2014年10月28日火曜日

「生きた言葉」と「死んだ言葉」

    ━━ 新しい言葉との出会い
 日本語の慣用句の使い方について、文化庁が行った世論調査の結果が発表された。それを紹介した新聞記事を読んでいると、私はいつも自分の無知と不勉強を(密かに)恥じていたものである。ところが、今年の発表の多くは自分の理解の方が正しくて、逆に若者達(多分)の新しい解釈に驚かされることの方が多かった。これは前回発表の後、私の国語力が急に向上したとは思えないから、若者の解釈が多様になってきたと考えるべきであろう。

 たとえば「煮詰まる」は、正しくは「議論や意見が出尽くして、結論が出る状態になる」ことであるが、最近は「議論が行き詰まってしまって、結論が出せない状態になる」という意味に解釈している人が4割近くいるという。しかも一部の辞書には、この両方の意味がともに載るようになったとのことである。

 言葉というものは時代とともにその意味が変化していくものらしい。新しい意味が追加されると、その分だけ言葉の表現力が豊かになったと言える。しかし正反対(*1)の意味が追加されることになれば、世代間で意味の解釈が異なることになり、場合によっては正確な意思疎通の妨げになる恐れもある。そうなると、もはやその言葉に利用価値はなくなるのではないかと私は危惧するのである。そういう厄介な言葉は使いたくないと思うだろう。
  【注】(*1) 正反対”という立派な言葉が存在するのに、最近「真逆」などという変な言葉が使われるようになった。私めには理解し難いことである。

 同じ言葉が正反対の意味になってしまうような“おかしな解釈”が頻繁に出現するようになった背景はある程度推察することができる。
 ここでは、自分の知らない“新しい言葉”に出会ったとき、我々はどのように対応しているか(あるいは対応してきたか)を考えてみよう。

 私が「新しい言葉」に出会うのは、主に読書を通じてである。本を読んでいて未知の言葉に出会うと、まず前後の文脈との関係からその意味を推測して自分の脳内辞書に登録する。意味が分からなければ辞書で調べることもあるが大抵はそのまま読み進むことになる。中学生時代に習った国語教師のW先生からは、本の文章から「生きた言葉」を学ぶように、と教えられた記憶がある。辞書に書かれた言葉は、いわば「死んだ言葉」であり、いろいろな意味が列記されていてもどのような文脈で使われるのかは分からない。それに対し本の中で出会った場合は、前後の文脈を繰り返し読んでその意味を推測することができる。前後の文脈とともに覚えた「生きた言葉」を学ぶことの重要性を教えられたのである。更に、本の中で使われた言葉であるから、当然正しい使われ方をしていることが保証されていると思ってよい。

 ところが、最近の若者達(多分)は本を読まない世代であると言われているから、おそらく会話を通じて、あるいはネット上の文書の中で新しい言葉に出会うのであろう。会話の場合は、録音でもしない限り前後の文脈はすぐ忘れ去られ反芻できない。そうなると前後の文脈とは無関係に、その言葉だけから意味を推察しなければならない。漢字表現も同音異義語にすり替わってしまう可能性がある。その会話の中で正しく使われたという保証もない。間違って使われた場合は間違って覚えてしまう可能性が高くなる。ネット上の文書では正しく使われているかは全く保証の限りではない。結局、「死んだ言葉」ばかりを自己流で学んでいることになるのではないかと思う。こういうステップを踏んで覚えた言葉から“おかしな解釈”が生まれてくるのではあるまいか。

 新しい言葉の意味を辞書類で調べるのは、この文脈からの推察を行った後にすべきであろう。そうすれば、更に広い活用法が見つかり語彙を増やすことができるかもしれない。■

2014年9月26日金曜日

文章を読んでもらう方法

   -- 長過ぎる文章は誰も読まない(長文です)

 最近、本が売れていないという。特に紙の本を読む人が少なくなったような気がする。その代わりに電子書籍が読まれているのならよいのだが、必ずしもそうなっていないのではないか。誰もが携帯端末を持ち歩き、始終画面に視線を落としているけれど、ゲームをやっていたり、文章を読んでいてもそれはメールの文面であったりする。

 最近の私は、ネット上の文章を読むときはさらっと斜め読みする癖がついてしまっている。一方、紙の本を読むときは、自然と集中度が高まり「精読する」のが習慣になっているようだ。この差はどこからきているのだろうか。

 私は、文章の作成者に対する信頼度の差ではないかと思う。
 出版された紙の本ともなれば、必ず編集者や査読者がいて複数の人間による内容のチェックが行われている。それだけ内容への信頼度は高いと言える。

 分厚い本であっても、最初から読む覚悟があって読み始めたのであるから(途中で挫折することはままあるが)兎にも角にも最後まで読み通そうとする覚悟だけはできている。そして首尾よく読了すれば、かなりの知識が得られることも分かっている。作成者の名前が知られていれば、その可能性はかなりの確率で保証されていると言えるであろう。

 それに対し、ネット上の文章は読んでみないと分からない。誰の査読チェックも受けていない可能性が高いから、内容的に信頼するに足るものかどうか甚だ疑わしい。電子書籍と言っても、査読を受けずに誰でも簡単に出版できる時代である。

 読了するまでにどの位の量の文章を読まされるのかも分らない。どんな成果が得られるか分からないのに、大量の文章を読まされるのはつらいことである。作成者の名が分からない場合は、作者不詳の文章を読まされているのとたいして変わらない状態である。仮に作者の名前が分かっていても信頼度の確認までは難しい。

 ネット上でたまたま出会った文章と、あるテーマを関して探し続けた結果出会った文章とでは、読む側が持つ熱意・意欲にも大きな差が生ずるのは明らかであろう。普段、さらっと斜め読みしたくなるのは仕方のないことである。

 このように、紙の本の文章とネット上の文章とでは、その読まれ方に著しい差があることが分かる。したがって、ネット上に文章を公開する者は、自分の文章をしっかりと読んでもらいたと思ったら何らかの工夫をしなければならないことになる。

 まず、人に読んでもらいたければ、文章をできるだけ短くすることである。ネット上では、「長過ぎる文章は誰も読んではくれない」と覚悟すべきである。これはSNSの影響かもしれないが、短い文章で全体を歯切れよくまとめないと読んではもらえない時代である。長い文章だと“tl;dr”とされてしまうからだ。つまり“Too long; didn't read”の略で、「長すぎて読まなかった!」と言われてしまう。メール文化が盛んになった頃、メールで報告する際に何でも添付ファイルで送りつけておけば報告したことになると誤解していた時代があった。読んでもらえなければ、結局は報告しなかったのと同じなのである。

 タイトルも含めて「冒頭の数行の書き方で勝負は決する」と思わなければならない。しかし、こうやって「文章を短くすべし」と主張しながら、その本人はダラダラと長い文章を書き連ねているのが実態である。自分の真意を間違いなく読者に伝えたければ長文を厭わず、誤解されないよう、詳しくかかなければならない。難しい問題である。この文章の冒頭に(長文です)という断り書きを付しておいたが、これが最低限の礼儀作法なのである。

 そこで(無名で、他人から信頼もされておらず、文章も下手な)私めは、次のような方法を取っている。

(1)適度な長さの文章を作ったら、まずそれをブログ上に公開する。
(2)次にフェイスブック上に、その要約を数行にまとめて公開する。このとき、更に詳しく知りたいと関心を持ってくれた読者に備えて、ブログの文章を読めるようリンクを張っておく。
(3)1~2週間すると書き直したい部分が出てくるものである。ブログの文章全体を見直して完璧なものにしてから自分のホームページ上に掲載する。

 フェイスブックに掲載した記事はすぐ底に沈んでいって再び読まれる可能性はなくなる。ブログの記事も同じように底に沈んでいくが、普通は日付順に管理されているので比較的簡単にサルベージできるものである。それでも、その記事の存在を知らないと探し出すのは無理であろう。検索ソフトに拾ってもらうのを期待するしかない。

 一方、ホームページ上に掲載する場合は、しっかりと構造を決めて整理・分類されていれば、一般の読者でも後から容易にその記事を見つけ出してもらえる利点がある。検索ソフトに見つけ出してもらえるよう複数のキーワードを設定しておくこともできる。

 どうです、貴方(女)も試してみませんか。

2014年9月1日月曜日

自転車から身を守る法

 5つ折りにできる杖を利用して、自分の肩幅程の長さの棒を用意する。


(私の護身用の杖)
この棒の使い方のコツを、以下に列挙する。

▼普段は右手に下げて持ち、後方から来る自転車に注意を促す。
▼前方から自転車が来たら、できるだけ早い段階で杖を横向きにし、両手でしっかりと保持する。
▼両手で持つ位置はベルトの下あたりがよい。すれ違う際に必要なら上下に保持位置を変えて身を守る。
▼自転車の動きに注意を払うのは当然であるが、決して自転車を走らせている人と視線を合わせてはならない。
▼十分に広い歩道上で自転車1台、歩行者1人の状況であっても決して気を許してはならない。後方の状況によっては、すれ違う直前にお互いに接近せざるを得ない状況になるかもしれないからである。
▼特に子供の運転する自転車は、突然に方向を変えることがあるから注意が必要である。守るべき位置も下になる。

▼このように、自転車の存在には常に厳しく対応するが、歩行者には逆に最優先で進路を譲るよう心がける。

詳しくは、「護身用の杖」を参照されたい。

2014年8月12日火曜日

自転車が怖い

 先日、ウオーキング中に自転車と接触し怪我をしてしまった。
 暑さのため熱中症に対する注意が叫ばれている時期に、何もウオーキングなどしなくても… と言われるのは重々承知しているが、私は毎日運動して汗をかかないと気がすまない性格(たち)なのである。

 多摩川のサイクリングロードを1時間ほど歩いて帰路につき、家の近くの幹線道路沿いの歩道上を歩いているときに事故は起きた。この歩道は幅2メートル以上もある広い道で、普段から自転車もたくさん走っている。私はその道の右側を行儀よく歩いていたのである。向こうからも同じ側を歩いくる人が目に入ったので、遠慮深い(?)私めは早めに進路を中央側へと移すことにした。後ろから来る自転車や人に注意を払いつつ徐々に進路を左側へと移していった。相手とすれ違う間際になって、前方から突然自転車がやってきてすれ違う直前の二人の間をS字に蛇行してすり抜けていったのである。自転車はスピードを出しておりかなり危険な行為ではあったが(よくあることで)何事もなくやり過ごすことができた。しかし次の瞬間、その自転車の陰からもう1台、小学生らしき子供の乗った自転車が現れ、同じスピードで同じようにすり抜けようとした。私の振りだした右手の甲とその自転車の右ハンドルの先端とが激しくぶつかったのである。相手は振りかえりもせず、そのまま走り去ってしまった(親子連れだったのか?)。

 右手を見ると、甲の部分が打撲でみるみる膨れ上がってきている。短時間の間にこれほど急激に腫れあがるのを見るのは2度目の経験であった。1度目はアメリカでの自動車事故のときであったから、それを思い出して精神的にもかなりのショックであった。急いで家に帰り患部を保冷剤で冷やし応急手当を行った。

 それにしても、この程度の打撃でこれほどの怪我になってしまうとは、予想外のことであった。打撲でかなりの内出血をしているように見える。外部からの打撃に対して著しく弱くなっているようだ。齢を取ったせいもあるが、実は私は日頃から抗凝血薬を飲んでいて、血液が固まり難くしておく必要がある身なのである。その結果、切り傷や内出血などの出血ではなかなか血が止まらない。やっかいな身体なのである。もっともっと気を付けて行動しなければと反省した次第である。

 歩道上での自転車の怖さについては、以前「歩道を歩くのが怖い」で述べたことがあるが、後ろからやってくる自転車の怖さについて言及したものであった。しかし最近は前から来る自転車の方が怖い。それも若者だけでなく、女子学生・子供・家庭の主婦の乗る自転車の方がぶつかる頻度が高いのである。その原因は、自転車の荷台に置いてあるもの、あるいは子供を乗せるための補助具等が両側に飛び出していて、それがすれ違いざまにこちらにぶつかるケースが多いからだ。このようなとき、相手はぶつかったという認識がない。ハンドル部分さえ無事に通れば、それより後ろのことは自分には一切関係のないことで御座んす、という訳である。
 自分には責任がないと思うから大抵はそのまま行ってしまう。こちらは腕や肘の辺りに被害を受けるが泣き寝入りするしかない。

 思うに自転車の側からは、通行人というのは“腰の幅”しか意識する必要のない単なる障害物と見ているのではないか。それ以外の空間は全部自分の通れる空間だと思っているふしがある。その結果、自分の自転車のハンドル部分が通過できる隙間さえあれば、絶対にすり抜けられると信じて猛然とその狭い空間に侵入してくるのである。“腰の幅”の外側には腕が振り出される領域があることなど全く予期していないらしい。少なくとも“両肩の幅”を持つ障害物と認識してほしいのである。

 歩道上を歩いているときは自転車が怖くて仕方がない。これからは、両腕の肘から下の部位を衝撃から守る工夫をしなければならない。
 いろいろ思案した結果、家にあった女性用の杖を利用しようと思い娘に相談したところ大反対されてしまった。自転車にぶつかると相手の自転車の方が危険だと言うのである。そうかもしれないが、こちらの命も掛かっているのだから。
 何か良い護身用具(プロテクター)はないものだろうか。軽くて、強固なプロテクターを誰か考案してくれないでしょうか。

2014年7月11日金曜日

号泣県議

 不自然な日帰り出張を繰り返していた兵庫県議が、その政務活動費の詳細を問われた記者会見の場で突然泣き叫ぶ事態となった。
 昔ならローカルな珍事件としてそのまま忘れ去られてしまうところだが、今はインターネットの時代である。その映像があっと言う間に全世界に発信され、更に物議をかもすことになってしまった。何ともはや、日本人として恥ずかしい限りである。話題にするのも躊躇したくなるような出来事であった。

 この県議のことを、各メディアは“号泣県議”と呼ぶことで意志統一されたようであるが、私はこの“号泣県議”という呼び方だけは大変気に入っている。最近の若者達は「号泣」の意味を誤解しているので、それを正すのに絶好の事例が見つかったからである。

 大学の授業で情報倫理を教えているが、リポートを書かせると日本語の意味を取り違えている学生が予想外に多いことに気が付く。このままでは、社会人になったとき恥をかくことになるのではないか。それが心配で、私は授業中にできるだけ機会をとらえては、いろいろな用語の正しい読み方や本来の意味を教えている。

 それらの経験は
  「変な日本語表現(その1)
  「いい加減な日本語力
   「ネット世論
等にまとめられている。

 そこでも紹介したように、最近の若者達は「号泣」という用語をただ「泣く」という意味で気軽に用いているようだ。これは本来は「大声を上げて泣き叫ぶ」ことである。
 これは若者に限らず多くの人が意味を取り違えているように思う。先に、IOC総会の場で東京オリンピックが正式決定された際も、現地取材していた記者の一人が「私も、思わず号泣してしまいました」などとリポートしていたのが今でも私の記憶に残っている。男はそんなに簡単に号泣したりしないものだ。男が号泣してよいのは、自分の親が亡くなったとき(と財布を落としたとき)だけと昔から決まっている(性差別をなくすことを重視する現在では「男は…」の部分は不要であろうが)。

 某国の将軍様が亡くなったとき、国民が競って泣き叫んでいる姿をニュース映像で見たことがあると思う。泣き叫んで悲しみを表現することが忠誠心の証しだと考えている国であるから、国民は皆競って号泣し誰よりも派手に泣き喚くのである。国民性の違いとはいえ、傍から見ていても決して人の心を打つことはない。むしろ異様な光景であると思えてならない。
 今まで私は、この事例を挙げて学生達に「号泣」の意味を説明していたのだが、これからはただ「号泣県議」という固有名詞(?)を出すだけで、万事了解してもらえると確信している。そして、無闇に号泣したりしない立派な大人になろうと努力してくれることであろう。

 ところで、なぜ「泣く」の代わりに「号泣」という表現が使われるようになったのか。その点を少し探求してみようと思う。
 週刊誌の広告などを見ていると「号泣」という語が頻繁に使われているのに気が付く。広告では簡潔な表現が求められるから「泣く」という動詞を使うよりも名詞で止めた方が全体が簡潔になる。「泣く」という意味の名詞で適当なものがなかったので「号泣」が選ばれたのではないか、と私は推測している。その広告を見た若者達は、この「号泣」という表現の方が単に「泣く」と言うよりも格好いいと思ったのであろう。

 そこで「泣く」を意味する名詞を調べてみた。

 涕泣(ていきゅう):涙を流してなく
 嗚咽(おえつ):むせびなく
 欷歔(ききょ):すすりなく
 感泣(かんきゅう):感動してなく
 慟哭(どうこく):声を上げて嘆きなく
 哀哭(あいこく):声を上げて悲しみなく
 

 「泣く」を表現する漢字には声を発するものが多い。単に「涙ぐむ」というやさしい泣き方の名詞は見当たらないようである。私が捜した限りでは、涕泣(ていきゅう)、降泣(こうるい)くらいしかない。見慣れぬものばかりである。
 もっとポピュラーなものはないのかと自分でも考えてみた。そこで思いついたのが「落涙」である。これなら普通に使えると思うが、どうであろうか。

2014年6月26日木曜日

親知らず

 どうやら、長らく眠っていた私めの“親知らず”(第三大臼歯)が、この齢になって急に目を覚まし動き出したようである。

 実は2か月程前、口の中の左上部に口内炎ができてしまった(これは、よくあること)。その口内炎は直ぐ治ったのだが、その中心の部分にどういう訳か小さなポチッとした突起状のものが残ってしまった。2か月程経ってもその状態が変わらないので口腔外科で診てもらうことにした。

 診察してくれた医師は「これは骨ですねぇ~」と言う。つまり骨の部分が出っ張っているのだと言うのだ。予想外の診断結果に、癌だと言われるかもしれないと内心(ちょっぴり)覚悟していたので正直なところホッとしたのである。そこで「安心しました」と言ってそのまま帰ってきてもよかったのだが、どうも何か合点がいかない。骨が出っ張っているのなら以前から気が付いていた筈である。最近出っ張ってきたとしか思えない。そのとき、ふと私は気が付いた。これは親知らずではなかろうかと。

 医師もその可能性はあると私の意見に同意してくれて、早速X線写真を撮って調べてくれた。その結果、可能性は益々高くなってきたのだが、まだ確定できる段階ではない。少し様子を見ましょう、ということになったのである。

 親知らずという歯は、20歳前後に生えてくるのが普通であるという。平均寿命が短かった昔は、子供の親知らずが生えてくる前に親は亡くなってしまうから、親知らずと呼ばれるようになったらしい。

 医師よりも先に「親知らずではないか?」と気が付いたのには実は理由があった。私は歯の手入れは十分にしてきた積りなので、この齢になるまで無事にすべての歯を維持してきている。ただ残念なことに、生来左下の奥歯(第二大臼歯)が1本欠けていた。そのため、対応する左上の奥歯の方が、噛み合う相手がなくて役目を果たすことなくさびしく存在し続けていたのである。

 その歯が、長い年月の間に少しずつ下に伸びてきていた。なぜ伸びてくるのかは分からないが、下からの圧力がないのが最大の原因ではないかと思う。更に悪いことに、下に伸びた歯が少し外側に傾きだしていた。そのことに気が付かなかったので、隣りの第一大臼歯との間が少し開いてきたことにも気が付かなかった。そして両方の歯の間のみがき方が足りなかったのであろう、気が付いたときには虫歯になりかかっていたのである。その虫歯を治療するよりも(どうせ使われていない歯なら)抜いてしまった方がよい、というのが歯科医の判断であった。かくして私めは、生まれて初めて“抜歯”というものを経験することになったのである。そのとき歯医者に言われたのは、この歯の後ろに親知らずがあるから、もしかするとそれが生えてくるかもしれませんよ。そう警告されていたのである。

 親知らずも表に出たかったのであろう。それを邪魔している第二大臼歯を長年上から少しずつ押し続けていたのかもしれない。この齢になって親知らずの抜歯を受けるのかと思うと、気が重くなることである。

 年寄りになると誰でも入れ歯のお世話になるものだが、入れ歯ではなく本物の自分の歯(それも新品の!)を与えられるのだから喜ばなければいけないのかもしれない。高貴な年寄りになったことへのご褒美という風に考えられると良いのであるが。

2014年5月22日木曜日

待ち時間に読む本

 私は外出するとき何時もショルダーバッグに本を一冊入れておく。待ち時間に読むための本である。銀行でATMの行列に並んでいる時や、病院の受付あるいは診療待合室で待っている間などに取り出して読む。待ち時間に本を読んでいると、少なくともその時間を“無駄にはしなかった”ような気分になれるのである(有効に使ったとまでは思わないが)。特に、駅で電車の到着を待っているような時はすぐさま本を取り出して読み始める。慣れてくると瞬時に物語の世界に没入できる。すると、不思議なもので電車は直ぐにやって来る。

 携帯する本は、バッグからの出し入れがしやすい文庫本サイズのコンパクトなものが向いている。更に、頻繁の出し入れに耐えられるよう、あらかじめ丈夫なカバーを掛けておくとよい。
 本の種類は技術書のような難しい本ではなく、血沸き肉躍る面白い内容の本であることが望ましい。この条件さえ満たしていれば、電車は直ぐに来る! それこそ、あっという間にやって来る(これは私が保証する)。

 待ち時間向きの本として私は海外作品のリーガルサスペンス物が一番好きなのだが、最近読んだものでは本屋で偶然に見つけた「素数の音楽(*)という本が最高であった。
  【注】(*)新潮文庫「素数の音楽」マーカス・デュ・ソートイ(冨永星訳)

 周知の通り「素数」というのは数学の世界では最も注目度の高いテーマであるから、どちらかと言えば技術書という分類に属する本である。しかし素数の研究に取り組んだ数学者たちの業績、歴史、あるいはその裏にある人間臭い数々のエピソードを読んでいると、面白くて、面白くて、思わずのめり込んでしまうのである。もちろん数式も沢山登場するが(残念ながら1か所だけ数式が間違っている)、意味を理解するのにそれほど苦労することはない。

 著者のデュ・ソートイは、オックスフォード大学数学研究所の教授であり、科学啓蒙という業績により大英帝国勲章を受章している。難しい科学のテーマを分かりやすく教える特技を持っている人らしい。そういう人が書いた本であるから尚更興味深いのである。

 待ち時間に読もうとすると、以前中断した箇所から読み継ぐ際に少し戻ってもう一度読み返す必要に迫られることもある。そうやって復習している間に電車が来てしまい、結局一行も前へ読み進めないまま再び中断しなければならなくなることもある。これは過密ダイヤのせいなのかもしれないが。

 断片的に少しづつ読み進んでいくと、どうしても読了するまでに時間が掛かる。それだけ長く楽しめるとも言えるが、全体的な感銘度や理解度は少し落ちるのではないかと思う。できれば、電車が絶対に来ないところで、もう一度最初からじっくりと読んで見たいと思う。

2014年4月15日火曜日

Windows XP マシンを捨てる?

 Windows XP のサポートが終了するという事態になり、世間の動向に押されて私めも重い腰を上げざるを得なくなった。自分の手持ちのパソコンを見直すことにしたのである。
 普段から、Windows系のパソコンは常に複数台を確保し、非常事態に備えつつ自分の開発環境を守ってきた。現在は主力マシンはWin-7マシンで、補助のマシンとしてWin-XPマシンを充てている。このXPマシンの方を処分しなければならないのだ。Win-8マシンはまだ入手していなかったので、この際消費税が8%になる直前の機会を捉えて買い換えることにした。

 Win-8マシンはタブレット指向で使い難く今まで敬遠していたが、Win-8.1にバージョンアップされ少しは使い勝手も改善されたようである。かくして、私はWin-7マシンとWin-8.1マシンの利用者となった。

 しかし何か割り切れないものがある。自動車や電化製品等で欠陥が明らかになると、普通はリコールされたり、命に関わるような事故が予想される場合は最後の1台まで見付け出して代替品に無償交換するのがメーカー側の務めであるように思う。そう思ってきたから、大量のWin-XPマシンが世の中に存在しているのにソフトウェア会社(MS)側が「もはや、これまで!」とすべて買い替えるよう勧めるキャンペーンを始めたのには正直驚いた。これからは、こういう売り方をするのが主流になるのであろうか。それに対し誰も異論をとなえようとしない。これは少しおかしいのではないか。

 新聞記事では「13年間もサポートしてくれた」とか、TVニュースの女性キャスターが、ふと「無料でソフトを提供してくれればいいのに…」ともらすと(私はまったく同感なのだが)、直ぐさま批判の声が起こったりしている。全員がソフトウェア会社の側に立っているように思える。Windowsというソフトウェアに不具合があり、その作成に携わったソフトウェア会社が「もはやこれ以上は直せない」と言って投げ出してしまったのである。

 一方、それをささえるコンピュータ本体(ハードウェア)の方には何の欠陥もない! コンピュータ会社は、お客が買い替えで新たなコンピュータを沢山買ってくれればよい訳だから、ただ黙っているのが得策であろう。私もコンピュータ会社の一員であったから、その点はよく理解できる。しかし同時に、苦労して造ったマシンが何の欠陥もないのに、ただソフトがないからという理由だけであっさりと捨てられてしまう。この事態を見て悔しい気持ちにならないとしたら、それは開発に携わった技術者として少しおかしいのではないか。
(Win-XPマシン)

 私は不要になったWin-XPマシンを前にして、一人悔しい思いをしている。特にこのマシンは、大学の講義で使うために携帯に便利なようにと超薄型で超軽量のものを選んで買ったので当然高価であった。Win-Vistaマシンとして購入したが、Vista が実用にならないのでXPにダウングレードしたものである。まだ6年しか(!)使っていない。こんなデザインの良いものを、悔しい! 昔の仲間達が造ったものを簡単に捨ててたまるか。何とかこのマシンを使えるようにしたい。私はそう思いつつ思案しているところである。

2014年3月19日水曜日

メダルをかじる

 オリンピックやパラリンピックでのメダル授与式で、メダルをかじるパフォーマンスが話題になっている。私は以前から何故選手が“メダルをかじる”のか理解に苦しんでいたが、その関係の新聞記事を読んでやっと合点がいったのである。どうやらメディア関係者が選手にそういう行為をするよう要求するのが原因であるらしい。しかしメダルをかじる行為が何を意味するのかに言及したものはなかった。

 昔流行った西部劇映画の熱烈なファンなら誰でも知っていることだが、昔は金貨を手に入れたらそれが本物の金であることを確かめる必要があった。その確認のために“咬んで”みるのである。歯型が付く程度に柔らかければ本物の可能性が高いが、固くて歯型が付かなければ間違いなく偽物なのだ。決して“かじって”いる訳ではない。

 そういう習慣があったことを知っていれば、表彰式でメダルを噛む(かじるのではない!)という行為は、それが本物であることを疑っていることになるから甚だ礼を失した行為であるといえよう。ましてや、金ではない(銀メダルや銅メダルの)受賞者にメダルを噛む行為を要求するのはあり得ないことである。

 私は、メディア関係者に以下2点の間違いを指摘したい。
金メダルは“咬む”のは構わないが“かじる”ものではない。
金メダル以外のメダル獲得者にメダルを咬むことを要求するべきではない。

2014年2月8日土曜日

リケジョ

 “リケジョ”という言葉が流行っている。小保方晴子さんのSTAP細胞に関する研究成果の劇的な報道があった後は、尚更話題になる機会が増えたように思う。
 リケジョとは、理科系の科目を学んでいる(あるいは、学んだことのある)女性を指しているが、そういう経歴を持つ職業人(主に、技術者、研究者等)に対しても使われているようである。確かに、理科系の科目を専攻する女性は、比率的には理科系男子より数が少ないかもしれない。しかし専攻する科目によっては女性の方が多い科目も存在する。

 世間では、将来の進むべき方向を「理系か」,「文系か」という二者択一で選ぶ傾向があり、女性は文系のコースに進むのが普通だと考える ある種の偏見のようなものがあるのだろう。それなら、文系に進む男子の数は少ないかというと、必ずしもそうとも言えない。その証拠とはならないけれど、文系男子を“ブンダン”とか“ブンメン”とか呼んで特別視する造語は(私の知る限り、今のところ)存在しないじゃないですか。

 “リケジョ”という表現は、理系の女性を一括して表現できる便利な言葉だと私も思う。しかし、このようなカナ表現の4文字造語はどうもいただけない。初めて聞いたとき、直ぐその意味を理解できないからである。それに対し“就活”,“婚活”,“終活”などの造語は、使い慣れている生活という言葉から容易に意味を想像することができる。カナ文字だけの表現ではそうはいかない。日本人は漢字という表意文字を持っているのだから、もう少し表現方法を工夫したらどうかと思うのである。

 以前、書道をやっている母親から“”という字を教えてもらったことがある。女偏の付く字にはあまり良い意味がない。
”,“”,“”,“”,・・・
”という字にしたところで、“”は常に“”に居るものだという封建的な考え方から発する字なのである。しかし“”という字は「けん」と読み「女をみがく(磨く、研く)」という良い意味があるというのである。つまり、

 (女 + 研) 女研 妍

ということである。
 これを真似て、女偏の付く新しい漢字の造語を作ったらどうか。たとえばリケジョは、(女+理)系、つまり“女理”あるいは (女+里)(*)、つまり“女里2”と書いて表現するのである。
【注】(*)(女+里)という文字は存在するが、ここには表示できない。

 たとえば、小説の中などで、
 「ワタシ、女里系なんですぅ~
というように用いる。
 「ワタシ、リケジョなんですぅ~
などと表現する女性がどこにいるというのか?

 今や我々は、日本語ワープロを用いて文章を書ける環境にいるのだから、ちょっとしたアドインソフトを用意すれば、誰でも簡単にこういった漢字の造語を作れる時代になったのではないかと思う。

 (男 + 理) ⇒ 男理
 (女 + 理) ⇒ 女理女里
 (女 + 研) ⇒ 女研妍

 貴方(女)いや、…貴娚も挑戦してみては如何?■

2014年1月20日月曜日

“ながらスマホ”の時代

 歩きながらスマートフォンを使うことを「歩きスマホ」と呼ぶようになって間もないのに、もうこの言葉が国語辞典等に取り上げられているという。驚きである。これは、歩きスマホという行為が世間に及ぼす影響の大きさを示すものでもあろう。歩きながらケータイを使うのに比べて、スマホの場合ははるかに危険な行為であることが分かってきたからである。

 「走りスマホ」と言うのもある。これは、マラソンや駅伝の選手がスマホを活用して自分の予想ラップタイムを確認したり、コーチからの指示をメールで受け取ったりするのに利用する行為(そんな訳ないだろ)… ではなく、自転車で走りながらスマホを利用することを言う。まあ「自転車スマホ」と呼ぶ方が分かりやすいかもしれない。

 私は先日、この「自転車スマホ」をしている人にたまたま遭遇してしまった。それはそれは見事にスマホを使いこなしているように見えた。両腕を肘のところで曲げて自転車のハンドルの上に置き、肘から下の腕の部分だけでハンドル操作をする。そして空いている両手でスマホを持ち指先で画面操作をしながら時々前方に視線を走らせる(実は、このとき私としっかりと視線が合ってしまったのだ)。このようにして、ゆっくりと、ゆっくりと自転車を走らせていたのである(決して真似をしてはいけません)。

 「授業中スマホ」と言うのもある。授業中、講義も聞かずに机の下あるいは机上に置いたスマホの画面を指の先でつついている姿をよく見かけるようになった。もちろん私は「授業中スマホ」を禁止しているのだが、そんな注意は聞きもしない。注意した直後は止めた振りをするが、しばらくするとまたスマホに没入してしまっている。困ったことである。
 「久しぶりにスマホに90分間触らないでいました」という感想を寄せた学生もいた。他の授業の先生は、まったく注意をしていないらしい。

 企業人から大学教師に転じた当座、私は授業中の私語(おしゃべり)に悩まされたものだが、ある年を境にして授業中の私語がまったくなくなった。後から気が付いたのだが、それはケータイが流行りだした頃であった。私語するよりケータイで遊んでいる方がはるかに楽しかったのであろう。このように、携帯端末の存在が授業に及ぼす影響は年々大きくなってきている。そして今年は、スマホの存在(とその性能)が授業に影響を及ぼした年として後々まで記憶されるのではないかと思う。「授業中スマホ」を禁止しても、もはや守られなくなった年として。

 更に、スマホの充電能力が貧弱なので授業中に充電しようとするけしからん輩が増えてきたことである。家で十分に充電しておいても、大学へ行くまでの電車の中で使い、授業中にも使い、休憩時間にも使い…していると、その日の午後になるともう電池切れになってしまうのだという。したがって常に学生達は電源を求めて歩き回っている。いつでも充電、どこでも充電… と。

 私は「情報倫理」の授業中に、教室の後ろの方まで歩いていった折に教室の隅のコンセントに2台のスマホが接続されて充電中であるのを発見した。こういう行為を「盗電」と呼ぶことを事前に教えていたのであるが。
 授業のついでに充電していると言うよりも、充電のついでに講義を聞いているという感じなのである。

 食事中のスマホ、授乳中のスマホ、デート中のスマホ、… 。
 恋人同士が手をつないで歩きながら、それぞれの空いている方の手にスマホを持ち、それぞれがスマホを指で巧みに操っている。これが普通の風景となる日も近いのではないか。いよいよ「ながらスマホ」の時代になったということであろう。

2013年12月26日木曜日

電話詐欺への対応

 家に電話が掛かってくる。受話器を取り上げるとプツンと切れてしまう。そういうことがこれまで何度もあった。
 ベル が鳴ると、その時やっていた仕事を中断し急いで電話機(または子機)の置いてあるところへ駆けつけるのだが間に合わない。5回くらいのコールで受話器を取ってもすぐ切れてしまうのだから相当に気の短い人が掛けてきたのだろうと考えたりしていた。

 書斎で仕事をしていて机上の子機が鳴った時も、ワンコールで直ぐに取ったのに切れてしまう。これは怪しい! 家に人が居るかどうかの確認をしているのだろうか。そこで気が付いたのである。いわゆる“オレオレ詐欺”の電話かもしれないと。

 “オレオレ詐欺”は、そこで使われる手法が進化(?)する度に名称変更を迫られ、現在は“振り込め詐欺”とか“母さん助けて詐欺”とか、これら三つの名称のいずれかが使われているようである。しかし切っ掛けはいつも家の固定電話のベルが鳴るところから始まるのだから“電話詐欺”と呼ぶのが妥当ではないかと思う。

 私は電話詐欺らしき電話が掛かってきたら、その話に乗った振りをして犯人逮捕に協力したいとかねがね思っていた。しかしこれまでそういう会話をする段階まで進んだことは残念ながら一度もない。どうやら、電話に出た時のこちらの声の調子から、カモには不向きと思われたのかもしれない。そう反省(?)した私めは、できるだけ弱々しい元気のない声で電話に出ることにした。だが、今までのところ効果はないようである。

 “声の調子”ということで気が付いたのだが、今まで「受話器を取り上げたら直ぐ切れた」と表現してきたが、実は受話器を取った直後に、私は「もしもし」という声を発していたのである。それだ! その声から、こちらが男であることを相手に知られてしまったのだ。相手は女性のカモを捜していたのではなかろうか。詐欺師は女性の方が騙しやすいと思っているのかもしれない。

 そこで私は、受話器を取っても一言も声を発しないことにした。これは、はっきり言って効果があった。電話は直ぐには切られなくなった! こちらがしっかりと聞き耳を立てていると、相手の職場(?)の背後の騒音が聞こえてくることがある。事務所のような所で電話している声も聞こえる。あるいは受話器を取った直後に男の声の会話が突然中断された瞬間を捉えることがある。雑談していて電話の相手が出たので雑談を打ち切りこちらに意識を向けた瞬間なのだ。お互いに耳を澄まして相手の出方を窺がう。ドキドキするような瞬間である。こちらは絶対に声を発しない。

 ある程度沈黙の時間が流れると、相手はあきらめて一言も発することなく電話を切るようだ。その直前にこちらから電話を切るのがコツである。何度もやっているとその時間間隔の頃合いが分かってくる。相手に“プツン”とやられるのは気分が悪いものですからね。こちらから“プツン”とやってやると逆に実に気分が良い。
 これはあまり他人には勧められないが、私はその瞬間に相手を侮辱する言葉(2~3音の短い言葉がよい)を発してから素早く電話を切ることにしている(おぬしもワルよのう…)。

 こういうワルいことをする(不作法な)男の提言など聞いてもらえないかもしれないが、私は電話というものは掛けた方がまず第一声を発するべきではないかと思う。電話を掛けられた方はそれを待ってから応答の声を発する。それが礼儀作法(マナー)と言うものではないか。あるいは、それを習慣にしてはどうかと提言したい。電話詐欺対策としても有効になるのではないかと思う。

2013年11月23日土曜日

ほうていしき

 私は、大学では数学科出身だったので 「ほうていしき」 と言えば “方程式” のことしか思い浮かばない。しかし “奉呈式” というのもあるらしいことを知った。

 米国のキャロライン・ケネディ新駐日大使が華麗な馬車に乗って皇居に向かい、天皇陛下に信任状を提出する儀式に臨んだ、とニュースは伝えている。新任の大使は必ず皇居で信任状を提出する慣わしがあることは承知していたが、寡聞にしてそれを奉呈式Diplomatic accreditation)と呼ぶとは知らなかった。普通ならこれほど大きく報じられることはないが、ケネディ家の人だからこそ注目されニュースに取りあげられたのであろう。

 日本語変換ソフトの開発担当者は、開発中の辞書にちゃんと登録されているかどうか慌てて確認していることであろう。私が普段使っているパソコンの変換辞書には登録されていないが、滅多に使わない用語であるからよしとしよう。
 しかし“奉”は“捧”の字を当てているメディアもある。統一してほしいものである。

2013年11月1日金曜日

川上一塁手の守備力

 元巨人軍監督の川上哲治氏が亡くなった。
 現役選手の時代には“赤バットの川上”と“青バットの大下”と並び称されて、大下選手とともに野球ファンの人気を二分していたものである。
 しかし色々な論評を見ていると打者としての川上、監督としての川上の話は多く出てくるが、一塁手としての守備の話はまるで出てこない。何故か? それは川上一塁手の守備が恐ろしく下手だったからである。

 野手がボールを一塁に投げるとき、川上一塁手のグラブにスッポリと納まるようなストライクでないと川上御大から睨まれることになる。ショートバウンドするようなボールを投げたりしたらそれこそ一大事である。しかし高い球ならそれほど睨まれることはなかったようだ。普通、高い球ならベースから足を離してでもジャンプしたりして捕球しようとするものであるが、川上選手は決してそのようなことはしなかった。ボールが一塁ベース近くに届く前に彼はクルリとボールに背を向け、ボールが転がるであろう方角に向けて一目散に走り出すのであった。本来、そちらの方は捕手がバックアップにまわることになっているから、一塁手の務めはボールをとにかく止めて打者の進塁を防ぐ努力をすべきなのである。しかし彼はそれをしなかったのだ。

 川上選手の動作を遠くから見ていると一塁手にはとても取れないような大暴投だったように見える。それが彼の狙いなのだ。ジャンプして取り損ねたりエラーする危険を冒すよりもボールを投げた野手の責任にしてしまった方が面倒がない。16の背番号を揺らしながら、そして少し“がに股”でボールを追いかけようとする後ろ姿がTV画面に映ると、私は「あっ! またやっている」と思ったものである。しかしTVの解説者は決してそのことに触れようとはしなかった。

 熱心な巨人ファンがこれを読んだら憤慨するに違いない。野球の神様に向かって何と言うことを言うのか! と。最悪の場合、名誉棄損あるいは侮辱罪で訴えられるかもしれない。

 名誉毀損は、刑法230条1項「公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、3年以下の懲役若しくは禁錮亦は50万円以下の罰金に処する」と定めているから、事実を述べていても罰せられるのである。刑法231条の侮辱罪にあたる可能性もある。

 もし訴えられたら、誰かに“アンチ巨人”の有能な弁護士を紹介してもらいたいものである。誰か高校時代の友人にいないであろうか。
 最悪の場合には亡命も考えておくべきであろう。それには、中学時代の同級生の I 氏に頼んでオーストラリア政府に亡命申請してもらおうかと考えている。

2013年10月31日木曜日

仕事に対する責任感

 今年は大型の台風が多かったが10月の後半に入りやっと台風の季節も終ったようである。
 台風26号が関東地方に接近した時には大学の授業が休講になるかどうかの騒ぎになった。幸いにも関東地方は直撃をまぬがれたが、その影響で午前中の授業はすべて休講となってしまった。私の担当科目は午後だったので休講とはならなかったが、それでもいつもより学生の出席率は悪かったようである。
 会社員の場合、最近はこういう非常時には無理に出社したりせず在宅で仕事をする人が増えてきているから、学生達も同じように無理して出席することもないと考える人が増えたのであろう。

 私が会社勤めをしていた頃は、台風や交通ストなどで出社に影響するような事態になると、普段以上に頑張って出社しようと努力したものである。仕事に取り組む姿勢や責任感を誇示するには絶好の機会だった。特に大切な会議が予定されているような場合は、意地でも遅刻しないよう最大限の努力をするのがサラリーマンとしてのマナーであったような気がする。つまり、その程度のことでしか自己表現ができない社員ばかりだったとも言えるのだが。

 昔、T社とN社の合弁会社に出向していたことがあった。T社からN社へ技術移転をするのが目的だったから、両方の親会社からかなりの人数の技術者(取締役クラスも含めて)が出向して一緒に仕事をしていたのである。
 ある時、全国的な交通ストライキがあり、我々T社から出向している社員達は当然のごとく、定時に仕事が始められるようあらかじめ準備しておくことにした。T社ではそれが普通だった。
 交通手段のない者は全員寝袋を用意したり布団を借りたりして前日から会社に泊まり込んだのである。翌日T社出身の社員は全員、何事もなかったかのように朝一番から普段通りに執務していた。

 その時、N社から出向していた幹部(取締役)が社員の出社状況を確認しようと各職場の見廻りにやってきた。そして、T社のエリアでは全員がそろって普段通り執務しているのを見て「何だ、これは!」と驚嘆することになった。それに反しN社の社員がいるエリアはガラ空きだったのであろう。これは社風の違いかもしれないが、社員の仕事に対する姿勢、責任感、意気込みの違いを見せつけられたと感じたのではないかと思う。T社の一員として私は溜飲を下げたのであった。

 当時は、こういったことが 仕事に対する責任感 があるかどうかを知る指標の一つになっていたのである。最近は誰でもモバイル機器を持っているし、在宅に限らず何処に居ても仕事をすることが容易になっているから、必ずしも仕事に対する責任感の有無を判別する指標とはならなくなってきている。結構なことではないか。

2013年8月15日木曜日

野外コンサートでのマナー

 私の兄が所属する合唱団が、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂付きジュリア聖歌隊500年祭に招かれ、サン・ピエトロ大聖堂で日本語による聖歌を歌うためバチカンを訪問することになった。その後でサン・ピエトロ広場での法王ミサにも参列する予定になっていたので、兄嫁、妹、姪も同行して一緒に参列したのだそうである。このイベントは、一部の新聞でも報じられていたからご存知の方もおられよう。

 以下は兄嫁が、私に語ってくれた話である。

 サン・ピエトロ広場での法王ミサの当日は、生憎の雨模様で傘を持ってはいたがずぶ濡れになってしまった。5月初旬のことでまだ寒い。法王の登場を待っている間に義姉はトイレへ行きたくなってしまった。トイレは広場の前方にあり、法王が通る通路の向こう側にあった。時間も迫っていたので衛視がその通路を横切るのを禁止したので通れない。仕方なく隙を見て渡ってしまった。帰りも同様に通してくれないので再び衛視の隙を付いて通過したのだそうである。

 その後で、合唱団関係の人にその話をしたところ、野外で合唱する人達は常におむつを着用しているのが常識ですよと諭されたのだそうである。知らなかったなぁ~。
 若者達に人気のあるグループの野外コンサートなどでは聴衆の方々もおむつを着用して参加しているのだろうか。知らなかった、知らなかった。
 おむつ着用で音楽を楽しむなんて、何ともほほえましい光景ではないか。彼らは将来、年寄りの身になって老人介護に当ってくれることであろう。

 マラソンや駅伝中継などを担当する放送関係者は、長時間の放送に備えておむつを着用するというのは知っていた。どうしても尿意を我慢できなくなったら、おむつの世話になるのであろう。私はまだ経験したことはないが。
 日本のおむつはすぐれた保水力を持っており、合唱団関係者の間では「4回は使える」ということになっているらしい。私は介護の経験もあるので、日本製おむつのすぐれた品質をよく承知していた。

 その時、義姉は私に聞くのである。おむつを利用するとなると「オシッコをした後どうなるか分かる?」
「?」
「重くなるのよ」
なるほど、それはそうだ。
 いや、待てよ 膀胱の中身がおむつの方に移動するだけだから重くなるはずはない。私はすかさず異議をとなえたのであった。
 尿意を我慢できなくなっておむつの世話になるのだから、一回の利用ではかなりの量のオシッコが出るはずである。それを4回繰り返すことができるというのだから、かなり強力な保水力を持っていると言えるであろう。

 ところで、5回目はどうなるのだろうか。「4回は可能」と限定したということは、5回目はうまくいかないということだろうか? どう、うまくいかないのか? 保水力の上限を越えてしまうのなら解決策としてオシッコをした後、素早くその場におむつをストンと落としてしまえばよいのではないか、などと私は無責任な想像をしていたのであった。

 しかし、それではマナーに反する。野外コンサートの終った跡におむつが沢山残されていたという話は聞いた事がないから、多分日本の若者達の礼儀作法は万全なのであろう。持ってきたものは、しっかりと持ち帰っているのだろう。
 どういう方法で持ち帰るのか、そこは私にも分からないが、さぞかし重い事であろう。私は「オシッコをした後のおむつは重くなる」という義姉の主張を理解できたような気がしたのであった。

2013年8月6日火曜日

“LINE”の発音とアクセント

 メールアプリの LINE が記録的な早さで普及しているらしい。しかも海外でも利用されていて、海外利用が全体の80%にも達するという。

 LINE は“ら(')いん”ではなく“らい(-)ん”と発音する(*)のだそうである。つまり、2文字目以降を平板に発音する。私は寡聞にして知らないのだが、LINE の製造元が決めたことではないと思う。普通アプリ製品は、その名前の発音の仕方まで規定するとは思えないからである。日本での初期の利用者(多分若者達であろう)が慣用的に用いた発音ではないかと思う。
【注】(*)ここで、
 (')は、直前の文字のみにアクセントを付ける。
 (-)は、直前の文字以降終りまでアクセントを付ける。

 若者言葉の発音は、2文字目以降にアクセントを移動させる例が多い。正確には“アクセントの平板化”と言うらしい。たとえば、
 彼氏(かれ(-)し)、クラブ(くら(-)ぶ)・・・
などが代表的なものである。
 市川海老蔵さんが傷害事件に巻き込まれた場所は“クラブ”(くら(-)ぶ)であり、倶楽部(く(')らぶ)とは異なる。アクセントは2文字目以降になり平板に発音する。NHKのアナウンサーはこれを正確に区別して発音しているのだそうである。ご苦労なことだ。

 箸(は(')し)、端(はし('))、橋(は(-)し)のような、同音異義語に新たな分野が加わったことになる。
 ところで私は思うのだが、若者言葉に現れるアクセントの平板化は、実は“橋”の発音アクセントと共通のものではないか。つまりアクセントの平板化と言うよりも、アクセントを一切無視しているのではないかと思う。

 その発音をよく聞いてみると、
 彼氏(かれ(-)し)は、彼氏(か(-)れし)
 クラブ(くら(-)ぶ)は、クラブ(く(-)らぶ)
と発音しているように私には聞こえるのである。

 つまり、若者言葉における発音・アクセントの変化は“アクセントの平板化”ではなく“アクセントの無視”ではないかと思う。

 最後に素朴な疑問を一つ。
 LINE の利用者の80%が海外の人だすると、彼らは“LINE”をどう発音しているのだろう。英語が主言語ならば「ラ(')イン」と発音しているのではあるまいか。
 もし“ら(-)いん”と発音しているのが日本人だけだとすれば、将来の日本人は英語の“直線”を意味する“line”も同じように“ら(-)いん”と発音するようになってしまうのではなかろうか。日本人は“r”と“l”の発音を区別するのが苦手だと言われているが「アクセントまでおかしい」と言われるようになるのかもしれない。心配なことである。

2013年7月2日火曜日

“つぶやき” は誤訳ではないか?

 私は Twitter を使ったことはないが、有用なツールであることは十分に理解している。しかし“Twitter”を“つぶやく”と日本語訳したのは間違いだったのではないかと思う。

 そもそも“つぶやく”というのは、自分の思いの一端がポロっと出てしまった時に用いる表現ではないかと思う。本来、人に伝える積りではなかったものが、心ならずも外部に発せられてしまったという感じである。したがって、独り言の一種ではないかと思う。誰もが最初はそういう理解のもとで、気楽に、自由に、そして(ある意味で)無責任に、発言している積りだったのに、実はそれが世界中に聞こえてしまうような環境で発せられていた、という重大性に誰も気が付かなかった。

 多くの人に自分の思いを正確に伝えるのは難しい。ましてや、つぶやき程度では到底無理なのだ。それが、現在世の中を騒がせている政治家、官僚、あるいは一部の有名人の引き起こす舌禍(筆禍)事件の原因ではないかと思うのである。

 有名人でなくても“炎上”という懲罰を受けることがあるから、私も表現には気を付けたいと思う。誤解のないように、詳しくは「つぶやきの病理」を参照してくださいネ。

2013年6月22日土曜日

土光さんとメザシ

 今朝の新聞に「土光敏夫さんとメザシ」の話が載っていた。晩飯をメザシですます質素な生活をされていたという話は有名である。当時私も、テレビでご夫婦がメザシを食べている食卓風景を見た記憶がある。そのとき、メザシとは随分大きな魚なんだなぁ とちょっと違和感を覚えた。後年、そのときの事情に詳しい人に聞いたところでは、土光さんが普段食していたのは、本当は“メザシ”ではなく“にぼし”だったのだそうである。土光さんがにぼしを食べているのではあまりにまずい(「美味しくない」という意味ではない)ので、無理やりメザシに替えてもらったのだそうである。
 これは、人伝に聞いた話であるから真偽の程はわからない。しかしあのとき土光さんが憮然とした表情で大きなメザシを無理やりほおばっていた様子を思い出し、なるほどと合点がいったのであった。

2013年5月27日月曜日

しっぽの痛み

 私は毎日70分程のウォーキングをしている。腰部脊柱管狭窄の影響で足裏にしびれがあるので、砂利道を素足のまま歩いているような感じのウォーキングである。正直に言うと、もはや“しびれ”ではなく“痛み”と言ってもいいくらいの状態である。しかし、できるだけ痛いという事実を忘れて、自然の姿勢のまま歩くよう努めている。

 最近は、その砂利の中に“釘”が混じっているのではないかと思う程の痛みに突然襲われることがある。そういう時は少し歩幅を狭めてゆっくりと歩くけれど、基本的にはそのまま歩き続けることにしている。決して立ち止まったりはしない。そうしていると、次第に“釘”の痛みは弱まっていく。

 足を怪我している場合の痛みなら、多分私は歩き続けるのは難しいと思う。しかし脊柱管が狭くなっていて、そこを通る神経が圧迫されその刺激が脳に伝えられているだけだと考えれば少しは気が楽になる。問題は、脳がそのノイズを「痛み」の信号と錯覚しているだけのことなのだ。だから私は「これはノイズだ!」「ノイズだ!」と自分自身に言い聞かせつつ我慢して歩いているのである。
 そしてその間に、自然と「痛み」というものについて考える機会が多くなっていった。

 事故で足を失った人が、今は存在しないその足の特定の部位に「痛み」を感じるという話をよく聞く。このことは、実際に痛みを感じているのはその特定部位ではなく、脳の方で感じているのだということを明白に示している。

 人類はその昔、尾を持っていたと言われている。尾を踏まれたらさぞかし痛いことであろう。進化の過程で失われたその尾の神経の一部が、もし今の人類の身体にまだ残っているとすれば、事故で失われた部位が痛むのと同じように「尾を踏まれた痛み」を我々も体験することができるのではないか。つまり、今は存在しない部位であっても「痛さ」を通じてその存在を感じることができるのではないか、などとしょうもないことを考えながら歩いているのである。

 ところで、あなたは「しっぽの痛み」を感じたことがありますか?
 えっ? そんなの感じたことはない?
 そうでしょうね。今まで一度も尾を踏まれた経験がありませんからね。
 しかし私は子供の頃から何度も経験しているような気がするのです。
 いじめにあって、しっぽを踏まれた経験が。

 身体のどこが痛いかその部位を具体的に示せない場合、子供はとりあえず「腹が痛い」と言ってごまかします。しかし大人になると、その痛みのことを「心の痛み」と言って区別する智恵を身に付けます。しかし、あれは「しっぽの痛み」と言うべきではないでしようか。

 自分の心の痛みが分からない人は、しょせん他人の心の痛みなど理解できないと言いますからね。私もこの際一度、自分の「心の痛み」と向き合ってみようと思うのです。
 「痛っ!」 また“釘”だ!

2013年4月29日月曜日

人との出会い

 新聞を読んでいたら、45年ほど前の日本初の心臓移植の話が出ていた。

  1968年、札幌医科大学付属病院で心臓外科の和田寿郎教授により脳死状態の若者から重症の心臓弁膜症と診断された少年への心臓移植が行われた。少年は6日後に意識を回復。当時心臓外科1年目だったK氏は「覚醒状態は短く、記者を呼んでの写真撮影では、私がベッドの下で足をつねって目覚めさせた」と打ち明けている。車いすで散歩するまでに回復したが、術後83日目に死亡した、とある。

  よく知られているように、その後脳死判定がいい加減だったとか、少年は心臓移植を必要とするほど重症ではなかったとか、色々と疑問点が出てきた。そして和田教授は「栄光の医師」から一転「疑惑の医師」となってしまった。その結果「和田心臓移植」は、移植医療そのものに不信感を植え付けてしまった。

  このK氏こそ、私が米国アリゾナ州のフェニックス市に仕事で1年間滞在していたとき、家族ぐるみでお付き合いさせていただいたあのK氏である。時系列で考えると移植事件の数年後のことではないかと思う。当時日本中を騒がせた事件に関係していた方であるとは、私は全く知らなかった。どういう仕事をしているかはお互いに知ってはいたが、仕事の内容には全く触れることがなかったからである。帰国後も、私の家内は奥さん同士で毎年の賀状交換を続けてきた。

  新聞の記述によれば、K氏は心臓移植がしたくて心臓外科を志した。「移植したかった。今も一抹の未練はある」長く空白の期間が続いたことに「あれだけマスコミにたたかれてはね。ただ、心臓外科医が和田移植を『移植できない口実』にした面はある」と述べている、とのこと。

  今になって分かるのだが、当時のK氏は傷心の思いで海外の病院勤務をされていたのであろう。人生における人と人との出会いには、後年になってから初めてその意味が分かる事もある。どんなに短い出会いであろうと、人との出会いは大切にしたいものである。

2013年3月29日金曜日

桜の色の法則

【桜の色の法則】
 桜の花の色は、思い出す度にそのピンク度を増していく。

2013年3月28日木曜日

桜の花の色について

 最近の桜の花は、昔に比べて白くなっているのではないかと言う人が多い。もちろん桜にも色々な種類があるが、ここでは染井吉野に限った話である。

 その理由として、次の二つが考えられる。
(1)単なる気のせい

(2)紫外線の影響
 高齢者は紫外線を長年浴びてきたので色覚に異常が生じ、そう感じるだけ。

 成程、高齢者が派手な赤い衣服を着ていて時々違和感を感じることがあるが、本人は茶系のシックな身なりをしている積りなのだという話を以前聞いたことがある。それと同じことなのかもしれない。
 しかし若い人の中にも「白くなっている」と感じる人が多いというから、必ずしも色覚異常だけが原因とも思えない。

 もう一つある。
(3)勘違い
 これは私の感想だが、“桜”と言えば“入学式”を思い出すように、校門の前で親子の晴れ姿を写したものをよく見かける。パンフレット等に載っているそういう写真では、必ず背景に桜が入っていることが多い。“入学式”をアピールする際に使われる典型的なパターンといえよう。しかもその桜の花の色合いは桃の花かとみまごう程の強いピンク色なのである。そういう写真を長年見せられていると、誰でも桜の花の色と言えばこの強いピンク色であると頭の中に刷り込まれてしまうのではないか。

 年配者の思う桜は入学式と結びつき、ただ思い出の中にある遠い昔の桜を見ているに過ぎない。そしてその桜の花の色は、後から刷り込まれたものであろう。何しろ彼らの時代は、モノクロ写真全盛の時代であったから、当時の桜の花の色などどこにも記録されてはいないのである。

 昨夜、雨戸を閉めようとした時、庭にある満開の桜の木から白い花びらが、静かに、静かに、降り続けているのに気がついた。人けのない暗闇の中で、ただ黙々と自分の役割を果たし続けているかのように見えた。

     霏々として 桜降り積む 雪の如くに (字余り)

 しかし今思い出してみると、あれはピンク色の花びらだったような気もしてくる。勘違いであろうか。
 桜の花が、次の日曜日までもってくれると良いのだが…。

2013年3月16日土曜日

私の特製マスクとメガネ

 杉花粉の飛ぶシーズンもそろそろ山を越える頃ではないかと思う。
 最近の私は、外出に際して、リストアップしたメモを用意しておかないとつい忘れてしまいそうになるくらいに色々な準備作業が必要となっている。それを逐一紹介する積りはないが、その中でもまず特製マスクは必須のものである。

 「かぜ、花粉、ほこりを99%カットする」と称する使い捨てマスクを二重にして着用する。これにより99.99%位までカットできるのではないかと期待しているのである。
 もっとも、マスクを二重にしてもカット率は99%のままだと主張する人がいるかもしれない。最初のマスクを一度通り抜けてしまった異物は、次のマスクはそのまま100%通過してしまうという可能性もあるからだ。しかしカット率というのは、不織布から成るフィルターの繊維状部分に、異物が引っ掛かるかどうかの確率の問題と考えれば、再び99%はカットされるのではないかと私は思うのである。

 更に私は、二つのマスクの間にウェットティッシュを一枚、四つ折りにして挿入することにしている。これでカット率は更に増すのではないかと期待している。多分(超楽観的に見て)99.995%位にはなるのではないか。これで、普通の人よりはカット率の高い特製マスクをしていると(密かに)自負しながら外を歩いているのである。

 実はマスクを二重にすると更なる利点があるのだ。マスクが少しきつくなり顔面にぴったりと装着されるので、少し動いたくらいでは隙間が生じることがない。普通にマスクをしているだけの人を見ると益々気の毒になってくるのである(これ、全くの独りよがりですけどね)。

 今年は花粉症の症状がまったく出ていないから、これで効果があったのであろう。ただし眼のかゆみの方だけはどうにもならない。花粉除けのメガネを購入して外出時のみ着用しているのだが、マスクから漏れる呼気のためにガラス面が直ぐ曇ってしまって前がよく見えなくなる。結局メガネなしで歩くことになってしまう。

 ただ、ウオーキングの際だけは役に立っている。多摩川の河原に出てサイクリングコースを歩く時は虫除けになるからである。啓蟄の日以降の暖かい日で風がない日は大量の虫(何という虫かは知らぬ)が飛び交っていて、両手で追い払っても「全くの無駄」と最初から分かるくらい大量に押し寄せてくる。その中をジョガーやサイクリスト達が走り抜けて行くのである。私もその時だけはメガネを着用して何事もないような顔をして歩いている。メガネなしの人達が気の毒になるくらいのものだ。

 最近は、黄砂や PM2.5 も西の方の国から飛んでくるらしい。世間では PM2.5 で大騒ぎしているが、昔の日本の公害騒ぎの際にも飛び交っていたはずである。 PM2.5 は、煙草の煙の中にも含まれているという説もあるから、私などは長年の会社勤務の間に受動喫煙でずっと被害を受けてきたことになる。私の特製マスク程度では今更どうにもならないであろう。ただ、唯一の対策として午後“2時50分”頃のウオーキングだけは避けるようにしている。でも、これ全くの誤解ですよね。本当は午後の“2時半”ということでしょう? えっ? それも違う? こりゃまた失礼いたしました。

2013年3月1日金曜日

類似度検出プログラムの改良(V3.0)

 前に紹介した“数独問題の類似度をチェックするプログラム(V2.0)”には、いろいろ未熟な点があったので、それを改良した V3.0 を作りました。

 詳しくは、ホームページ上で紹介されています。

   ▼Perlで記述されたプログラムの全体
   ▼実行結果の例
 最後に
   ▼このプログラムで使ったアルゴリズムの説明

が掲載されています。これで検出度はかなり向上したと思います。

 この過程で、Perlと数独とはかなり相性がいいなぁと思いました。その時の感想を「プログラミングの楽しみ」としてまとめました。これも参考にして下さい。

2013年2月4日月曜日

数独の問題の類似度を調べる

 数独の問題の類似度を調べるプログラムを作って、手持ち(約3万4千個余り)のデータを入力してみたところ類似した問題は一つも発見されなかった、ということを以前この欄で紹介した。
 これは予想通りの結果ではあったが、プログラムが期待通り動作したという実感が得られず少し残念な気もした。

 そこで、類似度を確認する方法をより高度なものにしたバージョン(V2.0)を作成した。そのプログラム(ホームページ上で紹介されている)を利用すると「類似している」とみなされる問題が1件検出された。ただ、これは偶然似てしまったものと思う。と言うことは、更なるアルゴリズムの改良が必要ということであろう。下記に示すので、読者の皆さんも自分で目で確認してみてください。





2013年1月23日水曜日

数独の問題を集める

 数独問題の“初出”を確認するプログラムを作ったが、それが実用的かどうか確認するにはもっと沢山の数独問題が必要となる。そこで、あるサイトからまとめて入手することを試みた。

 毎日定期的に新しい問題が出題されているらしいので、その各画面上からデータ部分だけを抜き出してくるのである。人手で一つ一つデータを書き写していたのでは時間が掛かり過ぎて現実的ではない。そこで、あらかじめデータの構造を調べておいて、それに対応する抜き出しプログラムを作ることにした。これを動作させすべて自動的に抜き出してしまおうという魂胆である(プログラム作りのネタはいたる所にあるものだ)。その結果、時間は掛かったが、34,125個の問題を一挙に手に入れることができた。

 “初出”を確認するプログラムにこのデータを入力してみたところ、重複した問題は一つも含まれていないことが確認できた。数独作りの立場からは「期待通りの結果」ではあったが、プログラム作りの立場からは「少し残念」な気もした。複雑な心境である。
 しかし、3万4千個余りの膨大な問題データが(文字通り)あっという間に処理されて、結果が表示されたのは痛快であった。良しとしよう。

 ところで、正式に公開さているものとはいえ、このようにデータ構造を調べて(プログラムで)データの一部だけを抜き出すという行為は倫理的に許される行為なのだろうか。いささか疑問が残る。(ブラックハットの)ハッカーになって犯罪を犯しているような気持ちになってきた。検査のために使うだけにして、終了後は破棄する方が無難であろう。こんな膨大な数独問題を持っていても、到底すべてを解くことはできないのだから。

2013年1月19日土曜日

「初出」の検出(「数独の問題について」の続き)

 先に、数独の問題で 同じ問題が重複して作られないようにするためのプログラムを作った話を紹介した。私は、それをPerlというプログラム言語で記述したのだが、もっと詳しく書くとハッシュ(hash)という記憶方式を利用したのである。これは人間の脳の記憶方法を真似たもので、実に使い勝手がよい。人間の脳は“初出”(めて現したものであるかどうか)を簡単に判別できる機能を持っている。

 受験勉強の時の経験だが、意味の分からない英単語に出会うと辞書を引いて調べる。そして辞書の中でその単語を見つけた瞬間、以前調べたことのある単語であることを思い出し悔しい思いをすることが多い。それが何度も繰り返されると、かなり落ち込むことになる。そして自分の記憶力に自信がなくなってきたりする。

 しかしよく考えてみると、以前一度調べたことがあるという“事実”の方は、しっかりと記憶されるていることに気が付く。忘れているのは、その“意味”の方なのだ。人間の脳は“初出”だけはしっかりと記憶していて、脳は素早く反応してその事実を教えてくれる。我々はこの機能を自信を持って活用した方がよい。

 年寄りが同じ話を繰り返すと、それを聞いた若者の脳は素早く「初出ではない」ことを感知できるから「その話は聞いたよ!」と返すことになる。中には「3回目だよ!」などと回数まで記憶している人もいる。
 人間は齢を取るとこの機能が衰えるから、同じ話を繰り返すようになるのかと了解したとすれば、それは少し違うのではないかと思う。年寄りでも初出はしっかりと覚えている。何度も同じ話をしていると、段々と話し方がうまくなってきて、話の展開も華々しくなり場合によっては誇張されていくものである。だから初出でない(その話をしたことがある)という事実は十分に理解しているのである。年寄りが忘れてしまうのは「誰に対してその話をしたか」ということの方である。

 これからは、年寄りはブログ上などでその話を一度だけ公開すればよい。そして“初出”のマークをしっかりと付ける。そしてすべての人に話したと理解し、もう誰にも話したりしないようにする。そうすれば、誰に話したかのデータを保存したりする必要もなくなるわけだ(どうせ忘れるのだし)。
 こうすれば、若者達も、年寄りの同じ話に悩まされることはなくなるだろう。

 ねっ! この話、いい話でしょ。
 今度、誰かに話してみようかな。

2013年1月16日水曜日

数独の問題の問題点

 今まで新聞や雑誌に紹介される数独パズルの問題を解いては、それを個人的に保存してきた。その問題の数が400件近くになった。そこで、かねてから気になっていたことに挑戦してみようと考えた。

 数独の問題の組み合わせは無限にある(約54億パターン以上あると言われている)が、実際に自分で問題を作るとなるとこれが結構難しい。“難しい”という意味は、既存の問題とは異なることを確認するのが大変だからである。したがって、誰も確認などしないでそのまま発表しているのが現実なのであろう。

 そうなると、偶然に一致した問題が作られて、誰もそれに気が付かないで新しい問題だと思い込んでいる可能性も十分にあり得るのではないか。沢山の問題を集めて“問題集”を持っているなどと威張っていても、かなり重複した問題が含まれているのかもしれない。

 そこで、この約400個の問題に対して同じものが含まれていないかどうか確認するプログラムを作ってみた。以前から Perl言語を使えば簡単にできるのではないかと考えていたからである。大学の授業も区切りがついたこの時期に、挑戦してみることにした。

 その結果は、自分でも驚くほどのものであった。
 ・同じ問題が3個見つかったケース(2回)
 ・同じ問題が2個見つかったケース(3回)
つまり、12個の問題が実際は5個になってしまったのである。

 しかし私の問題集に重複登録されてしまったのは、どうやら大半は私の方に原因があるように思われる。最初の頃は個々の問題に適当に命名していたので、データベース化する時点で別のものと判断されたのかもしれない。現在は統一した命名法で出典を辿れるようにしてある。
 もう一つの原因は、「例題-1」という名称の問題だったから、以前に発表した問題を「例」として取り上げたのであろう。偶然の一致と確認できたものは、今までのところ存在していない。

 数独の問題は、異なるものをほぼ無限に作れるから重複することは滅多にないが、新たに作って公表する際は、少なくとも自分が過去に作ったものの中に同じものが含まれていないことを確認してからにすべきではないかと思う。

2012年12月27日木曜日

大学の恩師

 大学時代の恩師、H先生が亡くなられた。ご高齢であったので、この寒い時季は特に心配していたところだった。

 先生に習ったコンピュータ関係の授業が契機となって、私は教師になる道をやめてコンピュータ関係の仕事へ進むことを決心したのである。大学卒業後もいろいろとお世話になってきた。コンピュータ関係から医用機器の仕事に転勤となった際はかなり落ち込んだが、報告がてら先生のお部屋を訪ねると、激励されるかと思いきや、意外にも「大学に戻らないか」と声を掛けられたのを覚えている。そんなことは無理であることを私は重々承知していたが、やはり救われたような気持ちになったものである。しかしその後も一度ならず声を掛けられたから、落ち込んでいる私を単に励まそうとされた訳ではなかったらしい。

 結局、先生の期待には応えられなかったが、大学のコンピュータ関係の科目で、指導教官がみつからない場合など、急遽先生から講師を頼まれることが多かった。負い目があったので、そういう時は必ず引き受けることにしていた。会社の了解を得て非常勤講師として学生を教えてきたのである。振り返ってみると、全部で6教科も担当したことになる。

 先生が定年で大学を退かれることになった時、先生が担当していた科目の「データベース論」も同じように引き継いでほしいと依頼された。しかしこればかりは任が重く、怖れ多いという気持ちもあってご辞退申しあげた。その後、お引き受けできなかったことが、ずっと悔いとして長く心に残っていた。先生逝去の報に接し益々その気持ちが強くなってきている。十分に職責を果たせたかどうか自信はないが、ここらで教師としての自分の仕事にも区切りを付ける時期にきたのではないかと思う。ご冥福をお祈りしたい。

2012年10月20日土曜日

変な日本語(7) 「真逆」

 先日、言葉の意味を間違って理解している人が多い例として、文化庁の調査結果からいくつかの例が紹介されていた。新聞のニュースなど読んだ方も多いと思う。
 「気が置けない
 「にやける
 「うがった見方
 「失笑
などである。
 その中に「正反対」の意味で「真逆」という表現を使う人が多いという記述があった。若い頃はまだ表現力が未熟だから、そんな間違いをしてしまうのかもしれない。もっと分かりやすい表現を覚えて、普通の言葉を普通に使うようになってほしいものである。
 こういうことを言うと「言葉は通じなきゃ意味がない。時代が変われば意味も変わっていく」などという反論をよく耳にする。「真逆」などという造語を作らなくても、「正反対」という言葉がある。それを使えばよいのである。そんなことを考えていたら、次のような新聞記事を発見した。


 いやはや、新聞記者ともあろう者が、記事の中でこんな表現を使うとは。多分、未熟な表現力しか持たない若者が、そのまま新聞記者に採用されてしまったのであろう。しかも「真逆」に「まぎゃく」などと 重箱読み のふりがなまで付けている。そんな表現法を使わなければならない必要がどこにあるのか。それをチェックしなければならない校閲やデスクも、その役割をはたしていない。彼等も同じように未熟な表現力しか身に付けていないのかもしれない。嘆かわしいことである。

2012年9月23日日曜日

スペード曲線を描く

 ハート曲線に続いてスペード曲線なるものを描いてみました。
 前提条件として、前作のハートマークの場合と同じように、円を出発点として作ることにしてあります(それに特別な意味はありませんが)。
かなり苦労しましたが、円からダイヤマークを作るのに比べれば、はるかに易しいと信じて取り組みました。これを“スペード曲線”と呼んでよいのかどうか分かりませんが、スペードの幹(?)の部分まで含めてスペードを描いたものは存在しないのではないかと思います。多分、世界初の完全な形(?)のスペード曲線を作成したのではないか、と愚考しているところであります。

 今年の夏休みは、ハート曲線とスペード曲線に取り組んで過ごしました。楽しい遊びは終りました。

2012年8月27日月曜日

円からハート曲線を作る

 円からハート曲線を作ってみました。出来上がるまでの動きをご覧ください。
円からハート曲線へ

2012年8月2日木曜日

ハート曲線

「ハート係数」の rewrite版「ハート曲線」をホームページに掲載しました。

若者の社会常識

「学生のマナー」の rewrite版「若者の社会常識」をホームページに掲載しました。

2012年7月20日金曜日

学生のマナー

  企業で働いていた頃の友人と話をしていて、最近の若者のマナーの悪さが話題になることが多い。そしてその原因の一つとして、とどのつまりは学校時代に十分教育されていないからでは、ということになる。企業をやめて今や教育の場にいる私めとしては、いささが憮然たる心持ちになるのが常であった。

  そんなこともあり、私は毎回の授業の中で機会を捉えては「社会人になるに当っての心構え」として各種の社会常識を教えることにしている。何しろ、名前を呼ばれても返事ができない学生、はがきでリポートの提出をさせれば手紙の書き方も知らない学生、… など驚くべき状態の学生がときどきいるからである。

  前期の最後の授業では、今期のすべての予定が順調に消化でき余裕もあったので、残りの時間は社会常識、情報倫理、仕事に取り組む姿勢、などにしぼった話をして講義を締めくくった。そして資料を片づけ帰り支度をしてから、構内にあるバス停に並んで学生達と一緒にバスの到着を待つことにした。

  このバスは大学と最寄り駅とを結ぶ大学専用のものである。既に多くの学生達が並んで待っているが、この位置なら何とか座れそうである。しかし学生達は、仲間を見つけては前の方に割り込んでくるから、バスが来る頃にはかなり後ろの位置になってしまうことが多い。それはもう最初から覚悟していた。

  以前のことだが、足を怪我して松葉づえをついている学生が乗ってきたことがあった。バスが動き出しても誰も席を譲ってあげようとしない。ゆられて転んだらまずいと思った私は、立ち上がって席を譲ってあげることにした。しかしその学生は特に礼を言うでもなく、恐縮するでもなく、そのまま座って友人達と談笑していた。どうも社会一般の反応とは異なるようである。電車内で席を譲る行為も恥ずかしくてできない、あるいは躊躇したりする学生が多い。譲られる経験も少ないのであろう。

  バスを待つ学生がかなり増えた頃、やっとバスが到着した。その時私の真後ろにいた学生が、突然「木下先生。どんどん割り込んでいますよ!」と声を掛けてきた。振り向くと先程の私の授業に出席していた学生である。「どんどん割り込んでますよ。先生、前に行きましょうよ!」とかなり憤慨した様子である。なるほど、気が付くとかなりの人が前に割り込んだ結果、もうかなり後ろの位置になってしまっている。「そんなに割り込みが許せないのかい?」と私が言っても、視線を前方に向けたままで、まるで聞いていないようだ。次の瞬間「先に行きますよ!」と言って、一人で前の方に走って行き20人ほど追い越してさっさと乗車してしまった。

  私が日頃から情報倫理に関連して道徳とかマナーに言及することが多いので、私を公徳心の塊りのような人間と思っていたのかもしれない。その“公徳心の塊り”を追い越して割り込み行為に加わるには、一言断ってからにする必要がある、それが最低限の礼儀であるとでも思ったのであろうか。なに、教えていることと実際の自分とは別物だから“公徳心の塊り”を追い越しても何の不都合もなかろう。

  私はこの学生が取った行為に少し驚きながら、そのまま列の動きにしたがって乗車口へと進んでいった。私が動かなかったのは公徳心からではない。単に大人としてそんな恥ずかしい行為はしたくなかっただけのことである。

  さて、いよいよバスに乗ろうとした時、少し離れた所から一人の男性がカメラをこちらに向けて構え、バスの乗車口の様子を撮影していることに気が付いた。変に思ったが、私はそのまま乗車した。見ると先程の学生は後方の座席に自分の席をしっかりと確保したようであった。よかった、よかった。私は、もう最初から座るのを諦めていたから、多くの学生と一緒に入り口付近に立つことにした。

  ところが、ふと見ると私の目の前の席が一つ空いているではないか。様子を見たが誰もそこに座ろうとしない。私は恐る恐るというか、これ幸いというか、その席に(できるだけ遠慮がちに)ゆっくりと座ったのであった。どうやら割り込んだ学生達も、年寄りの先生の為に一つだけ席を残しておいてくれたらしい。私はほんの少し、ほのぼのとした気持ちになった。やはり礼儀をわきまえた学生もいるのだ。

  それにしても、あの時私が学生と一緒になって前に割り込んだりしていたら(そんな可能性は全くないが)…、そうだ、あのカメラにしっかりと記録されていたかもしれない。「バスの乗車の列に割り込む先生」という傑作写真をものされていたかもしれない。その結果、授業で礼儀作法や道徳の話はできなくなっていたことであろう。危ういところであった。しかし、あのカメラは一体何だったのだろう。今もって分からないでいる。

2012年7月13日金曜日

ハート係数

  最近、インターネット上でハート曲線を表す式に出会った。見事なほどに美しい式である。


  この式が表現するハート曲線の形状をつぶさに見ていて、図の曲線が実は上下の方向に若干圧縮されていることに気が付いた。式の表すハートの型を作者の好みに合わせて修正したのであろう。
  もし圧縮されていなければ、この式はどういう形状になるのだろうか。私は知的好奇心を刺激され、早速コンピュータ上でやってみることにした。それが以下のものである。コンピュータ上で実装する際には、上下の方向に伸び縮みできるように、式を若干変更してみた。定数 h を導入し“ハート係数”と名付けてプログラム化したのである。


  ハート係数 h の値を 1.2 とすると程良い形になった。ハートの形とは不思議な物で、上下に長いと何か上品な印象を受ける。逆に短いと幼い感じになる。これは個人的な好みに類するものであろうが。
  私が推奨するハート曲線方程式は以下のものである。


  ハート係数の値をいろいろに変えて表示してみた。


  貴方(女)の好みのハート係数の値は、どのくらいですか。
プログラムの詳細は、いずれホームページ上に公開する積りである。

2012年6月30日土曜日

高齢化社会での交通標語

   交通標語で「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」というのがあったが、日本では車を使わず電車やバスや徒歩の方が早い場合が多い。特に年輩者にとって、歩くことは運動にもなるから、健康にも良いに違いない。高齢者による自動車事故のニュースを聞くたびに思うのだが、都会に住む高齢者に対して「そろそろ車をやめたらどうですか」とすすめたい。

   高齢化社会となる今後は
狭い日本、自分で歩かず どこへ行く
というのを交通標語として採用してもらいたいものである。

(賛同者は、この画像を自由に使ってください)

2012年6月11日月曜日

情報マナー・クリニック

  かねてから、自分が実行している情報セキュリティーに関するマナーを、まとめてみたいと思っていた。試作中のものは大学の授業で一部使用していたが、やっとある程度まとまりのある形になってきたので、ここに紹介しようと思う。

  大きく分けて以下の6項目であるが、ハッキング被害に遭わぬためにも是非参考にしてもらいたい。

・拡張子をよく見る
・パスワードの扱い方
・ファイルの開き方
・メール受信の仕方
・添付ファイルの扱い方
・USBメモリの扱い方


  詳しくは「情報マナー・クリニック」の方を参照してもらうが、特に二番目の「パスワードの扱い方」については、サイバー攻撃の被害に遭わないために、特に重要な部分なのでここに再掲する。

(1)安全なパスワードを使う(長さ、字種)
パスワードの長さは、必ず10文字以上とする。英字、数字、特殊文字を、それぞれ混在させる。英字も大文字と小文字を混ぜるとよい。
(2)同じパスワードを使いまわししない
誰しも、いろいろな場所で同じパスワードを使い勝ちであるが、一つ破られると被害が拡大する可能性がある。したがって、必ずそれぞれ異なるパスワードを使うようにする。
(3)パスワードは定期的に変更する
一定期間使い続けたら変更する習慣にする。
(4)パスワードを無闇にメモに残さない
手帳やメモ用紙、あるいは預金通帳等に不用意にメモ書き残さない。

  これらの注意事項は、誰でも知っていることばかりである。しかし、いずれも“言うは易く、行うは難し”なのである。
  これらをすべて実践するには、それなりの技術コツが必要になる。しかし、その方法をここに具体的に記すわけにはいかないので、各人が工夫し実現してほしい部分である(*)。
【注】(*)ここに書き記すと、自分のパスワードを世間に公開するようなもので、愚かな行為というべきであろう。

  授業では「他言無用!」という条件付きでそのやり方を教えたのであるが、学生達が本当にこれを実践してくれているか、残念ながらそれは確かめようがない。

2012年4月8日日曜日

「数独ボード v2.1」をリリースしました

  数独ボード SDB v2.1 が完成しました。説明書「数独ボード v2.1 の使い方」も出来上がったので同時にアップしました。
  特に“先読みモード”の使い方の例を豊富な掲載しました。活用してみてください。難しい問題で使ってみた経験が、そのまま記録されています。
  以下の場所からダウンロードし、自由に利用できます。
  「数独ボード」のダウンロード

2012年3月31日土曜日

「数独ボード v2.1」を開発中

  「数独ボード」の第2版を2月にリリースしたが、利用してくださる方が徐々に増えてきたようである。うれしいことである。
  しかし最も利用しているのは、もちろん私めであろう。ただ、使っている内にすぐ改良したくなるのが欠点で、今は v2.1 という版を使っている。近く公開したいのだが、あまり頻繁にバージョンアップしたのでは利用者に迷惑をかけるような気がして控えている。使い方の説明書が完成したら公開の時期を考えることにしたい。

2012年2月20日月曜日

自作ソフト「数独ボード」の第2版

  私の友人に数独の問題を作るのを趣味としている男がいる。市販の本にする度に私に贈呈してくれる。そういう贈呈本がもう3冊にもなる。
ところが、彼の作る問題は難しい問題ばかりである。私の能力ではなかなか対応できない。一般に数独問題を解くには、論理的にこの手しかあり得ないと判断できる“自明な手”を続けていって、最終局面に至るのが本来の姿だと思っている。次の一手が分からないので適当にうめていったら完成してしまった、というのでは本当の意味で解決したとは言えない。少なくとも私はそういう姿勢でゲームに臨んでいる。

  そうなると、彼の作る難しい問題に挑戦するには、かなり先まで読まなければならない。それにはどうしたらよいか。たとえば“自明な手”を発見できなかった場合、あるます目に対して【2】か【3】のどちらか、までは分かるがそれ以上は判断できない時、一応“自明でない手”ではあるが【3】をうめることにする。その後“自明な手”を続けていって、もし行き詰まったら最初の“自明でない手”【3】が間違っていたことになる。つまり【2】の方が“自明な手”であったと判断できることになる。その時点まで逆戻りすればよいのである。そのための手順を助ける機能を、第2版では追加した。

  同時に、取り組んだ数独の問題をデータベース上に保存しておいて、後で再度挑戦できるような環境も用意した。こういう動機で作ったのが「数独ボードV2.0」である。是非活用してみてください。詳しくは http://www.hi-ho.ne.jp/skinoshita/suudoku.htm を参照してください。

  V2.0 では、以下の機能が新たに付加されています。

・ボード上のデータに名前を付けて保存できる。
・保存したデータをボード上の取り出すことができる。
・先読みを助ける「Test Mode」機能が付加された。
・問題集を他の利用者と共有できる。
  たとえば、朝日新聞 土曜版に掲載された数独の問題(過去4年分)をダウンロードできるようにしたかったのだが、朝日新聞beパズル係に許可申請したのだが返信がない。多分、拒否されたのであろう。

2012年1月16日月曜日

変な日本語(6) 「マジ」

「マジ」はNASAでも普及している?

  「マジ」という表現は、もう十分に日常会話に浸透しているから、これに異議を唱えたりしたら逆におかしいと思われるであろう。
  この表現は、多分「真面目に言って」の“真面目”から発しているのではないかと思う。相手の発言に「マジですか?」と応じたり、「マジで・・・」と強調したりするときに用いるらしい。“らしい”と書いたのは、自分では使ったことがないから、正確なニュアンスをまだ身に付けていない恐れがある。それで、少し遠慮して書いたのである。

  この表現は、自分が会社勤めをしていた頃から既に若い技術者間でしばしば使われていたように思う。今ではどの職場でも普通に使われている表現ではなかろうか。その証拠に、テレビドラマの中では中年の男女が普通に使っている場面をよく見かける。もうそろそろ、新聞記事の中にも登場するのではないか、と私は半分は冗談で思ったりしていた。ところが本当に登場したのである! しかも、NASAの専門家も使っているらしい?!

  太陽のすぐ近くを通過した彗星が、予想に反して消滅しなかった事実を観測した米航空宇宙局(NASA)の専門家が「マジで度肝を抜かれた」とのコメントを発したという紹介記事(2012-1-4付)を発見したのである。新聞記事として登場しただけでなく、もはやNASAの専門家の間でも「マジ」という表現が普及していたとは!(まさかねぇ~)。
  マジ、驚いた次第である。(初めて“マジ”を使ってみましたが、これでよいのでしようか。やはり普通の会話体の中でないと変ですね。ここは、「マジ、驚いた!」と言い切るべきでしょうね。)

2012年1月6日金曜日

変な日本語(5) 「そうですね」

  この正月休みの間、私はテレビでスポーツ番組を見る機会が多かった。そこで気になったのは、アナウンサーの問いかけに対して、スポーツ選手、テレビ解説者、あるいはコメンテイター達が、先ず最初に一言「そうですね」と言ってからコメントを始めていた点である。

  私はアナウンサーが質問を発する度に、また「そうですね」と応えるのではないかと思い聞き耳を立てていると、果たせるかな「そうですね」の一言が返ってくる。必ずと言ってもよいくらいのものだ。こうなると耳障りになってくる。気にしなければ何でもない一言が、一度気になるとその異常なくらいの繰り返しに「もう、何とかしてくれ!」と叫びたくなるくらい嫌な表現になってしまう。不思議なものである。

  この「そうですね」は、先ず質問者の考えに同意する姿勢を示しておいて、それから自分の話を展開していこうとするもの、との説があるらしい。もしそうなら、その反対語は「て言うか…」なのかもしれない(これも嫌な表現ですね)。

  しかし私は少し違うのではないかと思う。質問されて「そうですねぇ~」と暫し考え、それからおもむろに自分の考えを述べる時などに使うべき表現ではないかと思う。英語の“Well, let me see. …”みたいなものではないか。「そうですね」の一言の後、間髪を入れずにコメントし始めるのだから事実上不要な表現であるとも言える。だから、この「そうですね」は単なる口癖なのではないかと思うのである。

  日常会話の中で、癖のある表現を繰り返し用いていると、聞き手にとっては聞き苦しいものになる。できるだけ無駄な表現は排除して、なめらかに話す努力をすべきではなかろうか。
  ところで、貴方(女)はどう思いますか? (決して「そうですね」と応じてはいけませんよ)

2012年1月1日日曜日

「変更通知の法則」は正しかった?

  今年も年賀状が届いた。
  去年の年賀状では、住居表記の変更を報せる文を書き添えておいたのだが、残念ながらその効果はなかったようである。今年の年賀状の約3分の1は、旧住居表記のままであった。昨年は、確か以下のような法則も書き添えておいたのだが・・・。

【変更通知の法則】
・どんな変更も、最初は「たいした影響はない」
  ように見える。
・したがって、変更を通知しても誰もそのこと
  に関心を払わない。
・変更にともなうトラブルが発生すると、初め
  て問題の重要性が理解される。
ゆえに、変更を伝えるのは無駄である。

  残念ながら、この法則の正しさが証明されてしまったようである。
  最近は、住所録がパソコンで管理され、そのままはがきに印刷されるので変更が反映される機会、努力も少なくなっているのが一因かもしれない。困ったことである。

2011年12月17日土曜日

コンプライアンス と コーポレートガバナンス

大学の情報倫理の授業で「企業はどこまで倫理的になれるか」というテーマを取りあげた。その中で、企業の社会的責任(CSR)とは、法令を順守した経営を行い、きっちりとした意思決定システムや内部統制システムを確立している企業の経営姿勢あるいは経営戦略を意味している。これは企業の義務を超えたところにある。という意味のことを話し、以下の用語をスクリーン上に表記した。
 ・CSR
 ・コンプライアンス
 ・コーポレートガバナンス
こういった用語が新聞等にしばしば登場するから、少なくとも用語の意味くらいは理解しておいてもらいたかったからである。

そう言えば、巨人軍の元GM清武氏が記者会見で「コンプライアンス違反」という言葉を繰り返し使って読売新聞主筆の行為の不当性を訴えていたのを思い出した。あの「コンプライアンス違反」というのは妥当な表現なのだろうか。コンプライアンスとは本来「法令を守る」ことであるが、最近では、社内規則を守ることも「法令順守」に含まれるらしい。しかし私は思うのだが、あれこそ「コンプライアンス」ではなく「コーポレートガバナンス」の問題と言うべきではなかろうか。

コーポレートガバナンス(企業統治)とは、企業の意思決定や内部統制はどうあるべきかを考えることである。つまり、元GMは、正規の手順を踏んで決めた人事案が「鶴の一声」で変えられてしまうような読売グループ内の体質、つまりコーポレートガバナンスが確立されていないことを指摘したかったのではないか。「法令違反」を訴えるのではなく「企業統治が体をなしていない」という事実を公にすることが、記者会見の(実質的な)目的になっていたように思う。

もっとも、読売グループ内では、主筆の判断に異を唱えることは法に触れるのと同程度の重大な背信行為であって、当然コンプライアンス(法令順守)に属する問題とみなされているのかもしれない。何しろ、その地位を追われるだけでなく、会社を首になったのである。しかもその上に罰金として1億円の支払いを求められている。起訴されて法的に罰せられるよりも、はるかに重い罪と言えるのではないだろうか。

【注】
・CSR(Corporate Social Responsibility)
・コンプライアンス(Compliance
・コーポレートガバナンス(Corporate Governance

2011年12月2日金曜日

転ばない歩き方のコツ

最近つまずいて転びそうになることが多くなった。足を十分に持ち上げないで引きずるように前に出すのが原因なのだ。もっと腿の部分を持ち上げて、前へ振り出すようにして歩かなければいけない。このことに気が付いてからは、意識的に腿を上げて歩くよう努力するようになった。しかし、これがなかなか長続きしない。歩きながら考え事をしていると直ぐ「腿上げ」のことを忘れてしまう。

そこで、振り出した方の足を着地させる際に、意識的に踵の部分から接地させるようにしてみた。“踵着地”の方が“腿上げ”よりも意識を集中しやすいからである。しかも、踵着地を実行していると自然に腿上げができるような気がしたのである。後ろの足を力強くキックする気持ちで前方に振り出すと、更に効果的であることにも気が付いた。

ウォーキングの際は常に大股で歩くことが勧められている。私の経験では、考え事をしていても大股で歩くのを忘れることは滅多にない。始終意識していなくても“大股歩行”なら続けられそうに思えた。

以来、私の歩行習慣は、
・大股歩行
・踵着地
・後足キック
・腿上げ
を実践することとなった。

それにしても、私は生まれて来てこの方「歩き方」について、誰かから教えを受けたという記憶がない。正しい「歩き方」というものは、人生の終盤になって初めて意識的に学ぶ必要が出てくる類いのものなのかもしれない。もっとも「人生の歩き方」の方は、人生のできるだけ早い時期に考えておくべきものであろうが。
【追記】より詳しくは「歩き方について」を参照してください。

2011年11月5日土曜日

免許自転車 と 無免許自転車

 最近、歩道を歩くのが怖い。
 家の近くの幹線道路に沿う歩道には、200メートル程の区間、ひと一人通るのがやっとの狭い部分が続いている。車道とはガードレールで区切られているので安全なのだが、他の歩行者と行き違う際はお互いに身体の向きを変えてすれ違う必要がある。ところが、こんな狭い歩道にも自転車が入ってくるから驚きである。ガードレールがあるので自転車が一時的に車道へ避ける訳にもいかず、歩行者たる私の方が、端によけて自転車をやり過ごす必要が出てくる。自転車の方は、恐縮して挨拶してくれる場合もあるが、大抵は当然の権利を行使しているという表情でそのまま通り過ぎていく場合の方がはるかに多い。

 一番怖いのは、後ろから自転車が来た場合である。気が付かないでいるとベルを鳴らされたりする。場合によっては「邪魔だ」とどやされたりもする。良い年をしたオバチャンから邪魔だと言われたこともあった。私の性格では、こういう時はすぐさま対抗弁論の理論(つまり、言われたら言い返せ)を実践したくなるところだが、喧嘩になるのは明らかだから最近はできるだけ我慢するようにしている。いつまでこの我慢を続けられるか、甚だ疑問ではあるが。

 思えば、自転車が一部の歩道(「自転車通行可」と表示されたものだけ)を走れるように法規改定されたのが間違いのもとだったのではないか。それ以来、すべての歩道を走れると勘違いしている自転車(乗り)ばかりになってしまった。

 自転車で公道を走るのに特別な免許はいらない。ただ二輪車に乗るコツさえ身に付けていれば誰でも走行できることになっている。したがって交通法規を全く知らない自転車(乗り)が、歩道を突っ走ったり、赤信号を無視しての暴走を繰り返したりしている。その挙句に歩行者と接触事故を起こたりしているのである。一方では、しっかりと交通ルールを守って車道の左側を走っている自転車(乗り)も沢山いるのだ。そういう人を見かけると、私は逆に尊敬の目で見てしまうのである。

 私は思うのだが、自動車の運転免許を持っている人が自転車に乗れば、多分交通法規を守る真っ当な自転車(乗り)となるのではないか。自転車で暴走しているのは、多分自動車の運転免許を持っていない人ではないか、と私は推測している。こういう人を「無免許自転車(乗り)」と呼び、真っ当な自転車(乗り)を「免許自転車(乗り)」と呼んで区別すべきではないかと思うが、どうであろうか。

 道幅のある普通の歩道上を歩いている時も、私は後ろから無免許自転車が突然ぶつかってくるのではないかと常に恐れているのである。ホント、怖いよなぁ。

2011年10月8日土曜日

変な日本語(4) 「説明責任」

 「説明責任」という言葉がはやっている。政治家ばかりでなくTV・新聞等のメディア上でも盛んに使われている。どうやら、この言葉は敵(あるいは気に入らない相手)を攻撃する時に用いるものらしい。たとえば「説明責任をはたせ!」という形で用いるのが正しい使い方であるようだ。

 強制起訴された小沢一郎氏の裁判が行われている最中も、メディアは被告となった小沢氏に対して「説明責任をはたせ!」と攻撃したり、あるいは「説明責任をはたしていない」と非難したりしている。
 しかし考えてみると、小沢氏裁判では検察官(正確には検察官役の弁護人)と小沢氏とが一対一で対決する場であって、むしろ検察側に訴追するに足る証拠を提示ことが求められている。検察に「証拠提示責任」があると言ってもよい。小沢氏に「説明責任」を問うのは見当違いではないかと思う。しかし政治家もメディアも盛んに「説明責任」を武器に被告人を攻撃する側に加わっている。ここは黙って「証拠提示責任」がはたされるかどうか待つべきではないか、と思うがどうか。

2011年9月17日土曜日

変な日本語(3) 「檄を飛ばす」

新聞記事を読んでいたら、
輿石東幹事長は「幹事長室はすべての問題が集中して
  くる。心あわせ、力あわせができる議論をしてほしい」
  と檄を飛ばした
という文章に出くわした。また、やっている。「檄を飛ばす」を「激励する」の意味に取り違えているのだ。よくある間違いだが、新聞記者ともあろう者が、このようないい加減な国語力でいいのだろうかとあきれるばかりである。
この「・・・してほしい」という心構えを述べた程度のものは、到底「檄」とは呼べない。何か「行動を起こす」ことを求めているとも思えない。正確な意味も知らずに、気取った表現を使いたかっただけなのであろう。

2011年8月21日日曜日

変な日本語(2) 「号泣する」

 雑誌の広告などで「号泣する」という見出しをよく見かける。号泣するとは、大声をあげて泣くことであるが、本当に号泣したのか、いささか疑問に思うことが多い。雑誌の読者は、実際に泣いてる場面を見た訳ではないので、その表現が正確なのかどうか確かめようがない。

 先日、ある大臣が国会の質疑の最中に、感極まって涙を流す場面を目撃した。すると翌日、メディアはこぞってこれを「号泣した」と報道したのである。この表現は明らかに間違っている。記者の国語力に、いささか疑問を感じる毎日である。こういう間違った使い方が定着してしまって、いずれ「俗語」とか「慣用語」とかの分類で、辞書に掲載されるようになるのであろうか。

2011年7月28日木曜日

変な日本語(1) 「チガカッタ」

 先日ラジオを聞いていたら、出演者の一人が「チガカッタ」と口走った。大の大人が、である。「違っていた」と言いたかったのだろうが、まだ言葉をよく覚えていない幼い子供がよく使う表現法だ。テレビでも一度この間違った表現を使う大人を見たことがある。実に嘆かわしいことだ。幼い日本語表現しかできぬまま、大人になってしまったのであろう。
 同じような表現で「キレカッタ」というのもある。これは「切れかかった」の意味ではなく「綺麗だった」という意味で使っているのだ。こういう間違った日本語表現は、お節介かもしれないが、指摘して正してあげないといけないと思う。

2011年7月16日土曜日

床屋(についての)談義

 私は、最近はよく“1000円床屋”を利用している。高い料金を払って有名理髪店でカットしてもらうほどの立派な頭の持ち主ではないから、自分には身相応と思っている。待たされることもなく、短時間で仕上げてくれるので大変気に入っている。ヘアカットだけで洗髪はしないから時間が掛からないのだ。このタイプの床屋はアメリカでよく利用していたのを思い出す。

 アメリカの床屋での経験は、以前、素歩人徒然「床屋」に書いて紹介したことがあるが、その欄へのアクセスが非常に多いことを以前から不思議に思っていた。「床屋」というごくありふれたタイトルなのに、何故多くの人が読みに来てくれるのか、その理由が分からなかったからである。ところが、ひょんなことからその理由が分かった。「床屋」と「アメリカ」という二つのキーワードを組み合わせて使って検索すると、検索結果のリストのかなり上位にランクされる存在になっていたらしいのである。

 なぜ「床屋」と「アメリカ」の組み合わせが必要になるのか。そこで私が知ったのは次のようなことである。日本人がアメリカへ行って比較的長く滞在すると、当然の結果として男なら誰でも(もちろん、ある種の人を除いて)床屋へ行かねばならなくなる。その時、床屋へ行くにはかなりの勇気と決断を要するという事実である。その苦労話がウエッブ上に沢山掲載されていることを知った。これらは、私の経験とも合致するものばかりであった。この二つのキーワードを使って検索する人が多いという事実が、それを裏付けているとも言えるであろう。

 先の記事「床屋」には書かなかったが、ヘアカットだけで洗髪しないとどうなるか。当然、頭にはカットされた髪の毛の一部(それも、特に短いやつが)が取り残される。理容師は、これを掃除機のような機械に接続されたホースの先で「グォー グォー」ともの凄い音を立てながら吸いとって取り除いてくれるわけだ。取り除くと言っても、それほど丁寧にやってくれるわけではないから(これはアメリカの床屋の話ですぞ)どうしても取り残しが出る。それがチクチクして不快なことこの上ない状態になる。私はあまり身体を動かさないようにして急いで帰宅し、シャワーを浴びて全身から洗い落とすのを習慣としていた。それでも短い毛が下着に付いてしまうとチクチクして、もう一日中、不快な思いをして過ごすのが常であった。

 ところが、日本の1000円床屋ではそういうことがない。日本でも同じように「グォー グォー」と音を立てて吸い取ってくれるのだが、ほとんど取り残しがないのだ。あわてて帰宅してシャワーを浴びる必要などさらさらない。ありがたいことである。これぞ、素晴らしい日本の技術力の差ではないかと思う。ただし、吸いとる機械の方の技術か、カットしてくれた理容師さんの腕の方の技術か、そこのところは定かではない。
【追記】本文のリライト版【素歩人徒然】「床屋談義」も参考にしてください。

2011年6月27日月曜日

Intenet Explorer 9?

 最近、Intenet Explorer のバージョンを9にアップしたら不具合が多くて難渋している。MS社にクレームをつけても効果は期待できないから、ここで愚痴をこぼすだけの方が、まだストレス発散という効果が期待できるようだ。
●ブログに投稿しようと文面を入力し、いざ公開しようと【投稿を公開】のボタンを押しても投稿できない(反応がない)。仕方がないので Google のブラウザ「クローム」を用いて投稿している。
●略称URLのサービスとして Beam.to を利用しているがバージョン9との相性が悪くて表示が乱れる。最近 Beam.to の方も改定されているので、トラブルの原因がどちらにあるのか、皆目見当もつかない。
あ~ぁ

メディアの多様化

 電車が都心の主要な駅を通り過ぎると車内は少し空いてくる。早朝の出勤時間帯を避ければ、空いている座席を見つけるのは比較的容易なようである。私は空いている座席に座り一呼吸置いてから、新聞を取り出して読み始めることにした。
 しばらくして気が付いたのだが、乗客の中で新聞を読んでいる人がほとんどいない。大抵は、ケータイの小さな画面を食い入るように見つめていたり、ボタン操作に励んでいる人ばかりである。車内で新聞を読んでいるのが自分だけの時は、さすがに肩身の狭い思いをすることがある。時々、小型の文庫本等を読んでいる人や参考書を読んでいる学生さんを見つけると、何かほっとするのである。

 昔、毎日通勤していた頃は、電車の中では本や新聞を読んで時間を過ごすのが普通だった。読む物がなければ居眠りをしていたものだ。最近の通勤ラッシュ時の車内の様子は知らないが、多分ケータイを利用して情報入手に努めている人が多いのであろう。

 毎日通勤していた頃、私はその日の朝刊を外に持って出るようなことはしなかった。家族の者が新聞を読むからである。私はと言えば、夜帰宅してから朝刊と夕刊をまとめて読むことにしていた。かなり大変な作業である。ところが、最近は私以外の家族の者が新聞を読まないようになった。日々の出来事はテレビのニュース番組やインターネット経由で知ることができる。家族の者にとって、今まで新聞で一番の役割はテレビ欄を見ることにあったらしい。それが、地デジ化でTVがデジタル化されると、テレビの放映予定などはテレビ画面上に何時でも表示できるようになった。それを利用すれば、新聞のテレビ欄などもはや不要になったのである。かくして、新聞は私だけが読む物へと変わってきた。

 そういう訳で、週に2回の出勤時に、私めも車内でその日の新聞を読むことができるようになったのである。しかし、前述したように、もはや車内は新聞を読む場所ではなくなってしまっていた。読んでいるのが自分だけの時は確かに肩身が狭い。残念なことだ。

 最近、メディアの多様化が進み、大手の新聞もデジタル化した版を有料で公開し始めている。私はその種のものをまだ一度も利用したことがないので軽々にその是非を論ずる積りはない。しかしこれだけは言えると思う。重い情報機器端末を持たされるのだけは御免だ、と。

 今まで、大学の講義のために出勤する時は、いつもかなりの量の資料類を鞄に入れて持っていかねばならなかった。その上に、授業で使うコンピュータとして自分専用のコンピュータを持参していたのである。コンピュータの重さが身に堪えるようになると、私はコンパクトで軽いコンピュータ(大抵は高価である)を購入しなければならなかった。

 ところが、昨年から大学側でコンピュータを用意していてくれるようになったので、自分で持参する必要がなくなった。コンピュータの共用はあまり気が進まないが、重い物を持たなくてすむのだから、かなり助かっている。共用コンピュータを使う際の注意(ウイルス感染などのセキュリティ対策)さえしっかりとしていればよいのである。こうしてやっと重い荷物から解放されたばかりなのに、“メディアの多様化”の影響で再び情報機器端末を持たなければならないとすれば、確かに身に堪えることであろう。私にとって、これは情報機器端末と紙の新聞と、どちらが重いかという問題なのである。私めのような年寄りには、当分の間は、紙の新聞の方が魅力的にうつるのである。

2011年6月10日金曜日

ETを探す方法

 新聞を読んでいたら、地球外生命(ET)を探すことを目的とした米カリフォルニア州での世界最大級のプロジェクトが、資金難から活動の停止に追い込まれているというニュースを見つけた。主な財源は、連邦政府や州政府の補助金だったらしいが、事業仕分けされてしまったのであろう。今時、こんなプロジェクトがまだ生き残っていたのかと驚きの方が先に立つ。

 地球から数千光年あるいは数万光年の距離の中に知的生命体がいないとしたら、その先にいる知的生命体からたとえ反応が返ってきたとしても、それは数千年あるいは数万年後のことになる。こう考えて天文学者達は電波を発信するのをやめ、ひたすら地球外生命体からの電波を受信する立場に方針変更したのである。

 私はこの判断は妥当なものだと思う。しかし私が疑問に思うのは、もしこれが人類にとって“妥当な判断”なら、地球外の知的生命体にとっても同じように“妥当な判断”となるのではないか。

 詳しくは【続・素朴な疑問】「天文学者はなぜ電波を発信しないのだろう?」を参照してください。

2011年5月23日月曜日

古い電子機器の扱い

 先日、テレビ番組の制作企画をしている会社から私の持っているT1100(世界初のノートパソコン)を貸し出してくれないか、という問い合わせがあった。海外向けの機器だったので日本ではなかなか持っている人がいないらしい。持っていても貸し出しには応じてもらえないのだそうである。私は貸し出してもよいと思ったが、テレビ番組で電源を入れて使ってみる試みを考えているらしいのでお断りすることにした。

 古い電子機器は電源を入れても動作しないのが常識である。自分では一度も使わないで、大切に保存してあるところに意味があるのであって、電源をいれて壊されてはかなわない。いずれ、開運!なんでも鑑定団に出そうかと思っていたが、電源が入らないアンティーク品など価値がないと言われそうだからやめておく方が無難であろうか。

2011年5月20日金曜日

返事のできない学生

 最近、名前を呼ばれても返事のできない学生が多い。
 講義中に、授業を活性化させる目的で、学生に対し簡単な質問を発することがある。100名程の大人数ともなると学生の名前と顔を全員覚えている訳ではないので、出席名簿を見ながら適当に名前で指名する。しかし名前を呼んでも反応がない。出席していないのかと思いながらもう一度呼ぶと、やっと、おずおずと、手を肩の辺りにまで上げて、私ですという反応を見せる。これでやっと本人を確認できることになる。この間に声を発することはない。むしろ不思議そうな、そして少し迷惑そうな顔をしていることが多い。そこで、もう一度最初から質問をやり直さなければならない。簡単な質問だから答を得てすぐ本論に入りたいのに、予想外に時間が掛かってしまうことになる。そういう学生が増えてきているのは先刻承知していたが、今年は特に多いようである。

 目上の人から名前を呼ばれたら、すぐさま「ハイ」と応えて反応するのが常識であろう。こういう常識を家庭で親が教えていないらしい。しかも学校では、そういう学生を先生が注意しない。だから社会人になっても、そういう常識、礼儀が身についていない困った大人ができてしまうのである。その結果、大学という社会人になる直前の段階で(企業出身の私めのような先生が)教えてあげなければならない事態になってしまうのである。嘆かわしいことである。

 そこで私は、課題で提出されたレポートを名前を呼びながら個々に返却することにした。今までは一括して教員室前の返却箱に入れておけばよかったのであるが、そうすると他人の評価結果が分かってしまうし、レポートの一部が(特に、成績の良い人のものが)行方不明になったりするので問題があった。そういう背景があったので、今年から手渡しで返却することにしたのである。同時に、名前を呼ばれて返事をしない者には、個々に注意してみることにした。効果があるかどうかは分からないが。

 全員の名前をフルネームで読み上げるのも結構大変な作業である。最近は、読み方が分からない変わった名前の人が多い。自分の名前を誤って読まれると気分の悪いものであるから、私はできるだけ正確に読もうと努力する。名前だけでは男女の区別がつかないものもあるから、男性なら“君”、女性なら“さん”付けで呼び分けるのも結構難しい。先生の方も、もっと勉強しなければいけないようだ。やれやれ…。

2011年4月23日土曜日

見せたくない情報、見せる必要のない情報

 東日本大震災における被害の実情が次第に明らかになっていくにつれて、私は自分にも何かできることはないかと思うようになった。しかしボランティアをするには齢を取り過ぎているので、義援金の寄付をする程度のことしかできない自分が何とももどかしく思われる。
 被害の状況を伝えるテレビ画面を見ながら、私は現場を直接見ることもなく遠くにいてメディアを通じて得た知識だけで被災の実態が分かった様なつもりになるのだけはやめておこうと自戒している。しかし同時に、それとはまったく関係のない“どうでもよいこと”ばかり考えていたのをここに白状しなければならない。以下それについて記しておこうと思う。

・どうでもよいこと1「がれきとは」
 被災地では、大量のがれきの後始末に苦慮しているという。テレビ画面で見る被災地の様子からもその実態が分かるような気がする。ただ、私が知っている“がれき”という言葉の持つ印象とは大分様子が違うようだ。
 がれきとは瓦や小石などのことで“瓦礫”と書くべきところだが、「礫」が常用漢字に含まれないので「がれき」とひらがな表記するようになった。テレビ画面で見る“がれき”は、日本家屋の残骸から生じた木材や壁土、流された自動車、家具など雑多な生活用品で占められているように見える。燃やそうと思えば燃えるものが多い。私の想像するがれきとは、倒壊した建物のコンクリートやレンガの破片などで、燃やしても燃えない物という印象がある。

 最近は“がれき”という言葉は「捨てても構わない物」の意味で用いられているらしい。言葉の持つ意味が時代とともに変わっていくのは、それはそれで仕方のないことだが、ひらがな表示にしないで“瓦礫”という漢字表記のままだったら「割れた瓦がお互いに擦られ、砕かれて小石になった様」が想起され、決してこのように誤用されることはなかったろうと思う。
 つまり、表意文字である漢字で“瓦礫”と書かない(漢字により想起される情報が隠された)ことによって、“がれき”の解釈が柔軟に行えるようになったのである。言葉の表記法というのは実に難しいものである。

・どうでもよいこと2「被害の実態」
 被災地の状況を報せるテレビ画面を見ているうちに、私は実際の状況とは少し違うのではないかと疑問を持つようになった。それは「画面があまりにも整い過ぎている」からである。誤解されることを恐れずにあえて書けば、少し「美し過ぎる」と感じたのである。実際は、もっともっと過酷な状況にあるのではないか。
 先ず、被災者の遺体が発見される場面や、収容される場面が皆無である点だ。たまに生存者が発見される場面(滅多にないが)は放映されるのに、遺体の収容される場面がないので何となく死傷者のいない、しかしそれでいて激しく損壊された災害現場を見ているという印象を与えている。

 実際は、想像を絶する程の過酷な現場なのであろう。そういう過酷な映像は注意深くカットされて“きれいに修正された”場面ばかりが放映されているように思える。
 これを情報隠蔽と言ったら言い過ぎであろう。一般の視聴者に見せるのは望ましくない悲惨な場面もあろう。子供が見たら心に傷を残すような場面もあるであろう。そういう場面はカットするのが普通の判断である。しかし我々大人の視聴者は、画面には出てこないけれど、そういう過酷な現場が存在したことを理解しなければならないと思う。

 つまり、我々の周りには、見せたくない情報、あるいはあえて見せる必要のない情報が溢れている。それらを無分別に公開したら、ウイキリークスの例をあげるまでもなくいろいろと支障が出てくるのは明らかである。しかしどれを公開しどれを非公開にするか、つまり公開の是非を判断するのは大変に難しい。災害現場に限らず、我々の周りには常に、見せてよい情報と見せる必要のない(あるいは、見せない方がよい)情報とがあることを理解すべきである。

 プログラミングの世界ではこれを“情報隠蔽”(information hiding)と言うが、隠蔽と言うと何か悪いことをしているようで気にする人もいるから、ここでは“情報を隠す”と表現しておこう。たとえば、Cプログラムの世界では、

    #include  <stdio.h>

のようにインクルードファイルを指定して(*)、その記述が必須ではあるが初心者は知らなくてもよい情報は別の場所に置いて見えないようにする。つまり、一般の人には見せる必要のないものとして隠してしまい、プログラムを単純にして問題の核心に迫れるようにする。こうやってプログラムを分かりやすく、美しく見せる手段が用意されているのである。
  【注】(*)
   C++ の世界では、
     #include  <iostream>
     using namespace std;
   のように指定する。

 初心者プログラマは、その存在を知らなくても構わないがある程度のプログラミング能力を備えてきたら、当然そういうものの存在を理解し、その内容にも関心を向けるべきであろう。
 これと同じように、我々は大震災の被害状況を伝える(美しく仕上げられた)テレビ画面を見せられても、その裏に隠された被害の実情を正しく読みとる能力を持てるようになりたいものである。
【追記】本文のリライト版【素歩人徒然】「情報を隠す」も参考にしてください。

2011年3月13日日曜日

ウェッブデータの後始末

 家内が入院して一か月以上になる。手術を受けて何とか危機を乗り越えてくれたようである。手術後の二日目、病室を見舞うとかなり元気になっていて安心したのだが、その瞬間に大地震に襲われた。東日本大震災の始まった瞬間である。

 直ぐに看護師が病室に走り込んで来て、酸素マスクを取り出し必要なときには何時でも装着できるような体勢を取った。しっかりと訓練されているようで心強い。私は壁に寄りかかって自らの身体を支えつつ看護師と一緒に揺れるベッドを押さえていた。看護師は、この病院の建物は耐震設計になっているから大丈夫ですと言ってくれたが、それでも長い時間、不安な思いで激しい揺れに身を任せるしかなかった。

 最近、身辺整理のことが頭を離れないでいる。家族の病気に直面し自分自身も何時病院のお世話になるか分からない身である。病気ばかりでなく、こういった大地震のような災害や交通事故に遭遇し、突然この世におさらばしなければならないことになるかもしれない。私に、もしものことがあれば、多分残された者たち(家族、親族)が何とか事後の整理をしてくれるであろう。しかし私が個人的にインターネット上に構築してきたデータの後始末までは期待できない。かねてから、私はウェッブ上のデータの後始末について、いずれ考えなければいけないテーマだと思っていたのである。東日本大震災に直面したこの機会に、私は本気で考えてみようと思ったのである。

 たとえばホームページが、ある一定期間更新されない状態になると、その旨自動的に表記されるようにしてはどうか。長年、私のホームページ上のエッセイを愛読してくださった見知らぬ多くの方々に、更新できなくなった理由をちゃんと説明しておきたいのである。それができれば、思い残すことが少しは少なくなるであろう。そういう注意を喚起する方式を、HTMLファイル上で考えてみよう。高価なアプリケーションプログラム等を購入しなくても、そのようなプログラムは簡単に作れそうな気がしたのである。何しろ、私めは「昔プログラマ」であることを誇りにしているのだから。

 たとえば、1か月間更新されないと、次のように表示する。
 最後に更新されて以来 1か月以上が経過しています。

【注意】
 おそらく、このホームページの著者のアイデァが枯渇してきたためではないかと思います。少し時間的な余裕を与えてあげて、静観するのがよいと思います。アイデァの衰えが回復してきた頃に、また機会があれば訪問してください。

じゃ また / See you.

 6か月以上更新されないと、次のように表示する。
 最後に更新されて以来 6か月以上経過してしまいました。

【お詫び】
 このホームページの著者が怠けている可能性が濃厚です。でも、善意に考えてあげましょう。もしかすると病気で入院中なのかもしれません。入院中で、容易にはインターネットアクセスができない状態なのかもしれません。あるいはアイデァが尽きたのではなく、寿命が尽きつつあるのかもしれません。少し時間をおいて、また訪問してみてください。

じゃ また / See you again.

 更に、1年間以上更新されないと、次のように表示する。
 最後に更新されて以来 もう1年以上経過しています。

【警告】
 このホームページの著者は、もしかすると亡くなっているかもしれません。その場合、このホームページは以後更新されることはありません。閉鎖されることもあり得ます。早めに、書斎内を詳細に見学しておくことをお勧めいたします。
 そろそろ私め(プログラム)も覚悟を決めておく必要がありそうです。実に残念なことであります。

では では / Bye.

 更に、数年間以上更新されないと、次のように表示する。
 最後に更新されて以来 とうとう2年近くが経過してしまいました。

【お礼と報告】
 これはかなり深刻な事態です。おそらく、このホームページの著者の寿命が尽きたものと思われます。生前の著者に対するご厚情に対し、著者に代わり私め(プログラム)からも厚く御礼申し上げます。

 なお、香典を送りたい方は、

 ○○銀行○○支店 普通預金口座 番号 XXXXX

へお振り込みいただければ幸いです。

 ただし、万一、この判断が間違っていた場合(何しろプログラムが判断したことですから充分にあり得ます)送金された香典は返却いたしません。その場合は同額をタイガーマスク(伊達直人)名義で児童養護施設に寄付させて頂きますので、ご容赦いただきたいと思います。

さようなら / Good bye.

 これらを表示するためのアルゴリズム(手順)は、私めのホームページ上に(2011年4月1日付で!!)公開する予定である。関心のある方は利用してみてください。ただし、間違いがあって早々に香典が届いたりしても私めは一切責任は負えませんので自己責任で試みてください。
【追記】本文のリライト版【素歩人徒然】「身辺整理」も参考にしてください。上記のアルゴリズムが紹介されています。

2011年2月18日金曜日

ごみの分別

 私めの住んでいる地区では、普通ごみの収集日は月曜、水曜、金曜の週3日である。その日の朝になると、抜かりなくごみ箱を通りの所定の場所に出しておかなければならない。収集車の音を聞いてから慌てて出しに行く(時々ある)という醜態は演じたくないからである。

 以前はどんなごみでも構わず出せたのだが、最近は資源ごみの再利用をしやすいよう出す側であらかじめ分別することが求められている。普通ごみ以外の物はまた別の日に出さねばならない。そのルールをよく覚えていないと回収されずに路上にそのまま残されることになる。間違って出し回収されなかった物を自分の家に持ち帰るのは実に惨めなものである。

 普通ごみ以外の物としては、
・資源物
 (空き缶、ペットボトル、空きびん、使用済み乾電池など)
・小物金属
 (30センチ未満の金属製品、かさ、針金ハンガーなど)
・粗大ごみ
 (30センチ以上の金属製品、50センチ以上の家具類など)
などで、それぞれ収集日が決められている。粗大ごみは有料である。

 回収の対象とされない物もある。
・処理が困難な物
 (重い物、長い物、処理作業に危害を及ぼす物、有害物質)
・ボタン式電池・充電式電池
・在宅医療廃棄物
・パソコン
・自動二輪車
・家電4品
 (エアコン、テレビ、冷蔵庫・冷凍庫、洗濯機)
・携帯電話

 これらは購入店あるいはメーカーに依頼する必要がある。あえて捨てると不法投棄という犯罪行為とみなされる。

 このような細かいルールをよく覚えていないと恥をかくことになる。以前の、何でも自由に出せた頃が懐かしい。

 さて、これからが本論である。
 コンピュータの世界でも、我々は「ごみを捨てる」という行為を毎日繰り返している。時には、一度捨てた物をごみ箱の中を漁って探し出し、再び取り戻してきたりしている。誰も見ていないとはいえ、いや、浅ましき行為と言うべきであろう。
 男は、一度捨てた物は(たとえ、それがお金であっても)決して拾ったりはしないものだ。とは言え、やはり大切なものは拾って元に戻す方がいいに決まっている。どうせ誰も見ていないのだから。

 私は、システムがそなえている通常の“ごみ箱”とは別に、圧縮型のごみ箱を自作して用いている。ここに捨てるのは主にメール類である。毎日多量の迷惑メールが届くので、それを一括してこの“圧縮ごみ箱”に廃棄する。しかし本来受け取るべきメールが、誤って迷惑メールとみなされてしまうこともあるので、安全のために圧縮ごみ箱の中身は1か月間くらいは保管しておく必要がある。

 迷惑メールの中には、当然ウイルスメールも含まれているから、自分は廃棄した積りでいてもウイルス検索プログラムによってそれが検出されてしまうことがある。捨てた物に対して「ウイルス発見!」と大声で騒ぎたてられるのは困ったことである。そこで私は、迷惑メールを圧縮ごみ箱の中で圧縮してから保存することにしたのである。しかし最近のウイルス検索プログラムは、お節介にも圧縮ファイルの中までチェックしてくれる。大きなお世話と言うべきであろう。更に、最新の Windows 7 システムは圧縮ファイルの中まで(エクスプローラ上で)見えるようにしてくれる。しかも解凍しなくても、その中のファイルを読み出せるようになっている。これも大きなお世話である。

 最近、私が教えている学生から課題に関するメールが、迷惑メールとして扱われ圧縮ごみ箱に捨てられるということが起こった。指定のアドレスを用いて規則通りに送れば決してそのような間違いは起こらないようになっているのだが、学生が規則に従わずウェッブアドレスを用いて、しかも締切後に送ってきたため見逃してしまったのである。ルール違反だから放っておいてもよかったのだが、そこは武士の情け、圧縮ごみ箱の中を捜してあげることにした。しかしこれが予想外に大変な作業であった。課題メールの発信日が正確には分からない上に、迷惑メールの中には発信日時を偽っているものがあるので時系列にそって捜すことができない。しかも1つのメールが1つのファイルとして構成されているので、検索作業も容易ではなかったからである。

 この時の経験から、私はコンピュータの世界で物を捨てる場合も“分別してから捨てる”ようにすべきではないかと思うようになった。
 その日の迷惑メールをすべてまとめて束ね、その年月日を名前とする圧縮ファイルの“束”を作る。そしてその束を圧縮ごみ箱に放り込んで、更にもう一度全体を圧縮するのである。二度圧縮すると、さすがのウイルス検索プログラムも、Windows システムも手が出せないようである。呵々。
 こうしておくと、ごみ箱を漁る必要に迫られても、束の名前から日付(これは Windows 7 下で見える)が分かるから、迷惑メールの束の候補を2~3束見つけ出して、その中身を調べれば済むことになる。
 これからは、ごみ箱の中身すべてをひっくり返して“ごみにまみれて”捜すというような、浅ましい行為はしなくて済むであろう。

【追記】本文のリライト版【素歩人徒然】「ごみの分別」も参考にしてください。

2011年1月20日木曜日

住所について

 今年も、年賀状交換という日本独特の習慣を通じて、お互いの安否を確認し合うという行事が滞りなく完了したようである。例年と違い、私は喪中の人にも“寒中お見舞い”の形ではがきを出すことにした。実は昨年末、市の方針により私の住んでいる地区の住居表記が変更されたので、それを連絡する必要があったからである。

 今までは町の名称に続けて“地番”として高々4桁くらいまでの数字を書くだけでよかった。しかしそれでは、特定の家を一意に識別するのが困難になってきたのであろう。新しい方式では町名の後に、例えば“3-15-19”のように数字を区切って書き連ねる形式になった。正確には“丁目1519号”のように書くべきところだが、それを略記したものである。これは町を“丁目”で区分けして、その中のブロックごとに“番”に当たる数字を割り振り、その中の個々の家に番号を振って“号”として表記している訳である。手紙等であて先を書くときは、
 3-15-19
あるいは
 3の15の19
等と書かなければならないことになる。更にマンション等の集合住宅では“棟”番号や“階数と部屋”を示す番号(普通は3桁程度)が必要になる。したがって、
 3-15-19-4-302
というような長い表記になってしまうこともある。

 コンピュータ・プログラミングの世界では、物に名前を付ける時はその内容が分かるよう表意文字を用いることが推奨されている。単に数字による番号付けで物を区別するのは最も拙劣な命名法とされているのである。それぞれの地域の特徴ある街区の名称が失われ、このように番号化されていくのは(プログラミングの立場からも)実に残念なことである。昔プログラマの無念の想いを込めて、住居表示の変更通知を兼ねた賀状には、次のような法則を書いておいた。

 【変更通知の法則】
  ・どんな変更も、最初は「たいした影響はない」
   ように見える。
  ・したがって、変更を通知しても誰もそのことに
   関心を払わない。
  ・変更にともなうトラブルが発生すると、初めて
   問題の重要性が理解される。
  ゆえに、変更を伝えるのは無駄である。


 さて、本論に戻ろう。
 縦書きを原則とする日本では、はがきや封筒に相手先住所を書くとき、数字だけは横書きにしなければならないので不便を感じることが多い。漢数字を用いて縦書きにするという手もあるが“11”を“一”“一”と縦に書くと“二”と読み違えられる可能性もあるのでやっかいである。今までは「不便だなぁ」と思いながら相手の住所を書いていたが、これからは自分の住所もそういう書きにくい表記になってしまったことになる。

 今回の住居表記の変更にともない、私の本籍も変わってしまった。以前は愛知県に本籍があったのだが、書類作りで何かと不便なので数年前現在の住所に移したのである。その後は現住所と本籍が一致しているので、手続き的にはかなり楽になった。しかし今回分かったことは、住居表記の変更により現住所と本籍が異なる以前の状況に戻ってしまったことである。その理由は、本籍というのは特定の家に結びつくものではなく、土地に結びついているものだからである。特定の家に結びつけるための“号”を含む住所表記には馴染まないことになる。昔、愛知県にあった本籍地も、気が付いたら交差点の真ん中になっていたということも起こり得るのである。この結果、私は新しい現住所と本籍の住所とをそれぞれ覚えなければならないことに相成った。

 我々は、日頃様々な住所表記を使い分けている。したがって、これしきの事で驚いてはいけないのであろう。たとえば、本籍はその土地と結びついたものであるが、これを使う必要があるのは公的書類の作成などで記入を求められる場合くらいのものであろう。
 一方、現住所は今住んでいる場所に結びついているものであるから、これが普通は一番使われる頻度が高い。住んでいなくても別荘や妾宅を所有している人なら、更に住所が必要となる(妾宅とは表現が古いなぁ)。

 一方、電子住所というものもある。これは土地や家ではなく、個人に結びついた住所であると思えばよい。携帯可能な電子住所は24時間どこからでも連絡が取れる住所と言える。本籍や現住所よりも、これからは電子住所の方がはるかに使用頻度の高いものになっていくであろう。しかも、誰でも(別荘や妾宅とは縁のない人でも)複数の電子住所を持つことが許される。うれしいではないか。
 こうなると“住む所”という意味の“住所”という表記は、実態にそぐわなくなってきているように思う。我々はこれを単に“アドレス”とか“メールアドレス(メアド)”と呼んでいるが、この曖昧な表現の方が無難なのかもしれない。■
【追記】本文のリライト版【素歩人徒然】「住所」も参考にしてください。

2010年12月24日金曜日

ノートパソコン25周年

 東芝がノートパソコンを開発してから、今年(2010年)で25周年になる。東芝から届いた案内状によれば、東芝科学館でPC企画展が(2010年12月18日~2011年1月29日まで)開催されているとのことである。「-東芝ノートPC25周年-“できない”から“できる”へ変わった ~未来へ進化し続ける東芝ノートPC~」とある。2010年までで累計販売台数は1億台になるという。

 上記の案内状添付のパンフレットには、代表的な機種の発表年と機種名、そしてその写真が載っている。その内の多くは、私の「My Personal Computer Show」の欄に掲載されているものである。少し誇らしく思っている。

(1) 1985年 T1100
(2) 1986年 J3100
(3) 1989年 DynaBook J3100 SS001
(4) 1996年 Libretto 20
(5) 1997年 DynaBook TECRA 750DVD (なし)
(6) 2004年 Qosmio
(7) 2008年 DynaBook SS RX
(8) 2010年 DynaBook R730 (なし)

 ただ、残念ながら(5)と(8)だけは持っていない。何時か手に入れたいものであるが、今からTecraを手に入れるのは難しかろうと覚悟している。

 この企画展の紹介記事が12月19日の朝刊に掲載されて以後、私の「世界初のノートパソコンT1100(私の宝物)」欄へのアクセスが急増していることに気が付いた。普段だと、日に5~10件程度のアクセスしかないので、私はアクセスログを詳細に解析したりして楽しんできたのである。アクセスログを解析すると興味深いことが色々と分かる。どのようにしてこの辺鄙なサイトを見つけてくれたのか、ある程度の推測ができるからである。大抵は検索エンジン経由であり、ホームページ経由のものは滅多にない。どんなキーを使って検索しているのかも分かる。

 今までの、日に数件程度の状態ならアクセスログを目視するだけで解析は済んでいたが、18日以降の急増のためにアクセスログは目視が困難になるくらいの量になってしまった。そこで、使い慣れたPerlで、必要な個所だけを抜き出してくるプログラムを作ることにした。こういう時、Perlって本当に便利ですね。私はアクセスログから1行ずつ取り出してきて、その行に対し次の処理を行うことにした。

(1) "?" を含む行なら残す
(2) "cgi"を含む行なら捨てる
(3) "http...."を含む行なら残す
 という作業をし、最後に残った行の
(4) "http...."の部分だけを出力する

 これでアクセス部分のみを取り出して見ることができるようになった。
この結果、アクセスの方法、検索に用いたエンジン名、検索の際に用いたキーワード等が明瞭になる。
アクセス回数の変化のみを一覧にしておこう。

アクセス
176
1856
19269
2091
2187
2277
23513

しばらくすれば平常に戻るのではないだろうか。
【追記】本文のリライト版【素歩人徒然】「ノートパソコン25周年」も参考にしてください。

2010年11月17日水曜日

ネット世論

 インターネットが普及して以後、“ネット世論”という言葉がよく使われるようになった。ネット世論(つまり、ネット上で大勢となっている意見)が世の中の意向を正しく反映しているかと言えば、それは明らかに否であろう。インターネットを利用する人達の中のほんの一握りの人達が、掲示板やブログ上で発言しているだけかもしれないのだ。その一方で、大多数の人達は沈黙してそれを見守っているだけ(ROM:Read Only Member)というインターネットの世界特有の現象を正しく理解しておく必要がある。場合によっては、同一人物が名前を変えて同じ主張をあちらこちらで流している(MultiPost)こともある。

 このことを、私は大学の講義の中で取り上げようとしたのだが、その説明をする前に「世論」という字を示して「普段、これを何と読んでいますか?」と学生達に尋ねてみた。すると全員が「よろん」と読むと答えたのである。別の読み方をしている学生は一人もいなかった。これは予想通りの結果ではあったが、全員がそう読んでいたのは意外であった。私は「これは“せろん”と読むのだと思いますよ」と少し控えめに述べ、それから本論へと移ったのである。

 なぜこのような質問をしたかと言うと、それは世の中の人達が(メディアも含めて)“世論”(せろん)を「よろん」と読んでいるらしいと最近になって気が付いたからである。今頃気付くとは随分ととろい話だと思われるかもしれないので、もう少し正確に書いておこう。そう発音している人が多いという事実は以前から承知していた。しかし「せろん」と読んでいる人がほとんどいないという事実に気が付いて、これは問題だと意識し始めたというのが正確なところである。多分貴方(女)も“世論”を「よろん」と読んでいるはずです。違いますか?

 私が“世論”という言葉に出会ったのは、正確には思い出せないが、中学生か高校生の頃ではなかったかと思う。その時、最初は「よろん」と読んだが、“与論”という言葉もあることを思い出し辞書で調べてみることにした。すると、手持ちの国語辞典には「せろん」と読むと記されていた。世論と与論の意味の違いを、私はこの時に学んだのである。以後、私は「世界のセ」と心の中で唱えながら「せろん」と正しく読めるようになろうと自分自身を鍛えてきた。
 したがって“ネット世論”という文字に出会っても、私は何の疑問も抱かずに「ネットせろん」と心の中で発音しつつ読んでいたのである。しかし、これがどうやら世間の動向とは著しく異なっているらしいことに気が付いた。それはテレビニュースのキャスターが「よろん」と発音しているのに(私は当然“与論”と解釈した)、画面上では“世論”という文字が表示されていたからである。これまでは「あれまぁ、また表示を間違えて・・・」と思いつつ、そのままにしていたのだが、テレビキャスターまでもが!「よろん」と発音している事実に気が付いて心底驚いたのである。

 これは見過ごしにはできない問題であるように思えてきた。
 与論(よろん)とは、公的な関心事について理性的な討議・討論を重ねた末に導き出された社会的な合意(public opinion)のことであり、合意に至るまでには当然長い時間が必要である。逆に、一度確立されると簡単には覆らない。ある程度の期間は批判に耐え得るものであると言えよう。昔は“輿論”と表記していたが、漢字制限の影響で“与論”という字が使われるようになった。

 一方、世論(せろん)とは、情緒的な私的心情であり、一般大衆の気分あるいは人気(popular sentiments)に基づく意見・感想のようなものである。よくよく考え抜いた末の見解ではないので、時間とともに変化しやすいと言えるであろう。
 最近は、世論(せろん)を「よろん」と読む人が増えたせいか、辞書には世論の項に“慣用読み”として「よろん」という読みも加えられている。このことを知っていたので、私は学生に対して「せろんと読むのだと思いますよ」と控えめに話しておいたのである。

 この解釈に従うと、総選挙の結果のようなものは国民が考え抜いた末に投票という行為を通じて意志表示したもので、その結果は与論(よろん)と呼んでも良いのではないかと思う。したがって、少なくともその任期の間は政権が維持されてしかるべきものであろう。
 それに対し、数か月毎にメディアが実施する内閣支持率調査などの結果は、世論(せろん)と呼ぶべきものである。支持率調査の対象にたまたま選ばれて突然電話を通じて意見を求められても、十分な考察もせずに世の中の空気を読んで適当に回答している人が多いのではないか。それなら、これは人気投票に過ぎない。「あの人はKYだ」などと言って、空気が読めない存在になることを極端に恐れている人達にとって、単なる人気調査をされたに過ぎないのである。

 若い世代の人達が、世論を「よろん」と読むようになったのは仕方ないとしても、世論と与論の本当の意味の違いだけは理解していてほしいと思う。更には、ネット世論と世論の違いの方も当然理解していなければならない。国民が良識ある判断を下せる手掛かりとなるのは、信頼性の高い順に書くと 与論 > 世論 > ネット世論 の順になるのではないかと思う。

 日本の政治の貧困は、政治家が与論ではなく世論(せろん)ばかりを気にして政治を行っているからではないか。中にはネット世論を、世論あるいは与論と勘違いして、自分は若者の間で人気があると思い込んでしまった首相もいた程である。その結果、人気投票のランク付けのように、首相が毎年交代するような国になってしまった。政治の貧困は、このような国語力の低下、つまり言葉の意味の取り違えから端を発しているとすれば、国民にもその責任の一端はあるのかもしれない。

 最近話題の尖閣諸島領有権問題でも、中国のネット世論を中国の与論と勘違いして大騒ぎしているメディアが多い。騒ぎ過ぎではないか。日本のような言論の自由が(比較的)保障されている環境では、信頼度の高い順に 与論 > 世論 > ネット世論 となろうが、言論の自由が認められていない独裁体勢の環境下では、官製の“えせ与論”、“えせ世論”がはびこっていて、我々の参考にはならない。我々が国民の生の声に接することができるのは、ネット世論しか存在しないことになる。そういう国のネット世論の信頼度を、我々はどう解釈したらよいのだろうか。私には皆目分からないのである。
【追記】本文のリライト版【素歩人徒然】「ネット世論」も参考にしてください。

2010年10月20日水曜日

いつでも充電、いつでも充電

 後期の授業が始まった。都心のキャンパスで担当している情報倫理に関する講義では、パソコン画面をスクリーン上に拡大表示するためのプロジェクター装置が、毎年何らかのトラブルを引き起こしている。最初の授業の時ばかりでなく、毎回の授業で私は内心ハラハラさせられているのである。

 今年の授業では、運良く何事も起こらず機器は順調に動作しているようであった。ところが、授業の途中で突然電源が落ちてしまったのである。慌てて担当者を呼び、何とか修復してもらい再び授業を続けることができた。ブレーカーのスイッチが落ちていたのが原因とのことであった。
 ところが次の授業の時も、再び途中で突然電源が落ちてしまったのである。今度も設備担当者を呼び、同じように修復してもらうという手順が繰り返された。最初の時は、原因の追求よりも授業の進行に気を取られていたので、通電すればそれで良しとしてしまったが、今度は、それではいけないと感じたのである。そこで授業が終わってから、大学側に原因の徹底的な調査と教室の変更とを申し入れることにした。

 後日その調査結果が知らされた。その報告によると、問題の教室は隣りの教室と一体となって電源管理されており、設置されているAV機器の容量を満たすだけの十分な電力が供給されていることが確認された。しかし調査した電気技師の経験から、多くの場合学生達が教室のコンセントから自分の携帯電話やゲーム機などに充電しているのが原因となってこの様なことが起こるのだという。

 俄かには信じがたい指摘ではあったが、冷静に考えるとこれが現実なのかもしれないと思うようになった。私の身の回りでも、暇さえあればケータイをコンセントにつないで充電している姿を見かけるようになっていたからである。「いつでも充電、いつでも充電」というわけである。
 電車の中などでケータイを夢中になって使っている人をよく見かけるが、一体彼らはどこで充電しているのだろうと、ふと思ったことがあった。授業中に充電できたとしたら、さぞ便利なことであろう。いや、授業中に充電するというよりも、充電中に時々授業を聞くというのが最近の流行りなのかもしれない。それを知らないのは、ケータイに呪縛されない生活を送っている私めのような人間だけなのかもしれない。

 大学の施設の電源コンセントから許可なく私用のケータイに充電するという行為は、明らかに盗電である。“窓ガラス理論”にしたがえば、このような不正行為を見逃すべきではない。しかし教育の場では、その犯人を捕まえることよりも、教室を変更してそういう不正行為が行えないような環境にすることの方が穏当な解決策ではないかと私は思ったのである。

【追記】本文のリライト版【素歩人徒然】「盗電」も参考にしてください。

2010年9月15日水曜日

ファイル保存よりも環境保存

 長年に渡ってコンピュータを使い続けていると、その間にマシンのトラブルに巻き込まれる機会もそれだけ多くなる。昔はそれほど頻繁にマシントラブルに会うことはなかったような気がするが、コンピュータの性能が良くなり高度で精密機械として扱われるようになると、ハードウェアが故障する頻度もそれだけ高くなってきているのではないかと思う。

 マシントラブルに遭遇した時、一番に心配になるのは直前まで扱っていたファイルの安否であろう。今まで営々と時間と労力をかけて作成してきたファイルが、破壊されたり失われてしまうかもしれないのである。あらかじめ外部メディアに保存するなりの対策をしておけば良かったと思っても、もはや手遅れであることが多い。誰でも、以下に示す「ソフトウェアの法則」【ファイル破壊の予知法則】を知っていればよかったのに、と思うに違いない。

【ファイル破壊の予知法則】
 ファイル破壊の事故は、常に「ファイルを保存したい」
と熱烈に思う直前に発生する。


 コンピュータを故障させずに長く使い続けるコツは「コンピュータを長持ちさせる法」で紹介したとおりである。つまり
 ・定期的に使い続ける
 ・できるだけソフトウェアを変えない
 ・愛情を持って取り扱う
であるが、この他に、もう一つ重要なのが
 ・スリープ機能を多用しない
ということではないかと最近感じている。

 Windows Vista がリリースされた時、そのシステムの立ち上げに随分と時間が掛かり不評だった。その対策として、私はスリープ機能を多用するようになった。夜、コンピュータを使い終わってもシャットダウンせずに翌朝までスリープ状態にしておくのである。翌日、すぐ立ちあげられるので便利ではあったが、そのためか故障しやすくなったように思う。スリープ状態にしておいて、いざ使おうとマシンをウエイクすると、コンピュータ本体がかなり高温に保たれていることが多いからである。このスリープ機能のために故障したと言いきるだけの確実な証拠はないが、基板上の多くの部品が長い時間高い温度のままで放置されていたのであるから保守上望ましい状態にあったとは言えない。それ以来私は、夜コンピュータを閉じる際は必ずシャットダウンするようになった。そして翌朝コンピュータに触れた時、本体からひんやりとした感触が返ってくると何かほっとして「よし、いいぞ」と思うのであった。

 さて、本論に戻ろう。大切なファイルを失わないためには、日頃からファイル保存の習慣を身に付けておく必要がある。そのための手段として、ファイルのバックアップユーティリティーが用意されているのが普通である。私もその類いのソフトウェアを何度か使ったことがあるが、結局長続きしなかった。操作が面倒で時間がかかるからである。この種のソフトウェアは大抵はファイルを保存することしか眼中になく、個々のファイルを復元する作業は利用者まかせであることが多い。私の経験では元の状態に復元するのにかなりの努力と時間を必要としている。

 マシンが(修理依頼しなければならないような)致命的な故障をした場合、普通は修理に1~2週間はかかるのを覚悟しなければならない。その間は別のマシンで代行しなければならない。そのマシン(もしあれば)への移行作業を迅速に行えるかどうかが一番の問題になるのではないかと思う。毎日行う作業、たとえばメールの送受信などが数日間できないとしたら、これは大変なことになる。たとえば私の場合、迷惑メールが1日当たり200件程度は届くので毎日処理していないとメールボックスが満杯になり、受け取るべきメールも受信できなくなる恐れがある。大学の授業で使っているファイル、課題提出の管理、その他いろいろと、マシンが使えなくなったら大騒動になるのである。

 したがってファイル保存よりも、日々使っている自分の作業環境そのものを保存し、マシントラブルが起こったらすぐさま別のマシン上で同じ作業環境を動作させ継続的に(もちろん最新のファイルを用いて)作業できるようにすることが重要になるのではないか。

 そこで私は、外付けの大容量ハードディスク上に、その日に変更したファイルや履歴を保存することにした。“外付けの”ハードディスクであることが重要な点である。
 保存すべきものは、
 (1)自分が作成したファイル(*1)
 (2)自分が使うアプリケーションのステータス(*2)
等である。
【注】(*1)更新日を比較して変更の必要があるものだけを保存する。具体的には、xcopy コマンドにスイッチオプションとして D を指定するとよい。
【注】(*2)各アプリケーションごとのステータス情報は AppDataディレクトリ(隠しファイル)以下に保存されている。どの場所に保存されているかは、その気になって探せはすぐ分かる。これも xcopy コマンドで必要なものだけを選んで保存するようにする。

 この作業を、毎日の終りにマシンを閉じる際のシャットダウンの直前に行うのである。2~3分で済むから何の苦にもならない。
 こうやって変更のあったものだけを保存していると、不要になり削除したはずのものが外付けのハードディスク上に残ってしまう。そこで毎月1回は、%USERPROFILE% 以下のものを robocopy コマンドを用いて保存し、最新の状態にしておく必要がある。

 私は「コンピュータを隠し持つ」で触れたように、普段使わないマシンがあるから、そのうちの1台をバックアップマシンとして利用することにした。そのバックアップマシン上に同じアプリケーションをインストールし、外付けのハードディスク上に前の晩保存しておいた(1)、(2)のデータを、毎朝リカバリしているのである。そうすると、バックアップマシンの方には必ず前の晩の状態がキープされているので、たとえ普段使うマシンが立ち上がらなくても、何の心配もないということになる。いや、やはり心配ではありますがね。

【追記】本文のリライト版【素歩人徒然】「環境の保存」も参考にしてください。

2010年8月23日月曜日

コンピュータを隠し持つ

 コンピュータ開発の黎明期の頃から、自分の家にコンピュータを備えるということは科学者や技術者にとって最大の夢であった。ソフトウェア技術者だった私めも、自分の家に自由に使えるコンピュータ(当時は電子計算機と称した)があれば、どんなに素晴らしいことかと夢想した内の一人である。

 コンピュータで何をやりたいかというと、数学の未解決の問題を解くために用いるのである。数学の世界には、まだ証明されていない未解決の定理が沢山ある。それを否定的に解くのに利用しようと思ったのである。つまり、その定理が間違っていることを示す例を一つでもいいから見つけ出せれば、一夜にして定理の解決者としての栄誉が得られることになる。否定的に解くのは、肯定的に解くよりもはるかに容易なことのように思われた。

 もし家にコンピュータがあれば、それを24時間連続稼働して未解決の問題を解くプログラムを動作させ、しらみつぶしに当たっていって答を見つけ出せばよいのである。そういうプログラムを作るのは自分の本業であるから、コンピュータを動作させる電気代のことだけ心配すればよかった。プログラムが昼となく夜となく解を捜し求めている間も、本人は遊んだり別の仕事をしていられるのだから楽なものだ。
 そう夢想していた時、私が空想の中でコンピュータを設置する積りだった部屋は6畳間ほどの広さであった。これは、その当時の中型のコンピュータが何とか納まる程度の広さである。

 時代は進んで、大型コンピュータによるタイムシェアリング全盛の時代には、家にテレタイプ型の端末を置くことを夢見たものである。公衆回線を使って職場(当時はアメリカの研究所にいた)の大型コンピュータを呼び出して使うのである。この頃にはもはや夢ではなくなっていた。端末は研究所からの借り物で、電話料金は(アメリカでは)基本料金で済むから負担にはならない。とにかく家でコンピュータを使えるようになったのである。しかし残念ながら借り物なので“私のコンピュータ”という実感は得られなかったし、日本ではまだまだ実現の難しい夢のような環境であった。

 時代は更に進み、マイクロコンピュータの出現によってパーソナルコンピュータ(パソコン)の時代になった。当初は、いわゆるマイコンを家に置いて、おもちゃで遊ぶような感覚で使っていたものだが、その後コンピュータの性能は飛躍的に高まり、普通のプログラム言語が使えるようになった。そして、再び自分の家に(おもちゃではなく本物の)コンピュータを備える夢が、実現可能な夢として再燃してきたのである。

 特にパソコンの出現は“私のコンピュータ”を沢山持つという贅沢な夢を現実のものとする上で大きな役割を果たしてくれた。もはや、設置場所として6畳間の空間など必要としないのである。私は、実に30台ものコンピュータを自分の家に“隠し持って”いた時代があった。なぜ(豪邸でもない)個人の小さな家に、30台ものコンピュータを隠し持つことができたのか。それはもちろん、私がコンピュータ開発という仕事に携わり、ハードウェアそのものを手に入れる機会に恵まれていたからであるが(詳しくは【素歩人徒然】「コンピュータショウ」参照)、最も重要な点は、コンピュータを隠す技術に長けていたからである。その隠す技術の中でも、特に重要なものはノートパソコンの発明にあるのではないかと思う。この技術の存在なくして、30台ものコンピュータを家人に知られずに家の中に隠し持つことなど不可能であったろう。

 家人の目を逃れるには、もちろん色々なテクニックを駆使しなければならない。デスクトップ型の大きなコンピュータを2~3台、所せましと並べて意識的に家人の不満をそちらに向けさせる。その状態を目くらましにして、残りのノート型のコンパクトなものは、家人の目に触れないように巧妙に隠すのである。応接間の大型ソファの下、椅子の下などが最適の隠し場所となる。本箱や押入の奥にさりげなく置くのもよろしい。一か所にまとめないで、いろいろな場所に散在させるのがコツである。本箱の本と本の間に縦にして置くのは、保守上からは勧められない。むしろ並べた本の上の空間に、水平に置くべきであろう。

 このような高度なテクニック(?)を使って隠し持っていたコンピュータは、古いもので、もはや動作しないものばかりであった。その後いろいろな事情があって、ほとんどの物を手放してしまったが、最近、また集めだしている。使い込んだ愛機を、壊れたからといって廃棄処分することができないのである。修理するとなると、大抵は基板の取り替えが必要となり5~6万円は費用が掛かる。これは新しいマシンを購入できる値段である。しかしそれでも修理して動作する状態にして保存したいと思う。私の書斎のデスク周辺には、そういう稼働するけれども特に使う予定のないマシンが、わさわさと存在するのである。このようにして台数が増えていくと、またぞろ“コンピュータを隠し持つ”ためのテクニックを発揮しなければならなくなるかもしれない。困ったことである。
【追記】本文のリライト版【素歩人徒然】「コンピュータと私」も参考にしてください。

2010年7月23日金曜日

日曜プログラマ

 英語には“Do it Yourself”と言う表現があるように、欧米では何でも自分でやったり、作ったりしようとする習慣がある。“DIY”と略記して、そういう生活態度や考え方そのものを指す場合もある。日本語では“日曜大工”がそれに当たるが、少しスケールが違うかもしれない。欧米では自分で家を建ててしまう人がいるくらいだから、日曜だけのお遊び程度では到底実現できそうにないものにも挑戦するようである。

 “昔プログラマ”を自称する私めも、会社勤めをしている頃は“日曜大工”ならぬ“日曜プログラマ”をしばしばやっていたものだ。定年後は、一応仕事は大学教師ということになっているが、ナニ毎日が日曜日(サンデー毎日)と言ってもよい状態である。であるからして、大掛かりに日曜プログラマができそうなものだが、もう若い頃のような大掛かりなソフトウェア開発を試みる気力は、残念ながら持ち合わせていない。

 それでも、日頃使い慣れたアプリケーションで少しでも使い勝手に不満が出てくると、すぐさまその解決策を求めてプログラム作りを始めてしまうのである。既存のソフトウェアに後から機能追加することを、普通“プラグイン”とか“アドイン”などと呼ぶ。追加したプログラムが、アプリケーションと連携して動作はするが、一体となって動作するわけではない場合はアドインとは呼ばない。単なる“ツール”と呼ぶべきであろう。
 最近のアプリケーションは、アドインされることを前提として設計されているものが多い。したがって、私めのような“老プログラマ”でも挑戦する場はたくさん存在するのである。

 私が作ったアドインソフト、あるいはツール類を以下簡単に紹介することにしよう。

(1)アクセス数の一覧表(ツール)
 私のホームページ内には、色々な場所にカウンターが設定されていて、そのページ内容がどの程度読者に読まれているか記録されるようになっている。最近は検索エンジン経由で(トップページを通らず)直接アクセスしてくる人が多いから、トップページにだけカウンターを設定しておいても意味がない。そのようなカウンター設定場所が年々増えていって、今では170個所を超えている。それらの個所をいちいち見ている訳にはいかないから、一覧表にして表示できれば便利であろう。そう思って作ったのが「Knuhsの書斎・アクセス数の一覧表」(図1)である。
 ①「タイトル」………掲示内容、
 ②「Access日時」……最近のアクセス日時、
 ③「Access数」………昨日までの総アクセス数、
 ④「最新値」…………現時点の総アクセス数

がそれぞれの列の枠内に表示される仕組みになっている。
 Access日時の表示がだとその日にアクセスされたことを意味し、だと前日にアクセスされたことが分かる。前日の記録からどう変化しているかが一目了然で分かるように工夫されている。

 このツールは、Perl言語で記述されている。出力はHTMLファイルで、ブラウザ上で結果を見ることができるようになっている。この表を毎朝最新のものに作り直してアクセス状況の変化を観察しているのである。時々刻々と変わっていくカウンター値(最右欄)を見るのは、なかなかのものである。

 このHTMLファイルは私のローカルなマシン上に置かれているが、実は、私のホームページ上にもこれと同類の“allcount.html”というファイルがあり、上記③が「月頭Access数」つまり「月始めの総アクセス数」に固定されて表示されている。これを見れば、月始めからどう変化しているかが分かるようになっている。 http://beam.to/knuhs で簡単にアクセス表示できるから、関心のある方は見てください。

(2)スパムメールの整理・後始末(アドイン)
 私めのところには、毎日200通あまりの迷惑メールが届く。メイラーのフィルター機能だけでは対処しきれないので、スパムメールキラーというアプリケーションを用いて一挙にそれらを排除することにしている。排除すると言っても、その中に間違って受け取るべきメールが紛れ込むこともあり得るから、一応は私的なごみ箱(1か月間は保管しておく)へ捨てる前にざっと目視で確認する必要がある。慣れてくると2~3分で済む作業である。

 スパムメールキラーでは、メールの発信月ごとに特定のフォルダー上にスパムメールをまとめてくれる。たとえば、2010年7月だと“201007”という名のフォルダーが作られ、その上に置いてくれるのである。新しい月の初日は“201006”と“201007”という二つのフォルダーに分けて保管してくれる。親切で、よくできた仕様だと思う。
 ところが、最近のスパムメールには発信日時を詐称するものが増えている。そうなると目視チェックを複数のフォルダー上で実施しなければならなくなり効率が悪い。そこで手作業で1つのフォルダー上にまとめてから目視チェックを行うことにした。面倒だがその方が早く済むのである。

 しかし発信日時を詐称するメールは増え続け、多い日には10個の偽フォルダーが作られたりする事態になってしまった。たとえば6月のある日の例では、
偽フォルダー名 詐称された年月(*1)
 200611    2006年11月
 201003    2010年 3月
 201004    2010年 4月
 201012    2010年12月
 202606    2026年 6月
 203006    2030年 6月
 203306    2033年 6月
 203406    2034年 6月
 203706    2037年 6月
 203801    2038年 1月

といった具合である。これでは手作業での対応は限界がある。そこで以下のようなバッチファイル(xmvfx.bat)をPerl言語で作りだすことにした。
【注】(*1)発信年月を詐称する(誤記する。あるいは“欺記する”と言うべきか)理由はよく分からないが、多分受信メールの一覧の先頭に表示させることを狙っているのではないかと思う。
●xmvfx.bat ファイルの内容例
@echo off
if (%1)==(1) %then% goto clear
move /y 200611\*.* 201006>nul
move /y 201003\*.* 201006>nul
move /y 201004\*.* 201006>nul
move /y 201012\*.* 201006>nul
move /y 202606\*.* 201006>nul
move /y 203006\*.* 201006>nul
move /y 203306\*.* 201006>nul
move /y 203406\*.* 201006>nul
move /y 203706\*.* 201006>nul
move /y 203801\*.* 201006>nul
echo:* 全メールを 201006 に集めました。
echo:* 内容をチェックしてください。
goto exit
:clear
echo:* 圧縮ごみ箱に移動してもよろしいですね?
pause
move /y 201006\*.* 圧縮ごみ箱>nul
cd 圧縮ごみ箱>nul
c:\tools\lha m 201007-pack *.txt *.001>nul
:exit

 これを
  xmvfx [Enter]  で呼び出せば一か所への“移動”を、
  xmvfx 1 [Enter] で呼び出せば“ごみ箱”へ、となる。
 この呼出し系列をスパムメールキラーのツールとして登録し、スパムメールキラーの中で利用するのである。もちろん、現在年月や詐称年月などは毎日変わるから、このバッチファイルも毎日作り直さねばならない。それを工夫するのがPerlプログラミングの面白いところである。ここでやりたい作業自体は一連のコマンド列で書き下せる程度のものだから、バッチファイルの形で簡単にツール類を作成しアドインできることになる。あなたも試してみませんか。

 ここで、ごみ箱の中身を圧縮したのは、スパムメールにはウイルスが付着していることが多いので、そのまま私的な“ごみ箱”に(少なくとも1か月間)置いておくと、ウイルス対策ソフトが「ウイルス発見!」と騒ぎ出すことがあるからである。圧縮したり、更にはパスワード付きで封印保管すれば万全であろう。

(3)ソースプログラム集(ツール)
 大学のプログラミングの授業で用いるプログラムのソーステキストを取り出すためのものである。毎回の授業に出席し、その場で指定された秘密のキー(*2)を入力すれば自動的にソースイメージが引き出せるようになっている。授業中にそのプログラムを用いて実行したり、改造したりして利用するためのものである。ただし、授業中しか引き出せないように工夫されているところがミソである(正確に言えば、その日の内なら授業の時間内でなくても引き出せるようにはなっている)。随分と意地悪な先生だと思われていることであろう。ただ、欠席して引き出せなかった学生も、プログラム自体は教科書に載っているのだから自分でシコシコとキー入力すればよいだけのことである。それ程意地悪とは思わないが、どうであろうか。
 このプログラムは、PerlとC/C++とを用いて作られている。
【注】(*2)この秘密のキーは、一定の規則に則って定められているが、今まで誰もそれに気が付いた学生はいない。

(4)課題提出状況の表示(ツール)
 授業では、毎週課題が出る科目もある。その回答を、期日までにメールで送付することになっているが、その管理が結構面倒なのである。少しずつプログラム化して自動処理化しようとしているところである。
 私は表計算ソフトで提出状況を管理しているが、学生の方も受理されたのかどうか知りたいから、提出状況の一覧がウェッブ上に表示されれば便利であろう。 そこで、私はメイラーから取り込んだデータをPerlで処理し(学籍番号と課題番号を抜き出す)、その結果を表計算ソフトへ入力する。表計算ソフトではVBマクロのプログラムを用いて管理表に登録(締切前か後か、1週間以上遅れているか等を判断)する。その一覧を定期的にHTML化して出力し、再びPerlで変換して表示形式を整えてウェッブ上にアップする。この一連の処理をPerlとVBマクロプログラムで半自動化しているのである。学生の回答が、締切日に遅れたり、誤って何度も同じ文面のメールを送ってしまったり(そういう例が結構多い)しても少しも驚かない体勢になっている。

 老プログラマにとって、アドインソフトやツールの作成は、ぼけ防止に最適であるように思う。

【追記】本文のリライト版【素歩人徒然】「日曜プログラマ」も参考にしてください。

2010年7月18日日曜日

書斎のテレビ

 最近、書斎で見るテレビをポータブルな物に入れ替えた。
 それまでは、パソコン1台でコンピュータ使用とTVを見るのとを兼用にしていたのである。コンピュータと兼用と言っても1セグのような解像度の悪い画面では満足できないので、普通のTVと同じ画質とサイズのものである。場合によっては、TV画面を小さくして(“ながら見”モード)コンピュータ作業を並行して行うこともできる。かねてから、こういう環境を構築したいと思っていたのでそれなりに満足して使ってきたのである。

 不満があるとすれば、TV画面の立ち上げに時間が掛かることであろう。使っているOSの Windows Vista の立ち上げには勿論時間が掛かるが、それはレジューム機能を利用してカバーすることができる。しかし、更にTV環境の立ち上げにもかなりの時間が掛かるのである。書斎に入って直ぐTVを見たいと思ってもそうはいかない。決定的な画面を見逃してしまうこともあるのを覚悟しなければならない。

 “ながら見”では、普通はメールチェックとか簡単な作業しかやらないから問題はないが、段々と複雑で大掛かりな仕事を始めてしまうことがある。それなら“ながら見”など止めればよいのだが、もともと「ながら族」なのでそれができないのである。特にTV側で録画の指定をした時などは、コンピュータ側で大掛かりな仕事をはじめてしまうとレスポンスが悪くなり、録画される画面の質にも影響してくることになる。

 これでは困ると思い、Windows 7 マシンが売り出されたのを機会に、もう1台コンピュータを購入してコンピュータ作業はそちらに移行させることにした。実は、意識的に移行させたのではなく、Windows Vista 環境より Windows 7 の環境の方が、はるかに使い勝手が良いので自然に使用環境が移って行ったというのが本当のところである。その結果、書斎の机の上は、左側に作業用コンピュータ、右側にTV用コンピュータという何とも贅沢(?)な環境になってしまった。大型の机なので2台も置くことができるが、このエコの時代にこんな電力の無駄づかいをしていてよいのだろうかという忸怩たる思いもあった。

 そこで、TV用コンピュータをやめて、専用のTVを購入して使用することにしたのである。電力もたいして掛からないし、見たい時には直ぐ電源オンできるのも良い。私の寝室にはTVを見る環境がないので、そちらで寝ながら見たい時は持って行ける程度のポータブルなものである。書斎で1台のコンピュータですべてを満たすという長年の夢は、実際にやってみると色々な問題があるということを学んだのであった。

【追記】本文のリライト版【素歩人徒然】「書斎のテレビ」も参考にしてください。