2010年2月2日火曜日

授業に出席することの意味

 学生を相手に授業をしていると興味深い経験をすることが多い。学生の考え方に驚くとともに、考えさせられたり教えられたりすることもある。
 ある時、女子学生がやってきて病気で入院していたので、その間の授業を出席の扱いにしてほしいと言う。「病気で休んだのなら欠席ですよ」と言うと、「病気になったのは私の所為ではないから、当然出席の扱いにすべきです」と主張するのであった。私が受け付けなかったので、彼女は大いに不満そうであった。他の授業では、それで通用していたのであろう。

 このことがあってからは、私は最初の授業の時に「病気で欠席したのを“出席”にして欲しいなどという無理は、言ってこないでください」と念を押しておくことにした。
 ところが、次の授業の時に今度は男子学生がやってきて「この時間は毎週歯科医で歯の治療を受けなければならない時間なんです。ずっと出られないのですべて出席の扱いにしてくれませんか」と言う。「そんなことはできませんよ。欠席は欠席です」と答えると「そんな理不尽な!」とあきれた顔をされてしまった。私の判断が理不尽なことなのだろうか。治療時間は変えられないと言う彼に向って「それでは、直ってから私の授業を受けに来たらどうですか」と言うしかなかった。すると「ずっと治療を続けねばならないので、それでは永久に卒業できません」と言う。あきれた顔をするのはこちらの方であった。

 要するに、彼らにとって授業に出席するということは、授業の内容を学ぶことではなく出席記録を残すことなのであろう。他の先生方は、このような要求をそのまま受け入れていたらしいのである。

 最近の新型インフルエンザの大流行で、大学も特別な対応を迫られることになった。インフルエンザに罹ったら無理に登校せず、休むようにと学生を指導している。後で証明書を発行しそれを提出すれば“出席”の扱いにするよう先生方にも通達が出された。どうやら大学側も、出席記録にこだわっているらしい。こうなると私も、インフルエンザ病欠者を“出席”の扱いにせざるを得ない。しかし、その間に出された課題を欠席のために出来なかった学生はどのように扱ったらよいのだろうか。出席記録の変更だけで事が済む話ではないのである。

 一般社会では、インフルエンザに罹ったからと言って会社が出勤扱いにしてくれる訳ではない。無理して出勤するか、あるいは休むかは自分で決めなければならないのである。そこで大人の判断が求められるのだ。普通は休むであろうが、自分が出かけて行ってその日の内に手続きをしなければ会社の存続にかかわるような問題を抱えているのであれば、当然出かけていかなければならないであろう。休んでしまって、後でインフルエンザに罹ったからと言い訳はできないのが一般社会のルールである。社会人ともなれば、常にどう行動したらよいかと自分で適切に判断しなければならない。それを出来るのが社会人なのである。

 インフルエンザに罹った学生に対して“出席”の扱いを認めるのは、実は学生を一人前の大人とみなしていないことを意味するのではないか。出席記録を残したくて無理に登校し、それが原因でインフルエンザ感染が広がってしまっては困った事態になる。大人ならどう行動すべきか自分で判断することが出来るが、学生の場合はその判断が出来ない可能性があるから、一律に“出席”の扱いにしているのである。私は学生にこう話している。「君たちは一人前の大人とみなされていないんですよ」と。
 学生は「“出席”の扱いにしてもらえた」と喜んでばかりいてはいけないのである。

【追記】本文のリライト版【素歩人徒然】「大人の判断」も参考にしてください。