2015年10月22日木曜日

男の沽券

★本記事のリライト版を、ホームページ上に
男の沽券
       ── 本能とプライドの関係」

として掲載しました。(2015-11-1) 
 
   ━━━ 本能とプライドの関係

 男の“沽券に係わる話”をすることにしよう。
 こう言うと大きなテーマのように聞こえるが、なに、男性が用を足す時、小の場合は立ったままするか、便座に座ってするかの問題である。私の知る限りでは、最近は「座る派」が着実に勢力を伸ばしているのではないかと思う。しかし「立ち派」もその姿勢を崩さず、頑迷な‥‥ぃゃ頑強な(と表現しておこう)保守勢力として存在し続けているのもまた事実である。

 最近の実験結果から得られたデータによれば「立ち派」によるトイレの汚れが想像以上に酷いことが明確になってきている。しかし、その事実を知っても世の男性達の多くは「自分は今まで通り」と「立ち派」にこだわる傾向がある。「男のプライド」を守ろうとしているのだ。

 斯く言う私も「男のプライド」を守っていた時期もあったが、12年程前から「座る派」に転じている。この時期を明確に覚えている理由は、家内に難病の兆候が出始めた頃であり、それ以後私はアイロン掛けトイレ掃除とを自らやることにしたからである。

 トイレ掃除をするようになって、私はその汚れの酷さに驚いた。当時私は家内との二人暮らしだったから、汚れの原因が私にあることは明白であった。そして掃除をする者が考える自然の成り行きとして、まずは汚さないようにするのが第一だと思うようになったのである。私は結婚以来、家内からトイレの使い方について一言も注意を受けたことがない。ずっと我慢し、黙って掃除をしてくれていたのである。申し訳なくて頭の下がる思いをしている。そういう次第で、この問題が広く論じられるようになるかなり前から、私はトイレの汚れを意識し「座る派」を実践していたのである。

 「立ち派」を主張する男性を見ると、私は「男のプライド」というものを理解できるから、別段批判する気は起らない。ただ「あぁ この人は普段からトイレ掃除をしたことがない人なんだ」と思うだけである。自分で掃除をするようになれば、「立ち派」を続けることは絶対にありえないと信じるからである。

 今日も私は「座る派」を実践しつつ、つくづくと考えてみた。我々人類を造られた創造主様は、いったいどのような意図を持って我々の身体を設計されたのであろう。つまり男性が排尿する時の姿勢は「しゃがみ派」、「座り派」、「立ち派」のいずれを前提にしていたのかという点である。人類がその後、洋風の便器なるものを発明し座って用を足すようになると予想していたとは思えないから、多分「しゃがみ派」と「立ち派」のいずれかを考慮していたのではないかと思う。

 恐れ多くも創造主様は、女性は「しゃがみ派」男性は「立ち派」を前提としたと考えるのが自然であろう。私は体験的にも「座る派」はありえないと思う。実は、男は座ると尿が少し出にくくなるのである。慎み深い私めは、これ以上は詳しく書かないことにする。

 私は外出時に駅の公衆トイレなどを利用することがあるが、そういう時は躊躇することなく「立ち派」に変身してしまう。この日和見的「立ち派」としての経験と合わせ考えるとき、「立ち派」の利点は排尿時に重力をうまく利用している点にあることが分かる。尿の切れがよくなるからである。慎み深い私めは、これ以上は‥‥(分かったよ!)。

 しかし、これはあくまでも私の体験に基づく考察であるからして、説得力に欠ける所があるかもしれない。しかも他の文献類でこういう説を唱えているのを見たことがないから猶更である。しかし犬の所作を見ている人なら納得してもらえると思うが、雌犬は「しゃがみ派」であり、雄犬は必ず「片足上げ派」である。犬の創造主はしっかりと区別して設計しているのだ。そして、彼ら犬達は本能にしたがって創造主の意図を正しく理解しているように見える。
 犬の創造主と人類の創造主が同じなのかどうかは分からないが、恐れ多くも創造主様は人類もうまく設計してくださっているに違いない。

 人類にそのことを代々間違いなく伝えていくには(取説などないから)本能として身に付けさせる必要がある。その結果、男は「立ち派」ということを本能的に知っているのである。そして男たちは、それを「男のプライド」あるいは「男の沽券に係わること」と考えて重視し、その習慣を死守したがるのである。■