2015年6月17日水曜日

素朴な疑問:かむ

 「かむ」と言うと、最近は「言い間違える」ことを指すらしいが、ここでは本来の意味である“噛む”についての疑問を取り上げる。

▼噛む1:
 寝床の中でラジオを聴いていたら、男性アナウンサーが握り寿司の食べ方について話していた。
・最初にシャリの旨さを味わいたい人はそのまま口に入れる。
・寿司ネタを味わいたい人は上下を逆にして口に入れる。
・両方を同時に味わいたい人は寿司を横向きにして(えっ!)口に入れる

 色々な主義の人がいるらしい。一体どれが正しい食べ方なのか、寿司屋の主人に聞きたくなったのだそうである。

 寿司屋の主人の答えは、概略以下のようなものであった(例によってウトウトしながら聴いていたから間違っているかもしれない)。
 どんな形で口に入れても構わないが、寿司は本来 口中調味(*)で食するものであるから、個々の味にこだわるのではなく、口の中で噛んで唾液とまじることによって美味しさが生まれてくる。したがって飲み込む直前が一番美味しい状態なのだそうである。それを味わうべきだということであろう。
【注】(*)口中調味 については、以下が参考になる。
 http://www.wasyokuken.com/health/kochu.html
私は半分眠りながら、なるほどと思った。飲み込む直前が一番美味しい とは至言である。テレビを見ながら、あるいはスマホをいじりながらの食事では、旨さを生む元である唾液がそもそも出てこないから美味しさも味わえないのではないか。テレビのグルメ番組でよく見かける光景だが、ごちそうを口に入れた瞬間に顔色を変えて(表情が変わるということですよ)「うまい!」とか「ヤバイ!」とか叫んでいる芸能人がいるが、彼らは「口中調味」などという概念は到底理解できないであろう。

▼噛む2:
 寝床の中でラジオを聴いていたら、ゲストの医師が、食事中は100回は噛みなさいと教えていた。一口、口に入れたら箸置きに箸を戻してゆっくりと噛み続ける。唾液とまざると消化に良いだけでなく高齢者に多い誤嚥も防げるという。唾液には活性酸素を殺す物質も含まれているので癌の予防にもなるのだそうである。この医師はしっかりと実践しているのであろう。

 私は半分眠りながら、なるほどと思った。私も子供の頃から親に「よく噛みなさい」と注意されていたが、早食いの癖だけは直らなかった。この齢になり誤嚥性肺炎に気を付けなければならない立場であるから、「100回噛み」に何度かチャレンジしてみたが、食事の時間が長くなってしまいどうも長続きしない。困ったものである。

▼そこで、ふと思った:
 100回噛みを勧める医師は寿司を食べないのだろうか。
100回噛みをした寿司は「飲み込む直前が一番美味しい」と言えるのだろうか。分からない・・・。■

2015年5月8日金曜日

30分インターバル運動のすすめ

★本記事のリライト版を、ホームページ上に
30分インターバル運動
       ── 定期的に身体を動かすことの重要性」

として掲載しました。(2015-6-1)

仕事をやめて以来、書斎の机の前に座っている時間が増えた。自分の自由になる時間が増えて大変結構なことなのだが、一つだけ気懸かりなことがある。コンピュータなどをいじっているとつい夢中になってしまい、気が付くと数時間も同じ姿勢で過ごしている自分に気が付くからである。私は深部静脈血栓症という病気を抱えているので、時々立ち上がっては身体を動かす必要がある。しかるに、私は何かに熱中すると集中力が高まって自分の関心事以外のことは忘れてしまう傾向がある。当然、身体を動かすという大事なことも忘れてしまう。

 そこで“30分インターバル運動”というのを始めることにした。これからの高齢化社会では、特に年配者には是非とも心得ていて欲しいことなのだが、それを理解してもらうためには定期的に身体を動かすことの重要性を先ず知ってもらうことが第一であると考えた。そこで、自分のミスで右脚に血栓が出来てしまった経緯を先ず紹介しておこうと思う。

◆長時間通勤
 私は大学教師をしていた頃、毎週1回は川崎市から埼玉県の久喜市にある大学のキャンパスまで電車で通っていた。JRと私鉄を乗り継いで(当初は)都合3回の乗り換えが必要であり大学まで2時間半ほど掛かる。しかし午後からの授業を担当していたので10時半頃に家を出れば午後一番の授業には間に合った。したがって、行きはそれほど苦にはならなかったが帰りはつらかった。プログラミングの授業を2コマ連続して担当していたので、貸し出したコンピュータの後片付けを責任を持ってやらなければならない。授業が終わるとぐずぐずしている学生をせきたてながらコンピュータを回収し、それをロッカーに収納して施錠するということを確実に行わねばならなかった。その間に学生から質問を受けたりする。そんなこんなで授業を終えると4時半頃になってしまう。

 それから大学のバスを利用してJRの久喜駅まで行き、往路と同じルートで帰宅することになる。帰りの電車はかなり混んでいて全く空席がない。都心に近づく頃には通勤客の帰宅ラッシュの時間と重なり増々混んで来る。家に着くのは6時半から7時頃になるが、それまでの間座ることができるチャンスは皆無である。つまり授業の始まる1時から帰宅する7時頃までずっと立ちっ放しでいなければならないのだ。これはかなりつらいことではあったが、長時間通勤には慣れているので最初の頃は体力的に何とかなっていた。

 その後何年かすると、埼京線が開通しそれを利用すると3回の乗換え(登戸、新宿、赤羽)が2回(登戸、新宿)で済むようになった。ラッシュ時の乗換えはかなり体力を要するからこれでかなり楽にはなった。しかし座れないという事情は変わらなかった。

◆痛恨のミステーク
 更に何年かして、素晴らしい解決策が見つかったのである。実は久喜駅には私鉄の東武伊勢崎線も乗り入れている。この線が、他の私鉄と相互乗り入れをするようになったのである。これを利用すると久喜駅から東武伊勢崎線の北千住を通り、更に半蔵門線で渋谷まで、そして田園都市線で溝の口まで乗り換えなしで一気に行けることになる。私鉄の溝の口駅は、私の家の近くのJR駅の隣りの駅なので後は歩いて帰宅できる距離なのだ。なんという幸運! 信じられない程の幸運に恵まれ、私は久喜駅発の電車で最初から座ったまま一直線で帰宅できることになったのである。

 このルートは距離的にはかなりの遠回りになるので乗車時間は約2時間と長くなる。そこで帰宅時だけこのルートを利用することにした。帰りで疲れていることもあり、一度利用すると以後は迷うことなくこの楽な方のルートで帰宅するようになってしまった。これが第一の間違いだったのである。

 電車の柔らかい座席に長く座っていると、つい眠たくなってしまい30分位は眠ってしまう。途中で目が覚めると後は本を読んだりして過ごすのだが、ずっと同じ姿勢でいたために腰や尻のあたりが痛い。これでは血行が悪くなると思い、私はできるだけ足先を動かしたりしていた。本当は立ち上がって身体全体の筋肉をほぐしたかったのだが、最初のうちは空いていた電車内も、都心に入り今や通勤客で満員の状態になっている。とてもそんなことをする余裕はない。
 こんなことを毎週繰り返しているうちに私は血栓症になってしまったらしいのである。注意していれば防げた筈の痛恨のミステークであった。

 最近は上野東京ラインの開業とともにJR各線の間でも相互(直接)乗り入れが行われるようになった。「北関東から熱海まで」それこそ乗換えなしの直通で行けるようになったらしい。便利ではあるが年配者は気を付けた方がよいと思う。乗り継ぎ不要というのは良いことばかりではないのである。

◆身体を動かすことの必要性
 ところで、私の深部静脈血栓症が見つかったのは偶然のことだった。たまたま脚のむくみが酷いので病院で診てもらったところ、右脚のふくらはぎの部分に血栓ができていることが分かったのである。血栓はむくみの直接の原因ではなかったが、見つかったのは幸運と言うべきであろう(むくみの原因は未だ分かっていない)。
 血栓というのは存外簡単にできてしまうものらしい。治療法は血栓をそれ以上成長させないようにすることが中心となる。以来私は抗凝血薬を毎日のみ、一日中弾性ストッキングを穿いていなければならない身となってしまった。

 医療専用の弾性ストッキングを着けると血流が良くなるのだという。血管が締め付けられて細くなったら逆に血流が悪くなるのではないかと思うが、そうではないらしい。足全体が圧迫され続けるため下肢の静脈のよどみが少なくなり、下肢静脈の血流がよくなるのだそうである。川幅の広い大きな川の水はゆったりと流れるが、川幅が狭いと水流は速くなるという理屈である(*1)
【注】(*1)ここでは血液の流れを、川の流れのアナロジーで説明した。しかし交通渋滞での車列の流れの問題解決にこのアナロジーを適用するのは理論的には可能であるが、明らかに現実的ではない。
医師の説明では、下肢の血液を心臓まで送り返すには大変な圧力が必要になり心臓の負担となる。そこで運動をすれば両脚の血管がポンプの役割を果たしくれて血液を押し上げる助けになる。しかし齢を取ると血管が固くなりポンプの役を果たす力が弱くなってしまう。そこでストッキングで絞めつけて筋肉が収縮した状態にしておけば、身体を動かすとそれが圧力となってポンプ機能を復活させることが期待できる、ということらしい。つまりストッキングを付けて両下肢を動かすことが血栓予防には特に重要なのである。

 毎朝起床すると私はまずストッキングを身に着けるのだが、これが慣れないとなかなかうまくできない。初めの頃はかなりの時間を要していた。ストッキングを一日中身に着けているのは更に大変で苦痛以外の何物でもない。特に夏の暑い季節はつらい! 本当につらいのである。暑い夏を迎えて思うのは、ただ自分の不注意に対する悔悟の念ばかりである。

◆時間間隔
 身体を動かす間隔(インターバル)を私は30分と設定したが、これは各人の事情に合わせて適当に設定するのがよいであろう。
 私がまだ企業人であった頃、毎朝の電車通勤では2時間を要していた(昔から私は長時間通勤に運命付けられていたらしい)。JR線で約36分、立川で乗り換え再びJR線で約30分という具合だった。乗り継ぎではかなりの待ち時間を要したから、これが直通で行けたら1時間で済むのにと何度思ったことか。しかし今から思うと、この長時間通勤で血栓症を引き起こさずに済んだのだから、30分というは丁度良い間隔だったのだろう。そう思って30分と設定したのである。

◆実践方法
 30分インターバル運動を実践するには、30分ごとにアラームを鳴らす時計が必要となる。昔の家には柱時計というのがあり、1時間ごとに「ボーン」という音を、その時の時間の数だけ鳴らしてくれたものである。夜中に目覚めたとき、この音を聞くと思わずその数を数えてしまい頭がさえてしまって困ったのを思い出す。こういう柱時計は30分になると1度だけ「ボーン」と鳴るようになっていた。そういう時計があるとよいのだが、現在ではなかなか手に入らないようだ。いろいろと考えた末、私はコンピュータ上の時計を用いることにした。普段から利用しているフリーソフトの「SGウォッチ」(これは素晴らしいソフトです)で試してみたところ、私の要求を十分に満たしているようである。

(SGウォッチ)

 アラームが鳴ると私はすぐ立ち上がり、スクワット(Squat)、プランク(Plank)、ダンベル(Dumbbell)、踏み台昇降(Step aerobics)などの運動の中から適当に選んで実行することにしている。自分の定めたノルマを30分ごとにやっていると、午前中だけで一日分のノルマをほぼすべて完了してしまう。午後は専ら軽い運動だけにする。お手玉をやったり、片足立ち(1分)をやったり、ただ立ち上がるだけ、だったりといろいろである。

 アラームとして何を鳴らすかも重要である。私の場合は音楽を鳴らすことにしている。何かに夢中で取り組んでいると1度のベル音のみのアラームでは気が付かない恐れがある。音楽なら安心かというとそうでもない。何かに熱中していると「あれ? いま確か音楽が鳴っていたような気がするが・・・」となることが多いのだ。慌ててタイマーの画面を確認すると今まさにアラームが鳴り終わった直後であることが分かったりする。ある程度の長さ(4分前後)のミュージック・ファイルをベル音ファイルの欄に設定しておくとよい。

 たとえば、私の場合「コンドルは飛んで行く(4分22秒)」や「この広い野原いっぱい(3分55秒)」などが丁度良い長さである。一度「さとうきび畑」を使ったことがあるが、これは10分以上なので長すぎた。アラームが終わるとすぐまた次のアラームが始まるという感じになってしまい忙し過ぎてうまくいかなかった。

 ここで“30分インターバル運動”の運動とは“Exercise”の意味ではなく、キャンペーン“Campaign”くらいの意味である。高齢社会で長生きし(たとえ持病を持っていても)健康で普通の生活が送れるようにするためのすすめである。
 そして血液の流れを良くして脳梗塞や虚血性心疾患といった循環器系の病気を起こさないようにしたいと思う。ご同輩の方々が関心を持ってくれることを切に期待しています。■

2015年4月17日金曜日

目覚し時計

★本記事のリライト版を、ホームページ上に
目覚し時計 ── 古い物の価値を見直す
として掲載しました。(2015-5-1)

私の寝室には古い目覚し時計が置いてある。貰い物なので、それがどの位の価値の物なのか今まで関心を持つこともなく、ただ使い続けてきた。すこぶる使い勝手が良くて私は大変気に入っている。
 夜中にふと目覚めたとき「今、何時頃かな?」と思うことがよくあるが、そんな時そっと手を伸ばして時計の上部に軽く触れると『4時12分です』などと女性の声で報せてくれる。アラームのオン/オフなどは手探りで簡単に切り替えられるから、就寝前に設定し忘れたことに気がついたとしても(半分眠りながら)直すことができたりする。1分間隔で連続して時間を報せる機能もあるから、昼間でもいろいろな利用法が考えられる。「おぬし、なかなかやるのう」という感じの存在なのである。

 まあ、こういった機能は大抵の目覚し時計には装備されているから別に驚く程のことではない。私が驚いたのは、これだけの機能があり しかも一日に何度も女性の声で喋らせて酷使しているのに、電池の消耗が極端に少ないことである。ここ4~5年は電池交換をした記憶がない。そして故障したことが一度もない! もしかすると、これは凄く高価な目覚し時計なのかもしれないと思うようになってきた。

 普通、電池交換をすると時間がリセットされてしまう(作業の間バックアップがないので、これは仕方がない)。そこで毎回、時間設定をしなければならなくなる。ただ困るのは、こういう事態になるのは数年に一度なので時間設定の手続きにいつまでも不案内のままで毎回手こずっていることである。時間設定の手順は、不注意で時間が変更されたりしないよう意図的に複雑な手順になっている。そのため、いつもやり方が分からず時間を食ってしまう。確か4つのボタンを同時に押しながら、もう一つの(少し離れた場所にある)ボタンを押すことによってトリガーが掛かる筈なのだが、これがなかなかうまくいかない。太い指の腹で小さなボタンを同時に4つ押すというのは結構難しいのである。詳しいやり方が本体底部に張り付けられた紙に書かれているのだが、時の経過とともに色褪せてきて、おまけに汚れが付いてしまって肝心のところが読み取れなくなってきている。そこで私は、確認した手順と方法(複数のボタンを同時に押すための自己流のコツ)とをその紙の上に手書きすることにした。

 こうして何年も愛用してきた我が大切な目覚し時計が、最近少し変なのである。あらぬ時に、突然『アラームは午前5時です』などと喋りだすようになってしまったのだ。『午前5時で‥‥』とぶつ切りになったり、『アラームは、アラームは、‥‥』と部分的に繰り返すこともある。認知症の兆候が出ているのかもしれない。

 事ここに至り、私はこの時計の寿命が そろそろ尽きる時期に近づきつつあることを悟ったのである。一体何年使い続けてきたのだろう。昔の記憶をたどっていくと、どうやら30年位になるようである。30年も使えば、そろそろ買い替えてもいいかなと思う。これと同じものが見つかったら買い替えよう。そう思ってウェッブ上でいろいろ調べてみると同じ製品の後継機種が見つかった。価格もそれほど高いものではない。しかし外装はまったく異なっている。モデルチェンジしてしまい同じものを見つけるのは困難であることが分かった。

 新しい機種に乗り換えても、多分同じように長持ちするとは思えない。最新の電子機器は性能は素晴らしいかもしれないが、長持ちしないのである。昔の機械式の構造のものは堅牢で長持ちするが、電子的な装置ではとても30年(*)はもたないであろう。
【注】(*)私めは高貴な「後期高齢者」であるからして、これから30年も長生きする予定も可能性もない。しかし不思議なもので、物を買うときは相変わらず長持ちするものを買いたいと思う。

(SEIKO TALKLINER)

 そうなると、この時計(機械式ではないが)を壊さないようにして使い続けた方が賢明であると、私めは判断したのである。

おぬし、たいした代物じゃのう。長生きせいよ

2015年3月28日土曜日

河川敷スクワッティング

★本記事のリライト版を、ホームページ上に「河川敷」として掲載しました。(2015-4-2)

 私は天気の良い日は多摩川のサイクリングロードを歩くことにしている。昔はこの場所でサイクリングやジョギングをしていたのだが、この齢では余り激しい運動はできないからウオーキング程度にしておくのが安全というものであろう。

 家を出てからしばらくは幹線道路を歩くが、東名高速の下辺りから多摩川の堤に出て川上の方へと向かうことにしている。堤の左側には多摩沿線道路が走り、右側には広大な河川敷が広がっている。多摩川の水量は豊かであるが、河川敷には普段は川の流れに影響されない豊かな自然が残されている。

 堤の上のサイクリングロードを歩きながら遠方に見える山並みや東京方面の景色を眺めるのも楽しいが、毎度のこととなるとすぐ見飽きてしまう。その点、変化の激しい河川敷の様子を細かく観察することの方がはるかに興味深くまたストレス発散にもなっているような気がする。

 河川敷は木や草原で占められているが、堤に近い部分には企業の運動グラウンドやテニスコートなどがある。最近ではフットサルを教える運動クラブの施設なども作られている。これらは公に許可を得ているものであるが、個人が不法に占拠(スクワット(*1))して自分の耕作地にしてしまっている場所も多い。
【注】(*1)スクワット(squat)と言うとインターネットの世界ではサイバースクワッティングが話題になるが、ここでの“スクワット”は本来の意味である「無断居住」、「不法占拠」のことである。
 これらの不法耕作地は、自分の領域を明確にするためなのであろう例外なく垣根で囲われている。入口には扉を付けて鍵が掛けられるようになったものもある。物置を備えていたり、廃品を利用して作られた水槽など苦心の跡が分かるので、見ているとなかなか楽しい。
長年見ていると、不法耕作地のうちでその後放擲された区画は一つもないようだし、多分同じ持ち主(?)がずっと使い続けているように見える。不法地主は自転車などでやって来ては畑の作物の手入れに余念がない。多分、近隣に住む人達なのであろう。畑の耕し方などからズブの素人の畑仕事であることがすぐ分かる。しかし中にはかなり立派な畑もある。整然とした畝作りで季節ごとに植える物を切り替えたり休耕にしたりして農作業のプロとおぼしき人もいる。成果物の野菜類を台車に載せて運んでいるのを見ると、とても個人では消費しきれない量であるから多分八百屋等を経営している人ではあるまいか。

最初の頃は批判的に見ていた私も、長年(40年位になる)見ているうちに何となく彼らに親しみを持つようになってしまった。一方彼らは、私のような通りがかりの人を見ると、苦労して作った成果物を盗もうとしているのではないかと警戒の目で見ているような気がする。これは思い過ごしであろうか。

 こういった河川敷での不法占拠耕作地については、今まで何度も新聞等で報道されてきた。最近も多摩川の事例が地方版(川崎支局)で報道されたのを記憶している。その記事を読んで、これまでは不法地主の方を(心理的に)応援していた私も、これは整理しないといけないと思うようになった。

 そろそろ管理が厳しくなるのではないかと予想していたのだが、はたせるかな2月頃から川下の方で何か大掛りな作業を連日行っている様子が見えるようになった。かなりの作業員が関わっており、車も数台止められているようだ。ウオーキングで来る度に観察していると、川下から私がいる川上の方に向かって作業場所を少しずつ移動してきている。間もなくそれが何であるかが明らかになった。不法耕作地を整地して関係者以外入れないよう柵で囲っているのであった。
よく見ると、まだ整地されていない畑には注意書きが張られた看板が立てられている。立ち退きの要請が書いてあるのであろう。いろいろな廃品が持ち込まれているので後片付けも大変なようである。大型のごみを搬出するためのトラックも来ている。ものすごく時間が掛かる作業のようだ。

 私が堤に出て歩き始める位置にまでとうとう作業が到達した。これから先はグラウンドが続くので一区切り付く地点である。作業車に掲げられている看板には発注者名が「国土交通省 京浜河川事務所」と書いてある。県か市のやっている仕事かと思っていたが国の仕事だったのだ。なるほど、多摩川は一級河川であるから当然のことながら国が管理しているのである。

 この位置から川上に向かっては、企業の運動グラウンド、テニスコート、運動クラブ等が続いているので不法耕作地は存在しない。そして更にその先には舟島稲荷神社と二ケ領用水の取水口があり、その辺りにはまた耕作地が沢山ある。

次はそこへ作業が移るのだろうか。今のところまだ作業は始まっていないようであるが、私が見慣れた畑があるので少し心配である。
 気が付くとまた不法地主の方の心配をしている自分がいる。困ったものである。■

2015年2月22日日曜日

インターネット検索でのつまみ食い

 つまみ食いというのは、実にいいものである。他の人をさしおいて一人でじっくりと賞味できる特別な行為だからであろう。ただ一つ欠点があるとすれば、それは多少の後ろめたさを伴なうことだ。大人になった今でも、それは少しも変わらないような気がする。そして、つまみ食いしたものは特に美味しく感じられる。多分、スリルという隠し味が ちょっぴり加味されるからであろう。

 私の子供の頃は終戦直後の食べる物のない時代であったから、尚更つまみ食いに対する憧れは強かったように思う。しかしどの家庭でも、当時は今よりかなり厳しい躾けがなされていたから、簡単につまみ食いができるような環境ではなかった。
 ある時、台所にある戸棚の引き戸を開けてみると小皿が一つ置いてあり、その上に小さな白い団子が三つほど「食べてください」と言わんばかりに置かれているのを発見した。一瞬食べようかと思ったが、そこはそれ、躾けのよい子(?)であった私は、もちろん手など出したりはしなかった。後で考えると、あれはネズミ退治のための“猫いらず”が入った毒団子だったのだと思う。戸棚を覗き込むこと自体が少し後ろめたい行為だったので、私は母親にそれを確かめるようなことはしなかった。つまみ食いと言うと、私はあの白い団子のことを今でも時々思い出すのである。

 インターネットの世界にも“つまみ食い”というのがある。
 我々はインターネット検索を利用して何でも簡単に調べることができる。検索システムにキーワードを入力しさえすれば、それに関連する情報をピンポイントで見つけ出してくれる。便利な世の中である。しかしインターネット検索に慣れてくると、そこで得られた情報を自分の思考を深めるために利用するのではなく、自分にとって都合の良い部分だけ抜き出して別の目的に利用するようになる(これが結構オイシイ)。

 得られたテキストの文脈全体から知識を得るのではなく、その中から自分が便利に使えそうだと思う“文脈の断片”だけを残し、それ以外の文脈はすべてそぎ落としてしまう。これが“つまみ食い”と呼ばれるものである。

 一度この便利さを経験すると、もうやめられなくなってしまう(つまみ食い依存症)。何かリポートの作成が必要になると、直ぐさまインターネット検索でつまみ食いを繰り返すようになる。そして、集めた文脈の断片を切り貼りすることによって自分の意見らしきものを構築していく術を身に付ける(コピペ依存症)。更に依存度が深まると、他人の意見を自分の意見だと勘違いするようになる。こうしてつまみ食いから得た“自分の意見”に頼るようになり、結果として非思考型の人間へと改造されていく。

 最近の若者達は本を読まないそうである。新聞記事(*)によれば、1日あたりの読書量が0分の大学生が実に4割を超えているという。本を読まない人がつまみ食い依存症になると更に困ったことになる。他人の主張に容易に乗せられてしまうからである。その結果、今話題になっている「過激な思想」にも簡単に染まってしまう。
【注】(*)大学生の1日あたりの読書量は
       0分 40.5%
       10分未満 1.8%
       10~30分 16.2%
       30~60分 20.7%
       60~90分 12.7%
       90~180分 5.1%
       180分以上 1.9%
       無回答 1.1%。

 たとえば、ある考え方を広めようと論文を作ることにしよう。これを図1で表すことにする。
(図1)

 この論文の要所には、他人の論文等からつまみ食いした断片(たとえば、①,②,③,④,⑤,⑥,⑦など)をはめ込んで議論のベースとして用いる。
(図2)

 ここでつまみ食いした部分は自分の意見ではなく、他人の意見であることを明確にしておく。ただ、自分に都合のよい形に解釈を微妙に変更してしまう場合もある。しかし読者はそれに気が付かない。いちいち原文を読んで確かめる人は少ないからである。
 つまり、公に認められている事実をベースに論文が書かれているように見せる。したがって、そこから導かれた結論は当然正しい! と思わせるためである。このようにして作られた論文(図3)は表面的にはもっともらしく見える。
(図3)

 しかし普段から書物を読みしっかりと勉強している人は、自分の頭の中に(図4)のような知識の体系ができているから騙されない。論理展開のベースとなる事実が疑わしいことにすぐ気が付く。もともと整合性のないジグソーパズルの小片(ピース)を無理やりに押し込んだものだと分かってしまう。
(図4)

 しかし本を読まず、その方面の知識の体系を身に付けていない人はたちまち騙されてしまう。そして「私はすべて読みました。そして全部、ちゃんと理解しました!」などと発言する学生がでてくるようになる(具体的な事例は「インターネット検索の功罪」を参照)。

 このように、文脈から切り離された知識を利用すれば、他人を惑わす論を展開することができる。普段本を読まず、つまみ食いに慣れていて非思考型の人は、それを逆に利用されて誤った方向へと容易に導かれていってしまう。論理の手順さえもっともらしく組み立てられていれば、ベースとして利用された事実(らしきもの)の信憑性には疑問を持たないからである。「インターネット上から得られた知識」というだけで信じてしまうようなものである。

 若者たちが、過激な思想に簡単に取り込まれてしまうのは、こんなことも影響しているのではあるまいか。

2015年1月28日水曜日

なぜ箸を正しく使えないか

 新聞を読んでいたら、箸を正しく使えない人が増えているという記事を見つけた。その記事によれば、箸の正しい持ち方、正しい使い方ができる人の割合は、1984年では男女ともほとんどの年代で過半数を占めていたのに、25年後の2009年には2~3割に減ってしまっているのだそうである。
 特に1940年生まれあたりを境にして、箸を正しく使えない人が増えているという。

 確かに、箸を正しく使えない子供や大人を見かけることが多くなった。テレビに登場する芸能人の中にもそういう人がいて、ものを食べる場面で「実は私、箸がうまく使えなくて…」などと恐縮しながら箸を使っているのを見たことがある。

 私は、大学のプログラミングの授業を担当していた頃、和食の食べ方を話題として取り上げることにしていた。これは、和食を食べる際に必要とされる作法を通じて、プログラム作りで必要となる「トップダウン」という考え方を教えるためであった(詳しくは「食事マナー」参照)。そして箸についても、いかに素晴らしいツールであるかに言及してきた(詳しくは「」参照)。実はその時は、正しく使えない人がこれほど多いとは思わなかったからである。

 正しく使えない人が増えた原因として、その新聞記事では次のような理由が挙げられていた。

戦中戦後の混乱期に親が子に箸のしつけをする余裕がなかった。
箸を使う食べ物そのものが減っている。
学校給食で先割れスプーンを使う頻度が高かった。
幼児期にスプーンで食事する時期が長くなり、スムーズに箸に移行しにくい。
 内閣府の調査では「箸の使い方を含めた食事のマナーを身につけている人ほど、幼い時に家族全員で夕食をとった頻度が高い」というデータがあるのだそうである。

 これらの理由はどれも、なるほどと思わせる点もあるけれど、同時にどれも納得がいかないところがある。内閣府のデータに至っては、調査などしなくても誰でもすぐ思い付く程度のものである。

 私は、箸の使い方に限らず、昔ながらの習慣やマナーが後の世代にうまく受け継がれなくなってきたのは(少し話が大きくなるけれど)戦後の教育の仕方が影響しているのではないかと思う。

 戦後、日本の教育制度は大幅に変更され、昔ながらの(体罰を含む)厳しい教育方法は否定された。そして、なぜそれを学ぶ必要があるのか その必要性を本人に説明し納得させてから教えることが求められるようになった。このやり方でも大抵のことはうまくいくのだが、うまくいかないケースもある。たとえば箸の使い方のように幼い頃はどんな食べ方をしても、美味しく食べられさえすれば良いのだと思いがちである。しかし大人になってから、箸がうまく使えなくて公の場で恥ずかしい思いを経験すると、しっかり学んでおけばよかったとその必要性に初めて気が付くことになる。

 学ぶ必要性が理解できる時期とそれを学んで身に付ける時期とが異なる場合は問題が残るのである。つまり、学ぶに最も適した時期(普通は、幼い時)にはまだその必要性が十分に理解できていない、ということがよくあるのだ。
 たとえば、ピアノやバイオリンなどの音楽的才能を伸ばしたい場合、あるいは特定の運動能力を伸ばしたい場合などである。こういったものは学校教育では限界がある。家庭で親の熱意によって、あるいは特定の集団に属しての英才教育によって対応するのが普通である。本人が納得していなくても、なかば強制的に教えることによって才能を発掘する。そのうちに本人にも学ぶ喜びと意欲が生まれてくる可能性に期待するのである。

 箸の使い方、食事マナーなどは幼い内から教え込まないと身に付かないものである。ばっかり食べ、クチャクチャと音をさせて食べる癖などは、長じてからではもはや直せない。これらのマナーを身に付けていないと、後々社会人になってから苦労することになる。これらは学校教育ではなく家庭内教育として親が教えるべき事柄である。私が小学校に入った頃は、同じクラスの子は誰もが箸を普通に使いこなしていたように記憶している。

 箸を正しく使える人が「2009年には2~3割」しかいないという事実は私にとって衝撃的(*)であった。つまり逆に言うと、正しく使えない人が7~8割を占めていることになる。その内に9割を越えることになるのではあるまいか。

【注】(*)更に言えば「1940年生まれを境にして」という点も衝撃であった。何となれば、私めは“1940年生まれ以降の世代”には含まれていないからである。私はこれまで自分の年齢にはできるだけ触れないよう注意深く文章をつづってきた積りだが、これはやはり一言言及しなければいけないと思った。もはや「箸の正しい使い方」について議論する上では、当事者ではなく過去の世代の人間であることを、ここに明確にしておくべきだと思ったからである。これからは少し(少し!ですぞ)言葉を慎もうと思う。

 少子高齢化の時代である。両親がともに正しく使えなくて“いい加減な使い方”(と、ここでは呼ぶことにしよう)をしている場合、その子供は間違いなくいい加減な使い方のまま成長することになる。長じてからその癖を直すのは、多分不可能であろう。したがって、いい加減な使い方をする人の割合はこれから加速度的に増えていくことであろう。

 正しく使える子も、学校へ行けば変な目で見られるかもしれない。「箸の変な使い方をする子がいる」となれば、いじめの対象になる可能性もある。いじめられたくないからと、正しく使える子も学校ではいい加減な使い方の子に合わせるようになるかもしれない。そして、次第にいい加減な使い方の方が“正しい使い方”となってしまうことであろう。恐ろしいことである。
 歴史が後の世代によって改変されていくのと同じように、そして用語の意味が時代とともに改変されていくように、“箸の正しい使い方”も改変されていくに違いない。恐ろしいことである。

2015年1月1日木曜日

微分解析機との再会

「微分解析機」のリライト版
  「微分解析機との再会」が読めます。

 http://www.hi-ho.ne.jp/skinoshita/sture121.htm

2014年12月25日木曜日

微分解析機

 先日“微分解析機」再生”というニュースが新聞各紙で報じられた。国内で唯一現存する微分方程式のアナログ計算機が、東京理科大学の近代科学資料館で70年振りに再整備され動作するようになったという内容であった。

 たまたまこの日は、同期の友人達が久しぶりに学内を見学したいというので、私は案内役を依頼され集まることになっていた。そのため、私はその新聞を読む暇もなく朝早くに家を出てしまっていた。集合場所に着くと友人の一人がこの新聞記事の切り抜きを取り出して「これを是非見たい」と言う。私はそのニュースのことは知らなかったが、最初から資料館を見学コースに入れていたので丁度良いタイミングだと思ったのである。

 そこで、卒業以来一度も大学を訪れたことがない友人もいるので、一応構内を歩き主だった建物を見学した後、近代科学資料館へと向かった。

 東京理科大学の近代科学資料館は、科学技術の発展の基礎を担ってきた計算技術の発展の歴史をたどることができるよう「計算機の歴史」が展示されている。古代から現代までの代表的な計算道具、計算機械を網羅する世界有数のコレクションを誇っている場所である。先人達がいかに努力を重ねて今日の社会を築き上げてきたか、その道筋を実物によって体感できる貴重な場となっている。また江戸時代の和算書や明治初期の理数教科書の所蔵館でもある。

 概略以下のような計算道具が展示されている。以前私が訪れた頃より更に内容が充実してきているようだ。

(1)算具・そろばん
 算木、そろばん
(2)計算尺 機械式計算機Ⅰ
 フーラー計算尺、手動計算機、クルタ計算機、アリスモメーター計算機
 電気計算機、マーチャント電気計算機
(3)機械式計算機Ⅱ 
 手動計算機、タイガー計算器
(4)電子式計算機
 電子式卓上計算機
(5)大型計算機
 Bush式アナログ微分解析機
 FACOM201パラメトロン電子計算機
 UNIVAC120(真空管を用いた第一世代コンピュータ)
(6)パソコン・コンピュータゲーム


 さて問題の微分解析機は、大型計算機のコーナーに置いてあった。見覚えがある! なつかしい! 私の在学中、2号館のお濠りが見える側のフロアーにそのまま置いてあったのを思い出した。何しろ図体が大きくて適当な置き場所がなかったのであろう。場所としてはお濠りの見える側の絶好の位置に置かれていたが、ところどころ部品が欠けていたりして到底動作しそうには見えなかった。それを動作するよう整備し直したのだから驚きである。確か、清水辰次郎先生が大阪大学から移って来られたときに持ってこられ、大学に寄贈されたものと聞いていた。

 微分解析機コーナーのそばの柱には、清水先生の写真が額入りで掲げられていた。見学している友人の中に清水先生のゼミの一員で、当時先生にお世話になった人がいたので当時のことに話が及んだ。私を含めてその場にいたほとんどの者が清水先生の「実用数学」の授業を受けていたのである。授業の課題のレポートで苦労したことも思い出された。

 解析機のそばでそんな思い出話で盛り上がっていると、近くにいた研究者の一人が我々に近づいてきて話に加わり、微分解析機の説明と再整備の苦労を自ら詳しく話してくれた。
 微分解析機は、積分器3台、入力卓1台、出力卓1台で構成されていた。当時はそこまで理解することはできなかったが、古いものをそのまま保存することの大切さ・難しさ実感したのであった。

 話に加わってくれた研究者が今度は逆に我々に質問してきた。清水先生の写真を指して「なぜ白黒写真しかないのですか?」と言う。私は一瞬びっくりしたが「当時はカラー写真はなくて、モノクロばかりだったんですよ」と答えた。

 いや、いつ撮影された写真か分からないから何とも言えないが、正確に言えば、カラー写真はあったと思う。しかし高価でかつ技術的に色調の経年変化に耐えられない時代だったから肖像写真には向いていなかったと考えるべきであろう。

 「古いものをそのまま保存することの大切さ・難しさ」というのは計算機械に限らず、あらゆる技術分野で考慮されなければならない問題だと思った次第である。
 そうだ、私の持っている「世界初のノートパソコンT1100と「初代ラップトップコンピュータ(T3100)も、いずれはこの資料館へ寄贈することにしよう。

2014年12月3日水曜日

「便器のふた」をホームページ上に掲示しました

トイレでは、便器のふたを閉じてから流す」のリライト版を「便器のふた」というタイトルでホームページ上に掲示しました。

 http://www.hi-ho.ne.jp/skinoshita/sture120.htm

2014年11月14日金曜日

トイレでは、便器のふたを閉じてから流す

 洋式トイレを使った後は、ふたを閉めてから水を流すようにすると良いそうである。このことを以前知った当初は、私もしっかりと実行していたのだが、その後なんとなくやめてしまっていた。
 最近、再びこの話を聞いたのは朝方ベッドの中でうつらうつらしながらラジオを聴いていたときである。話していたのが医者だったからか、途中から真面目に聞き始めた。したがって、どこまで正確にこの話を紹介できるか自信はないのだが、概略以下のような内容であった。

 医者が言うには、患者の喉から大腸菌が検出されたことがあり、その原因を追究することになった。そして最終的にトイレを使用したあとの水を流す時に発生するしぶきが原因だと特定したのだそうである。しぶきが飛ぶとそれが細かい霧状になって空気中を浮遊する。これが口や鼻から体内に吸い込まれる。そして、
 ・肺炎
 ・溶連菌感染症
 ・副鼻腔炎
 ・口内炎
などの原因となるらしい。
 男性用の小便器(立ってするタイプのもの)もかなりのしぶきが飛ぶので衛生的には問題がある、とのことであった。

 これ以下は、私めの感想である。
 しぶきや霧がどの位の高さまで来るのかは分からないが、大人より背の低い子供の方が被害を被る確率が格段に高くなるのではないかと思う。
 もしかすると、子供が溶連菌にやられる事例が多いのはこれが原因ではないかと思う。いくら子供に「手洗いの励行」を言っても(しっかりと実行しているのに)あまり効果がないように思われるからである。「子供は病気になりやすい」とよく言われるが、もしこれが原因であったら盲点を突かれたことになる。

 私はもう10年位前から小用の時も便座に座る習慣にしている。これは自分でトイレ掃除をするようになり、その汚れ具合のひどさを知ったからである。先ずは、汚さないように使うことが第一であると考えた。男性の中には「立ってやらなければ男が廃る」などと言う者もいるけれど、そういう人にはトイレ掃除を毎日やらせることである。

 なおも私めの感想(いや、妄想と呼ぶべきかな)は続く。
「女の子より男の子の方が病気になりやすい」という説がある(これは医学的にも信憑性が高いらしい)が、この原因ももしかすると男子用トイレ内での飛沫の霧被曝(?)が原因ではないかと思うのである。
 試しに、小便器(urinal)というものを廃止したらどうかと提案したい。そして男の子には立ったままでの小用をやめるよう教育する。外出先で小用をたすとき、公衆便所などにある壁あて式の「ストール型小便器」が利用されているが、これが衛生的に一番危険な場所ではないかと思う。飛沫がどの高さま達するのかは知らないが、幼い男の子の背の高さ位に達するのは容易に想像がつく。

 小便器の廃止という英断(文部科学大臣を説得すればよい)が下され、教育機関から小便器が一掃されれば、数年後には男の子も女の子も同じ健康状態になれるのではないか。これが更に普及し一般化すると、高速道路等の休憩所にあるトイレなどでは、男女とも長い待ち行列が発生することになるかもしれない。これも男女格差をなくすという観点から見れば、望ましいことではないかと思うが、どうであろうか。

 トイレのふたの話が、男女格差をなくすという社会問題に及んでしまった。炎上すると困るので、このくらいにしておこう。

2014年11月4日火曜日

おかしな解釈

「生きた言葉」と「死んだ言葉」のリライト版 「おかしな解釈」をホームページ上に掲示しました。

   http://www.hi-ho.ne.jp/skinoshita/sture119.htm

 寝床の中でラジオを聞いていたら、生島ヒロシさんが「煮詰まる」という言葉を使っていました。前後の文脈から、明らかに「行き詰まった」というおかしな解釈の方で使っています。“おかしな解釈”の世代間ギャップは、もうそこまで迫ってきているのですね。驚きました。

  テレビやラジオのアナウンサーが使いだすと、世代間ギャップは確実に身近な存在となってきます。もうかなり前から、NHKのアナウンサーは世論(せろん)を「よろん」と発音していますね。世論と与論(せろんとよろん)を区別できない世代間ギャップは、もう確実に私の後ろに迫っています。飲み込まれそうです。怖いですねぇ~。■

2014年10月28日火曜日

「生きた言葉」と「死んだ言葉」

    ━━ 新しい言葉との出会い
 日本語の慣用句の使い方について、文化庁が行った世論調査の結果が発表された。それを紹介した新聞記事を読んでいると、私はいつも自分の無知と不勉強を(密かに)恥じていたものである。ところが、今年の発表の多くは自分の理解の方が正しくて、逆に若者達(多分)の新しい解釈に驚かされることの方が多かった。これは前回発表の後、私の国語力が急に向上したとは思えないから、若者の解釈が多様になってきたと考えるべきであろう。

 たとえば「煮詰まる」は、正しくは「議論や意見が出尽くして、結論が出る状態になる」ことであるが、最近は「議論が行き詰まってしまって、結論が出せない状態になる」という意味に解釈している人が4割近くいるという。しかも一部の辞書には、この両方の意味がともに載るようになったとのことである。

 言葉というものは時代とともにその意味が変化していくものらしい。新しい意味が追加されると、その分だけ言葉の表現力が豊かになったと言える。しかし正反対(*1)の意味が追加されることになれば、世代間で意味の解釈が異なることになり、場合によっては正確な意思疎通の妨げになる恐れもある。そうなると、もはやその言葉に利用価値はなくなるのではないかと私は危惧するのである。そういう厄介な言葉は使いたくないと思うだろう。
  【注】(*1) 正反対”という立派な言葉が存在するのに、最近「真逆」などという変な言葉が使われるようになった。私めには理解し難いことである。

 同じ言葉が正反対の意味になってしまうような“おかしな解釈”が頻繁に出現するようになった背景はある程度推察することができる。
 ここでは、自分の知らない“新しい言葉”に出会ったとき、我々はどのように対応しているか(あるいは対応してきたか)を考えてみよう。

 私が「新しい言葉」に出会うのは、主に読書を通じてである。本を読んでいて未知の言葉に出会うと、まず前後の文脈との関係からその意味を推測して自分の脳内辞書に登録する。意味が分からなければ辞書で調べることもあるが大抵はそのまま読み進むことになる。中学生時代に習った国語教師のW先生からは、本の文章から「生きた言葉」を学ぶように、と教えられた記憶がある。辞書に書かれた言葉は、いわば「死んだ言葉」であり、いろいろな意味が列記されていてもどのような文脈で使われるのかは分からない。それに対し本の中で出会った場合は、前後の文脈を繰り返し読んでその意味を推測することができる。前後の文脈とともに覚えた「生きた言葉」を学ぶことの重要性を教えられたのである。更に、本の中で使われた言葉であるから、当然正しい使われ方をしていることが保証されていると思ってよい。

 ところが、最近の若者達(多分)は本を読まない世代であると言われているから、おそらく会話を通じて、あるいはネット上の文書の中で新しい言葉に出会うのであろう。会話の場合は、録音でもしない限り前後の文脈はすぐ忘れ去られ反芻できない。そうなると前後の文脈とは無関係に、その言葉だけから意味を推察しなければならない。漢字表現も同音異義語にすり替わってしまう可能性がある。その会話の中で正しく使われたという保証もない。間違って使われた場合は間違って覚えてしまう可能性が高くなる。ネット上の文書では正しく使われているかは全く保証の限りではない。結局、「死んだ言葉」ばかりを自己流で学んでいることになるのではないかと思う。こういうステップを踏んで覚えた言葉から“おかしな解釈”が生まれてくるのではあるまいか。

 新しい言葉の意味を辞書類で調べるのは、この文脈からの推察を行った後にすべきであろう。そうすれば、更に広い活用法が見つかり語彙を増やすことができるかもしれない。■

2014年9月26日金曜日

文章を読んでもらう方法

   -- 長過ぎる文章は誰も読まない(長文です)

 最近、本が売れていないという。特に紙の本を読む人が少なくなったような気がする。その代わりに電子書籍が読まれているのならよいのだが、必ずしもそうなっていないのではないか。誰もが携帯端末を持ち歩き、始終画面に視線を落としているけれど、ゲームをやっていたり、文章を読んでいてもそれはメールの文面であったりする。

 最近の私は、ネット上の文章を読むときはさらっと斜め読みする癖がついてしまっている。一方、紙の本を読むときは、自然と集中度が高まり「精読する」のが習慣になっているようだ。この差はどこからきているのだろうか。

 私は、文章の作成者に対する信頼度の差ではないかと思う。
 出版された紙の本ともなれば、必ず編集者や査読者がいて複数の人間による内容のチェックが行われている。それだけ内容への信頼度は高いと言える。

 分厚い本であっても、最初から読む覚悟があって読み始めたのであるから(途中で挫折することはままあるが)兎にも角にも最後まで読み通そうとする覚悟だけはできている。そして首尾よく読了すれば、かなりの知識が得られることも分かっている。作成者の名前が知られていれば、その可能性はかなりの確率で保証されていると言えるであろう。

 それに対し、ネット上の文章は読んでみないと分からない。誰の査読チェックも受けていない可能性が高いから、内容的に信頼するに足るものかどうか甚だ疑わしい。電子書籍と言っても、査読を受けずに誰でも簡単に出版できる時代である。

 読了するまでにどの位の量の文章を読まされるのかも分らない。どんな成果が得られるか分からないのに、大量の文章を読まされるのはつらいことである。作成者の名が分からない場合は、作者不詳の文章を読まされているのとたいして変わらない状態である。仮に作者の名前が分かっていても信頼度の確認までは難しい。

 ネット上でたまたま出会った文章と、あるテーマを関して探し続けた結果出会った文章とでは、読む側が持つ熱意・意欲にも大きな差が生ずるのは明らかであろう。普段、さらっと斜め読みしたくなるのは仕方のないことである。

 このように、紙の本の文章とネット上の文章とでは、その読まれ方に著しい差があることが分かる。したがって、ネット上に文章を公開する者は、自分の文章をしっかりと読んでもらいたと思ったら何らかの工夫をしなければならないことになる。

 まず、人に読んでもらいたければ、文章をできるだけ短くすることである。ネット上では、「長過ぎる文章は誰も読んではくれない」と覚悟すべきである。これはSNSの影響かもしれないが、短い文章で全体を歯切れよくまとめないと読んではもらえない時代である。長い文章だと“tl;dr”とされてしまうからだ。つまり“Too long; didn't read”の略で、「長すぎて読まなかった!」と言われてしまう。メール文化が盛んになった頃、メールで報告する際に何でも添付ファイルで送りつけておけば報告したことになると誤解していた時代があった。読んでもらえなければ、結局は報告しなかったのと同じなのである。

 タイトルも含めて「冒頭の数行の書き方で勝負は決する」と思わなければならない。しかし、こうやって「文章を短くすべし」と主張しながら、その本人はダラダラと長い文章を書き連ねているのが実態である。自分の真意を間違いなく読者に伝えたければ長文を厭わず、誤解されないよう、詳しくかかなければならない。難しい問題である。この文章の冒頭に(長文です)という断り書きを付しておいたが、これが最低限の礼儀作法なのである。

 そこで(無名で、他人から信頼もされておらず、文章も下手な)私めは、次のような方法を取っている。

(1)適度な長さの文章を作ったら、まずそれをブログ上に公開する。
(2)次にフェイスブック上に、その要約を数行にまとめて公開する。このとき、更に詳しく知りたいと関心を持ってくれた読者に備えて、ブログの文章を読めるようリンクを張っておく。
(3)1~2週間すると書き直したい部分が出てくるものである。ブログの文章全体を見直して完璧なものにしてから自分のホームページ上に掲載する。

 フェイスブックに掲載した記事はすぐ底に沈んでいって再び読まれる可能性はなくなる。ブログの記事も同じように底に沈んでいくが、普通は日付順に管理されているので比較的簡単にサルベージできるものである。それでも、その記事の存在を知らないと探し出すのは無理であろう。検索ソフトに拾ってもらうのを期待するしかない。

 一方、ホームページ上に掲載する場合は、しっかりと構造を決めて整理・分類されていれば、一般の読者でも後から容易にその記事を見つけ出してもらえる利点がある。検索ソフトに見つけ出してもらえるよう複数のキーワードを設定しておくこともできる。

 どうです、貴方(女)も試してみませんか。

2014年9月1日月曜日

自転車から身を守る法

 5つ折りにできる杖を利用して、自分の肩幅程の長さの棒を用意する。


(私の護身用の杖)
この棒の使い方のコツを、以下に列挙する。

▼普段は右手に下げて持ち、後方から来る自転車に注意を促す。
▼前方から自転車が来たら、できるだけ早い段階で杖を横向きにし、両手でしっかりと保持する。
▼両手で持つ位置はベルトの下あたりがよい。すれ違う際に必要なら上下に保持位置を変えて身を守る。
▼自転車の動きに注意を払うのは当然であるが、決して自転車を走らせている人と視線を合わせてはならない。
▼十分に広い歩道上で自転車1台、歩行者1人の状況であっても決して気を許してはならない。後方の状況によっては、すれ違う直前にお互いに接近せざるを得ない状況になるかもしれないからである。
▼特に子供の運転する自転車は、突然に方向を変えることがあるから注意が必要である。守るべき位置も下になる。

▼このように、自転車の存在には常に厳しく対応するが、歩行者には逆に最優先で進路を譲るよう心がける。

詳しくは、「護身用の杖」を参照されたい。

2014年8月12日火曜日

自転車が怖い

 先日、ウオーキング中に自転車と接触し怪我をしてしまった。
 暑さのため熱中症に対する注意が叫ばれている時期に、何もウオーキングなどしなくても… と言われるのは重々承知しているが、私は毎日運動して汗をかかないと気がすまない性格(たち)なのである。

 多摩川のサイクリングロードを1時間ほど歩いて帰路につき、家の近くの幹線道路沿いの歩道上を歩いているときに事故は起きた。この歩道は幅2メートル以上もある広い道で、普段から自転車もたくさん走っている。私はその道の右側を行儀よく歩いていたのである。向こうからも同じ側を歩いくる人が目に入ったので、遠慮深い(?)私めは早めに進路を中央側へと移すことにした。後ろから来る自転車や人に注意を払いつつ徐々に進路を左側へと移していった。相手とすれ違う間際になって、前方から突然自転車がやってきてすれ違う直前の二人の間をS字に蛇行してすり抜けていったのである。自転車はスピードを出しておりかなり危険な行為ではあったが(よくあることで)何事もなくやり過ごすことができた。しかし次の瞬間、その自転車の陰からもう1台、小学生らしき子供の乗った自転車が現れ、同じスピードで同じようにすり抜けようとした。私の振りだした右手の甲とその自転車の右ハンドルの先端とが激しくぶつかったのである。相手は振りかえりもせず、そのまま走り去ってしまった(親子連れだったのか?)。

 右手を見ると、甲の部分が打撲でみるみる膨れ上がってきている。短時間の間にこれほど急激に腫れあがるのを見るのは2度目の経験であった。1度目はアメリカでの自動車事故のときであったから、それを思い出して精神的にもかなりのショックであった。急いで家に帰り患部を保冷剤で冷やし応急手当を行った。

 それにしても、この程度の打撃でこれほどの怪我になってしまうとは、予想外のことであった。打撲でかなりの内出血をしているように見える。外部からの打撃に対して著しく弱くなっているようだ。齢を取ったせいもあるが、実は私は日頃から抗凝血薬を飲んでいて、血液が固まり難くしておく必要がある身なのである。その結果、切り傷や内出血などの出血ではなかなか血が止まらない。やっかいな身体なのである。もっともっと気を付けて行動しなければと反省した次第である。

 歩道上での自転車の怖さについては、以前「歩道を歩くのが怖い」で述べたことがあるが、後ろからやってくる自転車の怖さについて言及したものであった。しかし最近は前から来る自転車の方が怖い。それも若者だけでなく、女子学生・子供・家庭の主婦の乗る自転車の方がぶつかる頻度が高いのである。その原因は、自転車の荷台に置いてあるもの、あるいは子供を乗せるための補助具等が両側に飛び出していて、それがすれ違いざまにこちらにぶつかるケースが多いからだ。このようなとき、相手はぶつかったという認識がない。ハンドル部分さえ無事に通れば、それより後ろのことは自分には一切関係のないことで御座んす、という訳である。
 自分には責任がないと思うから大抵はそのまま行ってしまう。こちらは腕や肘の辺りに被害を受けるが泣き寝入りするしかない。

 思うに自転車の側からは、通行人というのは“腰の幅”しか意識する必要のない単なる障害物と見ているのではないか。それ以外の空間は全部自分の通れる空間だと思っているふしがある。その結果、自分の自転車のハンドル部分が通過できる隙間さえあれば、絶対にすり抜けられると信じて猛然とその狭い空間に侵入してくるのである。“腰の幅”の外側には腕が振り出される領域があることなど全く予期していないらしい。少なくとも“両肩の幅”を持つ障害物と認識してほしいのである。

 歩道上を歩いているときは自転車が怖くて仕方がない。これからは、両腕の肘から下の部位を衝撃から守る工夫をしなければならない。
 いろいろ思案した結果、家にあった女性用の杖を利用しようと思い娘に相談したところ大反対されてしまった。自転車にぶつかると相手の自転車の方が危険だと言うのである。そうかもしれないが、こちらの命も掛かっているのだから。
 何か良い護身用具(プロテクター)はないものだろうか。軽くて、強固なプロテクターを誰か考案してくれないでしょうか。

2014年7月11日金曜日

号泣県議

 不自然な日帰り出張を繰り返していた兵庫県議が、その政務活動費の詳細を問われた記者会見の場で突然泣き叫ぶ事態となった。
 昔ならローカルな珍事件としてそのまま忘れ去られてしまうところだが、今はインターネットの時代である。その映像があっと言う間に全世界に発信され、更に物議をかもすことになってしまった。何ともはや、日本人として恥ずかしい限りである。話題にするのも躊躇したくなるような出来事であった。

 この県議のことを、各メディアは“号泣県議”と呼ぶことで意志統一されたようであるが、私はこの“号泣県議”という呼び方だけは大変気に入っている。最近の若者達は「号泣」の意味を誤解しているので、それを正すのに絶好の事例が見つかったからである。

 大学の授業で情報倫理を教えているが、リポートを書かせると日本語の意味を取り違えている学生が予想外に多いことに気が付く。このままでは、社会人になったとき恥をかくことになるのではないか。それが心配で、私は授業中にできるだけ機会をとらえては、いろいろな用語の正しい読み方や本来の意味を教えている。

 それらの経験は
  「変な日本語表現(その1)
  「いい加減な日本語力
   「ネット世論
等にまとめられている。

 そこでも紹介したように、最近の若者達は「号泣」という用語をただ「泣く」という意味で気軽に用いているようだ。これは本来は「大声を上げて泣き叫ぶ」ことである。
 これは若者に限らず多くの人が意味を取り違えているように思う。先に、IOC総会の場で東京オリンピックが正式決定された際も、現地取材していた記者の一人が「私も、思わず号泣してしまいました」などとリポートしていたのが今でも私の記憶に残っている。男はそんなに簡単に号泣したりしないものだ。男が号泣してよいのは、自分の親が亡くなったとき(と財布を落としたとき)だけと昔から決まっている(性差別をなくすことを重視する現在では「男は…」の部分は不要であろうが)。

 某国の将軍様が亡くなったとき、国民が競って泣き叫んでいる姿をニュース映像で見たことがあると思う。泣き叫んで悲しみを表現することが忠誠心の証しだと考えている国であるから、国民は皆競って号泣し誰よりも派手に泣き喚くのである。国民性の違いとはいえ、傍から見ていても決して人の心を打つことはない。むしろ異様な光景であると思えてならない。
 今まで私は、この事例を挙げて学生達に「号泣」の意味を説明していたのだが、これからはただ「号泣県議」という固有名詞(?)を出すだけで、万事了解してもらえると確信している。そして、無闇に号泣したりしない立派な大人になろうと努力してくれることであろう。

 ところで、なぜ「泣く」の代わりに「号泣」という表現が使われるようになったのか。その点を少し探求してみようと思う。
 週刊誌の広告などを見ていると「号泣」という語が頻繁に使われているのに気が付く。広告では簡潔な表現が求められるから「泣く」という動詞を使うよりも名詞で止めた方が全体が簡潔になる。「泣く」という意味の名詞で適当なものがなかったので「号泣」が選ばれたのではないか、と私は推測している。その広告を見た若者達は、この「号泣」という表現の方が単に「泣く」と言うよりも格好いいと思ったのであろう。

 そこで「泣く」を意味する名詞を調べてみた。

 涕泣(ていきゅう):涙を流してなく
 嗚咽(おえつ):むせびなく
 欷歔(ききょ):すすりなく
 感泣(かんきゅう):感動してなく
 慟哭(どうこく):声を上げて嘆きなく
 哀哭(あいこく):声を上げて悲しみなく
 

 「泣く」を表現する漢字には声を発するものが多い。単に「涙ぐむ」というやさしい泣き方の名詞は見当たらないようである。私が捜した限りでは、涕泣(ていきゅう)、降泣(こうるい)くらいしかない。見慣れぬものばかりである。
 もっとポピュラーなものはないのかと自分でも考えてみた。そこで思いついたのが「落涙」である。これなら普通に使えると思うが、どうであろうか。

2014年6月26日木曜日

親知らず

 どうやら、長らく眠っていた私めの“親知らず”(第三大臼歯)が、この齢になって急に目を覚まし動き出したようである。

 実は2か月程前、口の中の左上部に口内炎ができてしまった(これは、よくあること)。その口内炎は直ぐ治ったのだが、その中心の部分にどういう訳か小さなポチッとした突起状のものが残ってしまった。2か月程経ってもその状態が変わらないので口腔外科で診てもらうことにした。

 診察してくれた医師は「これは骨ですねぇ~」と言う。つまり骨の部分が出っ張っているのだと言うのだ。予想外の診断結果に、癌だと言われるかもしれないと内心(ちょっぴり)覚悟していたので正直なところホッとしたのである。そこで「安心しました」と言ってそのまま帰ってきてもよかったのだが、どうも何か合点がいかない。骨が出っ張っているのなら以前から気が付いていた筈である。最近出っ張ってきたとしか思えない。そのとき、ふと私は気が付いた。これは親知らずではなかろうかと。

 医師もその可能性はあると私の意見に同意してくれて、早速X線写真を撮って調べてくれた。その結果、可能性は益々高くなってきたのだが、まだ確定できる段階ではない。少し様子を見ましょう、ということになったのである。

 親知らずという歯は、20歳前後に生えてくるのが普通であるという。平均寿命が短かった昔は、子供の親知らずが生えてくる前に親は亡くなってしまうから、親知らずと呼ばれるようになったらしい。

 医師よりも先に「親知らずではないか?」と気が付いたのには実は理由があった。私は歯の手入れは十分にしてきた積りなので、この齢になるまで無事にすべての歯を維持してきている。ただ残念なことに、生来左下の奥歯(第二大臼歯)が1本欠けていた。そのため、対応する左上の奥歯の方が、噛み合う相手がなくて役目を果たすことなくさびしく存在し続けていたのである。

 その歯が、長い年月の間に少しずつ下に伸びてきていた。なぜ伸びてくるのかは分からないが、下からの圧力がないのが最大の原因ではないかと思う。更に悪いことに、下に伸びた歯が少し外側に傾きだしていた。そのことに気が付かなかったので、隣りの第一大臼歯との間が少し開いてきたことにも気が付かなかった。そして両方の歯の間のみがき方が足りなかったのであろう、気が付いたときには虫歯になりかかっていたのである。その虫歯を治療するよりも(どうせ使われていない歯なら)抜いてしまった方がよい、というのが歯科医の判断であった。かくして私めは、生まれて初めて“抜歯”というものを経験することになったのである。そのとき歯医者に言われたのは、この歯の後ろに親知らずがあるから、もしかするとそれが生えてくるかもしれませんよ。そう警告されていたのである。

 親知らずも表に出たかったのであろう。それを邪魔している第二大臼歯を長年上から少しずつ押し続けていたのかもしれない。この齢になって親知らずの抜歯を受けるのかと思うと、気が重くなることである。

 年寄りになると誰でも入れ歯のお世話になるものだが、入れ歯ではなく本物の自分の歯(それも新品の!)を与えられるのだから喜ばなければいけないのかもしれない。高貴な年寄りになったことへのご褒美という風に考えられると良いのであるが。

2014年5月22日木曜日

待ち時間に読む本

 私は外出するとき何時もショルダーバッグに本を一冊入れておく。待ち時間に読むための本である。銀行でATMの行列に並んでいる時や、病院の受付あるいは診療待合室で待っている間などに取り出して読む。待ち時間に本を読んでいると、少なくともその時間を“無駄にはしなかった”ような気分になれるのである(有効に使ったとまでは思わないが)。特に、駅で電車の到着を待っているような時はすぐさま本を取り出して読み始める。慣れてくると瞬時に物語の世界に没入できる。すると、不思議なもので電車は直ぐにやって来る。

 携帯する本は、バッグからの出し入れがしやすい文庫本サイズのコンパクトなものが向いている。更に、頻繁の出し入れに耐えられるよう、あらかじめ丈夫なカバーを掛けておくとよい。
 本の種類は技術書のような難しい本ではなく、血沸き肉躍る面白い内容の本であることが望ましい。この条件さえ満たしていれば、電車は直ぐに来る! それこそ、あっという間にやって来る(これは私が保証する)。

 待ち時間向きの本として私は海外作品のリーガルサスペンス物が一番好きなのだが、最近読んだものでは本屋で偶然に見つけた「素数の音楽(*)という本が最高であった。
  【注】(*)新潮文庫「素数の音楽」マーカス・デュ・ソートイ(冨永星訳)

 周知の通り「素数」というのは数学の世界では最も注目度の高いテーマであるから、どちらかと言えば技術書という分類に属する本である。しかし素数の研究に取り組んだ数学者たちの業績、歴史、あるいはその裏にある人間臭い数々のエピソードを読んでいると、面白くて、面白くて、思わずのめり込んでしまうのである。もちろん数式も沢山登場するが(残念ながら1か所だけ数式が間違っている)、意味を理解するのにそれほど苦労することはない。

 著者のデュ・ソートイは、オックスフォード大学数学研究所の教授であり、科学啓蒙という業績により大英帝国勲章を受章している。難しい科学のテーマを分かりやすく教える特技を持っている人らしい。そういう人が書いた本であるから尚更興味深いのである。

 待ち時間に読もうとすると、以前中断した箇所から読み継ぐ際に少し戻ってもう一度読み返す必要に迫られることもある。そうやって復習している間に電車が来てしまい、結局一行も前へ読み進めないまま再び中断しなければならなくなることもある。これは過密ダイヤのせいなのかもしれないが。

 断片的に少しづつ読み進んでいくと、どうしても読了するまでに時間が掛かる。それだけ長く楽しめるとも言えるが、全体的な感銘度や理解度は少し落ちるのではないかと思う。できれば、電車が絶対に来ないところで、もう一度最初からじっくりと読んで見たいと思う。