2016年4月28日木曜日
2016年4月21日木曜日
エイプリルフール後日談
当時は、新聞のニュースやラジオの番組を通じて嘘が流され、それを真に受けた人たちが大騒ぎするのが後日談として報じられ人々を楽しませてくれていた。しかし最近はIT企業などの新興企業が中心になって、かなりの資金を投じて準備された嘘を流すようになってきた。会社の宣伝にもなるのであろう。最初から嘘に違いないと分かっていても、つい本気にして騙されたくなるほどの出来栄えであることがまた楽しい。
今年のエイプリルフールの前夜(3/31)、私は自分のホームページの4月分の更新作業をしていたとき、突然自分もエイプリルフールの嘘を仕掛けてみたくなった。小学生時代の楽しかった思い出がよみがえってきたのである。
丁度、カラークロック・プログラム(*1)をトップページに設定する予定だったので、これを材料にしようと思った。このプログラムは、現在時を24時間表示で「13時45分05秒」のように時々刻々とデジタル表示するものである。同時に「時」「分」「秒」の値をそれぞれ16進数表示で連結し幅6桁の16進数を作って壁紙の色として用いるプログラムになっている。時間の変化とともにバックカラーが刻々と変化する様子を見て楽しんでもらう積りだった。
【注】(*1)このカラークロック・プログラムは、URL="http://whatcolourisit.scn9a.org/"で見かけたものを参考にした。面白いアイディアだと思い、私も自作してみたのだが、オリジナル版と比べて色調の変化が異なっている。調べてみたらオリジナル版は16進数を連結する際に“ゼロサプレス”が考慮されていないことが分かった。こちらの方が“正調”いや“正しい色調”だと思い、自作版を私のホームページ上にアップすることにしたものである。
そこで、更新情報を表示する【What's New】の欄に、急遽以下のように記述することにした。
これは“うるう秒(*2)”を実施するときだけ起こることだが“59分59秒”の次にうるう秒として1秒を挿入した場合、“60分00秒”と表示させることを念頭に置いたものである。何が嘘かというと“興味深い現象”は何も起こらないことである。全く他愛のない無害なウソであるし今年はうるう秒が必要な年でもない。
【注】(*2)うるう秒本当は「59分が切り上がる瞬間に… 」と書く積りだったのだが“60分00秒”が念頭にあったので、うっかり60分と書いてしまった。私の単純なミスであったが、これを読んだ友人のS氏が目ざとく見つけて指摘してくれるまで私は自分のミスに気が付かなかった。しかし嘘だと見抜くヒントにはなったのかもしれない。怪我の功名であった。
1日の長さ(Length of Day:LOD)は、24時間×60分×60秒 = 86,400秒であるから、歴史的には1秒の長さは、1日の長さの86,400分の1と定義されてきた。しかし実際には地球の自転速度が変動するのでLODは一定ではない。その他いろいろな理由があり、それらを勘案して「うるう秒の挿入」という対応で辻褄を合わせているらしい。
ところで、うるう秒の挿入は世界同時に一斉に実施されるのが普通で、最近では日本時間で2015年7月1日に実施された。それ以後は実施されていない。いや、もう二度と見ることはないかもしれない。
その日、日本では午前8時59分59秒の直後に1秒挿入され、8時59分60秒となった。そして9時00分00秒と時間が刻まれたのである。つまり(私も今回初めて知ったのだが)正確には“60”という珍しい表示は“秒”の単位で使われたのである。
実は、うるう秒の挿入には賛否両論がある。挿入した場合の社会的影響が余りに大きいため今後は実施されないのではないかと予想される。1秒という時間が、現代社会では大きな重みを持つようになっているためである。
コンピュータの発達で1秒間に数万回もの株の売買取引ができるようになった証券取引業界では、1秒という長ぁ~い時間があればいろいろなことができる。プログラムを利用すれば、他の株の売買状況を見て瞬時に対抗する売買指示を出せるのである。
特許権取得競争が激化する技術開発の分野でも、マイクロ秒単位のタッチの差で巨大利権の行方が左右される時代である。そういう社会で1秒という時間が世界中で一斉挿入され何らかのシステムトラブルが発生したらどうなるのか。想像するのさえ恐ろしいことである。
この様にうるう秒の問題には未だ未解決の問題が含まれている。一方、うるう年(*3)の方も厳密には問題がある。
【注】(*3)うるう年私は、昔から「うるう年」というものに何かある種のいい加減さを感じていた。それが何であるかはよく分からなかったが。
グレゴリオ暦では、次の有名な規則に従って400年間に97回のうるう年を設けることにしている。
(1)西暦年が4で割り切れる年はうるう年
(2)ただし西暦年が100で割り切れる年は平年
(3)ただし西暦年が400で割り切れる年はうるう年
この規則によってプログラム化しておけば何の問題もないように思われるが、400年間における平均の1暦年は、365+97/400=365.2425日(365日5時間49分12秒)となる。暦と季節とのずれは約3320年で1日となる。この1日をどうするかは未だ未解決の問題である。そんな先のことは考える必要はないと先送りしているだけである。それでいいのだろうか。
しかし今回、偶然「うるう秒」のことを調べていて、改めてそのいい加減さが分かってきたような気がする。「うるう秒」も「うるう年」ま、はたまた「閏」という漢字にしても、どうも意味がよく分からない。具合の悪いところを付け焼刃で適当に修正しているように思えるのだ。プログラムの虫つぶしと同じでまるで信用できない。
最後に、前述のうるう秒挿入時に起こる“60”という珍しい表示はもう二度と見られないかもしれないので、私めは、遅まきながらこのカラークロック・プログラムを改訂し、毎年の4月1日(エイプリルフールの日)だけは“興味深い現象”が見られるようにした。来年の4月1日には(もし覚えていたら)是非じっくりと鑑賞して頂きたいと思います。■
2016年4月14日木曜日
続々・素朴な疑問:「チガカッタ」は若者言葉なのだろうか?
以前、テレビで若い女性タレントが「チガカッタ」という表現を思わず発してしまう場面に遭遇し、ちょっと驚いた記憶がある。それを“変な日本語表現”という拙文に書いて紹介したのは今から4年くらい前の話である。その後、ラジオやテレビでこの表現を使う若者たちが次第に増えていくのを知って増々驚くと同時に、自分の現状認識の甘さを痛感するようになった。もはや単なる使い間違いではないらしいのだ。
私の経験では「チガカッタ」という表現は、言葉をまだうまく話せない幼児が、その発育段階の途中でよく使う表現である。次第に言葉を覚え「てにをは」の使い方を身に付けるにつれて少しずつ正しい日本語を話せるようになると自然に矯正されていくものであった。しかしそれが直されることなく、そのまま成長して大人になってしまったらしい。
先日、最近始まったばかりのラジオ番組を聞いていたら、新任のパーソナリティが、「それ、チガクナイ?」という表現を連発しているのを耳にして再び仰天することとなった。ゲストの若者が使ったのではありませんよ、パーソナリティというのは番組のホスト役ですから、その大人が使っているのです。驚きましたねぇ。
「チガクナイ」もその発生経緯は「チガカッタ」と同根のものであろう。こういった使われ方を見ていると、おそらく使い間違いと言うより「若者言葉」の一つとみなされて大衆に受け入れられていくのかもしれない。
若者言葉と呼ばれるものを私はできるだけ理解しよう(*)と努力してきたが、最近少し考えが変わってきている。若者が使う言葉の中の明らかな使い間違いは、しっかりと指摘して矯正してやるべきではないか。
ところで「チガカッタ」は若者言葉なのだろうか? それとも単なる使い間違いなのだろうか? 分からないなぁ。■
私の経験では「チガカッタ」という表現は、言葉をまだうまく話せない幼児が、その発育段階の途中でよく使う表現である。次第に言葉を覚え「てにをは」の使い方を身に付けるにつれて少しずつ正しい日本語を話せるようになると自然に矯正されていくものであった。しかしそれが直されることなく、そのまま成長して大人になってしまったらしい。
先日、最近始まったばかりのラジオ番組を聞いていたら、新任のパーソナリティが、「それ、チガクナイ?」という表現を連発しているのを耳にして再び仰天することとなった。ゲストの若者が使ったのではありませんよ、パーソナリティというのは番組のホスト役ですから、その大人が使っているのです。驚きましたねぇ。
「チガクナイ」もその発生経緯は「チガカッタ」と同根のものであろう。こういった使われ方を見ていると、おそらく使い間違いと言うより「若者言葉」の一つとみなされて大衆に受け入れられていくのかもしれない。
若者言葉と呼ばれるものを私はできるだけ理解しよう(*)と努力してきたが、最近少し考えが変わってきている。若者が使う言葉の中の明らかな使い間違いは、しっかりと指摘して矯正してやるべきではないか。
【注】(*)理解はするが、自分で使おうとは決して思わない。たとえば、若者がよく使う「全然、大丈夫です」という表現にしても、本来は「全く、大丈夫です」というべきものである。これは「全然」と「全く」の使い分けができないのが原因である。あるいは「全く」という表現が存在することを知らないだけの話しかもしれない。つまり“無知”に起因するものである。若者言葉だからと一括りにして容認したりすべきではないと思う。
ところで「チガカッタ」は若者言葉なのだろうか? それとも単なる使い間違いなのだろうか? 分からないなぁ。■
2016年4月1日金曜日
2016年3月14日月曜日
「トランプ旋風」-トランプは“切り札”の大統領になれるか
アメリカ大統領予備選挙での共和党トランプ候補の活躍が話題となっている。日本の新聞では「トランプ旋風」などと称されている。
実業家出身なので、これまでの政治家とは異なりメディアの攻撃に対し打たれ強い。もともとスキャンダラスな話題の持ち主だったからスキャンダルを取り上げた攻撃にはびくともしないようだ。金持ちなので選挙費用に困ることはなく不正に金を受け取ったりする可能性も少ない。しかも批判攻撃に対しては素早く反論し、かなり下品な内容の個人攻撃で応える。それに懲りた相手は二度と攻撃しなくなる。頭の回転が速く、実に戦い慣れている。
既成政治家や既得権益層(エスタブリッシュメント)に反感を持つ人々の気持ちをわしづかみにし、その支持に支えられて予想外に大量の票を集めている。今のところ共和党の大統領候補になりそうな雲行きである。言葉遣いも荒っぽい表現から次第に穏やかなものに変わってきた。本選での対抗候補を念頭に置いているようにも見える。本当にアメリカ大統領になってしまったらどうするのだろう。かなり心配である。
実際に、トランプ大統領が出現したらどうするのか、と今から対策を考え始めている人たちも多くなってきた。カナダへの移住を検討するための問い合わせが多いとか、メキシコ国境に壁を造る費用は誰が払うか、メキシコに払わせる、いや払わない。日本の防衛費用は日本に負担させるらしい、今までの経緯を承知しているのか、等々‥‥が聞こえてくる。
遅ればせながら、私もトランプ大統領になったらどうなるかを考えてみた。
トランプ大統領のやる最初の決定は、多分アメリカ合衆国大統領専用機として彼自身が今使用している「TRUMP」と大書された自分の専用ジェット機を使うことにするのではないか。彼は機体に自分の名前が大書された大統領専用機に乗る最初のアメリカ合衆国大統領となるであろう。
大統領の専用機は、通称「空飛ぶホワイトハウス」とか「エアフォースワン」とか呼ばれるが、これは特定の機種を指すのではなくコールサインのようなものである。したがって大統領が乗ればその機がエアフォースワンとなる。
これまでのエアフォースワンには、大統領執務室、事務室、寝室、会議室等がありゲームなどでくつろぐ場所もある。慣例として時の大統領の名を記したトランプが常備されているという。当然これらは継承されるであろう。
そこで私は、早速“President TRUMP”と記されたトランプを(もの好きにも)作ってみた。
President TRUMP トランプ図
機体に“TRUMP”と大書された大統領専用機の中で“President TRUMP”と記されたトランプを用いてトランプゲームに興ずるトランプ大統領、という図である。写真に撮ってSNS上に載せられたら、さぞかし楽しいことであろう。
もっとも、アメリカでは“トランプ”とは呼ばず“プレイングカード(playing cards)”と呼ぶらしい。あれを“トランプ”と呼んいるのは日本人だけであるから、そんな写真を見て面白がるのは日本人だけかもしれない。
“trump”とは“切り札”のことである。トランプ大統領は、はたしてアメリカの国民が求める“切り札”の大統領となれるのだろうか? 心配だ、心配だ。■
実業家出身なので、これまでの政治家とは異なりメディアの攻撃に対し打たれ強い。もともとスキャンダラスな話題の持ち主だったからスキャンダルを取り上げた攻撃にはびくともしないようだ。金持ちなので選挙費用に困ることはなく不正に金を受け取ったりする可能性も少ない。しかも批判攻撃に対しては素早く反論し、かなり下品な内容の個人攻撃で応える。それに懲りた相手は二度と攻撃しなくなる。頭の回転が速く、実に戦い慣れている。
既成政治家や既得権益層(エスタブリッシュメント)に反感を持つ人々の気持ちをわしづかみにし、その支持に支えられて予想外に大量の票を集めている。今のところ共和党の大統領候補になりそうな雲行きである。言葉遣いも荒っぽい表現から次第に穏やかなものに変わってきた。本選での対抗候補を念頭に置いているようにも見える。本当にアメリカ大統領になってしまったらどうするのだろう。かなり心配である。
実際に、トランプ大統領が出現したらどうするのか、と今から対策を考え始めている人たちも多くなってきた。カナダへの移住を検討するための問い合わせが多いとか、メキシコ国境に壁を造る費用は誰が払うか、メキシコに払わせる、いや払わない。日本の防衛費用は日本に負担させるらしい、今までの経緯を承知しているのか、等々‥‥が聞こえてくる。
遅ればせながら、私もトランプ大統領になったらどうなるかを考えてみた。
トランプ大統領のやる最初の決定は、多分アメリカ合衆国大統領専用機として彼自身が今使用している「TRUMP」と大書された自分の専用ジェット機を使うことにするのではないか。彼は機体に自分の名前が大書された大統領専用機に乗る最初のアメリカ合衆国大統領となるであろう。
大統領の専用機は、通称「空飛ぶホワイトハウス」とか「エアフォースワン」とか呼ばれるが、これは特定の機種を指すのではなくコールサインのようなものである。したがって大統領が乗ればその機がエアフォースワンとなる。
これまでのエアフォースワンには、大統領執務室、事務室、寝室、会議室等がありゲームなどでくつろぐ場所もある。慣例として時の大統領の名を記したトランプが常備されているという。当然これらは継承されるであろう。
そこで私は、早速“President TRUMP”と記されたトランプを(もの好きにも)作ってみた。
機体に“TRUMP”と大書された大統領専用機の中で“President TRUMP”と記されたトランプを用いてトランプゲームに興ずるトランプ大統領、という図である。写真に撮ってSNS上に載せられたら、さぞかし楽しいことであろう。
もっとも、アメリカでは“トランプ”とは呼ばず“プレイングカード(playing cards)”と呼ぶらしい。あれを“トランプ”と呼んいるのは日本人だけであるから、そんな写真を見て面白がるのは日本人だけかもしれない。
“trump”とは“切り札”のことである。トランプ大統領は、はたしてアメリカの国民が求める“切り札”の大統領となれるのだろうか? 心配だ、心配だ。■
2016年3月12日土曜日
パスワードは定期的に変更すべきか?
パスワードの扱い方を教えるとき、最も基本的な注意事項は以下の4点であろう。
(1)安全なパスワードを使う(長さや字種に配慮する)
(2)同じパスワードを“使いまわし”しない
(3)パスワードは定期的に変更する
(4)パスワードを無闇にメモに残さない
これらの注意事項は時代とともに変遷していくものであるが、最近(3)が不要であるという意見が出ているらしい。つまり「パスワードを定期的に変更する必要はない」と言うのである。これを聞いて安堵した人は多かろう。もし定期的に変更していたら、それだけ自分に負担が掛かるのだから「楽になって良い」ということであろう。
しかし私は少し違うと思う。やはり「パスワードは定期的に変更せよ」と言い続けたい。
パスワードを構成する文字として、英数字だけでも62文字(*1)が使えるから、8桁並べれば約218兆通り、10桁なら約84京通りの表現が考えられる。したがって、いわゆる辞書攻撃をされても簡単には破られないという考え方なのであろう。
定期的に変更しないことを推奨して一体何のメリットがあるのか、私にはまるで理解できないのである。パスワードを守ることの重要性は各人のコンピュータ利用環境によって変わるのだから、まず初心者も含めた一般ユーザーに対して正しいパスワードの扱い方を徹底させ、その上で更に高度なセキュリティーを求められる環境ではどうすべきかを個々に教育するのがよいのではないかと思う。
沢山の異なるパスワードを抱えて四苦八苦するのは避けたいと思っている人に対し、私はもっと知恵を働かせることを推奨したい。特別に記憶力が良くなくても、ちょっとした工夫だけで多種類のパスワードをメモなしで使いこなせるようになる。その方法(*2)をここに記す訳にはいかないが。■
(1)安全なパスワードを使う(長さや字種に配慮する)
(2)同じパスワードを“使いまわし”しない
(3)パスワードは定期的に変更する
(4)パスワードを無闇にメモに残さない
これらの注意事項は時代とともに変遷していくものであるが、最近(3)が不要であるという意見が出ているらしい。つまり「パスワードを定期的に変更する必要はない」と言うのである。これを聞いて安堵した人は多かろう。もし定期的に変更していたら、それだけ自分に負担が掛かるのだから「楽になって良い」ということであろう。
しかし私は少し違うと思う。やはり「パスワードは定期的に変更せよ」と言い続けたい。
パスワードを構成する文字として、英数字だけでも62文字(*1)が使えるから、8桁並べれば約218兆通り、10桁なら約84京通りの表現が考えられる。したがって、いわゆる辞書攻撃をされても簡単には破られないという考え方なのであろう。
【注】(*1)・英字の大文字、小文字の52文字理論的にはそうかもしれないが、実際には利用者の多くは小文字の英字と数字だけの短いパスワードで済ませている人が多い。その結果、辞書攻撃で容易に破られてしまう。そこに「変更する必要はない」と言って解読作業に十分な時間を与えてしまったら敵に塩を送るようなものである。各自が実際に定期的に変更するかどうかは別にして、少なくとも「変更せよ」と言い続ける必要があるのではないか。
・数字10文字 計62文字
・その他、特殊記号が使える
定期的に変更しないことを推奨して一体何のメリットがあるのか、私にはまるで理解できないのである。パスワードを守ることの重要性は各人のコンピュータ利用環境によって変わるのだから、まず初心者も含めた一般ユーザーに対して正しいパスワードの扱い方を徹底させ、その上で更に高度なセキュリティーを求められる環境ではどうすべきかを個々に教育するのがよいのではないかと思う。
沢山の異なるパスワードを抱えて四苦八苦するのは避けたいと思っている人に対し、私はもっと知恵を働かせることを推奨したい。特別に記憶力が良くなくても、ちょっとした工夫だけで多種類のパスワードをメモなしで使いこなせるようになる。その方法(*2)をここに記す訳にはいかないが。■
【注】(*2)ブラックハットのハッカーに一度狙われたら、先ずもって防ぎきれない。だから「パスワードはこうすべきだ」等と声高に言って目を付けられるのは避けたい。
2016年2月19日金曜日
情報難民とならないために
中東紛争から端を発した難民の大量流入により欧州各国は混乱をきたしているが、インターネットの世界も同じように 難民問題 を抱えている。
質の良い情報 と 質の悪い情報(ジャンク情報)とを区別できない情報判断力に起因する格差が生じているのだ。その結果、いわゆる“情報難民”と呼ばれる人たちが急増している。所得格差の問題と同じように、インターネットの世界では情報判断力の差による“情報格差(*1)の拡大”が大きな問題となってきているのである。
良質の情報を選択的に豊かに享受している人たちが居る一方で、良質な情報とジャンク情報とを区別できない人たちも沢山居る。その格差が急速に拡大し、ある分野では情報の無政府状態が出現しかねない状況になっているという。更に悪いことに、情報の良否を判断できない人のところにはジャンク情報が排他的に蓄積されていく傾向があると言われている。
情報の良否を判断できない人たちの特長は 話を単純化したがる ことだという。それゆえ、彼らは最も知的負荷の少ない解釈法を好む。たとえば 陰謀史観 はその最たるものであろう。つまり「世の中のすべての不幸は、それによって利益を享受している悪の張本人のしわざである」とする考え方にすぐ飛びついてしまう傾向がある。しかも彼らにとっての最大の不幸は、自分が 情報難民 であるという事実に全く気が付いていない点にある。
そうならない為には、良い情報源を手に入れることが増々重要になってくる。質の高い情報の発信者を見つけるには、日頃から新聞や書物などをよく読んで見聞を広め、信頼できる人物、評論家、あるいはジャーナリストなどを見つけておくことが重要である。同時に自らも 良き情報受信者 としての立場を築くよう努力する必要があろう。情報受信者として信頼されれば、自然に信頼できる人々の輪の中に入れてもらえるようになり 信頼できる情報 が定常的に送られてくる身分になれる(かもしれない)。
良き情報受信者たる者は、ジャンク情報が多いと分かっている情報サイトには近づかない。たとえば、猟奇的な事件が起こり犯人と思われる容疑者が浮上すると、週刊誌や特定のサイト上に関連する真偽不明の身辺情報が溢れるようになる。私はミーハー的なところがあるから何となく覗いてみたくなるが、決して覗いたりはしない。いや、断じて覗かない(!)と自分自身に言い聞かせている。ひとたびそういう真偽不明の情報に触れてしまうと、必ず何らかの影響を受けてしまうからである。
良き情報受信者になりたければ、インターネットの世界では常に 実名 を用いて活動すべきである。私はインターネットの世界で情報発信を始めたときから常に実名で通してきた。その代わりウェッブ上では「議論したければ実名でお願いします」と言って、匿名の人から議論を挑まれても安易に受けないよう注意している。実名で議論しないと責任ある発言が期待できないからである。
私は自分のホームページの読者からいろいろと感想やコメントをもらうことがあるが、そういう場合はもちろん匿名であってもしっかりと対応している。しかし難しい議論にまで深入りすることはない。周知のようにインターネットの世界では(特に日本では)匿名で活動するのが主流であり、残念ながら全員が実名で自由にやり取りする環境を期待するのは不可能に近い。
しかし Facebook が登場してからは、実名でしか登録できないシステムであることを知って我が意を得たりと参加することにした。私はこれまで HTML形式のホームページやブログを使って情報発信してきた。それに比べて Facebook の世界は不自由な点も多々あるが、「友達」や「フォロー」する人を自分で選べるので、実名を名乗って議論し合える環境を構築することができる(多分)。
Facebook では、友人の数が増えると、直接の「友達」でなくても「友達の友達」あるいは「友達の友達の友達…」の発信した情報が共有され表示されることがある。そのため、自分の知らない分野の知識が得られ視野が広がっていく利点がある。それに伴い自然に友達の数も増えていく。「いいね」ボタンを押したり「シェア」(あるいはツイート)できるので情報共有が容易で非常に興味深いシステムだと思う。
ただ問題があるとすれば「友達」の数が増え、その数がある限界を超えたときであろう。「友達の友達…」による情報がたまたま共有され表示されると、その中に想定外のジャンク情報が含まれていることがときどき起る。しかも「こういう事も知ってもらいたい」というようなコメントが付加されていたりするから、積極的に広めようとしている様子が読み取れる。本人はその情報がジャンクであることに気が付いていないのであろう。
そういった明らかなジャンク情報には極力触れたくない私は、いささか気分が悪くなってくるのである。同時に、現在の著しく右傾化しつつある日本社会の現状の中にいると「もしかすると、自分の方が実は 情報難民 になってしまっているのではないか‥‥」と一瞬 疑心暗鬼に陥ることがある。Facebook を使う際は、重々気を付けたいと思う毎日である。■
質の良い情報 と 質の悪い情報(ジャンク情報)とを区別できない情報判断力に起因する格差が生じているのだ。その結果、いわゆる“情報難民”と呼ばれる人たちが急増している。所得格差の問題と同じように、インターネットの世界では情報判断力の差による“情報格差(*1)の拡大”が大きな問題となってきているのである。
【注】(*1)情報格差にもいろいろな種類がある。インターネットの世界で良質の情報を得たければ、質の高い情報の発信源をよく知っておく必要がある。そういった情報源を“ハブ”として用い、そこにリンクを張ることによって常に良質の情報が得られるようにするとよい。同時に自らも情報の価値を適切に判定できる情報判断力を身に付け、その能力を磨き続けることが求められる。この情報源のハブを選び間違えると、ジャンク情報の泥沼に落ち込んでしまう可能性があるから注意が必要である。信用の置けないサイトには、興味本位で無暗に近づいたりしない方がよい。
・経済力による格差
・技術力による格差
・情報判断力による格差
・行動規範(倫理観)による格差
良質の情報を選択的に豊かに享受している人たちが居る一方で、良質な情報とジャンク情報とを区別できない人たちも沢山居る。その格差が急速に拡大し、ある分野では情報の無政府状態が出現しかねない状況になっているという。更に悪いことに、情報の良否を判断できない人のところにはジャンク情報が排他的に蓄積されていく傾向があると言われている。
情報の良否を判断できない人たちの特長は 話を単純化したがる ことだという。それゆえ、彼らは最も知的負荷の少ない解釈法を好む。たとえば 陰謀史観 はその最たるものであろう。つまり「世の中のすべての不幸は、それによって利益を享受している悪の張本人のしわざである」とする考え方にすぐ飛びついてしまう傾向がある。しかも彼らにとっての最大の不幸は、自分が 情報難民 であるという事実に全く気が付いていない点にある。
そうならない為には、良い情報源を手に入れることが増々重要になってくる。質の高い情報の発信者を見つけるには、日頃から新聞や書物などをよく読んで見聞を広め、信頼できる人物、評論家、あるいはジャーナリストなどを見つけておくことが重要である。同時に自らも 良き情報受信者 としての立場を築くよう努力する必要があろう。情報受信者として信頼されれば、自然に信頼できる人々の輪の中に入れてもらえるようになり 信頼できる情報 が定常的に送られてくる身分になれる(かもしれない)。
良き情報受信者たる者は、ジャンク情報が多いと分かっている情報サイトには近づかない。たとえば、猟奇的な事件が起こり犯人と思われる容疑者が浮上すると、週刊誌や特定のサイト上に関連する真偽不明の身辺情報が溢れるようになる。私はミーハー的なところがあるから何となく覗いてみたくなるが、決して覗いたりはしない。いや、断じて覗かない(!)と自分自身に言い聞かせている。ひとたびそういう真偽不明の情報に触れてしまうと、必ず何らかの影響を受けてしまうからである。
良き情報受信者になりたければ、インターネットの世界では常に 実名 を用いて活動すべきである。私はインターネットの世界で情報発信を始めたときから常に実名で通してきた。その代わりウェッブ上では「議論したければ実名でお願いします」と言って、匿名の人から議論を挑まれても安易に受けないよう注意している。実名で議論しないと責任ある発言が期待できないからである。
私は自分のホームページの読者からいろいろと感想やコメントをもらうことがあるが、そういう場合はもちろん匿名であってもしっかりと対応している。しかし難しい議論にまで深入りすることはない。周知のようにインターネットの世界では(特に日本では)匿名で活動するのが主流であり、残念ながら全員が実名で自由にやり取りする環境を期待するのは不可能に近い。
しかし Facebook が登場してからは、実名でしか登録できないシステムであることを知って我が意を得たりと参加することにした。私はこれまで HTML形式のホームページやブログを使って情報発信してきた。それに比べて Facebook の世界は不自由な点も多々あるが、「友達」や「フォロー」する人を自分で選べるので、実名を名乗って議論し合える環境を構築することができる(多分)。
Facebook では、友人の数が増えると、直接の「友達」でなくても「友達の友達」あるいは「友達の友達の友達…」の発信した情報が共有され表示されることがある。そのため、自分の知らない分野の知識が得られ視野が広がっていく利点がある。それに伴い自然に友達の数も増えていく。「いいね」ボタンを押したり「シェア」(あるいはツイート)できるので情報共有が容易で非常に興味深いシステムだと思う。
ただ問題があるとすれば「友達」の数が増え、その数がある限界を超えたときであろう。「友達の友達…」による情報がたまたま共有され表示されると、その中に想定外のジャンク情報が含まれていることがときどき起る。しかも「こういう事も知ってもらいたい」というようなコメントが付加されていたりするから、積極的に広めようとしている様子が読み取れる。本人はその情報がジャンクであることに気が付いていないのであろう。
そういった明らかなジャンク情報には極力触れたくない私は、いささか気分が悪くなってくるのである。同時に、現在の著しく右傾化しつつある日本社会の現状の中にいると「もしかすると、自分の方が実は 情報難民 になってしまっているのではないか‥‥」と一瞬 疑心暗鬼に陥ることがある。Facebook を使う際は、重々気を付けたいと思う毎日である。■
2016年2月3日水曜日
節分
節分の頃になると私のホームページのあるページが頻繁にアクセスされるようになる。昨日などは38回も読まれたようである。「何だ、たったそれだけか!」と思う人がいるかもしれないが、私のホームページは田舎の過疎地にある“あばら屋”なので滅多に人が訪れることがない。これは極めて珍しいことなのである。
この時期だけそんなに読まれる理由を私は分かっている積りだが、さすがに書かれている内容の方が心配になってきた。何しろ13年前に書いたものだったからである。
「鬼と福はどちらが先なのだろう?」(2003-03-01)
そこで、久しぶりに読み返してみた。
なるほどそういうことか。この時季、豆を撒くときに「鬼は外、福は内」と叫ぶか「福は内、鬼は外」と叫ぶか迷っている人が多いのであろう。私は、以前自分で書いたものを読んで、あらためて教えられたりしている。何ともはや。■
この時期だけそんなに読まれる理由を私は分かっている積りだが、さすがに書かれている内容の方が心配になってきた。何しろ13年前に書いたものだったからである。
「鬼と福はどちらが先なのだろう?」(2003-03-01)
そこで、久しぶりに読み返してみた。
なるほどそういうことか。この時季、豆を撒くときに「鬼は外、福は内」と叫ぶか「福は内、鬼は外」と叫ぶか迷っている人が多いのであろう。私は、以前自分で書いたものを読んで、あらためて教えられたりしている。何ともはや。■
2016年1月26日火曜日
続々・素朴な疑問:双子はどちらが兄(姉)か?(解決編)
双子が生まれたとき「兄弟姉妹」をどうやって決めるのか。
昔、どこかで仕入れた知識によれば、後から生まれた方が兄(姉)になるというのが私の理解であった。何故、後から生まれた方が兄なのか、と私は素朴な疑問を持ったのを覚えている。もしかしたら、これが私の抱いた最初の“素朴な疑問”であったかもしれない。
生まれた順番を重視するのは人間だけが持つ特性である。しかしその順番は、当事者の意思では決められないのが普通である。ただ双子や多胎児の場合のみ人為的に(それも当事者でない誰かに)決める機会が与えられることになる。
私の身辺には双子はいないし、そもそも兄弟の順番がその後の人生に深く影響を及ぼすような高貴な家柄の生まれでもない。そんなこともあり、私はこれまであまり深くは考えたことがなかった。しかし最近知ったのだが、現在は先に生まれた方が兄(姉)となる決まりになっているのだそうである。
昔の慣例(*)とは異なるものになってしまったのは驚きであるが、その過渡期にいた人たちの間では色々と苦労があったことであろう。いずれにしても、その決め方に何らかの合理的な理由があるのであれば、それはそれで良いのではないかと思う。
ところが最近、この疑問に決着をつける出来事があった。アメリカで2015年12月31日の残りわずかで女児が生まれ、2016年が明けた2分後に男児が生まれたという。この事例から「先に生まれた方が兄(姉)」の方に軍配が上がるのは当然のことであろう。
普通、多胎児の出産では数分から一時間程度の時間差で生まれることが多いという。記録では数十時間から数十日の間隔が開いて生まれる場合もあるらしいので、誕生日や誕生年が異なる兄弟姉妹が存在することになる。素直に“生れ出た順に”というのが合理的な解釈であろう。
長年の疑問が解けてホッとしているところである。■
昔、どこかで仕入れた知識によれば、後から生まれた方が兄(姉)になるというのが私の理解であった。何故、後から生まれた方が兄なのか、と私は素朴な疑問を持ったのを覚えている。もしかしたら、これが私の抱いた最初の“素朴な疑問”であったかもしれない。
生まれた順番を重視するのは人間だけが持つ特性である。しかしその順番は、当事者の意思では決められないのが普通である。ただ双子や多胎児の場合のみ人為的に(それも当事者でない誰かに)決める機会が与えられることになる。
私の身辺には双子はいないし、そもそも兄弟の順番がその後の人生に深く影響を及ぼすような高貴な家柄の生まれでもない。そんなこともあり、私はこれまであまり深くは考えたことがなかった。しかし最近知ったのだが、現在は先に生まれた方が兄(姉)となる決まりになっているのだそうである。
昔の慣例(*)とは異なるものになってしまったのは驚きであるが、その過渡期にいた人たちの間では色々と苦労があったことであろう。いずれにしても、その決め方に何らかの合理的な理由があるのであれば、それはそれで良いのではないかと思う。
【注】(*)慣例となっていたのかどうかも私は知らない。ただ決まりがなかっただけかもしれない。実際に調べてみると1874年12月13日の太政官布告により、生まれた順に兄弟姉妹が定まるとなったらしい。現在の法律ではそれがどう反映されているのか調べてみたが、私は法律に疎い方なので結局よく分からなかった。唯一見つけたのは、戸籍法の中にある「戸籍の書き方」に関する取り決めである。
戸籍法 第三章 戸籍の記載この条文中の“出生の前後”という表現から「先に生まれた方が兄(姉)」という解釈が成り立つのではないか。少し無理があるかもしれないが、少なくともそう解釈しない限りこの条文の趣旨と齟齬をきたすことになってしまうからである。しかし「齟齬をきたす」からという理由だけで“合理的な解釈”とみなすのは無理があろう。
第十四条【氏名の記載順序】
氏名を記載するには、左の順序による。
第一 夫婦が、夫の氏を称するときは夫、妻の氏を称するときは妻
第二 配偶者
第三 子
2 子の間では、出生の前後による。
ところが最近、この疑問に決着をつける出来事があった。アメリカで2015年12月31日の残りわずかで女児が生まれ、2016年が明けた2分後に男児が生まれたという。この事例から「先に生まれた方が兄(姉)」の方に軍配が上がるのは当然のことであろう。
普通、多胎児の出産では数分から一時間程度の時間差で生まれることが多いという。記録では数十時間から数十日の間隔が開いて生まれる場合もあるらしいので、誕生日や誕生年が異なる兄弟姉妹が存在することになる。素直に“生れ出た順に”というのが合理的な解釈であろう。
長年の疑問が解けてホッとしているところである。■
2015年12月21日月曜日
続々・素朴な疑問 批判的に読む
電車に乗っていて考えた。最近、電車の中で本や新聞を読んでいる人がめっきり少なくなった。スマホを利用する人が増えたからであろう。
そんな中で、私一人は頑なに電子書籍ならぬ普通の本や新聞を読んでいるのである。こういう古くからのスタイルは車内では目立つようになり、その内に勇気を必要とする行為となっていくのだろう。
ところで、日本の書物はほとんど縦書きが主流であるから、当然のことながら私めは顔を上下に動かしつつ(頷きながら)書物を読んでいる。以前「縦書き・横書き論」で述べたことだが、これが日本人が書物を批判的に読めない原因となっているのではないかと思う。本来、読書の姿勢としては批判的に(首を横に振りながら)読むことが大切なのだが、日本人は読んだものを何でも肯定的に(頷きながら)受け入れてしまう傾向がある。どんな書物であっても常に批判的な姿勢で読むべきであろう。
先に触れたように、最近の若者たちはスマホを利用しているから、多分縦書きより横書きのものを読む機会の方が遥かに多いに違いない。したがって、これからは批判的に読む習慣が自然と身に付いた若者たちが増えていくことであろう。しかし残念ながら彼らは書物というものを読まないという。優秀な編集者によってしっかりと査読された後に出版される(信頼のおける)書物ではなく、ネット上の(怪しげな情報を含む)横書き情報ばかりを読んでいるのではあるまいか(あっ、そう言えばこれも横書きだな)。
もしそうだとすれば、何事によらずネット上で他人を批判することに長けた人が増えている問題の原因は実はそこにあるのではないかと思う。スマホの利用が原因で批判的に(首を横に振りながら)思考する人が増えてきたのだとすれば、これは一大事である。スマホ利用の弊害の一つとも言えるのではないか。
情報は批判的に読むべきか、あるいは肯定的に読むべきか、どちらがいいのだろう。分からないなぁ・・・。■
(これは、ジョークですから真面目に反論しないでくださいね。)
そんな中で、私一人は頑なに電子書籍ならぬ普通の本や新聞を読んでいるのである。こういう古くからのスタイルは車内では目立つようになり、その内に勇気を必要とする行為となっていくのだろう。
ところで、日本の書物はほとんど縦書きが主流であるから、当然のことながら私めは顔を上下に動かしつつ(頷きながら)書物を読んでいる。以前「縦書き・横書き論」で述べたことだが、これが日本人が書物を批判的に読めない原因となっているのではないかと思う。本来、読書の姿勢としては批判的に(首を横に振りながら)読むことが大切なのだが、日本人は読んだものを何でも肯定的に(頷きながら)受け入れてしまう傾向がある。どんな書物であっても常に批判的な姿勢で読むべきであろう。
先に触れたように、最近の若者たちはスマホを利用しているから、多分縦書きより横書きのものを読む機会の方が遥かに多いに違いない。したがって、これからは批判的に読む習慣が自然と身に付いた若者たちが増えていくことであろう。しかし残念ながら彼らは書物というものを読まないという。優秀な編集者によってしっかりと査読された後に出版される(信頼のおける)書物ではなく、ネット上の(怪しげな情報を含む)横書き情報ばかりを読んでいるのではあるまいか(あっ、そう言えばこれも横書きだな)。
もしそうだとすれば、何事によらずネット上で他人を批判することに長けた人が増えている問題の原因は実はそこにあるのではないかと思う。スマホの利用が原因で批判的に(首を横に振りながら)思考する人が増えてきたのだとすれば、これは一大事である。スマホ利用の弊害の一つとも言えるのではないか。
情報は批判的に読むべきか、あるいは肯定的に読むべきか、どちらがいいのだろう。分からないなぁ・・・。■
(これは、ジョークですから真面目に反論しないでくださいね。)
2015年11月26日木曜日
続々・素朴な疑問 テロとカミカゼの違い
欧米では、テロのことを“kamikaze”と呼んでいるらしい。一部のメディアでは、カミカゼは自爆テロやテロリストを表現する言葉として使われている。どうやら自殺攻撃(suicide attack:スーサイドアタック)のことを“kamikaze”と総称しているように思われる。
これを伝え聞いた日本のメディア関係者は「特攻隊はテロリストとは違う」と主張している。私も最初はそう思った。しかしよく考えてみると、少し似ているところもあるなぁ~。いや、著しく似ていると言ってもよいくらいだ。
逆に、カミカゼとテロリストとは一体どこが違うのだろう。分からないなぁ。
【テロリストと特攻隊員の違い】
●美化について
▼テロリストは「神は偉大なり」と叫びつつ銃を乱射したり自爆したりする。特攻隊員も「天皇陛下万歳」と叫びつつ敵陣に突っ込んで行き自爆する。
▼いずれも、若者たちを引き込んで誤った教育で洗脳し「お国のために(あるいは大義のために)」と信じ込ませる。若者たちは自分というものを見失ったまま死んでいく。
▼死者ともなれば「国(あるいは特定の集団)のために尊い犠牲となられた」とか「英霊」あるいは「幸せな來世がある」と言って美化し、更なる愛国者を募るのに利用する。
▼それをけしかけた者たちは、必ず後方の安全地域に居て生き残り、彼らの行為を美化し続ける。
▼この美化が、他の国(あるいは集団)からは決して理解されない。
(例えば、我々が、イスラム過激派がテロの成果を賛美するのを理解できないのと同様に、他国は、日本の指導者が靖国参拝するのを理解できないであろう。お互いに逆の立場に立って考えれば明らかである)
▼残された遺族も美化されるが、遺族がそれを喜んでいるかどうか、その本心は分からない。
●戦う相手の違い
▼イスラム過激派とは、イスラム教という宗教の名を借りて過激な行動を取る集団である。
▼特攻隊を操った集団も、その実態は日本の一部過激派集団と考えられる。
▼したがって、攻撃相手が国か特定の集団かの差はあまりない。
▼攻撃する相手が一般市民か軍隊かの差はあるが、同じ人間の死という点では同じである。
▼最近、日本の「一部過激派集団」の活動が目立つようになってきた。困ったものである。匿名で難癖を付けてくる者が居たら、それは過激派集団の一味である可能性が高い。気を付けよう。
いろいろ考えてみたが、やっぱり分からないなぁ~。
私も、過激派集団に難癖を付けられないよう、この位にしておこう。■
これを伝え聞いた日本のメディア関係者は「特攻隊はテロリストとは違う」と主張している。私も最初はそう思った。しかしよく考えてみると、少し似ているところもあるなぁ~。いや、著しく似ていると言ってもよいくらいだ。
逆に、カミカゼとテロリストとは一体どこが違うのだろう。分からないなぁ。
【テロリストと特攻隊員の違い】
●美化について
▼テロリストは「神は偉大なり」と叫びつつ銃を乱射したり自爆したりする。特攻隊員も「天皇陛下万歳」と叫びつつ敵陣に突っ込んで行き自爆する。
▼いずれも、若者たちを引き込んで誤った教育で洗脳し「お国のために(あるいは大義のために)」と信じ込ませる。若者たちは自分というものを見失ったまま死んでいく。
▼死者ともなれば「国(あるいは特定の集団)のために尊い犠牲となられた」とか「英霊」あるいは「幸せな來世がある」と言って美化し、更なる愛国者を募るのに利用する。
▼それをけしかけた者たちは、必ず後方の安全地域に居て生き残り、彼らの行為を美化し続ける。
▼この美化が、他の国(あるいは集団)からは決して理解されない。
(例えば、我々が、イスラム過激派がテロの成果を賛美するのを理解できないのと同様に、他国は、日本の指導者が靖国参拝するのを理解できないであろう。お互いに逆の立場に立って考えれば明らかである)
▼残された遺族も美化されるが、遺族がそれを喜んでいるかどうか、その本心は分からない。
●戦う相手の違い
▼イスラム過激派とは、イスラム教という宗教の名を借りて過激な行動を取る集団である。
▼特攻隊を操った集団も、その実態は日本の一部過激派集団と考えられる。
▼したがって、攻撃相手が国か特定の集団かの差はあまりない。
▼攻撃する相手が一般市民か軍隊かの差はあるが、同じ人間の死という点では同じである。
▼最近、日本の「一部過激派集団」の活動が目立つようになってきた。困ったものである。匿名で難癖を付けてくる者が居たら、それは過激派集団の一味である可能性が高い。気を付けよう。
いろいろ考えてみたが、やっぱり分からないなぁ~。
私も、過激派集団に難癖を付けられないよう、この位にしておこう。■
2015年11月24日火曜日
続々・素朴な疑問 “W杯”
世の中の人は“W杯”と書いて「ワールドカップ」と読んでいるらしい。私は頑固だからそうは読めず、常に「ダブリュウはい」と読むことにしている。このことは13年程前に「続・素朴な疑問(21)」“人はなぜ“W杯”を「ワールドカップ」と読めるのだろう”に書いた通りである。
齢を重ねて私もだいぶ性格が丸くなったためであろうか、最近はこの単語に出会うと「俺も頑固よのぅ~」と心の中でつぶやきながら、やはり今でも「ダブリュウはい」と読み続けているのである。しかるに、今日の新聞を読んでいたら以下のような記事に遭遇した。
そうです“W杯”の杯(はい)にふりがなが付いているのを発見したのである。安心してください、“はい”とありますよ。
これを書いた新聞記者はしっかりと「ダブリュウはい」と読んでもらう積りで書いている。それにも関わらず、世の中の人はどうして「ダブリュウはい」と素直に読めないのだろう。分からないなぁ‥‥。
齢を重ねて私もだいぶ性格が丸くなったためであろうか、最近はこの単語に出会うと「俺も頑固よのぅ~」と心の中でつぶやきながら、やはり今でも「ダブリュウはい」と読み続けているのである。しかるに、今日の新聞を読んでいたら以下のような記事に遭遇した。
そうです“W杯”の杯(はい)にふりがなが付いているのを発見したのである。安心してください、“はい”とありますよ。
これを書いた新聞記者はしっかりと「ダブリュウはい」と読んでもらう積りで書いている。それにも関わらず、世の中の人はどうして「ダブリュウはい」と素直に読めないのだろう。分からないなぁ‥‥。
2015年11月18日水曜日
私のコンピュータ遍歴
━━ 表示方法への工夫
以前から、自分がこれまで使ったことのあるコンピュータ類をすべて洗い出しリストアップしてみたいと思っていた。過去のコンピュータの“終活”である。
コンピュータ(電子計算機と呼んでいた時代もあった)の名称を思い出してはメモに書き止めていたのだが、次第にその写真も集めるようになった。しかしこれがなかなか難しい。インターネット上で探しても期待したようなものが見つからないことが多かった。記憶力の低下もあって名称を正確に思い出せないものもある。
そうやって何度も挫折しては、またしばらく時間を置いて再び挑戦するということを繰り返してきた。最初にメモを作った時のファイルのタイムスタンプを確認すると「2007-7-29 18:23」となっいるから8年以上経ってしまったことになる。その結果、折角手に入れた写真の出典も曖昧になりつつある。
うまくまとめられない原因はどこにあるのだろう、と私は考えてみた。
そもそも、何のためにまとめようとしているのか。それは成果が得られたら自分のホームページ上に掲載したかったのである。それなら「どのように見せるか」の方から考えた方が良いかもしれない。
見せたいと思っても、他人のコンピュータ遍歴に関心を持つ人はそう多くはあるまい。しかし昔の仕事仲間の同僚たちが見てくれたら、間違いなく関心を持ってくれるであろう。更に表示方法を工夫すれば“もの好きな人”が現れて、少しは関心を持ってくれるかもしれないと考えたのである。
思うに情報というものは、ただネット上に並べただけでは見てもらえない。その量が大きくなればなるほど、逆に先を読み進もうとする意欲が減退してくるものである。
私は、博物館や美術館を見てまわっているときの経験で、膨大な展示品をただ順繰りに見てまわっているだけだと、自分が今全体のどの辺りを見ているのかが分からなくなり、そのうちに疲れ果ててしまうことがある。後どのくらいのエネルギーを残しておけばよいのか。目の前の展示品に関心が向かなくなると、ただそれだけで疲れてしまうのである。もしトップダウンに全体を見渡すことができれば、特に関心のある部分だけを集中して見ることもできるはずである。そういった不満を何時も抱えていたので、この機会に何とかその問題に取り組んで、何らかの解決策を見つけたいと思ったのである。
そこで私は、以前ホームページのサイトマップを作製した時に用いた技術をここで活用し、表示方法を工夫してみようと思い立った。
このような経緯で表示方法の枠組みが出来あがると、作業は驚くほど急速に進捗するようになった。盛り込みたいコンピュータの種類も増え、忘れていたコンピュータの名称も何故か急に思い出したりするようになった。登録した各コンピュータには自分の“思い出”も書き添えることにしよう。計算するための道具(計算器と呼ぶべきもの)も盛り込んでしまおう、‥‥という具合に色々なアイディアも浮かんできた。
その結果出来あがったのが「私が使用したことのあるコンピュータの一覧」私のコンピュータ遍歴(my Computer Career)である。もちろんこれで完成ではない。これからも新しいコンピュータが登場するかもしれない。忘れていたコンピュータを思い出し、突然登録したくなるかもしれない。個々のコンピュータには“コメント”を書き込む欄が用意されているので、個々のコンピュータに関して思い出したことがあれば、それを少しずつ時間をかけて書き込んでいこうと思う。まだまだ内容が更新される予定なので、更新履歴が分かるように“バージョン番号”を付すことにした。興味のある方は、是非一度見学に訪れるよう期待しています。もちろん入場無料です。■
以前から、自分がこれまで使ったことのあるコンピュータ類をすべて洗い出しリストアップしてみたいと思っていた。過去のコンピュータの“終活”である。
コンピュータ(電子計算機と呼んでいた時代もあった)の名称を思い出してはメモに書き止めていたのだが、次第にその写真も集めるようになった。しかしこれがなかなか難しい。インターネット上で探しても期待したようなものが見つからないことが多かった。記憶力の低下もあって名称を正確に思い出せないものもある。
そうやって何度も挫折しては、またしばらく時間を置いて再び挑戦するということを繰り返してきた。最初にメモを作った時のファイルのタイムスタンプを確認すると「2007-7-29 18:23」となっいるから8年以上経ってしまったことになる。その結果、折角手に入れた写真の出典も曖昧になりつつある。
うまくまとめられない原因はどこにあるのだろう、と私は考えてみた。
そもそも、何のためにまとめようとしているのか。それは成果が得られたら自分のホームページ上に掲載したかったのである。それなら「どのように見せるか」の方から考えた方が良いかもしれない。
見せたいと思っても、他人のコンピュータ遍歴に関心を持つ人はそう多くはあるまい。しかし昔の仕事仲間の同僚たちが見てくれたら、間違いなく関心を持ってくれるであろう。更に表示方法を工夫すれば“もの好きな人”が現れて、少しは関心を持ってくれるかもしれないと考えたのである。
思うに情報というものは、ただネット上に並べただけでは見てもらえない。その量が大きくなればなるほど、逆に先を読み進もうとする意欲が減退してくるものである。
私は、博物館や美術館を見てまわっているときの経験で、膨大な展示品をただ順繰りに見てまわっているだけだと、自分が今全体のどの辺りを見ているのかが分からなくなり、そのうちに疲れ果ててしまうことがある。後どのくらいのエネルギーを残しておけばよいのか。目の前の展示品に関心が向かなくなると、ただそれだけで疲れてしまうのである。もしトップダウンに全体を見渡すことができれば、特に関心のある部分だけを集中して見ることもできるはずである。そういった不満を何時も抱えていたので、この機会に何とかその問題に取り組んで、何らかの解決策を見つけたいと思ったのである。
そこで私は、以前ホームページのサイトマップを作製した時に用いた技術をここで活用し、表示方法を工夫してみようと思い立った。
このような経緯で表示方法の枠組みが出来あがると、作業は驚くほど急速に進捗するようになった。盛り込みたいコンピュータの種類も増え、忘れていたコンピュータの名称も何故か急に思い出したりするようになった。登録した各コンピュータには自分の“思い出”も書き添えることにしよう。計算するための道具(計算器と呼ぶべきもの)も盛り込んでしまおう、‥‥という具合に色々なアイディアも浮かんできた。
その結果出来あがったのが「私が使用したことのあるコンピュータの一覧」私のコンピュータ遍歴(my Computer Career)である。もちろんこれで完成ではない。これからも新しいコンピュータが登場するかもしれない。忘れていたコンピュータを思い出し、突然登録したくなるかもしれない。個々のコンピュータには“コメント”を書き込む欄が用意されているので、個々のコンピュータに関して思い出したことがあれば、それを少しずつ時間をかけて書き込んでいこうと思う。まだまだ内容が更新される予定なので、更新履歴が分かるように“バージョン番号”を付すことにした。興味のある方は、是非一度見学に訪れるよう期待しています。もちろん入場無料です。■
2015年10月22日木曜日
男の沽券
| ★本記事のリライト版を、ホームページ上に 「男の沽券 ── 本能とプライドの関係」 として掲載しました。(2015-11-1) |
━━━ 本能とプライドの関係
男の“沽券に係わる話”をすることにしよう。
こう言うと大きなテーマのように聞こえるが、なに、男性が用を足す時、小の場合は立ったままするか、便座に座ってするかの問題である。私の知る限りでは、最近は「座る派」が着実に勢力を伸ばしているのではないかと思う。しかし「立ち派」もその姿勢を崩さず、頑迷な‥‥ぃゃ頑強な(と表現しておこう)保守勢力として存在し続けているのもまた事実である。
最近の実験結果から得られたデータによれば「立ち派」によるトイレの汚れが想像以上に酷いことが明確になってきている。しかし、その事実を知っても世の男性達の多くは「自分は今まで通り」と「立ち派」にこだわる傾向がある。「男のプライド」を守ろうとしているのだ。
斯く言う私も「男のプライド」を守っていた時期もあったが、12年程前から「座る派」に転じている。この時期を明確に覚えている理由は、家内に難病の兆候が出始めた頃であり、それ以後私はアイロン掛けとトイレ掃除とを自らやることにしたからである。
トイレ掃除をするようになって、私はその汚れの酷さに驚いた。当時私は家内との二人暮らしだったから、汚れの原因が私にあることは明白であった。そして掃除をする者が考える自然の成り行きとして、まずは汚さないようにするのが第一だと思うようになったのである。私は結婚以来、家内からトイレの使い方について一言も注意を受けたことがない。ずっと我慢し、黙って掃除をしてくれていたのである。申し訳なくて頭の下がる思いをしている。そういう次第で、この問題が広く論じられるようになるかなり前から、私はトイレの汚れを意識し「座る派」を実践していたのである。
「立ち派」を主張する男性を見ると、私は「男のプライド」というものを理解できるから、別段批判する気は起らない。ただ「あぁ この人は普段からトイレ掃除をしたことがない人なんだ」と思うだけである。自分で掃除をするようになれば、「立ち派」を続けることは絶対にありえないと信じるからである。
今日も私は「座る派」を実践しつつ、つくづくと考えてみた。我々人類を造られた創造主様は、いったいどのような意図を持って我々の身体を設計されたのであろう。つまり男性が排尿する時の姿勢は「しゃがみ派」、「座り派」、「立ち派」のいずれを前提にしていたのかという点である。人類がその後、洋風の便器なるものを発明し座って用を足すようになると予想していたとは思えないから、多分「しゃがみ派」と「立ち派」のいずれかを考慮していたのではないかと思う。
恐れ多くも創造主様は、女性は「しゃがみ派」男性は「立ち派」を前提としたと考えるのが自然であろう。私は体験的にも「座る派」はありえないと思う。実は、男は座ると尿が少し出にくくなるのである。慎み深い私めは、これ以上は詳しく書かないことにする。
私は外出時に駅の公衆トイレなどを利用することがあるが、そういう時は躊躇することなく「立ち派」に変身してしまう。この日和見的「立ち派」としての経験と合わせ考えるとき、「立ち派」の利点は排尿時に重力をうまく利用している点にあることが分かる。尿の切れがよくなるからである。慎み深い私めは、これ以上は‥‥(分かったよ!)。
しかし、これはあくまでも私の体験に基づく考察であるからして、説得力に欠ける所があるかもしれない。しかも他の文献類でこういう説を唱えているのを見たことがないから猶更である。しかし犬の所作を見ている人なら納得してもらえると思うが、雌犬は「しゃがみ派」であり、雄犬は必ず「片足上げ派」である。犬の創造主はしっかりと区別して設計しているのだ。そして、彼ら犬達は本能にしたがって創造主の意図を正しく理解しているように見える。
犬の創造主と人類の創造主が同じなのかどうかは分からないが、恐れ多くも創造主様は人類もうまく設計してくださっているに違いない。
人類にそのことを代々間違いなく伝えていくには(取説などないから)本能として身に付けさせる必要がある。その結果、男は「立ち派」ということを本能的に知っているのである。そして男たちは、それを「男のプライド」あるいは「男の沽券に係わること」と考えて重視し、その習慣を死守したがるのである。■
2015年9月23日水曜日
しっぽの痛み
| ★本記事のリライト版を、ホームページ上に 「しっぽの痛み ── しっぽを踏まれたことがあるか?」 として掲載しました。(2015-10-1) |
多摩川沿いにウオーキングをしながら“痛み”について考えている。
事故等で足を失った人が、もはや存在しない足の特定の部位に痛みを感じるという話を聞いたことがある。これは実際に痛みを感じるのはその部位ではなく脳の方であることを示している。
人類はその昔尾を持っていたと言われているが、もし現在でも尾があってそれを誰かに踏まれたりしたら、さぞかし痛いことであろう。進化の過程で失われた尾の神経の一部が今の人類の身体にまだ残っているとすれば、事故で失われた部位が痛むのと同じように「尾を踏まれた痛み」を我々は体験できるのではないか、などと“しょうもない”ことを考えながら、私は多摩川のサイクリングロードを歩き続けている。
我々は誰しもしっぽを踏まれた経験はない。しかし今思い返してみると、私は子供の頃いじめを受ける度に何度もそれを経験していたのではないかと思うようになった。私はいじめられっ子ではなかったが、それでも子供の頃身辺にはいじめはいくらでも存在した。
いじめを受けたとき、それが物理的な暴力によるものなら打たれたところが痛むものである。しかし言葉によるいじめではそういう痛みはない。しかし“言葉による暴力”という表現があるくらいだから、本当にこたえるのはそういう陰湿ないじめの方ではないかと思う。いじめられた本人は傷つき身体のどこかに痛みを感じているはずなのだ。しかし子供はそれを表現できない。大人になるとその種の痛みのことを心の痛みと呼んで区別する智恵を身に付けるが、子供にはまだそれができないのだ。
とりあえず身体の不調を訴えて自分の殻の中に閉じこもろうとする。痛い部位を具体的に示せないから、子供はとりあえず「オナカが痛い」と言ってごまかそうとする。よく知られているように、いじめに合っていることを示す最初のシグナルがこれである。しかし本当にお腹が痛いのかもしれないからその区別は難しい。「しっぽの痛み」と呼んで明確に区別してくれると助かるのだが。
いじめ問題が起こる度に、私は子供達に「そういうときは“シッポが痛い”と言うんだよ」と教えてあげたい。そうすれば、子供達はもっと具体的に痛みの原因を訴えやすくなるのではなかろうか。
自分の心の痛みが分からない人は、しょせん他人の心の痛みなど理解できないと言われている。だから私もこの際もう一度、自分の心の痛み… いやしっぽの痛みと向き合ってみようと思う。■
2015年9月21日月曜日
続々・素朴な疑問:三権分立も理解していない?
今の政府は立憲主義を理解(*1)していないらしいから、もしかしたら三権分立も理解していないかもしれない。
【注】(*1)“理解”について:物事を「知っている」あるいは「分かっている」積りでも、それを自分が実践する立場になったときその通りにできない人がいる。それは、本当には“分かっていない”、“理解していない”ということである。そうなると安保法制に対する違憲審査請求をしたとしても、担当する裁判官に対して政府は密かに圧力(*2)をかけるんじゃないかなぁ。そうなったら国民はどう対応したらよいのか。分からないなぁ‥‥。
【注】(*2)砂川判決では、今頃になって新たな事実が次々と判明している。
2015年9月16日水曜日
続々・素朴な疑問:ストリーミング再生
------ 聴き放題でよいのか
最近、定額制の音楽配信サービスが注目されている。音楽を聴いて楽しむには、これまでは音声を記録したCDを直接購入するか、あるいはネット上からファイルをダウンロードし、パソコンやスマホ等に保存してから再生するのが主流であった。これをオフライン再生と呼ぶ。
この新サービスでは、ネット上に置かれた音声データを逐次ダウンロードしながら、同時に再生させていく方式を取る。これをストリーミング再生と呼んでいる。
月額で千円程度を払えば(定額制)、何曲でも自由に聴くことができるらしい。聴き放題をキャッチフレーズとしているから、音楽を頻繁に聴く人を対象にしたサービスであると言えよう。ただ、ストリーミング再生の場合は聴きたい時に、聴きたい曲を求めてインターネット上に聴きに行くという形になるから、原則としてオンライン接続(*1)で聴くことが求められる。
この方式の狙いは、オンラインで聴いている時だけ利用許諾を与え、それ以外の時は与えないようにできる点にあるようだ。つまり金儲けのための巧妙な仕組みであると言えよう。
私などは昔ながらの方式で、CDというメディア上に記録されたものを購入しないと安心できない。そのCDさえ持っていれば、著作権上の問題で将来訴えられることはない(と思う)からである。ネット上から音声ファイルをダウンロードし購入する場合も条件は同じであるが、この方式では年月の経過とともに著作権上の利用許諾権を証明するものがなくなってしまう可能性が強い。将来苦労するのではないかと他人事ながら心配になる。CDを選ぶかダウンロードを選ぶかは個人の好みの問題であると言えよう。
海外ではストリーミング再生が普及しているらしいが、日本では将来どちらが主流になるのだろうか。
ストリーミング再生では、聴きたい時は何時もネット接続が必要となるから、通信回線上の負荷が想像以上に大きくなるのではないかと危惧している。
音楽配信の場合、同じ利用者が同じ曲を何度も繰り返し聴くことが予想されるから、同じ内容のデータがネット上を繰り返し飛び交っていることになる(動画配信でも同じだが程度が異なる)。一般的な情報通信の立場から考えると、これは大変な無駄ではないかと思う。送信技術がいくら進歩しても、通信速度には限界がある。我々はネット上のデータ通信量を常に減らす努力を続けなければいけないと思う。
ストリーミング再生方式は聴き放題を重視する音楽愛好者(オタク)を相手にした金儲けの手段としては有用かもしれない。しかし一般利用者(あるいは、聴きたいものだけを聴く真の音楽愛好者?)にとっては迷惑な話である。聴き放題(あるいは、動画の場合は見放題)を許していたら、将来どうなるのだろう。こういう方式が主流になるのを看過していてよいのだろうか。理解できないなぁ。分からないなぁ・・・。■
最近、定額制の音楽配信サービスが注目されている。音楽を聴いて楽しむには、これまでは音声を記録したCDを直接購入するか、あるいはネット上からファイルをダウンロードし、パソコンやスマホ等に保存してから再生するのが主流であった。これをオフライン再生と呼ぶ。
この新サービスでは、ネット上に置かれた音声データを逐次ダウンロードしながら、同時に再生させていく方式を取る。これをストリーミング再生と呼んでいる。
月額で千円程度を払えば(定額制)、何曲でも自由に聴くことができるらしい。聴き放題をキャッチフレーズとしているから、音楽を頻繁に聴く人を対象にしたサービスであると言えよう。ただ、ストリーミング再生の場合は聴きたい時に、聴きたい曲を求めてインターネット上に聴きに行くという形になるから、原則としてオンライン接続(*1)で聴くことが求められる。
【注】(*1)オンラインで一度聴けば、一時的に保存されたファイルを利用してオフライン再生ができるようにしたサービスもあるらしい。
この方式の狙いは、オンラインで聴いている時だけ利用許諾を与え、それ以外の時は与えないようにできる点にあるようだ。つまり金儲けのための巧妙な仕組みであると言えよう。
私などは昔ながらの方式で、CDというメディア上に記録されたものを購入しないと安心できない。そのCDさえ持っていれば、著作権上の問題で将来訴えられることはない(と思う)からである。ネット上から音声ファイルをダウンロードし購入する場合も条件は同じであるが、この方式では年月の経過とともに著作権上の利用許諾権を証明するものがなくなってしまう可能性が強い。将来苦労するのではないかと他人事ながら心配になる。CDを選ぶかダウンロードを選ぶかは個人の好みの問題であると言えよう。
海外ではストリーミング再生が普及しているらしいが、日本では将来どちらが主流になるのだろうか。
ストリーミング再生では、聴きたい時は何時もネット接続が必要となるから、通信回線上の負荷が想像以上に大きくなるのではないかと危惧している。
音楽配信の場合、同じ利用者が同じ曲を何度も繰り返し聴くことが予想されるから、同じ内容のデータがネット上を繰り返し飛び交っていることになる(動画配信でも同じだが程度が異なる)。一般的な情報通信の立場から考えると、これは大変な無駄ではないかと思う。送信技術がいくら進歩しても、通信速度には限界がある。我々はネット上のデータ通信量を常に減らす努力を続けなければいけないと思う。
ストリーミング再生方式は聴き放題を重視する音楽愛好者(オタク)を相手にした金儲けの手段としては有用かもしれない。しかし一般利用者(あるいは、聴きたいものだけを聴く真の音楽愛好者?)にとっては迷惑な話である。聴き放題(あるいは、動画の場合は見放題)を許していたら、将来どうなるのだろう。こういう方式が主流になるのを看過していてよいのだろうか。理解できないなぁ。分からないなぁ・・・。■
2015年8月26日水曜日
謝罪 .......... “謝らない日本人”でよいのか?
| ★本記事のリライト版を、ホームページ上に 「謝罪 ── 謝らない日本人”でよいのか?」 として掲載しました。(2015-9-1) |
安倍総理の「戦後70年談話」なるものを聞いて以来、私は 謝罪 についていろいろと考えている。
70年談話 を私はテレビを通じて聞いたのだが、長い弁舌だったわりには心を打つような山場もないまま終わってしまったような気がする。長いなぁという感想だけが残った。今までの総理談話はこんなにも長いものだったのだろうか。
表面的にさらっと聞き流すと、世情で注目されていた4つのキーワード“植民地支配”,“侵略”,“反省”,“お詫び”はそれぞれ登場しているから、何となく分かった積りになった人も多かろう。だが、私は何か解せないところがあった。そこで、翌日の新聞に掲載された全文をしっかりと読んでみた。その結果、これは(多分、官僚が作った)“巧妙に作られた下敷き”があって、その下敷きの枠に沿って書き上げられたものではないかと思うようになった。実に巧妙に構成されていたからである。
全体は大きく二つの部分から成り、前半では日本の戦後70年の歩みが紹介されている。侵略 については、負の側面を薄めようとしているところもあって気になるが、ここでは深入りしないことにする。
前述の4つのキーワードはこの前半部分に出てくるのだが、よく読むと「痛切な反省と心からのお詫び」という表現の主語があいまいで、“私”(安倍総理)の言葉ではなく歴代内閣の表明をただ引用しただけであることに気が付く。そして「こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないもの」であるとし“全体として引き継ぐ”という形で締めくくられている。つまり“私”がお詫びをしている訳ではないのだ(実に巧妙である)。
後半の部分は、これからの若い世代への期待と日本の世界に対する貢献が述べられている。この中に「あの戦争には 何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」という部分がある。この部分が、安倍総理が一番言いたかったことなのであろう。
新しい世代の子どもたちは、もうこれ以上「謝らなくてよい」ようにしたい。しかしこれでは諸外国からの反発が予想されるから、同時に抜かりなくこうも言っている。「私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければならない」と。
我々日本人にとって、常に謝り続けるのは辛いことである。だから「謝らなくてよい」となれば、誰でも共感したくなる。しかし私は、やはり謝るべき時には、何時でも心から謝罪できる人間でありたいと思う。そのためには、何について謝罪するのかをしっかりと理解していなければならない。つまり日本の歴史をしっかりと頭に入れておかなければ、謝ろうにも何を謝ればよいのか分からないからである。
安倍総理の「過去の歴史に真正面から向き合わなければならない」という言葉とは裏腹に、日本の歴史教育は日本にとって不都合な歴史上の出来事はできるだけ教科書に載せない(あるいは触れない)方向へと動いている。不都合な歴史上の出来事を教科書に記載したりすると「自虐的歴史観」であるとして排斥され、教科書として採用されない。つまり、次の世代には教えないようにしているのである。
その結果、日本の歴史を正しく理解していない若者が増えていくことが予想される。しかも、彼らは謝罪しなくてよいという免罪符を手に入れているから、日本の不都合な歴史上の出来事を知らず、謝ることもしない日本人がこれから続々と海外に出ていくことになる。これは由々しきことである。
海外に行く目的が「買い物」や「観光」だけならあまり問題は起こらない。せいぜい「爆買」とか「マナー違反」でひんしゅくをかう程度であろう。しかし仕事や留学などで長期間海外に滞在する場合は、現地の人々と親しく交わる必要があり場合によっては歴史問題で意見を求められる、あるいは議論を挑まれる機会があるかもしれない。
若者たちが日本という国に 引き籠って 外国へ出ていかなければ、多分歴史問題で自己の意見を求められる経験をすることはないかもしれない。日本に居て多くの日本人に囲まれて生活している限り、歴史問題でいくら世間に通用しない“とんでもない歴史観”を語っても恥をかくことはない(国会や地方議会の議員さんの中にそういう人が沢山いるじゃないですか)。しかし単身海外に出ていって、そういう環境に身を置いたとき、一人で自己の主張を通じて相手を説得することができるかどうか、という問題である。
日本にとって不都合な出来事も含めて歴史上の基本的な知識を学んでいないと、国定教科書などで自国中心の歴史観を学んでいる外国人を前に、我々は正しい自己主張ができなくなる。そういう人間は卑屈になるか、あるいは無暗に反発するかいずれか両極端に走ることになろう。
「私には分かりません」と逃げる手もあるが、それは欧米では通用しない。欧米で「ホロコーストを知らない」と言えば、相手から無知だと思われ相手にされなくなる。グローバリゼーションの時代に外国人に向かって日本の歴史や文化を説明できなければ、同じように無知だと思われることだろう。恥ずかしながら、私は何度もそういった経験をしてきたのである。
「あの戦争に“何ら関わりがない”」と信じてきた人たちも、実際にそういう場面に遭遇すれば、実は“関わりがある”ということを納得できるであろう。日本の歴史を勉強して、必要なら躊躇することなく心から謝罪のできる人間になってほしいと思う。■
2015年8月24日月曜日
素朴な疑問:首相の女性観
安倍首相のヤジが止まらない。
・5月28日の衆院特別委員会で、民主党の辻元清美氏に対し「早く質問しろよ」とヤジを飛ばした。
・8月21日の参院平和安全法制特別委員会で、民主党の蓮舫代表代行の質問中、自席から「まあいいじゃん、そんなこと」とヤジを飛ばした。
首相は日頃から「法案を丁寧に説明する」とか「国民に分かりやすく」とか言っている割には、実際の行動はそれとかなり乖離した行動を取っているように思う。偶然かもしれないが、安倍総理は女性議員から質問されると普段以上にエキサイトするようである。一般に女性議員の発言中はヤジを飛ばす議員が多いらしいが、これは女性に対する偏見からきているのではないか。安倍政権が成長戦略の柱として掲げる「女性の社会進出」というのもどうやらお飾りに過ぎないような気がしてきた。首相の女性観はどうなっているのだろう。分からないなぁ・・・。■
・5月28日の衆院特別委員会で、民主党の辻元清美氏に対し「早く質問しろよ」とヤジを飛ばした。
・8月21日の参院平和安全法制特別委員会で、民主党の蓮舫代表代行の質問中、自席から「まあいいじゃん、そんなこと」とヤジを飛ばした。
首相は日頃から「法案を丁寧に説明する」とか「国民に分かりやすく」とか言っている割には、実際の行動はそれとかなり乖離した行動を取っているように思う。偶然かもしれないが、安倍総理は女性議員から質問されると普段以上にエキサイトするようである。一般に女性議員の発言中はヤジを飛ばす議員が多いらしいが、これは女性に対する偏見からきているのではないか。安倍政権が成長戦略の柱として掲げる「女性の社会進出」というのもどうやらお飾りに過ぎないような気がしてきた。首相の女性観はどうなっているのだろう。分からないなぁ・・・。■
2015年7月27日月曜日
朗読・日本国憲法
【音声ボタン】
日本国憲法
‥‥朗読 木下倶子(*1)
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
第二章 戦争の放棄
第九条 戦争の放棄 軍備及び交戦権の否認
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
第三章 国民の権利及び義務
第十条 国民の要件
日本国民たる要件は、法律でこれを定める。
第十一条 基本的人権の享有
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
【注】(*1)朗読は、妻 倶子によるものです。昔朗読を趣味として習っていた頃、先生に提出するために音声録音したテープが残っていたのでそれを使いました。妻は不治の病のため気管支切開を行い現在では声を失っています。
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