2013年12月26日木曜日

電話詐欺への対応

 家に電話が掛かってくる。受話器を取り上げるとプツンと切れてしまう。そういうことがこれまで何度もあった。
 ベル が鳴ると、その時やっていた仕事を中断し急いで電話機(または子機)の置いてあるところへ駆けつけるのだが間に合わない。5回くらいのコールで受話器を取ってもすぐ切れてしまうのだから相当に気の短い人が掛けてきたのだろうと考えたりしていた。

 書斎で仕事をしていて机上の子機が鳴った時も、ワンコールで直ぐに取ったのに切れてしまう。これは怪しい! 家に人が居るかどうかの確認をしているのだろうか。そこで気が付いたのである。いわゆる“オレオレ詐欺”の電話かもしれないと。

 “オレオレ詐欺”は、そこで使われる手法が進化(?)する度に名称変更を迫られ、現在は“振り込め詐欺”とか“母さん助けて詐欺”とか、これら三つの名称のいずれかが使われているようである。しかし切っ掛けはいつも家の固定電話のベルが鳴るところから始まるのだから“電話詐欺”と呼ぶのが妥当ではないかと思う。

 私は電話詐欺らしき電話が掛かってきたら、その話に乗った振りをして犯人逮捕に協力したいとかねがね思っていた。しかしこれまでそういう会話をする段階まで進んだことは残念ながら一度もない。どうやら、電話に出た時のこちらの声の調子から、カモには不向きと思われたのかもしれない。そう反省(?)した私めは、できるだけ弱々しい元気のない声で電話に出ることにした。だが、今までのところ効果はないようである。

 “声の調子”ということで気が付いたのだが、今まで「受話器を取り上げたら直ぐ切れた」と表現してきたが、実は受話器を取った直後に、私は「もしもし」という声を発していたのである。それだ! その声から、こちらが男であることを相手に知られてしまったのだ。相手は女性のカモを捜していたのではなかろうか。詐欺師は女性の方が騙しやすいと思っているのかもしれない。

 そこで私は、受話器を取っても一言も声を発しないことにした。これは、はっきり言って効果があった。電話は直ぐには切られなくなった! こちらがしっかりと聞き耳を立てていると、相手の職場(?)の背後の騒音が聞こえてくることがある。事務所のような所で電話している声も聞こえる。あるいは受話器を取った直後に男の声の会話が突然中断された瞬間を捉えることがある。雑談していて電話の相手が出たので雑談を打ち切りこちらに意識を向けた瞬間なのだ。お互いに耳を澄まして相手の出方を窺がう。ドキドキするような瞬間である。こちらは絶対に声を発しない。

 ある程度沈黙の時間が流れると、相手はあきらめて一言も発することなく電話を切るようだ。その直前にこちらから電話を切るのがコツである。何度もやっているとその時間間隔の頃合いが分かってくる。相手に“プツン”とやられるのは気分が悪いものですからね。こちらから“プツン”とやってやると逆に実に気分が良い。
 これはあまり他人には勧められないが、私はその瞬間に相手を侮辱する言葉(2~3音の短い言葉がよい)を発してから素早く電話を切ることにしている(おぬしもワルよのう…)。

 こういうワルいことをする(不作法な)男の提言など聞いてもらえないかもしれないが、私は電話というものは掛けた方がまず第一声を発するべきではないかと思う。電話を掛けられた方はそれを待ってから応答の声を発する。それが礼儀作法(マナー)と言うものではないか。あるいは、それを習慣にしてはどうかと提言したい。電話詐欺対策としても有効になるのではないかと思う。

2013年11月23日土曜日

ほうていしき

 私は、大学では数学科出身だったので 「ほうていしき」 と言えば “方程式” のことしか思い浮かばない。しかし “奉呈式” というのもあるらしいことを知った。

 米国のキャロライン・ケネディ新駐日大使が華麗な馬車に乗って皇居に向かい、天皇陛下に信任状を提出する儀式に臨んだ、とニュースは伝えている。新任の大使は必ず皇居で信任状を提出する慣わしがあることは承知していたが、寡聞にしてそれを奉呈式Diplomatic accreditation)と呼ぶとは知らなかった。普通ならこれほど大きく報じられることはないが、ケネディ家の人だからこそ注目されニュースに取りあげられたのであろう。

 日本語変換ソフトの開発担当者は、開発中の辞書にちゃんと登録されているかどうか慌てて確認していることであろう。私が普段使っているパソコンの変換辞書には登録されていないが、滅多に使わない用語であるからよしとしよう。
 しかし“奉”は“捧”の字を当てているメディアもある。統一してほしいものである。

2013年11月1日金曜日

川上一塁手の守備力

 元巨人軍監督の川上哲治氏が亡くなった。
 現役選手の時代には“赤バットの川上”と“青バットの大下”と並び称されて、大下選手とともに野球ファンの人気を二分していたものである。
 しかし色々な論評を見ていると打者としての川上、監督としての川上の話は多く出てくるが、一塁手としての守備の話はまるで出てこない。何故か? それは川上一塁手の守備が恐ろしく下手だったからである。

 野手がボールを一塁に投げるとき、川上一塁手のグラブにスッポリと納まるようなストライクでないと川上御大から睨まれることになる。ショートバウンドするようなボールを投げたりしたらそれこそ一大事である。しかし高い球ならそれほど睨まれることはなかったようだ。普通、高い球ならベースから足を離してでもジャンプしたりして捕球しようとするものであるが、川上選手は決してそのようなことはしなかった。ボールが一塁ベース近くに届く前に彼はクルリとボールに背を向け、ボールが転がるであろう方角に向けて一目散に走り出すのであった。本来、そちらの方は捕手がバックアップにまわることになっているから、一塁手の務めはボールをとにかく止めて打者の進塁を防ぐ努力をすべきなのである。しかし彼はそれをしなかったのだ。

 川上選手の動作を遠くから見ていると一塁手にはとても取れないような大暴投だったように見える。それが彼の狙いなのだ。ジャンプして取り損ねたりエラーする危険を冒すよりもボールを投げた野手の責任にしてしまった方が面倒がない。16の背番号を揺らしながら、そして少し“がに股”でボールを追いかけようとする後ろ姿がTV画面に映ると、私は「あっ! またやっている」と思ったものである。しかしTVの解説者は決してそのことに触れようとはしなかった。

 熱心な巨人ファンがこれを読んだら憤慨するに違いない。野球の神様に向かって何と言うことを言うのか! と。最悪の場合、名誉棄損あるいは侮辱罪で訴えられるかもしれない。

 名誉毀損は、刑法230条1項「公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、3年以下の懲役若しくは禁錮亦は50万円以下の罰金に処する」と定めているから、事実を述べていても罰せられるのである。刑法231条の侮辱罪にあたる可能性もある。

 もし訴えられたら、誰かに“アンチ巨人”の有能な弁護士を紹介してもらいたいものである。誰か高校時代の友人にいないであろうか。
 最悪の場合には亡命も考えておくべきであろう。それには、中学時代の同級生の I 氏に頼んでオーストラリア政府に亡命申請してもらおうかと考えている。

2013年10月31日木曜日

仕事に対する責任感

 今年は大型の台風が多かったが10月の後半に入りやっと台風の季節も終ったようである。
 台風26号が関東地方に接近した時には大学の授業が休講になるかどうかの騒ぎになった。幸いにも関東地方は直撃をまぬがれたが、その影響で午前中の授業はすべて休講となってしまった。私の担当科目は午後だったので休講とはならなかったが、それでもいつもより学生の出席率は悪かったようである。
 会社員の場合、最近はこういう非常時には無理に出社したりせず在宅で仕事をする人が増えてきているから、学生達も同じように無理して出席することもないと考える人が増えたのであろう。

 私が会社勤めをしていた頃は、台風や交通ストなどで出社に影響するような事態になると、普段以上に頑張って出社しようと努力したものである。仕事に取り組む姿勢や責任感を誇示するには絶好の機会だった。特に大切な会議が予定されているような場合は、意地でも遅刻しないよう最大限の努力をするのがサラリーマンとしてのマナーであったような気がする。つまり、その程度のことでしか自己表現ができない社員ばかりだったとも言えるのだが。

 昔、T社とN社の合弁会社に出向していたことがあった。T社からN社へ技術移転をするのが目的だったから、両方の親会社からかなりの人数の技術者(取締役クラスも含めて)が出向して一緒に仕事をしていたのである。
 ある時、全国的な交通ストライキがあり、我々T社から出向している社員達は当然のごとく、定時に仕事が始められるようあらかじめ準備しておくことにした。T社ではそれが普通だった。
 交通手段のない者は全員寝袋を用意したり布団を借りたりして前日から会社に泊まり込んだのである。翌日T社出身の社員は全員、何事もなかったかのように朝一番から普段通りに執務していた。

 その時、N社から出向していた幹部(取締役)が社員の出社状況を確認しようと各職場の見廻りにやってきた。そして、T社のエリアでは全員がそろって普段通り執務しているのを見て「何だ、これは!」と驚嘆することになった。それに反しN社の社員がいるエリアはガラ空きだったのであろう。これは社風の違いかもしれないが、社員の仕事に対する姿勢、責任感、意気込みの違いを見せつけられたと感じたのではないかと思う。T社の一員として私は溜飲を下げたのであった。

 当時は、こういったことが 仕事に対する責任感 があるかどうかを知る指標の一つになっていたのである。最近は誰でもモバイル機器を持っているし、在宅に限らず何処に居ても仕事をすることが容易になっているから、必ずしも仕事に対する責任感の有無を判別する指標とはならなくなってきている。結構なことではないか。

2013年8月15日木曜日

野外コンサートでのマナー

 私の兄が所属する合唱団が、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂付きジュリア聖歌隊500年祭に招かれ、サン・ピエトロ大聖堂で日本語による聖歌を歌うためバチカンを訪問することになった。その後でサン・ピエトロ広場での法王ミサにも参列する予定になっていたので、兄嫁、妹、姪も同行して一緒に参列したのだそうである。このイベントは、一部の新聞でも報じられていたからご存知の方もおられよう。

 以下は兄嫁が、私に語ってくれた話である。

 サン・ピエトロ広場での法王ミサの当日は、生憎の雨模様で傘を持ってはいたがずぶ濡れになってしまった。5月初旬のことでまだ寒い。法王の登場を待っている間に義姉はトイレへ行きたくなってしまった。トイレは広場の前方にあり、法王が通る通路の向こう側にあった。時間も迫っていたので衛視がその通路を横切るのを禁止したので通れない。仕方なく隙を見て渡ってしまった。帰りも同様に通してくれないので再び衛視の隙を付いて通過したのだそうである。

 その後で、合唱団関係の人にその話をしたところ、野外で合唱する人達は常におむつを着用しているのが常識ですよと諭されたのだそうである。知らなかったなぁ~。
 若者達に人気のあるグループの野外コンサートなどでは聴衆の方々もおむつを着用して参加しているのだろうか。知らなかった、知らなかった。
 おむつ着用で音楽を楽しむなんて、何ともほほえましい光景ではないか。彼らは将来、年寄りの身になって老人介護に当ってくれることであろう。

 マラソンや駅伝中継などを担当する放送関係者は、長時間の放送に備えておむつを着用するというのは知っていた。どうしても尿意を我慢できなくなったら、おむつの世話になるのであろう。私はまだ経験したことはないが。
 日本のおむつはすぐれた保水力を持っており、合唱団関係者の間では「4回は使える」ということになっているらしい。私は介護の経験もあるので、日本製おむつのすぐれた品質をよく承知していた。

 その時、義姉は私に聞くのである。おむつを利用するとなると「オシッコをした後どうなるか分かる?」
「?」
「重くなるのよ」
なるほど、それはそうだ。
 いや、待てよ 膀胱の中身がおむつの方に移動するだけだから重くなるはずはない。私はすかさず異議をとなえたのであった。
 尿意を我慢できなくなっておむつの世話になるのだから、一回の利用ではかなりの量のオシッコが出るはずである。それを4回繰り返すことができるというのだから、かなり強力な保水力を持っていると言えるであろう。

 ところで、5回目はどうなるのだろうか。「4回は可能」と限定したということは、5回目はうまくいかないということだろうか? どう、うまくいかないのか? 保水力の上限を越えてしまうのなら解決策としてオシッコをした後、素早くその場におむつをストンと落としてしまえばよいのではないか、などと私は無責任な想像をしていたのであった。

 しかし、それではマナーに反する。野外コンサートの終った跡におむつが沢山残されていたという話は聞いた事がないから、多分日本の若者達の礼儀作法は万全なのであろう。持ってきたものは、しっかりと持ち帰っているのだろう。
 どういう方法で持ち帰るのか、そこは私にも分からないが、さぞかし重い事であろう。私は「オシッコをした後のおむつは重くなる」という義姉の主張を理解できたような気がしたのであった。

2013年8月6日火曜日

“LINE”の発音とアクセント

 メールアプリの LINE が記録的な早さで普及しているらしい。しかも海外でも利用されていて、海外利用が全体の80%にも達するという。

 LINE は“ら(')いん”ではなく“らい(-)ん”と発音する(*)のだそうである。つまり、2文字目以降を平板に発音する。私は寡聞にして知らないのだが、LINE の製造元が決めたことではないと思う。普通アプリ製品は、その名前の発音の仕方まで規定するとは思えないからである。日本での初期の利用者(多分若者達であろう)が慣用的に用いた発音ではないかと思う。
【注】(*)ここで、
 (')は、直前の文字のみにアクセントを付ける。
 (-)は、直前の文字以降終りまでアクセントを付ける。

 若者言葉の発音は、2文字目以降にアクセントを移動させる例が多い。正確には“アクセントの平板化”と言うらしい。たとえば、
 彼氏(かれ(-)し)、クラブ(くら(-)ぶ)・・・
などが代表的なものである。
 市川海老蔵さんが傷害事件に巻き込まれた場所は“クラブ”(くら(-)ぶ)であり、倶楽部(く(')らぶ)とは異なる。アクセントは2文字目以降になり平板に発音する。NHKのアナウンサーはこれを正確に区別して発音しているのだそうである。ご苦労なことだ。

 箸(は(')し)、端(はし('))、橋(は(-)し)のような、同音異義語に新たな分野が加わったことになる。
 ところで私は思うのだが、若者言葉に現れるアクセントの平板化は、実は“橋”の発音アクセントと共通のものではないか。つまりアクセントの平板化と言うよりも、アクセントを一切無視しているのではないかと思う。

 その発音をよく聞いてみると、
 彼氏(かれ(-)し)は、彼氏(か(-)れし)
 クラブ(くら(-)ぶ)は、クラブ(く(-)らぶ)
と発音しているように私には聞こえるのである。

 つまり、若者言葉における発音・アクセントの変化は“アクセントの平板化”ではなく“アクセントの無視”ではないかと思う。

 最後に素朴な疑問を一つ。
 LINE の利用者の80%が海外の人だすると、彼らは“LINE”をどう発音しているのだろう。英語が主言語ならば「ラ(')イン」と発音しているのではあるまいか。
 もし“ら(-)いん”と発音しているのが日本人だけだとすれば、将来の日本人は英語の“直線”を意味する“line”も同じように“ら(-)いん”と発音するようになってしまうのではなかろうか。日本人は“r”と“l”の発音を区別するのが苦手だと言われているが「アクセントまでおかしい」と言われるようになるのかもしれない。心配なことである。

2013年7月2日火曜日

“つぶやき” は誤訳ではないか?

 私は Twitter を使ったことはないが、有用なツールであることは十分に理解している。しかし“Twitter”を“つぶやく”と日本語訳したのは間違いだったのではないかと思う。

 そもそも“つぶやく”というのは、自分の思いの一端がポロっと出てしまった時に用いる表現ではないかと思う。本来、人に伝える積りではなかったものが、心ならずも外部に発せられてしまったという感じである。したがって、独り言の一種ではないかと思う。誰もが最初はそういう理解のもとで、気楽に、自由に、そして(ある意味で)無責任に、発言している積りだったのに、実はそれが世界中に聞こえてしまうような環境で発せられていた、という重大性に誰も気が付かなかった。

 多くの人に自分の思いを正確に伝えるのは難しい。ましてや、つぶやき程度では到底無理なのだ。それが、現在世の中を騒がせている政治家、官僚、あるいは一部の有名人の引き起こす舌禍(筆禍)事件の原因ではないかと思うのである。

 有名人でなくても“炎上”という懲罰を受けることがあるから、私も表現には気を付けたいと思う。誤解のないように、詳しくは「つぶやきの病理」を参照してくださいネ。

2013年6月22日土曜日

土光さんとメザシ

 今朝の新聞に「土光敏夫さんとメザシ」の話が載っていた。晩飯をメザシですます質素な生活をされていたという話は有名である。当時私も、テレビでご夫婦がメザシを食べている食卓風景を見た記憶がある。そのとき、メザシとは随分大きな魚なんだなぁ とちょっと違和感を覚えた。後年、そのときの事情に詳しい人に聞いたところでは、土光さんが普段食していたのは、本当は“メザシ”ではなく“にぼし”だったのだそうである。土光さんがにぼしを食べているのではあまりにまずい(「美味しくない」という意味ではない)ので、無理やりメザシに替えてもらったのだそうである。
 これは、人伝に聞いた話であるから真偽の程はわからない。しかしあのとき土光さんが憮然とした表情で大きなメザシを無理やりほおばっていた様子を思い出し、なるほどと合点がいったのであった。

2013年5月27日月曜日

しっぽの痛み

 私は毎日70分程のウォーキングをしている。腰部脊柱管狭窄の影響で足裏にしびれがあるので、砂利道を素足のまま歩いているような感じのウォーキングである。正直に言うと、もはや“しびれ”ではなく“痛み”と言ってもいいくらいの状態である。しかし、できるだけ痛いという事実を忘れて、自然の姿勢のまま歩くよう努めている。

 最近は、その砂利の中に“釘”が混じっているのではないかと思う程の痛みに突然襲われることがある。そういう時は少し歩幅を狭めてゆっくりと歩くけれど、基本的にはそのまま歩き続けることにしている。決して立ち止まったりはしない。そうしていると、次第に“釘”の痛みは弱まっていく。

 足を怪我している場合の痛みなら、多分私は歩き続けるのは難しいと思う。しかし脊柱管が狭くなっていて、そこを通る神経が圧迫されその刺激が脳に伝えられているだけだと考えれば少しは気が楽になる。問題は、脳がそのノイズを「痛み」の信号と錯覚しているだけのことなのだ。だから私は「これはノイズだ!」「ノイズだ!」と自分自身に言い聞かせつつ我慢して歩いているのである。
 そしてその間に、自然と「痛み」というものについて考える機会が多くなっていった。

 事故で足を失った人が、今は存在しないその足の特定の部位に「痛み」を感じるという話をよく聞く。このことは、実際に痛みを感じているのはその特定部位ではなく、脳の方で感じているのだということを明白に示している。

 人類はその昔、尾を持っていたと言われている。尾を踏まれたらさぞかし痛いことであろう。進化の過程で失われたその尾の神経の一部が、もし今の人類の身体にまだ残っているとすれば、事故で失われた部位が痛むのと同じように「尾を踏まれた痛み」を我々も体験することができるのではないか。つまり、今は存在しない部位であっても「痛さ」を通じてその存在を感じることができるのではないか、などとしょうもないことを考えながら歩いているのである。

 ところで、あなたは「しっぽの痛み」を感じたことがありますか?
 えっ? そんなの感じたことはない?
 そうでしょうね。今まで一度も尾を踏まれた経験がありませんからね。
 しかし私は子供の頃から何度も経験しているような気がするのです。
 いじめにあって、しっぽを踏まれた経験が。

 身体のどこが痛いかその部位を具体的に示せない場合、子供はとりあえず「腹が痛い」と言ってごまかします。しかし大人になると、その痛みのことを「心の痛み」と言って区別する智恵を身に付けます。しかし、あれは「しっぽの痛み」と言うべきではないでしようか。

 自分の心の痛みが分からない人は、しょせん他人の心の痛みなど理解できないと言いますからね。私もこの際一度、自分の「心の痛み」と向き合ってみようと思うのです。
 「痛っ!」 また“釘”だ!

2013年4月29日月曜日

人との出会い

 新聞を読んでいたら、45年ほど前の日本初の心臓移植の話が出ていた。

  1968年、札幌医科大学付属病院で心臓外科の和田寿郎教授により脳死状態の若者から重症の心臓弁膜症と診断された少年への心臓移植が行われた。少年は6日後に意識を回復。当時心臓外科1年目だったK氏は「覚醒状態は短く、記者を呼んでの写真撮影では、私がベッドの下で足をつねって目覚めさせた」と打ち明けている。車いすで散歩するまでに回復したが、術後83日目に死亡した、とある。

  よく知られているように、その後脳死判定がいい加減だったとか、少年は心臓移植を必要とするほど重症ではなかったとか、色々と疑問点が出てきた。そして和田教授は「栄光の医師」から一転「疑惑の医師」となってしまった。その結果「和田心臓移植」は、移植医療そのものに不信感を植え付けてしまった。

  このK氏こそ、私が米国アリゾナ州のフェニックス市に仕事で1年間滞在していたとき、家族ぐるみでお付き合いさせていただいたあのK氏である。時系列で考えると移植事件の数年後のことではないかと思う。当時日本中を騒がせた事件に関係していた方であるとは、私は全く知らなかった。どういう仕事をしているかはお互いに知ってはいたが、仕事の内容には全く触れることがなかったからである。帰国後も、私の家内は奥さん同士で毎年の賀状交換を続けてきた。

  新聞の記述によれば、K氏は心臓移植がしたくて心臓外科を志した。「移植したかった。今も一抹の未練はある」長く空白の期間が続いたことに「あれだけマスコミにたたかれてはね。ただ、心臓外科医が和田移植を『移植できない口実』にした面はある」と述べている、とのこと。

  今になって分かるのだが、当時のK氏は傷心の思いで海外の病院勤務をされていたのであろう。人生における人と人との出会いには、後年になってから初めてその意味が分かる事もある。どんなに短い出会いであろうと、人との出会いは大切にしたいものである。

2013年3月29日金曜日

桜の色の法則

【桜の色の法則】
 桜の花の色は、思い出す度にそのピンク度を増していく。

2013年3月28日木曜日

桜の花の色について

 最近の桜の花は、昔に比べて白くなっているのではないかと言う人が多い。もちろん桜にも色々な種類があるが、ここでは染井吉野に限った話である。

 その理由として、次の二つが考えられる。
(1)単なる気のせい

(2)紫外線の影響
 高齢者は紫外線を長年浴びてきたので色覚に異常が生じ、そう感じるだけ。

 成程、高齢者が派手な赤い衣服を着ていて時々違和感を感じることがあるが、本人は茶系のシックな身なりをしている積りなのだという話を以前聞いたことがある。それと同じことなのかもしれない。
 しかし若い人の中にも「白くなっている」と感じる人が多いというから、必ずしも色覚異常だけが原因とも思えない。

 もう一つある。
(3)勘違い
 これは私の感想だが、“桜”と言えば“入学式”を思い出すように、校門の前で親子の晴れ姿を写したものをよく見かける。パンフレット等に載っているそういう写真では、必ず背景に桜が入っていることが多い。“入学式”をアピールする際に使われる典型的なパターンといえよう。しかもその桜の花の色合いは桃の花かとみまごう程の強いピンク色なのである。そういう写真を長年見せられていると、誰でも桜の花の色と言えばこの強いピンク色であると頭の中に刷り込まれてしまうのではないか。

 年配者の思う桜は入学式と結びつき、ただ思い出の中にある遠い昔の桜を見ているに過ぎない。そしてその桜の花の色は、後から刷り込まれたものであろう。何しろ彼らの時代は、モノクロ写真全盛の時代であったから、当時の桜の花の色などどこにも記録されてはいないのである。

 昨夜、雨戸を閉めようとした時、庭にある満開の桜の木から白い花びらが、静かに、静かに、降り続けているのに気がついた。人けのない暗闇の中で、ただ黙々と自分の役割を果たし続けているかのように見えた。

     霏々として 桜降り積む 雪の如くに (字余り)

 しかし今思い出してみると、あれはピンク色の花びらだったような気もしてくる。勘違いであろうか。
 桜の花が、次の日曜日までもってくれると良いのだが…。

2013年3月16日土曜日

私の特製マスクとメガネ

 杉花粉の飛ぶシーズンもそろそろ山を越える頃ではないかと思う。
 最近の私は、外出に際して、リストアップしたメモを用意しておかないとつい忘れてしまいそうになるくらいに色々な準備作業が必要となっている。それを逐一紹介する積りはないが、その中でもまず特製マスクは必須のものである。

 「かぜ、花粉、ほこりを99%カットする」と称する使い捨てマスクを二重にして着用する。これにより99.99%位までカットできるのではないかと期待しているのである。
 もっとも、マスクを二重にしてもカット率は99%のままだと主張する人がいるかもしれない。最初のマスクを一度通り抜けてしまった異物は、次のマスクはそのまま100%通過してしまうという可能性もあるからだ。しかしカット率というのは、不織布から成るフィルターの繊維状部分に、異物が引っ掛かるかどうかの確率の問題と考えれば、再び99%はカットされるのではないかと私は思うのである。

 更に私は、二つのマスクの間にウェットティッシュを一枚、四つ折りにして挿入することにしている。これでカット率は更に増すのではないかと期待している。多分(超楽観的に見て)99.995%位にはなるのではないか。これで、普通の人よりはカット率の高い特製マスクをしていると(密かに)自負しながら外を歩いているのである。

 実はマスクを二重にすると更なる利点があるのだ。マスクが少しきつくなり顔面にぴったりと装着されるので、少し動いたくらいでは隙間が生じることがない。普通にマスクをしているだけの人を見ると益々気の毒になってくるのである(これ、全くの独りよがりですけどね)。

 今年は花粉症の症状がまったく出ていないから、これで効果があったのであろう。ただし眼のかゆみの方だけはどうにもならない。花粉除けのメガネを購入して外出時のみ着用しているのだが、マスクから漏れる呼気のためにガラス面が直ぐ曇ってしまって前がよく見えなくなる。結局メガネなしで歩くことになってしまう。

 ただ、ウオーキングの際だけは役に立っている。多摩川の河原に出てサイクリングコースを歩く時は虫除けになるからである。啓蟄の日以降の暖かい日で風がない日は大量の虫(何という虫かは知らぬ)が飛び交っていて、両手で追い払っても「全くの無駄」と最初から分かるくらい大量に押し寄せてくる。その中をジョガーやサイクリスト達が走り抜けて行くのである。私もその時だけはメガネを着用して何事もないような顔をして歩いている。メガネなしの人達が気の毒になるくらいのものだ。

 最近は、黄砂や PM2.5 も西の方の国から飛んでくるらしい。世間では PM2.5 で大騒ぎしているが、昔の日本の公害騒ぎの際にも飛び交っていたはずである。 PM2.5 は、煙草の煙の中にも含まれているという説もあるから、私などは長年の会社勤務の間に受動喫煙でずっと被害を受けてきたことになる。私の特製マスク程度では今更どうにもならないであろう。ただ、唯一の対策として午後“2時50分”頃のウオーキングだけは避けるようにしている。でも、これ全くの誤解ですよね。本当は午後の“2時半”ということでしょう? えっ? それも違う? こりゃまた失礼いたしました。

2013年3月1日金曜日

類似度検出プログラムの改良(V3.0)

 前に紹介した“数独問題の類似度をチェックするプログラム(V2.0)”には、いろいろ未熟な点があったので、それを改良した V3.0 を作りました。

 詳しくは、ホームページ上で紹介されています。

   ▼Perlで記述されたプログラムの全体
   ▼実行結果の例
 最後に
   ▼このプログラムで使ったアルゴリズムの説明

が掲載されています。これで検出度はかなり向上したと思います。

 この過程で、Perlと数独とはかなり相性がいいなぁと思いました。その時の感想を「プログラミングの楽しみ」としてまとめました。これも参考にして下さい。

2013年2月4日月曜日

数独の問題の類似度を調べる

 数独の問題の類似度を調べるプログラムを作って、手持ち(約3万4千個余り)のデータを入力してみたところ類似した問題は一つも発見されなかった、ということを以前この欄で紹介した。
 これは予想通りの結果ではあったが、プログラムが期待通り動作したという実感が得られず少し残念な気もした。

 そこで、類似度を確認する方法をより高度なものにしたバージョン(V2.0)を作成した。そのプログラム(ホームページ上で紹介されている)を利用すると「類似している」とみなされる問題が1件検出された。ただ、これは偶然似てしまったものと思う。と言うことは、更なるアルゴリズムの改良が必要ということであろう。下記に示すので、読者の皆さんも自分で目で確認してみてください。





2013年1月23日水曜日

数独の問題を集める

 数独問題の“初出”を確認するプログラムを作ったが、それが実用的かどうか確認するにはもっと沢山の数独問題が必要となる。そこで、あるサイトからまとめて入手することを試みた。

 毎日定期的に新しい問題が出題されているらしいので、その各画面上からデータ部分だけを抜き出してくるのである。人手で一つ一つデータを書き写していたのでは時間が掛かり過ぎて現実的ではない。そこで、あらかじめデータの構造を調べておいて、それに対応する抜き出しプログラムを作ることにした。これを動作させすべて自動的に抜き出してしまおうという魂胆である(プログラム作りのネタはいたる所にあるものだ)。その結果、時間は掛かったが、34,125個の問題を一挙に手に入れることができた。

 “初出”を確認するプログラムにこのデータを入力してみたところ、重複した問題は一つも含まれていないことが確認できた。数独作りの立場からは「期待通りの結果」ではあったが、プログラム作りの立場からは「少し残念」な気もした。複雑な心境である。
 しかし、3万4千個余りの膨大な問題データが(文字通り)あっという間に処理されて、結果が表示されたのは痛快であった。良しとしよう。

 ところで、正式に公開さているものとはいえ、このようにデータ構造を調べて(プログラムで)データの一部だけを抜き出すという行為は倫理的に許される行為なのだろうか。いささか疑問が残る。(ブラックハットの)ハッカーになって犯罪を犯しているような気持ちになってきた。検査のために使うだけにして、終了後は破棄する方が無難であろう。こんな膨大な数独問題を持っていても、到底すべてを解くことはできないのだから。

2013年1月19日土曜日

「初出」の検出(「数独の問題について」の続き)

 先に、数独の問題で 同じ問題が重複して作られないようにするためのプログラムを作った話を紹介した。私は、それをPerlというプログラム言語で記述したのだが、もっと詳しく書くとハッシュ(hash)という記憶方式を利用したのである。これは人間の脳の記憶方法を真似たもので、実に使い勝手がよい。人間の脳は“初出”(めて現したものであるかどうか)を簡単に判別できる機能を持っている。

 受験勉強の時の経験だが、意味の分からない英単語に出会うと辞書を引いて調べる。そして辞書の中でその単語を見つけた瞬間、以前調べたことのある単語であることを思い出し悔しい思いをすることが多い。それが何度も繰り返されると、かなり落ち込むことになる。そして自分の記憶力に自信がなくなってきたりする。

 しかしよく考えてみると、以前一度調べたことがあるという“事実”の方は、しっかりと記憶されるていることに気が付く。忘れているのは、その“意味”の方なのだ。人間の脳は“初出”だけはしっかりと記憶していて、脳は素早く反応してその事実を教えてくれる。我々はこの機能を自信を持って活用した方がよい。

 年寄りが同じ話を繰り返すと、それを聞いた若者の脳は素早く「初出ではない」ことを感知できるから「その話は聞いたよ!」と返すことになる。中には「3回目だよ!」などと回数まで記憶している人もいる。
 人間は齢を取るとこの機能が衰えるから、同じ話を繰り返すようになるのかと了解したとすれば、それは少し違うのではないかと思う。年寄りでも初出はしっかりと覚えている。何度も同じ話をしていると、段々と話し方がうまくなってきて、話の展開も華々しくなり場合によっては誇張されていくものである。だから初出でない(その話をしたことがある)という事実は十分に理解しているのである。年寄りが忘れてしまうのは「誰に対してその話をしたか」ということの方である。

 これからは、年寄りはブログ上などでその話を一度だけ公開すればよい。そして“初出”のマークをしっかりと付ける。そしてすべての人に話したと理解し、もう誰にも話したりしないようにする。そうすれば、誰に話したかのデータを保存したりする必要もなくなるわけだ(どうせ忘れるのだし)。
 こうすれば、若者達も、年寄りの同じ話に悩まされることはなくなるだろう。

 ねっ! この話、いい話でしょ。
 今度、誰かに話してみようかな。

2013年1月16日水曜日

数独の問題の問題点

 今まで新聞や雑誌に紹介される数独パズルの問題を解いては、それを個人的に保存してきた。その問題の数が400件近くになった。そこで、かねてから気になっていたことに挑戦してみようと考えた。

 数独の問題の組み合わせは無限にある(約54億パターン以上あると言われている)が、実際に自分で問題を作るとなるとこれが結構難しい。“難しい”という意味は、既存の問題とは異なることを確認するのが大変だからである。したがって、誰も確認などしないでそのまま発表しているのが現実なのであろう。

 そうなると、偶然に一致した問題が作られて、誰もそれに気が付かないで新しい問題だと思い込んでいる可能性も十分にあり得るのではないか。沢山の問題を集めて“問題集”を持っているなどと威張っていても、かなり重複した問題が含まれているのかもしれない。

 そこで、この約400個の問題に対して同じものが含まれていないかどうか確認するプログラムを作ってみた。以前から Perl言語を使えば簡単にできるのではないかと考えていたからである。大学の授業も区切りがついたこの時期に、挑戦してみることにした。

 その結果は、自分でも驚くほどのものであった。
 ・同じ問題が3個見つかったケース(2回)
 ・同じ問題が2個見つかったケース(3回)
つまり、12個の問題が実際は5個になってしまったのである。

 しかし私の問題集に重複登録されてしまったのは、どうやら大半は私の方に原因があるように思われる。最初の頃は個々の問題に適当に命名していたので、データベース化する時点で別のものと判断されたのかもしれない。現在は統一した命名法で出典を辿れるようにしてある。
 もう一つの原因は、「例題-1」という名称の問題だったから、以前に発表した問題を「例」として取り上げたのであろう。偶然の一致と確認できたものは、今までのところ存在していない。

 数独の問題は、異なるものをほぼ無限に作れるから重複することは滅多にないが、新たに作って公表する際は、少なくとも自分が過去に作ったものの中に同じものが含まれていないことを確認してからにすべきではないかと思う。