ではなく「坊つちやん」なのだという。信じられぬ気持ちでもう一度本を出して調べて見ると、何と、確かに「坊つちやん」というタイトルになっているではないか。恥ずかしながら私はこれまで夏目漱石の名作の名を誤解していたのであった。同時に、編集者の実力の程を思い知り、ただただ恐れ入ったものである。

 こういう経験を何度かしてくると、人間どうしても正確な表現にこだわらざるを得なくなってくる。であるからして、私にとっては「ェ」と「エ」は大変な違いで、簡単には見逃せない大問題なのである。


 さて、私のこの【素朴な疑問】を掲示板上で読まれたのであろう、S氏が、これが参考になると言って私に「毎日新聞用語集」という辞典をくださった。それを見ると、Yさんが言っているように、確かに『原音で「ウィ、ウェ、ウォ」の音は、「ウイ、ウエ、ウオ」と書く』と記されている。
 しかし、新聞紙上では「ウィンブルドン」というのを実際に見かけたことがあるから、固有名詞は別扱いになっているのであろう。

 たとえば「ウェット」はこの規則では「ウエット」と表記されることになるが、前者では「ウェ」が「ッ」と跳ねるのに対し、後者では「エ」が「ッ」と跳ねることになる。これでは全く違った発音になってしまうではないか(え? 何を言っているのか分からない? 私にも分からない)。

 この新聞社の定めた規則を見ていると、ジャパニーズイングリッシュを作り出しているのは実は彼らではないかと思いたくなる。日本人にとって発音しやすいようにという観点だけで適当に表記法を変えてしまっていると、結局原語とは似て非なるものになってしまうからである。

 我々が常日頃目にしているこういった“ジャパニーズイングリッシュ”は、アメリカへ行って使ってみるとまったく通用しないことが分かる。我々はその事実を実際に体験して初めて愕然とするのである。その結果、アメリカの空港でシカゴへ行きたければ「シコーゴ」と叫べとか、フィラデルフィアへ行きたければ「フルドフィア」と叫べとか、そういう生活の知恵を学ばねばならない羽目になる(これを知らぬととんでもない所へ連れていかれてしまう可能性があるのだ)。更には、マクドナルドへ行きたければ「マクダーナル」と発音する必要があることを承知していないと、とうていビッグマックにはありつけないのである(もっとも、マクドナルドの店が見付からなくても、どうということはないが)。

 このように自分の貧しい英語力を実感するたびに、私は思うのである。この責任は日本のお粗末な英語教育だけにあるのではなく、日本の新聞社が定めた表記規則にもその責任の一端はあるのではないかと。

 ところで、この表記法に関連する問題を、私はここで更に深く掘り下げてみたいと思う。ただ、これ以下に書くことは、私が常日頃尊敬して止まない「ローマ字入力者」(ローマ字入力法を用いている人達)の気分を損ねる可能性なしとしないので、これ以下は「ひらがな入力者」だけが読むことにしてほしい。






 よろしいかな。ひらがな入力者だけですぞ(以下で「彼ら」とは、ローマ字入者のことである)。あなたの後ろから“彼ら”が覗いていないかどうか、もう一度確かめてほしい。よろしいか。

 実は私は、この新聞社の定めた規則は、新聞記者用のワープロを用いてローマ字入力する際の利便を考えて作られたものではないかと疑っている。彼らの用いるローマ字入力法では、

 「ウィ」は「WI」と入力する。
 「ウェ」は「WE」と入力する。
 「ウォ」は「WO」と入力する、と言いたいが、これは「を」または「ヲ」になってしまう。したがって「ォ」だけは単独で入力するしかない。つまり統一的でないのだ。
 「ィ、ェ、ォ」を単独で入力するには(私の周りにいる「彼ら」に教えを請うと)「LI,LE,LO」と入力するのだという。何というお粗末な規則であることか。
 だとすれば、「ウォ」としたければ「ウ」を「U」で作り、ついで「ォ」を「LO」で作らなければならない。「ォ」のときだけはこんな面倒な手順を踏まなければならないとは、何という不統一な入力法であることか。こんな不統一な操作法では、頭の固い新聞記者に覚えさせるのは無理というものである。そこで、できるだけ「ィ、ェ、ォ」を使わないで済ませようと謀議を計ったのではなかろうか。

 彼らが信奉する入力法で「ウィリアムテル」と入力したければ「ULIRIAMUTERU」とキーを叩かねばならないことになる。 ‥‥何? 「ウリリアムテル」だ? そうか、そうか、彼らは「LI」と「RI」をこのように区別して使い分ける技を身に付けていたのか。大変だなぁ、彼らは。日本人は「L」と「R」の発音を区別するのが苦手であるというけれど、その原因はこんなところにあるのかもしれぬ。それにしても彼らは何時もこんな複雑な操作をしていたのか。何と彼らは頭が良い連中であることか。頭の固い私には、到底真似のできぬ技である。

 ローマ字入力は、頭を使うので惚け防止に最適であると主張していた人がいたが、こうやって見るとどうもその説は正しいように思われる。私もそろそろ惚け防止のための手を打たねばならぬ年代になってきているが、だからといってローマ字入力だけはやりたくない。それよりも、自分が惚けているかどうかを自分で判定することが、そもそも可能なのかどうかを疑問に思い、日々思い悩んでいるところである。   

【注】私は「ローマ字入力法」をよくは知らないがローマ字入力法にも色々なバリエーションがあるようである。新聞記者用のワープロについても全く知識がない。したがって、これらの指摘はまったくの見当違いかもしれぬ。いや、そうに違いない。許されよ。

2016年7月28日木曜日

気分転換(リフレッシュ)について

      ━━ Windows をリフレッシュする
 仕事の途中で気分転換がしたくなることがある。特に研究業務に取り組んでいるようなときは集中度を高める必要があるから連続して考え続けることが求められる(素歩人徒然「集中力」参照)。それにしても、ある程度の時間が経過したらやはり一息入れてリフレッシュするのが有効であろう。

 私の経験では、気分転換にはある程度頭を使う時間を入れるとリフレッシュの効果が倍増するような気がしている(もし許されるなら、ゲームなどをするとよい)。休憩と称してダラダラと時間をつぶしているだけではリフレッシュ効果はあまり期待できない。最近の私は(もはや仕事はしていないが)気分転換が必要なときはいつも数独の問題に取り組むことにしている。それも少し難しい問題の方がよい。

 つい最近、私はラジオで脳科学者が「ワーキングメモリー(作業記憶)」のことを話しているのを聞いた。記憶には短期記憶長期記憶とがあるが、ワーキングメモリーはそのどちらでもない。ワーキングメモリーは、何かある目的を持ってやっている作業で使われる記憶で、日常生活での会話、お金の計算、あるいは創造性のある思考をするときにも使われる。ワーキングメモリーの機能が低下すると「頭のキレが悪くなった」と感じるようになるらしい。

 気分転換でワーキングメモリーが使われると、その内容が入れ替わるからリフレッシュされることになるのであろう。これは、プログラミングの世界で言うところのワーキングストレージ(作業用領域)と似ているのではないかと思う。私は自分が経験的にやっていたことと合致するので我が意を得たりと思ったのである。しかしどこが似ているのか、これだけでは読者に理解してもらうのは無理で、もう少し説明が必要であろう。

 さて、これからが本論である。
 Windows 10を使っていて、いつも気になるのは“シャットダウン”の機能のことである。確か、Windows 8 にバージョンアップしたときからだったと思うが、コンピュータの電源を入れても“再起動”がされないことに気が付いた。つまり、前日にコンピュータをシャットダウンで終了させたのに、翌日電源を入れると完全な再起動の手続きが実行されていないのだ。パソコンの起動を速くするため、手抜きのシャットダウンをしていたのである。

 コンピュータ用語辞典で「シャットダウン」の定義を調べてみたが、次の利用時に再起動が実施されるとは読み取れない。これではMS社にクレームを付ける訳にはいかないなと思った。何しろ昔から使われている用語(*1)だから、今の技術で考えると定義があいまいになってしまうのは避けられない。MS社は、起動時間を短縮するためなら手段を選ばずという方針なのであろう、用語定義の「あいまいさ」さえも利用してしまっているようだ。当時この件で異議をとなえた人はいなかったようだし、気の弱い私めは静観している内にその仕様にやむなく従うことになってしまった(つまり、毎朝自分で「再起動」ボタンを押すことになってしまったのである)。

【注】(*1)昔アメリカの研究所で MITにあるMultics システムの環境下で仕事をしていたとき、コンピュータシステムの電源を落とすことをシャットダウン(shutdown)と呼んでいるのを知った。単にコンピュータ本体の電源を落とすだけでなく、周辺機器も含めてすべてを一斉に終了させる大掛りな作業であるという印象を与えるので「格好いい呼び方だなぁ」と感心したのを覚えている。今風に言うなら「いいね」 をしたくなるほどだった。
 しかし再起動しないで毎日コンピュータを使い続けていると、一週間もしない内に何かしら不可解なトラブルが発生するようになる。そういうときは原因を追究するよりも、自然に直るのを期待して再起動してみるのがよい。MS社に報告しても反応がある訳ではないから、最初から無駄なことはしない方が賢明なのだ。それで結構通用してしまう。MS社と付きあうようになってから学んだ生活の知恵である。

 しかし、そうは言いながらも私はこのトラブルの原因が何であるか知りたくて機会あるごとに考えてきた。そして長年のプログラマとして体験から、多分こういうことではないかと思うようになった。それは、Windows のシステムは「頭のキレが悪くなり」気分転換“リフレッシュ”が必要な状態になっていたのではないか、ということである(これでやっと話の筋が見えてきたでしょうか?)。

 コンピュータ上で動くプログラムは、データを置く場所として静的な記憶域と動的な記憶域とを使い分けている。実行が始まってから必要になるものは、できるだけ動的記憶域に割り付ける方が限られたメモリーを有効に使えるのである。

 利用者のプログラムで動的な記憶域が必要になると、システムのメモリー管理プログラムに要求を出す。システムはあらかじめ確保された領域(ヒープ領域と呼んでいる)から空きを見つけて利用者のプログラムに貸し出す方式をとる。そして、使い終われば返却させる。一方、利用者は借りた記憶領域を責任を持って管理することが要求される。その記憶領域の管理(*2)
で不手際が起りやすいのである。

【注】(*2)記憶領域の管理
 ヒープ領域に割り付けられたメモリは、割り付けた側が責任をもって管理し不要になった場合には速やかに解放してシステム管理下に戻すことが前提となっている。しかし、プログラミング上ではこの解放を忘れたことが原因で不都合が起こることが極めて多い。この種のメモリ管理のミスにもとづくエラーとしては、次の3種類がある。
 ・割り当てた領域を解放し忘れる(メモリリークという
 ・既に解放された領域を参照する
 ・同じ領域を2度以上重複して解放しようとする
 この種のエラーを見つけるのは難しいけれど、普通は事前に取り除かれていると思ってよい。問題があるのは、このヒープ領域上に確保された記憶域上のデータの扱い方のほうである。
 普通は、確保されたばかりの記憶域上に何か値(通常はゼロ)が置かれていても、それはゴミであるとみなし新たに値が設定されるまでは不定であるとする。そして領域が不要になったら(データの後始末をせず!)そのままメモリー管理プログラムに返却する(この過程で、ヒープ領域内のその記憶域はゼロでない不定の値を持つようになる)。

 こういうやり方でメモリー管理をしていると、ヒープ領域は最初はゼロで埋められていても、時間の経過とともに徐々にゼロでないゴミ(不定の値)で埋められていくことになる。新たに貸し出される領域には、直前の利用者が残したデータの残骸が置かれている可能性が高まってくる。しかし、たとえゴミが残されていても管理規則を守って使っている限り何の問題も起らないはずなのである。ところが割り付けられた直後の“不定の値”をデータとして使ってしまう不心得なプログラムが存在するのである。こういう不心得なプログラムを見つけるのは極めて難しい。

 私は、ある大きなシステムの開発を担当していたとき、デバッグ中に限りメモリー管理プログラムに手を入れて、記憶域を割り付けた直後は必ずゼロを埋めておくという手を打ったことがある。こうすると確実にプログラムデバッグができることを体験的に知っていたからである。しかし常にゼロクリヤーしていたのでは実行効率は悪くなる。デバッグの最終段階でこのゼロクリヤーを外すことにした。しかしその途端にプログラムの動作が不安定になったのを覚えている。明らかに不定の値が影響を及ぼしていたのである。

 つまりトラブルの原因は、ヒープ領域のゴミを誤ってデータとして使ってしまうことに起因しているのではないか、というのが私の推測である。
 これを避けるにはヒープ領域をゼロクリヤーするしかない。つまり再起動すればよいのである。再起動という気分転換(リフレッシュ)をすれば、すべて解決してしまうのだ。こういう事態を予想して私は毎朝必ず「再起動」を指定してからコンピュータを立ち上げるようにしている(*3)

【注】(*3)Windows 10では、高速スタートアップのための「シャットダウン」が標準になっているが、再起動を含む「完全シャットダウン」に設定を変えることもできる(私は標準仕様で通す主義なので使ったことはないが)。
 皆さんも、時々は窓(ウインドウ)を開いて空気を入れ替え、リフレッシュしたらどうでしょうか。

2016年7月18日月曜日

“上/前を向いて歩こう”

 永六輔さんが亡くなった。
 久しぶりに名曲「上を向いて歩こう」をじっくりと聴いてみた。これは失恋の歌である。中村メイ子に結婚を断られたとき、永さんが涙をポロポロとこぼして泣いたのがこの歌詞が生まれた切っ掛けになったという。この歌がアメリカで「SUKIYAKI」というタイトルで歌われているのは、私にはどうにも理解できないことである。永さんも無念であったに違いない。確か、著作権料を支払われる対象にもなっていないと思う。その点でも無念であろう。

 ところで、世間では“歩きスマホ”が原因で、歩行者の間でいろいろな事故が起こり問題となっている。スマホの画面に見とれたりしないで“前を向いて”歩いてもらいたいものだ。歩きながらスマホを利用したら、システムが素早く危険を察知し“前を向いて・・・” いや “上を向いて歩こう”のメロディーが自然に流れ出るようにしたらどうであろうか。

 アメリカでは“ポケモンGO”に熱中するあまり、同じような状況になりつつあるという。いや、もっと酷いことになっているらしい。これからは“ポケモンGO”を真似たゲームがどんどん世に出てくるであろうから、増々事故が起こる確率が高くなるに違いない。この際「SUKIYAKI」の歌詞を見直し、その歌詞の本当の意味をアメリカの人々に知ってもらう必要があるのではないか。任天堂はこのゲームのバックグラウンド曲として「上を向いて歩こう」を採用すべきである。そして著作権料も支払ってあげるべきだ(余計なお世話かもしれないが・・・)。

2016年6月17日金曜日

依存症

----- コンピュータに係わる依存性
 元野球選手の覚せい剤取締法違反事件以来、我々は“依存症”というものの実態にかなり詳しくなったような気がする。
 昔は、依存症は単に“~中毒”などと呼ばれていた。アルコール中毒、ニコチン中毒、薬物中毒などいろいろあるが、要するに本人が努力さえすればやめられる類いのものと安易に考えられていたふしがある。しかし最近の科学の教えるところによれば、依存症の多くは脳に何らかの影響が及んだ結果であることが分かってきている。なかなか一筋縄では脱け出せない病気のようである。

 コンピュータの世界にもいろいろな依存症がある。ネット依存ゲーム依存メール依存スマホ依存、…。今後も新たな依存症が続々と登場してくることであろう。何事であれ、好きなことに熱中するのは良いが、度が過ぎて依存性が病的に進んでしまい「依存症」と呼ばれるようになるのは避けたいものである。


メール依存
 私が最初に依存性を意識したのはメールの利用であった。
 先ず、日々の仕事環境の中に電子メールが登場した。勤務先の全社的なメールシステムが利用できるようになり、そこで私は電子メールの基礎をその利点・欠点も含めて体験的に学ぶことができたのである。電子会議、電子掲示板、… などいろいろな交流形態があることも学んだ。そして、こんな便利なものはないと私はそのとき心底思ったのである。

 その後、一部の管理者だけは会社外から(つまり自宅から)電話を利用して会社のメールシステムにアクセスできるようになった。こうなると、帰宅後あるいは休日に家でも仕事ができるようになった。仕事関係のメールは、家から電話で会社のメールサーバーを呼び出して送信すればよい。電話回線を利用したデータ通信がまだまだ高額の時代だったので、文書をあらかじめ作っておき回線が繋がったらすぐさま送信して直ぐ切るというテクニックが必要であった。そういう、今から考えるとかなり不便な環境ではあったが、着実に私のメール依存性は深まっていった。

 休み明けの月曜日に出社してコンピュータのメールボックスを開くと、休み中に私宛てに送られてきたメールが大量に溜まっている。朝一番で最初にする仕事は、そのメールを一度に処理することであった。回答が必要なものはその場で返信を書くが、そのまま内容を読んで済ますだけのものもある。読むに値しないものも含まれているが、仕事に関係するものであるからいい加減には扱えない。お茶を飲むのも忘れて一心不乱にメールと格闘していると、それだけで午前の業務時間が終わってしまう。最初の頃はそれで物凄く仕事をしたような気になっていた。何しろ、午前中一杯脇目も振らずに業務に取り組んでいたのだから。

 しかし、あるときふと気が付いた。自分はこの間何か生産的な仕事をしていただろうかと。ただメールを処理していただけではないか。自分は、技術者として何かを生み出す仕事を期待されているのだ。メールの時間を削減しもっと生産的な仕事に取り組まなければいけないと思ったのである。それ以来私は、メールを使う時間に制限を加えるようになった。つまり、限られた時間帯だけメールと向き合うことに決めたのである。それ以外の時間帯は決してメーラーには触れないようにする。それには、普段はメール環境から距離を置くようにしよう。そう、断じて!そう決めたのである。

 インターネットの発展に伴いインターネットメールが実現し全世界的に使われるようになったのはその後のことであるから、そのかなり前から“メールの依存性”というものを意識していたことになる。しかし、依存症の本当の恐ろしさを知るようになるのは、インターネットが本格的に普及しネット依存、ゲーム依存などが原因で死者が出る事件が報じられるようになってからのことである。

 その後の科学技術の発展はメール環境から距離を置くという私の決心を脅かす様々な要因を作り出し、それとともにコンピュータに係わる環境は急速に変化していった。パソコンの普及、インターネットの常時接続、高速通信と廉価な通信料金、… そしてスマホの登場、… などである。その点では、現在のコンピュータ環境に慣れている多くの若い方々は気の毒だと思う。常に、新たな依存症の危険に曝されているのだから。

 現在でも、私の決心は「メーラーに触れるのは自分の書斎机の前に座っているときだけ」という形で継続されている。スマホなぞは、メール環境自体を常時持ち歩いているようなものであるから、私にとっては最大の敵なのである。

ゲーム依存
 もう一つ熱中したものとしてコンピュータゲームがある。パソコン黎明期の頃から各種のコンピュータゲームを体験してきた。しかし私は何かあるゲームが気に入ったとしても、同様のものを自作したいという気持ちが強くなる性格だったので、そのプログラム作りの方にすぐ関心が向いてしまう。そのため、幸いにも依存症を起こす程熱中することはなかった。

 しかしこの文章を書いていて思い出したのだが「倉庫番(*1)という有名なゲームだけは別格であった。私は当時、何か仕事に疲れると気分転換と称して倉庫番にチャレンジするのが習慣になっていた(もちろん自宅での話ですよ)。今も、久しぶりにまたやってみようかな‥‥ という気持ちになっている。もしかすると依存症寸前の状態にあるのかもしれない。
【注】(*1)倉庫内に点在する荷物を、一つずつ決められた場所に移動するゲームである。目的は単純だが、進行方向に荷物を押すことしかできない。最近の版では、最新の Windows 環境で動作するようになっている。

 しかし私が持っている倉庫番は、初期のバージョンなので現在の最新のコンピュータ環境下では残念ながら動作しない。そこで、倉庫番が動くはずの古いコンピュータ(Libretto 60 + Windows 98)を引っ張り出してきて、その上で動作させなければならない。どれ、ちょっとやってみようか。

倉庫番の画面

 倉庫番のプログラム自体は、外部ハードディスク(HD)上に大切に保存されているから、それを取り出して Libretto 上のHDに移して動作させればよい。しかし古いバージョンなのでフロッピーディスク(FD)ドライブが必要になる。以前ゲームを楽しんでいた頃は、FDドライブ付のコンピュータが普通だったが最近のコンピュータにはFDドライブなど付いていない。急遽FDドライブと3.5インチのFDとを探し出してきて接続した。よし、動いたぞ!
 やはり、こういう古い物も捨てずに取っておくべきなのだ。

フロッピーディスク(FD)ドライブ付きのコンピュータ

 私が熱中したゲームにはもう一つ3次元テトリスがあるが、これは瞬発力を競うゲームである。それに対し倉庫番は、思考力を試すゲームであり奥が深いので私の最も好きなタイプのゲームである。この原稿を書きながらも、私はまたもや気分転換が必要になったと称して倉庫番にはまり込んでしまいそうな気がしている。困ったものである。

 このように倉庫番依存症(?)が再発したのは今回が初めてではない。確か十数年前にも同じように再発していたから3度目ということになる。先回は、50画面をすべてクリヤーしても症状が治まらず、最後には自分でも新たな問題を創作したりした。それで一応症状は治まったのである。今回はどうなるであろうか。

 あっ! これ以上原稿に向き合っているひまはない。倉庫番、倉庫番、・・・・・・。■

2016年5月27日金曜日

過去の思い出

          ── SNSで永遠に投稿し続ける方法
 私が利用しているSNSでは、最近になって新しい機能が追加され、自分の過去の投稿内容の中から数年前のものを選んで「過去の思い出」として再掲示(*)するよう勧めてくれるようになった。普段から寡黙な私めは、月に数回程度しか投稿しない不熱心なメンバーであるからして、これを「ヒントを与えるからもっと熱心に投稿せよ」という怠惰な私に向けてのSNS管理者からの警告であると理解した。

 しかし過去を振り返るよりも前を向いて進むことを信条としている(えっ? 本当かよ)私めとしては、そう簡単に説得されてたまるかという意地がある。そのため、これまではそういった勧めをすべて無視してきたのである。ところがある時「再掲示」を勧められた記事の内容が、たまたま最近亡くなった友人に関係するものだったので、ふと追悼したいという気持ちになり「再掲示」することに同意したのであった。

【注】(*)詳しく調べてみると、過去の年の同じ日付けに投稿されたものが毎日表示される機能らしい。コメントを追加するだけでなく、本文そのものを編集することもできるようになっている。

 以来、再掲示の勧めに乗ることが多くなり、後ろを振り返ってばかりいる見苦しい事態になってしまっている。ところが、これが思いのほか楽しいのである。なぜかと言うと、以前何を書いたかなど本人は正確には覚えていないから、私も他の方々と同じように第三者の立場で自分の過去の文章を初めて読むような積りで読んでいる。そうすると、ほとんどの場合、私と全く同意見なのである(当たり前じゃ)。ふむ ふむ そうだ そうだ と実に気持ちよく合点しながら読めるのである。全く年寄りの独りよがりというべきであろう。

 SNSの世界で新たに「友達」となった人たちが最近増えているので「再掲示」されたものをその新しい友達に読んでもらうのは、それはそれで意味のあることだ、などと無理やりこじつけたりしている。

 ところが怠け者の私めは、ここで素晴らしいアイディアを思い付いてしまったのだ。
 この機能をうまく利用すれば、私は新たな投稿などしなくても「過去の思い出」だけでSNSの世界で生きていけるかもしれない。齢を取るとどうしても創造的なアイディアが枯渇してきて、新たな投稿の種を生み出すのに四苦八苦するようになる。もうそんな心配はしなくてよくなるのだ。

 自分のアイディアが枯渇している事実を他人に知られないよう、過去の思い出に少しばかり色付けをして新たな投稿のように見せかければよいのだ。今や人工知能を使って小説が創作できる時代である。「過去の思い出」の中で使われているキーワードのいくつかを使って、ちょっとしたコメントを創作することくらい簡単なことであろう。

 これが成功すれば、つまり「過去の思い出の自動修飾」の技術さえ確立すれば、もう私は何もしなくてもよくなるはずだ。 …などと、私めはこれからやってくる怠惰な生活を夢見ているのである。

 ところで、その結果どういうことになるのだろう。もう無い知恵を絞ったりしなくですむ。そうなると頭を使う機会も減るから、認知症になるのは早いかもしれない。あるいは何時、死んでも誰にも気づかれないから、そのまま放置され孤独死することになるかもしれない。


 うむ、それは困ったことだ。やはり、無い知恵を絞り続ける方がよいのかもしれないなぁ~。

2016年5月18日水曜日

  ── 立ったまま使う机(スタンディングデスク)

 私は兼ねてから立ったまま使える机が欲しいと思っていた。
 人間、座ったまま長い間ずっと同じ姿勢でいるのは身体によくない。熊本地震のような自然災害に合った人たちが被災地で車中泊を続けているとエコノミークラス症候群になりやすいことはよく知られている。

 私は、自然災害とは関係ないけれど、自分の不注意から同様な経験をしているのだ。その結果、血栓が右足のふくらはぎ深部にできてしまい、それを直すのに実に3年を要している。そんなこともあり、私は30分インターバル運動というのを実践することにした。書斎で椅子に座り机に向かって何か仕事をしているときでも、30分経つと必ず立ち上がって身体を動かす習慣を身に付けようとしたのである。

 しかし身体を少し動かした後、又そのまま座ってしまったのではあまり効果は期待できない。しばらく立ったままで仕事を続けられるようにしたい。そんな訳で、立ったままで普段の机と同じように使える背の高い机が欲しくなったのである。

 同じ部屋にもう一つ別の机を置く余裕などないので、隣の部屋にある本棚の上を机代わりに使うことにした。高さは申し分ないのだが残念ながら立ったまま同じ仕事を継続したいという希望の方は実現できていない。

 昔、松江市の小泉八雲記念館を訪ねたとき、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が使っていたという高い机(*1)を見たことがある。私はネット上で同じようなものがないか何度も捜してみたのだが、結局は見つけることができなかった。特注品でもよいから、あの様な机が欲しいと私はかねがね考えていたのである。

【注】(*1)私の脳裏には、椅子なしの背の高い机だけが記憶されていたが、後で調べてみると立派な椅子が付いていたようだ。小泉八雲は身長が約160cmと低い上に眼が極度に悪かったため机の面に顔を近づける必要があった。そのため背の高い机を特注したらしい。決して立ったままで使うための机ではなかったのである。
小泉八雲の机

 そんなある日、私のコンピュータ画面上に突然 の通販広告が表示された。それは私が兼ねてから欲しいと思っていたそのものズバリの机であった。これだ! これしかない! 私は早速購入することにした。現在、私の書斎の机の上に置いて便利に使っている。

書斎机の上に乗せて 

 インターネット上で何か調べたい物を検索したりすると、通販業者はその検索履歴を参考にしてその利用者が関心を持つと予想される商品を売り込もうとする。そして素早くSNSなどの画面上に同種の物の通販広告が頻繁に掲載されるようになる。私は今までそれを鬱陶しく思っていた。特に欲しい物を実際に購入してしまった後では、もう同種の広告など見る必要がない、いや見たくもない。邪魔になるばかりだ。しかし今回だけは本当にありがたいと思った。

 調べてみると、私が最初に検索して発見できなかった頃と比べて業界は著しく様変わりしていた。“スタンディングデスク”と呼ばれる商品群があり検索すればすぐ見つかるようになっていた。私の考えていたことは、少し先走りし過ぎていたのかもしれない。

 スタンディングデスクの、私なりの使い方を以下に紹介することにしよう(以下では、スタンディングデスクを“デスク”と呼び、私の書斎机は“”と区別して用いている)

▼使い方1:10段階の高さ調節が可能
(1)一番高く:
 机の上に乗せて立ったまま使える。机とデスクを一体にして使えるのが最大の利点であるが、デスクだけ別の場所に持っていって使うこともできる。


(2)少し高く:
 立ったまま新聞を広げて読むのに適している。


(3)一番低く:
 椅子に座ったまま机とデスクが同時に使える。


▼使い方2:机上スペースの有効活用
(1)複数のコンピュータ(パソコンとタブレット)を同時に使う場合、机やデスク上の空間、あるいはデスクの下にも厚い本が入る程の十分な空間があるので資料等を置くのに便利。


(2)パソコンのみの場合は、デスクを手元に引き寄せる。


(3)パソコンのみに集中したければ、デスクを更に近くに引き寄せる。


(4)パソコンのキー入力に集中したければ、デスク上でパソコン本体を手元に引き寄せる。


(5)パソコン以外の雑事に取り組むときはデスクを後ろへ押しやり、前に広い空間を作る。


▼使い方3:コンピュータ内の“デスクトップ”の使い方
 コンピュータ内の“デスクトップ”も、この際使い方を見直してみては如何でしょう。

2016年4月21日木曜日

エイプリルフール後日談

 ━━ うるう秒とうるう年
 小学生の頃、エイプリルフールといえば公式に嘘を付いてもよい日と聞いていたので、私は毎年この時期になると張り切って嘘を付いて人をだまそうと思ったものだ。しかし普段から嘘ばかり付いている(?)くせに、いざとなるとなかなか気の利いた嘘を付けないものだということを経験した。そして自分は、きっと生まれつきの正直者であるに違いないと確信した… いや、今から思うと誤解したのであった。

 当時は、新聞のニュースやラジオの番組を通じて嘘が流され、それを真に受けた人たちが大騒ぎするのが後日談として報じられ人々を楽しませてれていた。しかし最近はIT企業などの新興企業が中心になって、かなりの資金を投じて準備された嘘を流すようになってきた。会社の宣伝にもなるのであろう。最初から嘘に違いないと分かっていても、つい本気にして騙されたくなるほどの出来栄えであることがた楽しい。

 今年のエイプリルフールの前夜(3/31)、私は自分のホームページの4月分の更新作業をしていたとき、突然自分エイプリルフールの嘘を仕掛けてみたくなった。小学生時代の楽しかった思い出がよみがえってきたのである。

 丁度、カラークロック・プログラム(*1)をトップページに設定する予定だったので、これを材料にしよう思った。このプログラムは、現在時を24時間表示で「13時45分05秒」のように時々刻々とデジタル表示するものである。同時に「時」「分」「秒」の値をそれぞれ16進数表示で連結し幅6桁の16進数を作って壁紙の色として用いるプログラムになっている。時間の変化とともにバックカラー刻々と変化する様子を見て楽しでもらう積りだった。


【注】(*1)このカラークロック・プログラムは、URL="http://whatcolourisit.scn9a.org/"で見かけたものを参考にした。面白いアイディアだと思い、私も自作してみたのだが、オリジナル版と比べて色調の変化が異なっている。調べてみたらオリジナル版は16進数を連結する際に“ゼロサプレス”が考慮されていないことが分かった。こちらの方が“正調”いや“正しい色調”だと思い、自作版を私のホームページ上にアップすることにしたものである。

 そこで、更新情報を表示する【What's New】の欄に、急遽以下のように記述することにした。

 これは“うるう秒(*2)”を実施するときだけ起こることだが“59分59秒”の次にうるう秒として1秒を挿入した場合、“60分00秒”と表示させることを念頭に置いたものである。何が嘘かというと“興味深い現象”は何も起こらないことである。全く他愛のない無害なウソであるし今年はうるう秒が必要な年でもない。
【注】(*2)うるう秒
 1日の長さ(Length of Day:LOD)は、24時間×60分×60秒 = 86,400秒であるから、歴史的には1秒の長さは、1日の長さの86,400分の1と定義されてきた。しかし実際には地球の自転速度が変動するのでLODは一定ではない。その他いろいろな理由があり、それらを勘案して「うるう秒の挿入」という対応で辻褄を合わせているらしい。
 本当は「59分が切り上がる瞬間に… 」と書く積りだったのだが“60分00秒”が念頭にあったので、うっかり60分と書いてしまった。私の単純なミスであったが、これを読んだ友人のS氏が目ざとく見つけて指摘してくれるまで私は自分のミスに気が付かなかった。しかし嘘だと見抜くヒントにはなったのかもしれない。怪我の功名であった。

 ところで、うるう秒の挿入は世界同時に一斉に実施されるのが普通で、最近では日本時間で2015年7月1日に実施された。それ以後は実施されていない。いや、もう二度と見ることはないかもしれない。

 その日、日本では午前8時59分59秒の直後に1秒挿入され、8時59分60秒となった。そして9時00分00秒と時間が刻まれたのである。つまり(私も今回初めて知ったのだが)正確には“60”という珍しい表示は“”の単位で使われたのである。

 実は、うるう秒の挿入には賛否両論がある。挿入した場合の社会的影響が余りに大きいため今後は実施されないのではないかと予想される。1秒という時間が、現代社会では大きな重みを持つようになっているためである。
 コンピュータの発達で1秒間に数万回もの株の売買取引ができるようになった証券取引業界では、1秒という長ぁ~い時間があれいろいろなことができる。プログラムを利用すば、他の株の売買状況を見て瞬時に対抗する売買指示を出せるのである。
 特許権取得競争が激化する技術開発の分野でも、マイクロ秒単位のタッチの差で巨大利権の行方が左右される時代である。そういう社会で1秒という時間が世界中で一斉挿入され何らかのシステムトラブルが発生したらどうなるのか。想像するのさえ恐ろしいことである。

 この様にうるう秒の問題には未だ未解決の問題が含まれている。一方、うるう年(*3)の方も厳密には問題がある。
【注】(*3)うるう年
 グレゴリオ暦では、次の有名な規則に従って400年間に97回のうるう年を設けることにしている。
(1)西暦年が4で割り切れる年はうるう年
(2)ただし西暦年が100で割り切れる年は平年
(3)ただし西暦年が400で割り切れる年はうるう年
 この規則によってプログラム化しておけば何の問題もないように思われるが、400年間における平均の1暦年は、365+97/400=365.2425日(365日5時間49分12秒)となる。暦と季節とのずれは約3320年で1日となる。この1日をどうするかは未だ未解決の問題である。そんな先のことは考える必要はないと先送りしているだけである。それでいいのだろうか。
 私は、昔から「うるう年」というものに何かある種のいい加減さを感じていた。それが何であるかはよく分からなかったが。
 しかし今回、偶然「うるう秒」のことを調べていて、改めてそのいい加減さが分かってきたような気がする。「うるう秒」も「うるう年」ま、はたまた「閏」という漢字にしても、どうも意味がよく分からない。具合の悪いところを付け焼刃で適当に修正しているように思えるのだ。プログラムの虫つぶしと同じでまるで信用できない。

 最後に、前述のうるう秒挿入時に起こる“60”という珍しい表示はもう二度と見られないかもしれないので、私めは、遅まきながらこのカラークロック・プログラムを改訂し、毎年の4月1日(エイプリルフールの日)だけは“興味深い現象”が見られるようにした。来年の4月1日には(もし覚えていたら)是非じっくりと鑑賞して頂きたいと思います。

改訂版・カラークロック

2016年4月14日木曜日

続々・素朴な疑問:「チガカッタ」は若者言葉なのだろうか?

 以前、テレビで若い女性タレントが「チガカッタ」という表現を思わず発してしまう場面に遭遇し、ちょっと驚いた記憶がある。それを“変な日本語表現”という拙文に書いて紹介したのは今から4年くらい前の話である。その後、ラジオやテレビでこの表現を使う若者たちが次第に増えていくのを知って増々驚くと同時に、自分の現状認識の甘さを痛感するようになった。もはや単なる使い間違いではないらしいのだ。

 私の経験では「チガカッタ」という表現は、言葉をまだうまく話せない幼児が、その発育段階の途中でよく使う表現である。次第に言葉を覚え「てにをは」の使い方を身に付けるにつれて少しずつ正しい日本語を話せるようになると自然に矯正されていくものであった。しかしそれが直されることなく、そのまま成長して大人になってしまったらしい。

 先日、最近始まったばかりのラジオ番組を聞いていたら、新任のパーソナリティが、「それ、チガクナイ?」という表現を連発しているのを耳にして再び仰天することとなった。ゲストの若者が使ったのではありませんよ、パーソナリティというのは番組のホスト役ですから、その大人が使っているのです。驚きましたねぇ。

 「チガクナイ」もその発生経緯は「チガカッタ」と同根のものであろう。こういった使われ方を見ていると、おそらく使い間違いと言うより「若者言葉」の一つとみなされて大衆に受け入れられていくのかもしれない。

 若者言葉と呼ばれるものを私はできるだけ理解しよう(*)と努力してきたが、最近少し考えが変わってきている。若者が使う言葉の中の明らかな使い間違いは、しっかりと指摘して矯正してやるべきではないか。

【注】(*)理解はするが、自分で使おうとは決して思わない。
 たとえば、若者がよく使う「全然、大丈夫です」という表現にしても、本来は「全く、大丈夫です」というべきものである。これは「全然」と「全く」の使い分けができないのが原因である。あるいは「全く」という表現が存在することを知らないだけの話しかもしれない。つまり“無知”に起因するものである。若者言葉だからと一括りにして容認したりすべきではないと思う。

 ところで「チガカッタ」は若者言葉なのだろうか? それとも単なる使い間違いなのだろうか? 分からないなぁ。

2016年4月1日金曜日

2016年3月14日月曜日

「トランプ旋風」-トランプは“切り札”の大統領になれるか

 アメリカ大統領予備選挙での共和党トランプ候補の活躍が話題となっている。日本の新聞では「トランプ旋風」などと称されている。

 実業家出身なので、これまでの政治家とは異なりメディアの攻撃に対し打たれ強い。もともとスキャンダラスな話題の持ち主だったからスキャンダルを取り上げた攻撃にはびくともしないようだ。金持ちなので選挙費用に困ることはなく不正に金を受け取ったりする可能性も少ない。しかも批判攻撃に対しては素早く反論し、かなり下品な内容の個人攻撃で応える。それに懲りた相手は二度と攻撃しなくなる。頭の回転が速く、実に戦い慣れている。

 既成政治家や既得権益層(エスタブリッシュメント)に反感を持つ人々の気持ちをわしづかみにし、その支持に支えられて予想外に大量の票を集めている。今のところ共和党の大統領候補になりそうな雲行きである。言葉遣いも荒っぽい表現から次第に穏やかなものに変わってきた。本選での対抗候補を念頭に置いているようにも見える。本当にアメリカ大統領になってしまったらどうするのだろう。かなり心配である。

 実際に、トランプ大統領が出現したらどうするのか、と今から対策を考え始めている人たちも多くなってきた。カナダへの移住を検討するための問い合わせが多いとか、メキシコ国境に壁を造る費用は誰が払うか、メキシコに払わせる、いや払わない。日本の防衛費用は日本に負担させるらしい、今までの経緯を承知しているのか、等々‥‥が聞こえてくる。

 遅ればせながら、私もトランプ大統領になったらどうなるかを考えてみた。
 トランプ大統領のやる最初の決定は、多分アメリカ合衆国大統領専用機として彼自身が今使用している「TRUMP」と大書された自分の専用ジェット機を使うことにするのではないか。彼は機体に自分の名前が大書された大統領専用機に乗る最初のアメリカ合衆国大統領となるであろう。

 大統領の専用機は、通称「空飛ぶホワイトハウス」とか「エアフォースワン」とか呼ばれるが、これは特定の機種を指すのではなくコールサインのようなものである。したがって大統領が乗ればその機がエアフォースワンとなる。

 これまでのエアフォースワンには、大統領執務室、事務室、寝室、会議室等がありゲームなどでくつろぐ場所もある。慣例として時の大統領の名を記したトランプが常備されているという。当然これらは継承されるであろう。
 そこで私は、早速“President TRUMP”と記されたトランプを(もの好きにも)作ってみた。

       President TRUMP トランプ図

 機体に“TRUMP”と大書された大統領専用機の中で“President TRUMP”と記されたトランプを用いてトランプゲームに興ずるトランプ大統領、という図である。写真に撮ってSNS上に載せられたら、さぞかし楽しいことであろう。

 もっとも、アメリカでは“トランプ”とは呼ばず“プレイングカード(playing cards)”と呼ぶらしい。あれを“トランプ”と呼んいるのは日本人だけであるから、そんな写真を見て面白がるのは日本人だけかもしれない。

 “trump”とは“切り札”のことである。トランプ大統領は、はたしてアメリカの国民が求める“切り札”の大統領となれるのだろうか? 心配だ、心配だ。

2016年3月12日土曜日

パスワードは定期的に変更すべきか?

 パスワードの扱い方を教えるとき、最も基本的な注意事項は以下の4点であろう。

(1)安全なパスワードを使う(長さや字種に配慮する)
(2)同じパスワードを“使いまわし”しない
(3)パスワードは定期的に変更する
(4)パスワードを無闇にメモに残さない


 これらの注意事項は時代とともに変遷していくものであるが、最近(3)が不要であるという意見が出ているらしい。つまり「パスワードを定期的に変更する必要はない」と言うのである。これを聞いて安堵した人は多かろう。もし定期的に変更していたら、それだけ自分に負担が掛かるのだから「楽になって良い」ということであろう。

 しかし私は少し違うと思う。やはり「パスワードは定期的に変更せよ」と言い続けたい。

 パスワードを構成する文字として、英数字だけでも62文字(*1)が使えるから、8桁並べれば約218兆通り、10桁なら約84京通りの表現が考えられる。したがって、いわゆる辞書攻撃をされても簡単には破られないという考え方なのであろう。

【注】(*1)・英字の大文字、小文字の52文字
     ・数字10文字  計62文字
     ・その他、特殊記号が使える
 理論的にはそうかもしれないが、実際には利用者の多くは小文字の英字と数字だけの短いパスワードで済ませている人が多い。その結果、辞書攻撃で容易に破られてしまう。そこに「変更する必要はない」と言って解読作業に十分な時間を与えてしまったら敵に塩を送るようなものである。各自が実際に定期的に変更するかどうかは別にして、少なくとも「変更せよ」と言い続ける必要があるのではないか。

 定期的に変更しないことを推奨して一体何のメリットがあるのか、私にはまるで理解できないのである。パスワードを守ることの重要性は各人のコンピュータ利用環境によって変わるのだから、まず初心者も含めた一般ユーザーに対して正しいパスワードの扱い方を徹底させ、その上で更に高度なセキュリティーを求められる環境ではどうすべきかを個々に教育するのがよいのではないかと思う。

 沢山の異なるパスワードを抱えて四苦八苦するのは避けたいと思っている人に対し、私はもっと知恵を働かせることを推奨したい。特別に記憶力が良くなくても、ちょっとした工夫だけで多種類のパスワードをメモなしで使いこなせるようになる。その方法(*2)をここに記す訳にはいかないが。

【注】(*2)ブラックハットのハッカーに一度狙われたら、先ずもって防ぎきれない。だから「パスワードはこうすべきだ」等と声高に言って目を付けられるのは避けたい。

2016年2月19日金曜日

情報難民とならないために

 中東紛争から端を発した難民の大量流入により欧州各国は混乱をきたしているが、インターネットの世界も同じように 難民問題 を抱えている。
 質の良い情報質の悪い情報ジャンク情報)とを区別できない情報判断力に起因する格差が生じているのだ。その結果、いわゆる“情報難民”と呼ばれる人たちが急増している。所得格差の問題と同じように、インターネットの世界では情報判断力の差による“情報格差(*1)の拡大”が大きな問題となってきているのである。

【注】(*1)情報格差にもいろいろな種類がある。
 ・経済力による格差
 ・技術力による格差
 ・情報判断力による格差
 ・行動規範(倫理観)による格差
 インターネットの世界で良質の情報を得たければ、質の高い情報の発信源をよく知っておく必要がある。そういった情報源を“ハブ”として用い、そこにリンクを張ることによって常に良質の情報が得られるようにするとよい。同時に自らも情報の価値を適切に判定できる情報判断力を身に付け、その能力を磨き続けることが求められる。この情報源のハブを選び間違えると、ジャンク情報の泥沼に落ち込んでしまう可能性があるから注意が必要である。信用の置けないサイトには、興味本位で無暗に近づいたりしない方がよい。

 良質の情報を選択的に豊かに享受している人たちが居る一方で、良質な情報とジャンク情報とを区別できない人たちも沢山居る。その格差が急速に拡大し、ある分野では情報の無政府状態が出現しかねない状況になっているという。更に悪いことに、情報の良否を判断できない人のところにはジャンク情報が排他的に蓄積されていく傾向があると言われている。

 情報の良否を判断できない人たちの特長は 話を単純化したがる ことだという。それゆえ、彼らは最も知的負荷の少ない解釈法を好む。たとえば 陰謀史観 はその最たるものであろう。つまり「世の中のすべての不幸は、それによって利益を享受している悪の張本人のしわざである」とする考え方にすぐ飛びついてしまう傾向がある。しかも彼らにとっての最大の不幸は、自分が 情報難民 であるという事実に全く気が付いていない点にある。

 そうならない為には、良い情報源を手に入れることが増々重要になってくる。質の高い情報の発信者を見つけるには、日頃から新聞や書物などをよく読んで見聞を広め、信頼できる人物、評論家、あるいはジャーナリストなどを見つけておくことが重要である。同時に自らも 良き情報受信者 としての立場を築くよう努力する必要があろう。情報受信者として信頼されれば、自然に信頼できる人々の輪の中に入れてもらえるようになり 信頼できる情報 が定常的に送られてくる身分になれる(かもしれない)。

 良き情報受信者たる者は、ジャンク情報が多いと分かっている情報サイトには近づかない。たとえば、猟奇的な事件が起こり犯人と思われる容疑者が浮上すると、週刊誌や特定のサイト上に関連する真偽不明の身辺情報が溢れるようになる。私はミーハー的なところがあるから何となく覗いてみたくなるが、決して覗いたりはしない。いや、断じて覗かない(!)と自分自身に言い聞かせている。ひとたびそういう真偽不明の情報に触れてしまうと、必ず何らかの影響を受けてしまうからである。

 良き情報受信者になりたければ、インターネットの世界では常に 実名 を用いて活動すべきである。私はインターネットの世界で情報発信を始めたときから常に実名で通してきた。その代わりウェッブ上では「議論したければ実名でお願いします」と言って、匿名の人から議論を挑まれても安易に受けないよう注意している。実名で議論しないと責任ある発言が期待できないからである。
 私は自分のホームページの読者からいろいろと感想やコメントをもらうことがあるが、そういう場合はもちろん匿名であってもしっかりと対応している。しかし難しい議論にまで深入りすることはない。周知のようにインターネットの世界では(特に日本では)匿名で活動するのが主流であり、残念ながら全員が実名で自由にやり取りする環境を期待するのは不可能に近い。

 しかし Facebook が登場してからは、実名でしか登録できないシステムであることを知って我が意を得たりと参加することにした。私はこれまで HTML形式のホームページやブログを使って情報発信してきた。それに比べて Facebook の世界は不自由な点も多々あるが、「友達」や「フォロー」する人を自分で選べるので、実名を名乗って議論し合える環境を構築することができる(多分)。

 Facebook では、友人の数が増えると、直接の「友達」でなくても「友達の友達」あるいは「友達の友達の友達…」の発信した情報が共有され表示されることがある。そのため、自分の知らない分野の知識が得られ視野が広がっていく利点がある。それに伴い自然に友達の数も増えていく。「いいね」ボタンを押したり「シェア」(あるいはツイート)できるので情報共有が容易で非常に興味深いシステムだと思う。

 ただ問題があるとすれば「友達」の数が増え、その数がある限界を超えたときであろう。「友達の友達…」による情報がたまたま共有され表示されると、その中に想定外のジャンク情報が含まれていることがときどき起る。しかも「こういう事も知ってもらいたい」というようなコメントが付加されていたりするから、積極的に広めようとしている様子が読み取れる。本人はその情報がジャンクであることに気が付いていないのであろう。

 そういった明らかなジャンク情報には極力触れたくない私は、いささか気分が悪くなってくるのである。同時に、現在の著しく右傾化しつつある日本社会の現状の中にいると「もしかすると、自分の方が実は 情報難民 になってしまっているのではないか‥‥」と一瞬 疑心暗鬼に陥ることがある。Facebook を使う際は、重々気を付けたいと思う毎日である。

2016年2月3日水曜日

節分

 節分の頃になると私のホームページのあるページが頻繁にアクセスされるようになる。昨日などは38回も読まれたようである。「何だ、たったそれだけか!」と思う人がいるかもしれないが、私のホームページは田舎の過疎地にある“あばら屋”なので滅多に人が訪れることがない。これは極めて珍しいことなのである。

 この時期だけそんなに読まれる理由を私は分かっている積りだが、さすがに書かれている内容の方が心配になってきた。何しろ13年前に書いたものだったからである。

鬼と福はどちらが先なのだろう?」(2003-03-01)


 そこで、久しぶりに読み返してみた。
 なるほどそういうことか。この時季、豆を撒くときに「鬼は外、福は内」と叫ぶか「福は内、鬼は外」と叫ぶか迷っている人が多いのであろう。私は、以前自分で書いたものを読んで、あらためて教えられたりしている。何ともはや。■

2016年1月26日火曜日

続々・素朴な疑問:双子はどちらが兄(姉)か?(解決編)

 双子が生まれたとき「兄弟姉妹」をどうやって決めるのか。
昔、どこかで仕入れた知識によれば、後から生まれた方が兄(姉)になるというのが私の理解であった。何故、後から生まれた方が兄なのか、と私は素朴な疑問を持ったのを覚えている。もしかしたら、これが私の抱いた最初の“素朴な疑問”であったかもしれない。

 生まれた順番を重視するのは人間だけが持つ特性である。しかしその順番は、当事者の意思では決められないのが普通である。ただ双子や多胎児の場合のみ人為的に(それも当事者でない誰かに)決める機会が与えられることになる。

 私の身辺には双子はいないし、そもそも兄弟の順番がその後の人生に深く影響を及ぼすような高貴な家柄の生まれでもない。そんなこともあり、私はこれまであまり深くは考えたことがなかった。しかし最近知ったのだが、現在は先に生まれた方が兄(姉)となる決まりになっているのだそうである。

 昔の慣例(*)とは異なるものになってしまったのは驚きであるが、その過渡期にいた人たちの間では色々と苦労があったことであろう。いずれにしても、その決め方に何らかの合理的な理由があるのであれば、それはそれで良いのではないかと思う。

【注】(*)慣例となっていたのかどうかも私は知らない。ただ決まりがなかっただけかもしれない。 
 実際に調べてみると1874年12月13日の太政官布告により、生まれた順に兄弟姉妹が定まるとなったらしい。現在の法律ではそれがどう反映されているのか調べてみたが、私は法律に疎い方なので結局よく分からなかった。唯一見つけたのは、戸籍法の中にある「戸籍の書き方」に関する取り決めである。
戸籍法    第三章 戸籍の記載
第十四条【氏名の記載順序】
氏名を記載するには、左の順序による。
第一 夫婦が、夫の氏を称するときは夫、妻の氏を称するときは妻
第二 配偶者
第三 子
2 子の間では、出生の前後による。
 この条文中の“出生の前後”という表現から「先に生まれた方が兄(姉)」という解釈が成り立つのではないか。少し無理があるかもしれないが、少なくともそう解釈しない限りこの条文の趣旨と齟齬をきたすことになってしまうからである。しかし「齟齬をきたす」からという理由だけで“合理的な解釈”とみなすのは無理があろう。

 ところが最近、この疑問に決着をつける出来事があった。アメリカで2015年12月31日の残りわずかで女児が生まれ、2016年が明けた2分後に男児が生まれたという。この事例から「先に生まれた方が兄(姉)」の方に軍配が上がるのは当然のことであろう。

 普通、多胎児の出産では数分から一時間程度の時間差で生まれることが多いという。記録では数十時間から数十日の間隔が開いて生まれる場合もあるらしいので、誕生日や誕生年が異なる兄弟姉妹が存在することになる。素直に“生れ出た順に”というのが合理的な解釈であろう。

 長年の疑問が解けてホッとしているところである。

2015年12月21日月曜日

続々・素朴な疑問 批判的に読む

 電車に乗っていて考えた。最近、電車の中で本や新聞を読んでいる人がめっきり少なくなった。スマホを利用する人が増えたからであろう。
 そんな中で、私一人は頑なに電子書籍ならぬ普通の本や新聞を読んでいるのである。こういう古くからのスタイルは車内では目立つようになり、その内に勇気を必要とする行為となっていくのだろう。

 ところで、日本の書物はほとんど縦書きが主流であるから、当然のことながら私めは顔を上下に動かしつつ(頷きながら)書物を読んでいる。以前「縦書き・横書き論」で述べたことだが、これが日本人が書物を批判的に読めない原因となっているのではないかと思う。本来、読書の姿勢としては批判的に(首を横に振りながら)読むことが大切なのだが、日本人は読んだものを何でも肯定的に(頷きながら)受け入れてしまう傾向がある。どんな書物であっても常に批判的な姿勢で読むべきであろう。

 先に触れたように、最近の若者たちはスマホを利用しているから、多分縦書きより横書きのものを読む機会の方が遥かに多いに違いない。したがって、これからは批判的に読む習慣が自然と身に付いた若者たちが増えていくことであろう。しかし残念ながら彼らは書物というものを読まないという。優秀な編集者によってしっかりと査読された後に出版される(信頼のおける)書物ではなく、ネット上の(怪しげな情報を含む)横書き情報ばかりを読んでいるのではあるまいか(あっ、そう言えばこれも横書きだな)。

 もしそうだとすれば、何事によらずネット上で他人を批判することに長けた人が増えている問題の原因は実はそこにあるのではないかと思う。スマホの利用が原因で批判的に(首を横に振りながら)思考する人が増えてきたのだとすれば、これは一大事である。スマホ利用の弊害の一つとも言えるのではないか。
 情報は批判的に読むべきか、あるいは肯定的に読むべきか、どちらがいいのだろう。分からないなぁ・・・。■
















(これは、ジョークですから真面目に反論しないでくださいね。)

2015年11月26日木曜日

続々・素朴な疑問 テロとカミカゼの違い

 欧米では、テロのことを“kamikaze”と呼んでいるらしい。一部のメディアでは、カミカゼは自爆テロやテロリストを表現する言葉として使われている。どうやら自殺攻撃(suicide attack:スーサイドアタック)のことを“kamikaze”と総称しているように思われる。

 これを伝え聞いた日本のメディア関係者は「特攻隊はテロリストとは違う」と主張している。私も最初はそう思った。しかしよく考えてみると、少し似ているところもあるなぁ~。いや、著しく似ていると言ってもよいくらいだ。

 逆に、カミカゼとテロリストとは一体どこが違うのだろう。分からないなぁ。


【テロリストと特攻隊員の違い】
●美化について
▼テロリストは「神は偉大なり」と叫びつつ銃を乱射したり自爆したりする。特攻隊員も「天皇陛下万歳」と叫びつつ敵陣に突っ込んで行き自爆する。
▼いずれも、若者たちを引き込んで誤った教育で洗脳し「お国のために(あるいは大義のために)」と信じ込ませる。若者たちは自分というものを見失ったまま死んでいく。
▼死者ともなれば「国(あるいは特定の集団)のために尊い犠牲となられた」とか「英霊」あるいは「幸せな來世がある」と言って美化し、更なる愛国者を募るのに利用する。
▼それをけしかけた者たちは、必ず後方の安全地域に居て生き残り、彼らの行為を美化し続ける。
▼この美化が、他の国(あるいは集団)からは決して理解されない。
(例えば、我々が、イスラム過激派がテロの成果を賛美するのを理解できないのと同様に、他国は、日本の指導者が靖国参拝するのを理解できないであろう。お互いに逆の立場に立って考えれば明らかである)
▼残された遺族も美化されるが、遺族がそれを喜んでいるかどうか、その本心は分からない。

●戦う相手の違い
▼イスラム過激派とは、イスラム教という宗教の名を借りて過激な行動を取る集団である。
▼特攻隊を操った集団も、その実態は日本の一部過激派集団と考えられる。
▼したがって、攻撃相手が国か特定の集団かの差はあまりない。
▼攻撃する相手が一般市民か軍隊かの差はあるが、同じ人間の死という点では同じである。
▼最近、日本の「一部過激派集団」の活動が目立つようになってきた。困ったものである。匿名で難癖を付けてくる者が居たら、それは過激派集団の一味である可能性が高い。気を付けよう。


 いろいろ考えてみたが、やっぱり分からないなぁ~。
私も、過激派集団に難癖を付けられないよう、この位にしておこう。■

2015年11月24日火曜日

続々・素朴な疑問 “W杯”

 世の中の人は“W杯”と書いて「ワールドカップ」と読んでいるらしい。私は頑固だからそうは読めず、常に「ダブリュウはい」と読むことにしている。このことは13年程前に「続・素朴な疑問(21)」“人はなぜ“W杯”を「ワールドカップ」と読めるのだろう”に書いた通りである。

  齢を重ねて私もだいぶ性格が丸くなったためであろうか、最近はこの単語に出会うと「俺も頑固よのぅ~」と心の中でつぶやきながら、やはり今でも「ダブリュウはい」と読み続けているのである。しかるに、今日の新聞を読んでいたら以下のような記事に遭遇した。

 そうです“W杯”の杯(はい)にふりがなが付いているのを発見したのである。安心してください、“はい”とありますよ。
 これを書いた新聞記者はしっかりと「ダブリュウはい」と読んでもらう積りで書いている。それにも関わらず、世の中の人はどうして「ダブリュウはい」と素直に読めないのだろう。分からないなぁ‥‥。

2015年11月18日水曜日

私のコンピュータ遍歴

      ━━ 表示方法への工夫

 以前から、自分がこれまで使ったことのあるコンピュータ類をすべて洗い出しリストアップしてみたいと思っていた。過去のコンピュータの“終活”である。

 コンピュータ(電子計算機と呼んでいた時代もあった)の名称を思い出してはメモに書き止めていたのだが、次第にその写真も集めるようになった。しかしこれがなかなか難しい。インターネット上で探しても期待したようなものが見つからないことが多かった。記憶力の低下もあって名称を正確に思い出せないものもある。

 そうやって何度も挫折しては、またしばらく時間を置いて再び挑戦するということを繰り返してきた。最初にメモを作った時のファイルのタイムスタンプを確認すると「2007-7-29 18:23」となっいるから8年以上経ってしまったことになる。その結果、折角手に入れた写真の出典も曖昧になりつつある。

 うまくまとめられない原因はどこにあるのだろう、と私は考えてみた。
 そもそも、何のためにまとめようとしているのか。それは成果が得られたら自分のホームページ上に掲載したかったのである。それなら「どのように見せるか」の方から考えた方が良いかもしれない。

 見せたいと思っても、他人のコンピュータ遍歴に関心を持つ人はそう多くはあるまい。しかし昔の仕事仲間の同僚たちが見てくれたら、間違いなく関心を持ってくれるであろう。更に表示方法を工夫すれば“もの好きな人”が現れて、少しは関心を持ってくれるかもしれないと考えたのである。

 思うに情報というものは、ただネット上に並べただけでは見てもらえない。その量が大きくなればなるほど、逆に先を読み進もうとする意欲が減退してくるものである。
 私は、博物館や美術館を見てまわっているときの経験で、膨大な展示品をただ順繰りに見てまわっているだけだと、自分が今全体のどの辺りを見ているのかが分からなくなり、そのうちに疲れ果ててしまうことがある。後どのくらいのエネルギーを残しておけばよいのか。目の前の展示品に関心が向かなくなると、ただそれだけで疲れてしまうのである。もしトップダウンに全体を見渡すことができれば、特に関心のある部分だけを集中して見ることもできるはずである。そういった不満を何時も抱えていたので、この機会に何とかその問題に取り組んで、何らかの解決策を見つけたいと思ったのである。

 そこで私は、以前ホームページのサイトマップを作製した時に用いた技術をここで活用し、表示方法を工夫してみようと思い立った。
 このような経緯で表示方法の枠組みが出来あがると、作業は驚くほど急速に進捗するようになった。盛り込みたいコンピュータの種類も増え、忘れていたコンピュータの名称も何故か急に思い出したりするようになった。登録した各コンピュータには自分の“思い出”も書き添えることにしよう。計算するための道具(計算器と呼ぶべきもの)も盛り込んでしまおう、‥‥という具合に色々なアイディアも浮かんできた。

 その結果出来あがったのが「私が使用したことのあるコンピュータの一覧私のコンピュータ遍歴(my Computer Career)である。もちろんこれで完成ではない。これからも新しいコンピュータが登場するかもしれない。忘れていたコンピュータを思い出し、突然登録したくなるかもしれない。個々のコンピュータには“コメント”を書き込む欄が用意されているので、個々のコンピュータに関して思い出したことがあれば、それを少しずつ時間をかけて書き込んでいこうと思う。まだまだ内容が更新される予定なので、更新履歴が分かるように“バージョン番号”を付すことにした。興味のある方は、是非一度見学に訪れるよう期待しています。もちろん入場無料です。■

2015年10月22日木曜日

男の沽券

★本記事のリライト版を、ホームページ上に
男の沽券
       ── 本能とプライドの関係」

として掲載しました。(2015-11-1) 
 
   ━━━ 本能とプライドの関係

 男の“沽券に係わる話”をすることにしよう。
 こう言うと大きなテーマのように聞こえるが、なに、男性が用を足す時、小の場合は立ったままするか、便座に座ってするかの問題である。私の知る限りでは、最近は「座る派」が着実に勢力を伸ばしているのではないかと思う。しかし「立ち派」もその姿勢を崩さず、頑迷な‥‥ぃゃ頑強な(と表現しておこう)保守勢力として存在し続けているのもまた事実である。

 最近の実験結果から得られたデータによれば「立ち派」によるトイレの汚れが想像以上に酷いことが明確になってきている。しかし、その事実を知っても世の男性達の多くは「自分は今まで通り」と「立ち派」にこだわる傾向がある。「男のプライド」を守ろうとしているのだ。

 斯く言う私も「男のプライド」を守っていた時期もあったが、12年程前から「座る派」に転じている。この時期を明確に覚えている理由は、家内に難病の兆候が出始めた頃であり、それ以後私はアイロン掛けトイレ掃除とを自らやることにしたからである。

 トイレ掃除をするようになって、私はその汚れの酷さに驚いた。当時私は家内との二人暮らしだったから、汚れの原因が私にあることは明白であった。そして掃除をする者が考える自然の成り行きとして、まずは汚さないようにするのが第一だと思うようになったのである。私は結婚以来、家内からトイレの使い方について一言も注意を受けたことがない。ずっと我慢し、黙って掃除をしてくれていたのである。申し訳なくて頭の下がる思いをしている。そういう次第で、この問題が広く論じられるようになるかなり前から、私はトイレの汚れを意識し「座る派」を実践していたのである。

 「立ち派」を主張する男性を見ると、私は「男のプライド」というものを理解できるから、別段批判する気は起らない。ただ「あぁ この人は普段からトイレ掃除をしたことがない人なんだ」と思うだけである。自分で掃除をするようになれば、「立ち派」を続けることは絶対にありえないと信じるからである。

 今日も私は「座る派」を実践しつつ、つくづくと考えてみた。我々人類を造られた創造主様は、いったいどのような意図を持って我々の身体を設計されたのであろう。つまり男性が排尿する時の姿勢は「しゃがみ派」、「座り派」、「立ち派」のいずれを前提にしていたのかという点である。人類がその後、洋風の便器なるものを発明し座って用を足すようになると予想していたとは思えないから、多分「しゃがみ派」と「立ち派」のいずれかを考慮していたのではないかと思う。

 恐れ多くも創造主様は、女性は「しゃがみ派」男性は「立ち派」を前提としたと考えるのが自然であろう。私は体験的にも「座る派」はありえないと思う。実は、男は座ると尿が少し出にくくなるのである。慎み深い私めは、これ以上は詳しく書かないことにする。

 私は外出時に駅の公衆トイレなどを利用することがあるが、そういう時は躊躇することなく「立ち派」に変身してしまう。この日和見的「立ち派」としての経験と合わせ考えるとき、「立ち派」の利点は排尿時に重力をうまく利用している点にあることが分かる。尿の切れがよくなるからである。慎み深い私めは、これ以上は‥‥(分かったよ!)。

 しかし、これはあくまでも私の体験に基づく考察であるからして、説得力に欠ける所があるかもしれない。しかも他の文献類でこういう説を唱えているのを見たことがないから猶更である。しかし犬の所作を見ている人なら納得してもらえると思うが、雌犬は「しゃがみ派」であり、雄犬は必ず「片足上げ派」である。犬の創造主はしっかりと区別して設計しているのだ。そして、彼ら犬達は本能にしたがって創造主の意図を正しく理解しているように見える。
 犬の創造主と人類の創造主が同じなのかどうかは分からないが、恐れ多くも創造主様は人類もうまく設計してくださっているに違いない。

 人類にそのことを代々間違いなく伝えていくには(取説などないから)本能として身に付けさせる必要がある。その結果、男は「立ち派」ということを本能的に知っているのである。そして男たちは、それを「男のプライド」あるいは「男の沽券に係わること」と考えて重視し、その習慣を死守したがるのである。■

2015年9月23日水曜日

しっぽの痛み

★本記事のリライト版を、ホームページ上に
しっぽの痛み
       ── しっぽを踏まれたことがあるか?」

として掲載しました。(2015-10-1)

 多摩川沿いにウオーキングをしながら“痛み”について考えている。
 事故等で足を失った人が、もはや存在しない足の特定の部位に痛みを感じるという話を聞いたことがある。これは実際に痛みを感じるのはその部位ではなく脳の方であることを示している。

 人類はその昔尾を持っていたと言われているが、もし現在でも尾があってそれを誰かに踏まれたりしたら、さぞかし痛いことであろう。進化の過程で失われた尾の神経の一部が今の人類の身体にまだ残っているとすれば、事故で失われた部位が痛むのと同じように「尾を踏まれた痛み」を我々は体験できるのではないか、などと“しょうもない”ことを考えながら、私は多摩川のサイクリングロードを歩き続けている。

 我々は誰しもしっぽを踏まれた経験はない。しかし今思い返してみると、私は子供の頃いじめを受ける度に何度もそれを経験していたのではないかと思うようになった。私はいじめられっ子ではなかったが、それでも子供の頃身辺にはいじめはいくらでも存在した。

 いじめを受けたとき、それが物理的な暴力によるものなら打たれたところが痛むものである。しかし言葉によるいじめではそういう痛みはない。しかし“言葉による暴力”という表現があるくらいだから、本当にこたえるのはそういう陰湿ないじめの方ではないかと思う。いじめられた本人は傷つき身体のどこかに痛みを感じているはずなのだ。しかし子供はそれを表現できない。大人になるとその種の痛みのことを心の痛みと呼んで区別する智恵を身に付けるが、子供にはまだそれができないのだ。

 とりあえず身体の不調を訴えて自分の殻の中に閉じこもろうとする。痛い部位を具体的に示せないから、子供はとりあえず「オナカが痛い」と言ってごまかそうとする。よく知られているように、いじめに合っていることを示す最初のシグナルがこれである。しかし本当にお腹が痛いのかもしれないからその区別は難しい。「しっぽの痛み」と呼んで明確に区別してくれると助かるのだが。

 いじめ問題が起こる度に、私は子供達に「そういうときは“シッポが痛い”と言うんだよ」と教えてあげたい。そうすれば、子供達はもっと具体的に痛みの原因を訴えやすくなるのではなかろうか。

 自分の心の痛みが分からない人は、しょせん他人の心の痛みなど理解できないと言われている。だから私もこの際もう一度、自分の心の痛み… いやしっぽの痛みと向き合ってみようと思う。■

2015年9月21日月曜日

続々・素朴な疑問:三権分立も理解していない?

 今の政府は立憲主義を理解(*1)していないらしいから、もしかしたら三権分立も理解していないかもしれない。
【注】(*1)理解について:物事を「知っている」あるいは「分かっている」積りでも、それを自分が実践する立場になったときその通りにできない人がいる。それは、本当には“分かっていない”、“理解していない”ということである。
 そうなると安保法制に対する違憲審査請求をしたとしても、担当する裁判官に対して政府は密かに圧力(*2)をかけるんじゃないかなぁ。そうなったら国民はどう対応したらよいのか。分からないなぁ‥‥。
【注】(*2)砂川判決では、今頃になって新たな事実が次々と判明している。

2015年9月16日水曜日

続々・素朴な疑問:ストリーミング再生

   ------ 聴き放題でよいのか

 最近、定額制の音楽配信サービスが注目されている。音楽を聴いて楽しむには、これまでは音声を記録したCDを直接購入するか、あるいはネット上からファイルをダウンロードし、パソコンやスマホ等に保存してから再生するのが主流であった。これをオフライン再生と呼ぶ。

 この新サービスでは、ネット上に置かれた音声データを逐次ダウンロードしながら、同時に再生させていく方式を取る。これをストリーミング再生と呼んでいる。

 月額で千円程度を払えば(定額制)、何曲でも自由に聴くことができるらしい。聴き放題をキャッチフレーズとしているから、音楽を頻繁に聴く人を対象にしたサービスであると言えよう。ただ、ストリーミング再生の場合は聴きたい時に、聴きたい曲を求めてインターネット上に聴きに行くという形になるから、原則としてオンライン接続(*1)で聴くことが求められる。

【注】(*1)オンラインで一度聴けば、一時的に保存されたファイルを利用してオフライン再生ができるようにしたサービスもあるらしい。

 この方式の狙いは、オンラインで聴いている時だけ利用許諾を与え、それ以外の時は与えないようにできる点にあるようだ。つまり金儲けのための巧妙な仕組みであると言えよう。

 私などは昔ながらの方式で、CDというメディア上に記録されたものを購入しないと安心できない。そのCDさえ持っていれば、著作権上の問題で将来訴えられることはない(と思う)からである。ネット上から音声ファイルをダウンロードし購入する場合も条件は同じであるが、この方式では年月の経過とともに著作権上の利用許諾権を証明するものがなくなってしまう可能性が強い。将来苦労するのではないかと他人事ながら心配になる。CDを選ぶかダウンロードを選ぶかは個人の好みの問題であると言えよう。

 海外ではストリーミング再生が普及しているらしいが、日本では将来どちらが主流になるのだろうか。
 ストリーミング再生では、聴きたい時は何時もネット接続が必要となるから、通信回線上の負荷が想像以上に大きくなるのではないかと危惧している。
 音楽配信の場合、同じ利用者が同じ曲を何度も繰り返し聴くことが予想されるから、同じ内容のデータがネット上を繰り返し飛び交っていることになる(動画配信でも同じだが程度が異なる)。一般的な情報通信の立場から考えると、これは大変な無駄ではないかと思う。送信技術がいくら進歩しても、通信速度には限界がある。我々はネット上のデータ通信量を常に減らす努力を続けなければいけないと思う。

 ストリーミング再生方式は聴き放題を重視する音楽愛好者(オタク)を相手にした金儲けの手段としては有用かもしれない。しかし一般利用者(あるいは、聴きたいものだけを聴く真の音楽愛好者?)にとっては迷惑な話である。聴き放題(あるいは、動画の場合は見放題)を許していたら、将来どうなるのだろう。こういう方式が主流になるのを看過していてよいのだろうか。理解できないなぁ。分からないなぁ・・・。■

2015年8月26日水曜日

謝罪   .......... “謝らない日本人”でよいのか?

★本記事のリライト版を、ホームページ上に
謝罪
       ── 謝らない日本人”でよいのか?」

として掲載しました。(2015-9-1)

 安倍総理の「戦後70年談話」なるものを聞いて以来、私は 謝罪 についていろいろと考えている。
 70年談話 を私はテレビを通じて聞いたのだが、長い弁舌だったわりには心を打つような山場もないまま終わってしまったような気がする。長いなぁという感想だけが残った。今までの総理談話はこんなにも長いものだったのだろうか。

 表面的にさらっと聞き流すと、世情で注目されていた4つのキーワード“植民地支配”,“侵略”,“反省”,“お詫び”はそれぞれ登場しているから、何となく分かった積りになった人も多かろう。だが、私は何か解せないところがあった。そこで、翌日の新聞に掲載された全文をしっかりと読んでみた。その結果、これは(多分、官僚が作った)“巧妙に作られた下敷き”があって、その下敷きの枠に沿って書き上げられたものではないかと思うようになった。実に巧妙に構成されていたからである。

 全体は大きく二つの部分から成り、前半では日本の戦後70年の歩みが紹介されている。侵略 については、負の側面を薄めようとしているところもあって気になるが、ここでは深入りしないことにする。
 前述の4つのキーワードはこの前半部分に出てくるのだが、よく読むと「痛切な反省と心からのお詫び」という表現の主語があいまいで、“”(安倍総理)の言葉ではなく歴代内閣の表明をただ引用しただけであることに気が付く。そして「こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないもの」であるとし“全体として引き継ぐ”という形で締めくくられている。つまり“”がお詫びをしている訳ではないのだ(実に巧妙である)。

 後半の部分は、これからの若い世代への期待と日本の世界に対する貢献が述べられている。この中に「あの戦争には 何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」という部分がある。この部分が、安倍総理が一番言いたかったことなのであろう。

 新しい世代の子どもたちは、もうこれ以上「謝らなくてよい」ようにしたい。しかしこれでは諸外国からの反発が予想されるから、同時に抜かりなくこうも言っている。「私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければならない」と。

 我々日本人にとって、常に謝り続けるのは辛いことである。だから「謝らなくてよい」となれば、誰でも共感したくなる。しかし私は、やはり謝るべき時には、何時でも心から謝罪できる人間でありたいと思う。そのためには、何について謝罪するのかをしっかりと理解していなければならない。つまり日本の歴史をしっかりと頭に入れておかなければ、謝ろうにも何を謝ればよいのか分からないからである。

 安倍総理の「過去の歴史に真正面から向き合わなければならない」という言葉とは裏腹に、日本の歴史教育は日本にとって不都合な歴史上の出来事はできるだけ教科書に載せない(あるいは触れない)方向へと動いている。不都合な歴史上の出来事を教科書に記載したりすると「自虐的歴史観」であるとして排斥され、教科書として採用されない。つまり、次の世代には教えないようにしているのである。

 その結果、日本の歴史を正しく理解していない若者が増えていくことが予想される。しかも、彼らは謝罪しなくてよいという免罪符を手に入れているから、日本の不都合な歴史上の出来事を知らず、謝ることもしない日本人がこれから続々と海外に出ていくことになる。これは由々しきことである。

 海外に行く目的が「買い物」や「観光」だけならあまり問題は起こらない。せいぜい「爆買」とか「マナー違反」でひんしゅくをかう程度であろう。しかし仕事や留学などで長期間海外に滞在する場合は、現地の人々と親しく交わる必要があり場合によっては歴史問題で意見を求められる、あるいは議論を挑まれる機会があるかもしれない。

 若者たちが日本という国に 引き籠って 外国へ出ていかなければ、多分歴史問題で自己の意見を求められる経験をすることはないかもしれない。日本に居て多くの日本人に囲まれて生活している限り、歴史問題でいくら世間に通用しない“とんでもない歴史観”を語っても恥をかくことはない(国会や地方議会の議員さんの中にそういう人が沢山いるじゃないですか)。しかし単身海外に出ていって、そういう環境に身を置いたとき、一人で自己の主張を通じて相手を説得することができるかどうか、という問題である。

 日本にとって不都合な出来事も含めて歴史上の基本的な知識を学んでいないと、国定教科書などで自国中心の歴史観を学んでいる外国人を前に、我々は正しい自己主張ができなくなる。そういう人間は卑屈になるか、あるいは無暗に反発するかいずれか両極端に走ることになろう。
 「私には分かりません」と逃げる手もあるが、それは欧米では通用しない。欧米で「ホロコーストを知らない」と言えば、相手から無知だと思われ相手にされなくなる。グローバリゼーションの時代に外国人に向かって日本の歴史や文化を説明できなければ、同じように無知だと思われることだろう。恥ずかしながら、私は何度もそういった経験をしてきたのである。

 「あの戦争に“何ら関わりがない”」と信じてきた人たちも、実際にそういう場面に遭遇すれば、実は“関わりがある”ということを納得できるであろう。日本の歴史を勉強して、必要なら躊躇することなく心から謝罪のできる人間になってほしいと思う。■

2015年8月24日月曜日

素朴な疑問:首相の女性観

 安倍首相のヤジが止まらない。

 ・5月28日の衆院特別委員会で、民主党の辻元清美氏に対し「早く質問しろよ」とヤジを飛ばした。 

・8月21日の参院平和安全法制特別委員会で、民主党の蓮舫代表代行の質問中、自席から「まあいいじゃん、そんなこと」とヤジを飛ばした。

 首相は日頃から「法案を丁寧に説明する」とか「国民に分かりやすく」とか言っている割には、実際の行動はそれとかなり乖離した行動を取っているように思う。偶然かもしれないが、安倍総理は女性議員から質問されると普段以上にエキサイトするようである。一般に女性議員の発言中はヤジを飛ばす議員が多いらしいが、これは女性に対する偏見からきているのではないか。安倍政権が成長戦略の柱として掲げる「女性の社会進出」というのもどうやらお飾りに過ぎないような気がしてきた。首相の女性観はどうなっているのだろう。分からないなぁ・・・。■

2015年7月27日月曜日

朗読・日本国憲法

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日本国憲法

         ‥‥朗読 木下倶子(*1)


  日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。


第二章 戦争の放棄


第九条 戦争の放棄 軍備及び交戦権の否認
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


第三章 国民の権利及び義務


第十条 国民の要件
 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。

第十一条 基本的人権の享有
 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

【注】(*1)朗読は、妻 倶子によるものです。昔朗読を趣味として習っていた頃、先生に提出するために音声録音したテープが残っていたのでそれを使いました。妻は不治の病のため気管支切開を行い現在では声を失っています。

2015年7月22日水曜日

素朴な疑問:実現可能性の研究(Feasibility Study)

 東京オリンピックの主会場となる新国立競技場の当初の計画が白紙に戻ったようである。結構なことである。しかし私はこの案をそのまま葬り去ってはいけないと思う。どこで見積もり額を誤ったのか、しっかりと検証すべきである。

 それにしても、建築業界の「見積り技術」というのは一体どうなっているのだろう。情報処理分野の見積り技術もそれほど立派なものではないが、少なくとも一千億円単位のものが突然二倍になるようなことはない。それでは、もはや“技術”とは呼べない。どんぶり勘定と呼ぶべきであろう。

 日本の官僚たちは他人の金(OPM:Other People's Money)だと青天井と思ってしまう傾向がある。しかも、オリンピックのようなビッグ・イベントでは計画が頓挫する可能性はないからこの好機を見逃す筈がない。今回はその度が少し過ぎたのではないか。東日本大震災時の復興予算流用では、我々国民は何度もだまされている。どさくさに紛れて関係のない物(たとえば競技場周辺の施設)まで密かに取り込んで予算を膨らませたのではないかと勘繰りたくもなる。

 「見積り技術」ばかりでなく、建築業界での「(予算額も含めての)実現可能性の研究」(Feasibility Study)は一体どうなっているのだろう。分からないなぁ・・・。■

2015年7月15日水曜日

クラス会:顔の焦点が合う

 5月から7月にかけて同窓会が目白押しであった。正確に言うと“同窓会”と“同期会”であるが、最後の7月に計画されていたのは高校3年時の“クラス会”だった。10年程前、高校2年時のクラス会に参加して大変楽しい思いをしたので、今回も大いに期待して参加することにした。卒業以来57年ぶりである。昔の仲間たちが私を覚えていてくれるか多少不安な気持ちもあった。

 そこで、あらかじめ卒業時の全員写真を見ながら各人の名前と顔を確認しておくことにした。しかし誰が出席するかは当日会場へ行ってみないと分からない。私も、自分の名前がすぐ分かってもらえるようにと専用の名札を胸に着けることにした(こういう会では何時も持参し用いている)。
 最近は、幹事さんがあらかじめ紐付きの名札を用意していてくれて、全員がそれを首からぶら下げて会場に入るというスタイルが多いようである。しかし折角の名札が裏返しになって読み取れないこともある。胸に止める名札ならそういう心配は無用であろう。

 当日会場へ行ってみると案の定知らない人ばかりのようである。私だけでなくお互いに相手を確認できないで戸惑っている人が多い。受付で渡された出席者の名簿を見ると、私と同じ会社に勤務していた人、中学、高校と一緒だった人、コンピュータ関係の集まりで何度か会っている人などが出席予定になっている。親しい人が結構多いようで少し安心する。しかし何といっても卒業以来初めて再会する人が圧倒的に多い。

 席に座ってから周りの人たちと協力し名前と顔を確認し合い、何とかほぼ全員の顔の確認ができた。皆さん、それぞれ素敵に齢を重ねておられるようである。60代だった10年程前のクラス会での経験とはかなり異なっている。こうして見ると、人間は70代になると急速に容姿が変わってしまうような気がしてきた。本人にはそういう自覚はないのが普通だから、他人から見たら私も同様なのであろう。

 しかしいろいろと会話を重ね各人のスピーチなどを聞いていると、時間とともに次第に記憶のネットワークがよみがえってくる。少しずつ“現在の顔”と“昔の顔”とが重なり合って、いわば“顔の焦点”が合ってくるのだ。理屈では納得していても、何となく別人(*1)のような雰囲気を感じて壁になっていたものが突然取り払われる瞬間がある。不思議なものである。しかし何故か、女性についてはまったく顔の焦点が合わなかった。

【注】(*1)人間の細胞は毎日約20%が入れ替わっていると言うから本当は別人なのかもしれない。“昔の記憶”は脳細胞から成るネットワーク構造として脳内に保存され、入れ替わることなく受け継がれていくらしい。つまり昔の 記憶だけを共有する別人と考えることもできる。
帰宅後、会場で撮った写真を整理し自作のアプリで編集する作業を行った。編集したものをウェッブ上にアップすれば自分の務め(?)は完了である。写真が欲しい人はそこからダウンロードすればよい。プリントするか否かは本人にまかせる。ただ、ダウンロードする場合は人それぞれ好みの画素数があるから、大中小3種類のファイルから選べるようにしておく。しかし問題は、参加者のほとんどがインターネットをあまり利用していない世代の人たちなのだ。まあ、私のやっている“務め”とは、単なる自己満足に過ぎないのだが。

 この作業をしている間に、私は参加者の顔の“今昔”をじっくりと比較する機会を得たのであった(大変失礼ながら)。
 元オペラ歌手だった男は、眼光炯々として素晴らしい顔立ちになっていた。信念ととも生きてきたのであろう。“男の顔”は自分でつくるものと言われているが、なるほどと思った。
 大学教授として長年活躍してきた男は、その職にふさわしい“穏和な教授”の顔立ちになっていた。企業人から大学教師に転じた私のような男にはとても身に付かない独特の雰囲気を持っている。
 中学校の頃から同級で同じコンピュータ業界にいた男は、なぜか卒業以来一度も顔を合わせる機会がなかった。インターネット上に自分の顔写真は出さない主義の人らしい。卒業以来初めて再会し彼の最近の顔を確認できたのは、私にとっては最大の成果であった。

 また何年か後に、再び会って“顔の焦点”が合うかどうか試してみたいものである。

2015年6月18日木曜日

素朴な疑問:入れ替え戦

 交流戦が終わった。昨年に引き続きパ・リーグ(*1)の圧倒的な勝利であった。
 (あまり大きな声では言えないんですけどね‥‥)私はこの時期 何時も思うんですよ。パ・リーグの最下位球団とセ・リーグ(*2)の最上位球団が入れ替え戦をやるようにしたらよいのではないか、と。なぜ、そういう提案が出てこないんでしょうね。分からない・・・。
【注】(*1)パ・リーグ(Powerful League)
       (*2)セ・リーグ(Second League)

2015年6月17日水曜日

素朴な疑問:かむ

 「かむ」と言うと、最近は「言い間違える」ことを指すらしいが、ここでは本来の意味である“噛む”についての疑問を取り上げる。

▼噛む1:
 寝床の中でラジオを聴いていたら、男性アナウンサーが握り寿司の食べ方について話していた。
・最初にシャリの旨さを味わいたい人はそのまま口に入れる。
・寿司ネタを味わいたい人は上下を逆にして口に入れる。
・両方を同時に味わいたい人は寿司を横向きにして(えっ!)口に入れる

 色々な主義の人がいるらしい。一体どれが正しい食べ方なのか、寿司屋の主人に聞きたくなったのだそうである。

 寿司屋の主人の答えは、概略以下のようなものであった(例によってウトウトしながら聴いていたから間違っているかもしれない)。
 どんな形で口に入れても構わないが、寿司は本来 口中調味(*)で食するものであるから、個々の味にこだわるのではなく、口の中で噛んで唾液とまじることによって美味しさが生まれてくる。したがって飲み込む直前が一番美味しい状態なのだそうである。それを味わうべきだということであろう。
【注】(*)口中調味 については、以下が参考になる。
 http://www.wasyokuken.com/health/kochu.html
私は半分眠りながら、なるほどと思った。飲み込む直前が一番美味しい とは至言である。テレビを見ながら、あるいはスマホをいじりながらの食事では、旨さを生む元である唾液がそもそも出てこないから美味しさも味わえないのではないか。テレビのグルメ番組でよく見かける光景だが、ごちそうを口に入れた瞬間に顔色を変えて(表情が変わるということですよ)「うまい!」とか「ヤバイ!」とか叫んでいる芸能人がいるが、彼らは「口中調味」などという概念は到底理解できないであろう。

▼噛む2:
 寝床の中でラジオを聴いていたら、ゲストの医師が、食事中は100回は噛みなさいと教えていた。一口、口に入れたら箸置きに箸を戻してゆっくりと噛み続ける。唾液とまざると消化に良いだけでなく高齢者に多い誤嚥も防げるという。唾液には活性酸素を殺す物質も含まれているので癌の予防にもなるのだそうである。この医師はしっかりと実践しているのであろう。

 私は半分眠りながら、なるほどと思った。私も子供の頃から親に「よく噛みなさい」と注意されていたが、早食いの癖だけは直らなかった。この齢になり誤嚥性肺炎に気を付けなければならない立場であるから、「100回噛み」に何度かチャレンジしてみたが、食事の時間が長くなってしまいどうも長続きしない。困ったものである。

▼そこで、ふと思った:
 100回噛みを勧める医師は寿司を食べないのだろうか。
100回噛みをした寿司は「飲み込む直前が一番美味しい」と言えるのだろうか。分からない・・・。■

2015年5月8日金曜日

30分インターバル運動のすすめ

★本記事のリライト版を、ホームページ上に
30分インターバル運動
       ── 定期的に身体を動かすことの重要性」

として掲載しました。(2015-6-1)

仕事をやめて以来、書斎の机の前に座っている時間が増えた。自分の自由になる時間が増えて大変結構なことなのだが、一つだけ気懸かりなことがある。コンピュータなどをいじっているとつい夢中になってしまい、気が付くと数時間も同じ姿勢で過ごしている自分に気が付くからである。私は深部静脈血栓症という病気を抱えているので、時々立ち上がっては身体を動かす必要がある。しかるに、私は何かに熱中すると集中力が高まって自分の関心事以外のことは忘れてしまう傾向がある。当然、身体を動かすという大事なことも忘れてしまう。

 そこで“30分インターバル運動”というのを始めることにした。これからの高齢化社会では、特に年配者には是非とも心得ていて欲しいことなのだが、それを理解してもらうためには定期的に身体を動かすことの重要性を先ず知ってもらうことが第一であると考えた。そこで、自分のミスで右脚に血栓が出来てしまった経緯を先ず紹介しておこうと思う。

◆長時間通勤
 私は大学教師をしていた頃、毎週1回は川崎市から埼玉県の久喜市にある大学のキャンパスまで電車で通っていた。JRと私鉄を乗り継いで(当初は)都合3回の乗り換えが必要であり大学まで2時間半ほど掛かる。しかし午後からの授業を担当していたので10時半頃に家を出れば午後一番の授業には間に合った。したがって、行きはそれほど苦にはならなかったが帰りはつらかった。プログラミングの授業を2コマ連続して担当していたので、貸し出したコンピュータの後片付けを責任を持ってやらなければならない。授業が終わるとぐずぐずしている学生をせきたてながらコンピュータを回収し、それをロッカーに収納して施錠するということを確実に行わねばならなかった。その間に学生から質問を受けたりする。そんなこんなで授業を終えると4時半頃になってしまう。

 それから大学のバスを利用してJRの久喜駅まで行き、往路と同じルートで帰宅することになる。帰りの電車はかなり混んでいて全く空席がない。都心に近づく頃には通勤客の帰宅ラッシュの時間と重なり増々混んで来る。家に着くのは6時半から7時頃になるが、それまでの間座ることができるチャンスは皆無である。つまり授業の始まる1時から帰宅する7時頃までずっと立ちっ放しでいなければならないのだ。これはかなりつらいことではあったが、長時間通勤には慣れているので最初の頃は体力的に何とかなっていた。

 その後何年かすると、埼京線が開通しそれを利用すると3回の乗換え(登戸、新宿、赤羽)が2回(登戸、新宿)で済むようになった。ラッシュ時の乗換えはかなり体力を要するからこれでかなり楽にはなった。しかし座れないという事情は変わらなかった。

◆痛恨のミステーク
 更に何年かして、素晴らしい解決策が見つかったのである。実は久喜駅には私鉄の東武伊勢崎線も乗り入れている。この線が、他の私鉄と相互乗り入れをするようになったのである。これを利用すると久喜駅から東武伊勢崎線の北千住を通り、更に半蔵門線で渋谷まで、そして田園都市線で溝の口まで乗り換えなしで一気に行けることになる。私鉄の溝の口駅は、私の家の近くのJR駅の隣りの駅なので後は歩いて帰宅できる距離なのだ。なんという幸運! 信じられない程の幸運に恵まれ、私は久喜駅発の電車で最初から座ったまま一直線で帰宅できることになったのである。

 このルートは距離的にはかなりの遠回りになるので乗車時間は約2時間と長くなる。そこで帰宅時だけこのルートを利用することにした。帰りで疲れていることもあり、一度利用すると以後は迷うことなくこの楽な方のルートで帰宅するようになってしまった。これが第一の間違いだったのである。

 電車の柔らかい座席に長く座っていると、つい眠たくなってしまい30分位は眠ってしまう。途中で目が覚めると後は本を読んだりして過ごすのだが、ずっと同じ姿勢でいたために腰や尻のあたりが痛い。これでは血行が悪くなると思い、私はできるだけ足先を動かしたりしていた。本当は立ち上がって身体全体の筋肉をほぐしたかったのだが、最初のうちは空いていた電車内も、都心に入り今や通勤客で満員の状態になっている。とてもそんなことをする余裕はない。
 こんなことを毎週繰り返しているうちに私は血栓症になってしまったらしいのである。注意していれば防げた筈の痛恨のミステークであった。

 最近は上野東京ラインの開業とともにJR各線の間でも相互(直接)乗り入れが行われるようになった。「北関東から熱海まで」それこそ乗換えなしの直通で行けるようになったらしい。便利ではあるが年配者は気を付けた方がよいと思う。乗り継ぎ不要というのは良いことばかりではないのである。

◆身体を動かすことの必要性
 ところで、私の深部静脈血栓症が見つかったのは偶然のことだった。たまたま脚のむくみが酷いので病院で診てもらったところ、右脚のふくらはぎの部分に血栓ができていることが分かったのである。血栓はむくみの直接の原因ではなかったが、見つかったのは幸運と言うべきであろう(むくみの原因は未だ分かっていない)。
 血栓というのは存外簡単にできてしまうものらしい。治療法は血栓をそれ以上成長させないようにすることが中心となる。以来私は抗凝血薬を毎日のみ、一日中弾性ストッキングを穿いていなければならない身となってしまった。

 医療専用の弾性ストッキングを着けると血流が良くなるのだという。血管が締め付けられて細くなったら逆に血流が悪くなるのではないかと思うが、そうではないらしい。足全体が圧迫され続けるため下肢の静脈のよどみが少なくなり、下肢静脈の血流がよくなるのだそうである。川幅の広い大きな川の水はゆったりと流れるが、川幅が狭いと水流は速くなるという理屈である(*1)
【注】(*1)ここでは血液の流れを、川の流れのアナロジーで説明した。しかし交通渋滞での車列の流れの問題解決にこのアナロジーを適用するのは理論的には可能であるが、明らかに現実的ではない。
医師の説明では、下肢の血液を心臓まで送り返すには大変な圧力が必要になり心臓の負担となる。そこで運動をすれば両脚の血管がポンプの役割を果たしくれて血液を押し上げる助けになる。しかし齢を取ると血管が固くなりポンプの役を果たす力が弱くなってしまう。そこでストッキングで絞めつけて筋肉が収縮した状態にしておけば、身体を動かすとそれが圧力となってポンプ機能を復活させることが期待できる、ということらしい。つまりストッキングを付けて両下肢を動かすことが血栓予防には特に重要なのである。

 毎朝起床すると私はまずストッキングを身に着けるのだが、これが慣れないとなかなかうまくできない。初めの頃はかなりの時間を要していた。ストッキングを一日中身に着けているのは更に大変で苦痛以外の何物でもない。特に夏の暑い季節はつらい! 本当につらいのである。暑い夏を迎えて思うのは、ただ自分の不注意に対する悔悟の念ばかりである。

◆時間間隔
 身体を動かす間隔(インターバル)を私は30分と設定したが、これは各人の事情に合わせて適当に設定するのがよいであろう。
 私がまだ企業人であった頃、毎朝の電車通勤では2時間を要していた(昔から私は長時間通勤に運命付けられていたらしい)。JR線で約36分、立川で乗り換え再びJR線で約30分という具合だった。乗り継ぎではかなりの待ち時間を要したから、これが直通で行けたら1時間で済むのにと何度思ったことか。しかし今から思うと、この長時間通勤で血栓症を引き起こさずに済んだのだから、30分というは丁度良い間隔だったのだろう。そう思って30分と設定したのである。

◆実践方法
 30分インターバル運動を実践するには、30分ごとにアラームを鳴らす時計が必要となる。昔の家には柱時計というのがあり、1時間ごとに「ボーン」という音を、その時の時間の数だけ鳴らしてくれたものである。夜中に目覚めたとき、この音を聞くと思わずその数を数えてしまい頭がさえてしまって困ったのを思い出す。こういう柱時計は30分になると1度だけ「ボーン」と鳴るようになっていた。そういう時計があるとよいのだが、現在ではなかなか手に入らないようだ。いろいろと考えた末、私はコンピュータ上の時計を用いることにした。普段から利用しているフリーソフトの「SGウォッチ」(これは素晴らしいソフトです)で試してみたところ、私の要求を十分に満たしているようである。

(SGウォッチ)

 アラームが鳴ると私はすぐ立ち上がり、スクワット(Squat)、プランク(Plank)、ダンベル(Dumbbell)、踏み台昇降(Step aerobics)などの運動の中から適当に選んで実行することにしている。自分の定めたノルマを30分ごとにやっていると、午前中だけで一日分のノルマをほぼすべて完了してしまう。午後は専ら軽い運動だけにする。お手玉をやったり、片足立ち(1分)をやったり、ただ立ち上がるだけ、だったりといろいろである。

 アラームとして何を鳴らすかも重要である。私の場合は音楽を鳴らすことにしている。何かに夢中で取り組んでいると1度のベル音のみのアラームでは気が付かない恐れがある。音楽なら安心かというとそうでもない。何かに熱中していると「あれ? いま確か音楽が鳴っていたような気がするが・・・」となることが多いのだ。慌ててタイマーの画面を確認すると今まさにアラームが鳴り終わった直後であることが分かったりする。ある程度の長さ(4分前後)のミュージック・ファイルをベル音ファイルの欄に設定しておくとよい。

 たとえば、私の場合「コンドルは飛んで行く(4分22秒)」や「この広い野原いっぱい(3分55秒)」などが丁度良い長さである。一度「さとうきび畑」を使ったことがあるが、これは10分以上なので長すぎた。アラームが終わるとすぐまた次のアラームが始まるという感じになってしまい忙し過ぎてうまくいかなかった。

 ここで“30分インターバル運動”の運動とは“Exercise”の意味ではなく、キャンペーン“Campaign”くらいの意味である。高齢社会で長生きし(たとえ持病を持っていても)健康で普通の生活が送れるようにするためのすすめである。
 そして血液の流れを良くして脳梗塞や虚血性心疾患といった循環器系の病気を起こさないようにしたいと思う。ご同輩の方々が関心を持ってくれることを切に期待しています。■

2015年4月17日金曜日

目覚し時計

★本記事のリライト版を、ホームページ上に
目覚し時計 ── 古い物の価値を見直す
として掲載しました。(2015-5-1)

私の寝室には古い目覚し時計が置いてある。貰い物なので、それがどの位の価値の物なのか今まで関心を持つこともなく、ただ使い続けてきた。すこぶる使い勝手が良くて私は大変気に入っている。
 夜中にふと目覚めたとき「今、何時頃かな?」と思うことがよくあるが、そんな時そっと手を伸ばして時計の上部に軽く触れると『4時12分です』などと女性の声で報せてくれる。アラームのオン/オフなどは手探りで簡単に切り替えられるから、就寝前に設定し忘れたことに気がついたとしても(半分眠りながら)直すことができたりする。1分間隔で連続して時間を報せる機能もあるから、昼間でもいろいろな利用法が考えられる。「おぬし、なかなかやるのう」という感じの存在なのである。

 まあ、こういった機能は大抵の目覚し時計には装備されているから別に驚く程のことではない。私が驚いたのは、これだけの機能があり しかも一日に何度も女性の声で喋らせて酷使しているのに、電池の消耗が極端に少ないことである。ここ4~5年は電池交換をした記憶がない。そして故障したことが一度もない! もしかすると、これは凄く高価な目覚し時計なのかもしれないと思うようになってきた。

 普通、電池交換をすると時間がリセットされてしまう(作業の間バックアップがないので、これは仕方がない)。そこで毎回、時間設定をしなければならなくなる。ただ困るのは、こういう事態になるのは数年に一度なので時間設定の手続きにいつまでも不案内のままで毎回手こずっていることである。時間設定の手順は、不注意で時間が変更されたりしないよう意図的に複雑な手順になっている。そのため、いつもやり方が分からず時間を食ってしまう。確か4つのボタンを同時に押しながら、もう一つの(少し離れた場所にある)ボタンを押すことによってトリガーが掛かる筈なのだが、これがなかなかうまくいかない。太い指の腹で小さなボタンを同時に4つ押すというのは結構難しいのである。詳しいやり方が本体底部に張り付けられた紙に書かれているのだが、時の経過とともに色褪せてきて、おまけに汚れが付いてしまって肝心のところが読み取れなくなってきている。そこで私は、確認した手順と方法(複数のボタンを同時に押すための自己流のコツ)とをその紙の上に手書きすることにした。

 こうして何年も愛用してきた我が大切な目覚し時計が、最近少し変なのである。あらぬ時に、突然『アラームは午前5時です』などと喋りだすようになってしまったのだ。『午前5時で‥‥』とぶつ切りになったり、『アラームは、アラームは、‥‥』と部分的に繰り返すこともある。認知症の兆候が出ているのかもしれない。

 事ここに至り、私はこの時計の寿命が そろそろ尽きる時期に近づきつつあることを悟ったのである。一体何年使い続けてきたのだろう。昔の記憶をたどっていくと、どうやら30年位になるようである。30年も使えば、そろそろ買い替えてもいいかなと思う。これと同じものが見つかったら買い替えよう。そう思ってウェッブ上でいろいろ調べてみると同じ製品の後継機種が見つかった。価格もそれほど高いものではない。しかし外装はまったく異なっている。モデルチェンジしてしまい同じものを見つけるのは困難であることが分かった。

 新しい機種に乗り換えても、多分同じように長持ちするとは思えない。最新の電子機器は性能は素晴らしいかもしれないが、長持ちしないのである。昔の機械式の構造のものは堅牢で長持ちするが、電子的な装置ではとても30年(*)はもたないであろう。
【注】(*)私めは高貴な「後期高齢者」であるからして、これから30年も長生きする予定も可能性もない。しかし不思議なもので、物を買うときは相変わらず長持ちするものを買いたいと思う。

(SEIKO TALKLINER)

 そうなると、この時計(機械式ではないが)を壊さないようにして使い続けた方が賢明であると、私めは判断したのである。

おぬし、たいした代物じゃのう。長生きせいよ

2015年3月28日土曜日

河川敷スクワッティング

★本記事のリライト版を、ホームページ上に「河川敷」として掲載しました。(2015-4-2)

 私は天気の良い日は多摩川のサイクリングロードを歩くことにしている。昔はこの場所でサイクリングやジョギングをしていたのだが、この齢では余り激しい運動はできないからウオーキング程度にしておくのが安全というものであろう。

 家を出てからしばらくは幹線道路を歩くが、東名高速の下辺りから多摩川の堤に出て川上の方へと向かうことにしている。堤の左側には多摩沿線道路が走り、右側には広大な河川敷が広がっている。多摩川の水量は豊かであるが、河川敷には普段は川の流れに影響されない豊かな自然が残されている。

 堤の上のサイクリングロードを歩きながら遠方に見える山並みや東京方面の景色を眺めるのも楽しいが、毎度のこととなるとすぐ見飽きてしまう。その点、変化の激しい河川敷の様子を細かく観察することの方がはるかに興味深くまたストレス発散にもなっているような気がする。

 河川敷は木や草原で占められているが、堤に近い部分には企業の運動グラウンドやテニスコートなどがある。最近ではフットサルを教える運動クラブの施設なども作られている。これらは公に許可を得ているものであるが、個人が不法に占拠(スクワット(*1))して自分の耕作地にしてしまっている場所も多い。
【注】(*1)スクワット(squat)と言うとインターネットの世界ではサイバースクワッティングが話題になるが、ここでの“スクワット”は本来の意味である「無断居住」、「不法占拠」のことである。
 これらの不法耕作地は、自分の領域を明確にするためなのであろう例外なく垣根で囲われている。入口には扉を付けて鍵が掛けられるようになったものもある。物置を備えていたり、廃品を利用して作られた水槽など苦心の跡が分かるので、見ているとなかなか楽しい。
長年見ていると、不法耕作地のうちでその後放擲された区画は一つもないようだし、多分同じ持ち主(?)がずっと使い続けているように見える。不法地主は自転車などでやって来ては畑の作物の手入れに余念がない。多分、近隣に住む人達なのであろう。畑の耕し方などからズブの素人の畑仕事であることがすぐ分かる。しかし中にはかなり立派な畑もある。整然とした畝作りで季節ごとに植える物を切り替えたり休耕にしたりして農作業のプロとおぼしき人もいる。成果物の野菜類を台車に載せて運んでいるのを見ると、とても個人では消費しきれない量であるから多分八百屋等を経営している人ではあるまいか。

最初の頃は批判的に見ていた私も、長年(40年位になる)見ているうちに何となく彼らに親しみを持つようになってしまった。一方彼らは、私のような通りがかりの人を見ると、苦労して作った成果物を盗もうとしているのではないかと警戒の目で見ているような気がする。これは思い過ごしであろうか。

 こういった河川敷での不法占拠耕作地については、今まで何度も新聞等で報道されてきた。最近も多摩川の事例が地方版(川崎支局)で報道されたのを記憶している。その記事を読んで、これまでは不法地主の方を(心理的に)応援していた私も、これは整理しないといけないと思うようになった。

 そろそろ管理が厳しくなるのではないかと予想していたのだが、はたせるかな2月頃から川下の方で何か大掛りな作業を連日行っている様子が見えるようになった。かなりの作業員が関わっており、車も数台止められているようだ。ウオーキングで来る度に観察していると、川下から私がいる川上の方に向かって作業場所を少しずつ移動してきている。間もなくそれが何であるかが明らかになった。不法耕作地を整地して関係者以外入れないよう柵で囲っているのであった。
よく見ると、まだ整地されていない畑には注意書きが張られた看板が立てられている。立ち退きの要請が書いてあるのであろう。いろいろな廃品が持ち込まれているので後片付けも大変なようである。大型のごみを搬出するためのトラックも来ている。ものすごく時間が掛かる作業のようだ。

 私が堤に出て歩き始める位置にまでとうとう作業が到達した。これから先はグラウンドが続くので一区切り付く地点である。作業車に掲げられている看板には発注者名が「国土交通省 京浜河川事務所」と書いてある。県か市のやっている仕事かと思っていたが国の仕事だったのだ。なるほど、多摩川は一級河川であるから当然のことながら国が管理しているのである。

 この位置から川上に向かっては、企業の運動グラウンド、テニスコート、運動クラブ等が続いているので不法耕作地は存在しない。そして更にその先には舟島稲荷神社と二ケ領用水の取水口があり、その辺りにはまた耕作地が沢山ある。

次はそこへ作業が移るのだろうか。今のところまだ作業は始まっていないようであるが、私が見慣れた畑があるので少し心配である。
 気が付くとまた不法地主の方の心配をしている自分がいる。困ったものである。■

2015年2月22日日曜日

インターネット検索でのつまみ食い

 つまみ食いというのは、実にいいものである。他の人をさしおいて一人でじっくりと賞味できる特別な行為だからであろう。ただ一つ欠点があるとすれば、それは多少の後ろめたさを伴なうことだ。大人になった今でも、それは少しも変わらないような気がする。そして、つまみ食いしたものは特に美味しく感じられる。多分、スリルという隠し味が ちょっぴり加味されるからであろう。

 私の子供の頃は終戦直後の食べる物のない時代であったから、尚更つまみ食いに対する憧れは強かったように思う。しかしどの家庭でも、当時は今よりかなり厳しい躾けがなされていたから、簡単につまみ食いができるような環境ではなかった。
 ある時、台所にある戸棚の引き戸を開けてみると小皿が一つ置いてあり、その上に小さな白い団子が三つほど「食べてください」と言わんばかりに置かれているのを発見した。一瞬食べようかと思ったが、そこはそれ、躾けのよい子(?)であった私は、もちろん手など出したりはしなかった。後で考えると、あれはネズミ退治のための“猫いらず”が入った毒団子だったのだと思う。戸棚を覗き込むこと自体が少し後ろめたい行為だったので、私は母親にそれを確かめるようなことはしなかった。つまみ食いと言うと、私はあの白い団子のことを今でも時々思い出すのである。

 インターネットの世界にも“つまみ食い”というのがある。
 我々はインターネット検索を利用して何でも簡単に調べることができる。検索システムにキーワードを入力しさえすれば、それに関連する情報をピンポイントで見つけ出してくれる。便利な世の中である。しかしインターネット検索に慣れてくると、そこで得られた情報を自分の思考を深めるために利用するのではなく、自分にとって都合の良い部分だけ抜き出して別の目的に利用するようになる(これが結構オイシイ)。

 得られたテキストの文脈全体から知識を得るのではなく、その中から自分が便利に使えそうだと思う“文脈の断片”だけを残し、それ以外の文脈はすべてそぎ落としてしまう。これが“つまみ食い”と呼ばれるものである。

 一度この便利さを経験すると、もうやめられなくなってしまう(つまみ食い依存症)。何かリポートの作成が必要になると、直ぐさまインターネット検索でつまみ食いを繰り返すようになる。そして、集めた文脈の断片を切り貼りすることによって自分の意見らしきものを構築していく術を身に付ける(コピペ依存症)。更に依存度が深まると、他人の意見を自分の意見だと勘違いするようになる。こうしてつまみ食いから得た“自分の意見”に頼るようになり、結果として非思考型の人間へと改造されていく。

 最近の若者達は本を読まないそうである。新聞記事(*)によれば、1日あたりの読書量が0分の大学生が実に4割を超えているという。本を読まない人がつまみ食い依存症になると更に困ったことになる。他人の主張に容易に乗せられてしまうからである。その結果、今話題になっている「過激な思想」にも簡単に染まってしまう。
【注】(*)大学生の1日あたりの読書量は
       0分 40.5%
       10分未満 1.8%
       10~30分 16.2%
       30~60分 20.7%
       60~90分 12.7%
       90~180分 5.1%
       180分以上 1.9%
       無回答 1.1%。

 たとえば、ある考え方を広めようと論文を作ることにしよう。これを図1で表すことにする。
(図1)

 この論文の要所には、他人の論文等からつまみ食いした断片(たとえば、①,②,③,④,⑤,⑥,⑦など)をはめ込んで議論のベースとして用いる。
(図2)

 ここでつまみ食いした部分は自分の意見ではなく、他人の意見であることを明確にしておく。ただ、自分に都合のよい形に解釈を微妙に変更してしまう場合もある。しかし読者はそれに気が付かない。いちいち原文を読んで確かめる人は少ないからである。
 つまり、公に認められている事実をベースに論文が書かれているように見せる。したがって、そこから導かれた結論は当然正しい! と思わせるためである。このようにして作られた論文(図3)は表面的にはもっともらしく見える。
(図3)

 しかし普段から書物を読みしっかりと勉強している人は、自分の頭の中に(図4)のような知識の体系ができているから騙されない。論理展開のベースとなる事実が疑わしいことにすぐ気が付く。もともと整合性のないジグソーパズルの小片(ピース)を無理やりに押し込んだものだと分かってしまう。
(図4)

 しかし本を読まず、その方面の知識の体系を身に付けていない人はたちまち騙されてしまう。そして「私はすべて読みました。そして全部、ちゃんと理解しました!」などと発言する学生がでてくるようになる(具体的な事例は「インターネット検索の功罪」を参照)。

 このように、文脈から切り離された知識を利用すれば、他人を惑わす論を展開することができる。普段本を読まず、つまみ食いに慣れていて非思考型の人は、それを逆に利用されて誤った方向へと容易に導かれていってしまう。論理の手順さえもっともらしく組み立てられていれば、ベースとして利用された事実(らしきもの)の信憑性には疑問を持たないからである。「インターネット上から得られた知識」というだけで信じてしまうようなものである。

 若者たちが、過激な思想に簡単に取り込まれてしまうのは、こんなことも影響しているのではあるまいか。