2011年12月17日土曜日

コンプライアンス と コーポレートガバナンス

大学の情報倫理の授業で「企業はどこまで倫理的になれるか」というテーマを取りあげた。その中で、企業の社会的責任(CSR)とは、法令を順守した経営を行い、きっちりとした意思決定システムや内部統制システムを確立している企業の経営姿勢あるいは経営戦略を意味している。これは企業の義務を超えたところにある。という意味のことを話し、以下の用語をスクリーン上に表記した。
 ・CSR
 ・コンプライアンス
 ・コーポレートガバナンス
こういった用語が新聞等にしばしば登場するから、少なくとも用語の意味くらいは理解しておいてもらいたかったからである。

そう言えば、巨人軍の元GM清武氏が記者会見で「コンプライアンス違反」という言葉を繰り返し使って読売新聞主筆の行為の不当性を訴えていたのを思い出した。あの「コンプライアンス違反」というのは妥当な表現なのだろうか。コンプライアンスとは本来「法令を守る」ことであるが、最近では、社内規則を守ることも「法令順守」に含まれるらしい。しかし私は思うのだが、あれこそ「コンプライアンス」ではなく「コーポレートガバナンス」の問題と言うべきではなかろうか。

コーポレートガバナンス(企業統治)とは、企業の意思決定や内部統制はどうあるべきかを考えることである。つまり、元GMは、正規の手順を踏んで決めた人事案が「鶴の一声」で変えられてしまうような読売グループ内の体質、つまりコーポレートガバナンスが確立されていないことを指摘したかったのではないか。「法令違反」を訴えるのではなく「企業統治が体をなしていない」という事実を公にすることが、記者会見の(実質的な)目的になっていたように思う。

もっとも、読売グループ内では、主筆の判断に異を唱えることは法に触れるのと同程度の重大な背信行為であって、当然コンプライアンス(法令順守)に属する問題とみなされているのかもしれない。何しろ、その地位を追われるだけでなく、会社を首になったのである。しかもその上に罰金として1億円の支払いを求められている。起訴されて法的に罰せられるよりも、はるかに重い罪と言えるのではないだろうか。

【注】
・CSR(Corporate Social Responsibility)
・コンプライアンス(Compliance
・コーポレートガバナンス(Corporate Governance

2011年12月2日金曜日

転ばない歩き方のコツ

最近つまずいて転びそうになることが多くなった。足を十分に持ち上げないで引きずるように前に出すのが原因なのだ。もっと腿の部分を持ち上げて、前へ振り出すようにして歩かなければいけない。このことに気が付いてからは、意識的に腿を上げて歩くよう努力するようになった。しかし、これがなかなか長続きしない。歩きながら考え事をしていると直ぐ「腿上げ」のことを忘れてしまう。

そこで、振り出した方の足を着地させる際に、意識的に踵の部分から接地させるようにしてみた。“踵着地”の方が“腿上げ”よりも意識を集中しやすいからである。しかも、踵着地を実行していると自然に腿上げができるような気がしたのである。後ろの足を力強くキックする気持ちで前方に振り出すと、更に効果的であることにも気が付いた。

ウォーキングの際は常に大股で歩くことが勧められている。私の経験では、考え事をしていても大股で歩くのを忘れることは滅多にない。始終意識していなくても“大股歩行”なら続けられそうに思えた。

以来、私の歩行習慣は、
・大股歩行
・踵着地
・後足キック
・腿上げ
を実践することとなった。

それにしても、私は生まれて来てこの方「歩き方」について、誰かから教えを受けたという記憶がない。正しい「歩き方」というものは、人生の終盤になって初めて意識的に学ぶ必要が出てくる類いのものなのかもしれない。もっとも「人生の歩き方」の方は、人生のできるだけ早い時期に考えておくべきものであろうが。
【追記】より詳しくは「歩き方について」を参照してください。

2011年11月5日土曜日

免許自転車 と 無免許自転車

 最近、歩道を歩くのが怖い。
 家の近くの幹線道路に沿う歩道には、200メートル程の区間、ひと一人通るのがやっとの狭い部分が続いている。車道とはガードレールで区切られているので安全なのだが、他の歩行者と行き違う際はお互いに身体の向きを変えてすれ違う必要がある。ところが、こんな狭い歩道にも自転車が入ってくるから驚きである。ガードレールがあるので自転車が一時的に車道へ避ける訳にもいかず、歩行者たる私の方が、端によけて自転車をやり過ごす必要が出てくる。自転車の方は、恐縮して挨拶してくれる場合もあるが、大抵は当然の権利を行使しているという表情でそのまま通り過ぎていく場合の方がはるかに多い。

 一番怖いのは、後ろから自転車が来た場合である。気が付かないでいるとベルを鳴らされたりする。場合によっては「邪魔だ」とどやされたりもする。良い年をしたオバチャンから邪魔だと言われたこともあった。私の性格では、こういう時はすぐさま対抗弁論の理論(つまり、言われたら言い返せ)を実践したくなるところだが、喧嘩になるのは明らかだから最近はできるだけ我慢するようにしている。いつまでこの我慢を続けられるか、甚だ疑問ではあるが。

 思えば、自転車が一部の歩道(「自転車通行可」と表示されたものだけ)を走れるように法規改定されたのが間違いのもとだったのではないか。それ以来、すべての歩道を走れると勘違いしている自転車(乗り)ばかりになってしまった。

 自転車で公道を走るのに特別な免許はいらない。ただ二輪車に乗るコツさえ身に付けていれば誰でも走行できることになっている。したがって交通法規を全く知らない自転車(乗り)が、歩道を突っ走ったり、赤信号を無視しての暴走を繰り返したりしている。その挙句に歩行者と接触事故を起こたりしているのである。一方では、しっかりと交通ルールを守って車道の左側を走っている自転車(乗り)も沢山いるのだ。そういう人を見かけると、私は逆に尊敬の目で見てしまうのである。

 私は思うのだが、自動車の運転免許を持っている人が自転車に乗れば、多分交通法規を守る真っ当な自転車(乗り)となるのではないか。自転車で暴走しているのは、多分自動車の運転免許を持っていない人ではないか、と私は推測している。こういう人を「無免許自転車(乗り)」と呼び、真っ当な自転車(乗り)を「免許自転車(乗り)」と呼んで区別すべきではないかと思うが、どうであろうか。

 道幅のある普通の歩道上を歩いている時も、私は後ろから無免許自転車が突然ぶつかってくるのではないかと常に恐れているのである。ホント、怖いよなぁ。

2011年10月8日土曜日

変な日本語(4) 「説明責任」

 「説明責任」という言葉がはやっている。政治家ばかりでなくTV・新聞等のメディア上でも盛んに使われている。どうやら、この言葉は敵(あるいは気に入らない相手)を攻撃する時に用いるものらしい。たとえば「説明責任をはたせ!」という形で用いるのが正しい使い方であるようだ。

 強制起訴された小沢一郎氏の裁判が行われている最中も、メディアは被告となった小沢氏に対して「説明責任をはたせ!」と攻撃したり、あるいは「説明責任をはたしていない」と非難したりしている。
 しかし考えてみると、小沢氏裁判では検察官(正確には検察官役の弁護人)と小沢氏とが一対一で対決する場であって、むしろ検察側に訴追するに足る証拠を提示ことが求められている。検察に「証拠提示責任」があると言ってもよい。小沢氏に「説明責任」を問うのは見当違いではないかと思う。しかし政治家もメディアも盛んに「説明責任」を武器に被告人を攻撃する側に加わっている。ここは黙って「証拠提示責任」がはたされるかどうか待つべきではないか、と思うがどうか。

2011年9月17日土曜日

変な日本語(3) 「檄を飛ばす」

新聞記事を読んでいたら、
輿石東幹事長は「幹事長室はすべての問題が集中して
  くる。心あわせ、力あわせができる議論をしてほしい」
  と檄を飛ばした
という文章に出くわした。また、やっている。「檄を飛ばす」を「激励する」の意味に取り違えているのだ。よくある間違いだが、新聞記者ともあろう者が、このようないい加減な国語力でいいのだろうかとあきれるばかりである。
この「・・・してほしい」という心構えを述べた程度のものは、到底「檄」とは呼べない。何か「行動を起こす」ことを求めているとも思えない。正確な意味も知らずに、気取った表現を使いたかっただけなのであろう。

2011年8月21日日曜日

変な日本語(2) 「号泣する」

 雑誌の広告などで「号泣する」という見出しをよく見かける。号泣するとは、大声をあげて泣くことであるが、本当に号泣したのか、いささか疑問に思うことが多い。雑誌の読者は、実際に泣いてる場面を見た訳ではないので、その表現が正確なのかどうか確かめようがない。

 先日、ある大臣が国会の質疑の最中に、感極まって涙を流す場面を目撃した。すると翌日、メディアはこぞってこれを「号泣した」と報道したのである。この表現は明らかに間違っている。記者の国語力に、いささか疑問を感じる毎日である。こういう間違った使い方が定着してしまって、いずれ「俗語」とか「慣用語」とかの分類で、辞書に掲載されるようになるのであろうか。

2011年7月28日木曜日

変な日本語(1) 「チガカッタ」

 先日ラジオを聞いていたら、出演者の一人が「チガカッタ」と口走った。大の大人が、である。「違っていた」と言いたかったのだろうが、まだ言葉をよく覚えていない幼い子供がよく使う表現法だ。テレビでも一度この間違った表現を使う大人を見たことがある。実に嘆かわしいことだ。幼い日本語表現しかできぬまま、大人になってしまったのであろう。
 同じような表現で「キレカッタ」というのもある。これは「切れかかった」の意味ではなく「綺麗だった」という意味で使っているのだ。こういう間違った日本語表現は、お節介かもしれないが、指摘して正してあげないといけないと思う。

2011年7月16日土曜日

床屋(についての)談義

 私は、最近はよく“1000円床屋”を利用している。高い料金を払って有名理髪店でカットしてもらうほどの立派な頭の持ち主ではないから、自分には身相応と思っている。待たされることもなく、短時間で仕上げてくれるので大変気に入っている。ヘアカットだけで洗髪はしないから時間が掛からないのだ。このタイプの床屋はアメリカでよく利用していたのを思い出す。

 アメリカの床屋での経験は、以前、素歩人徒然「床屋」に書いて紹介したことがあるが、その欄へのアクセスが非常に多いことを以前から不思議に思っていた。「床屋」というごくありふれたタイトルなのに、何故多くの人が読みに来てくれるのか、その理由が分からなかったからである。ところが、ひょんなことからその理由が分かった。「床屋」と「アメリカ」という二つのキーワードを組み合わせて使って検索すると、検索結果のリストのかなり上位にランクされる存在になっていたらしいのである。

 なぜ「床屋」と「アメリカ」の組み合わせが必要になるのか。そこで私が知ったのは次のようなことである。日本人がアメリカへ行って比較的長く滞在すると、当然の結果として男なら誰でも(もちろん、ある種の人を除いて)床屋へ行かねばならなくなる。その時、床屋へ行くにはかなりの勇気と決断を要するという事実である。その苦労話がウエッブ上に沢山掲載されていることを知った。これらは、私の経験とも合致するものばかりであった。この二つのキーワードを使って検索する人が多いという事実が、それを裏付けているとも言えるであろう。

 先の記事「床屋」には書かなかったが、ヘアカットだけで洗髪しないとどうなるか。当然、頭にはカットされた髪の毛の一部(それも、特に短いやつが)が取り残される。理容師は、これを掃除機のような機械に接続されたホースの先で「グォー グォー」ともの凄い音を立てながら吸いとって取り除いてくれるわけだ。取り除くと言っても、それほど丁寧にやってくれるわけではないから(これはアメリカの床屋の話ですぞ)どうしても取り残しが出る。それがチクチクして不快なことこの上ない状態になる。私はあまり身体を動かさないようにして急いで帰宅し、シャワーを浴びて全身から洗い落とすのを習慣としていた。それでも短い毛が下着に付いてしまうとチクチクして、もう一日中、不快な思いをして過ごすのが常であった。

 ところが、日本の1000円床屋ではそういうことがない。日本でも同じように「グォー グォー」と音を立てて吸い取ってくれるのだが、ほとんど取り残しがないのだ。あわてて帰宅してシャワーを浴びる必要などさらさらない。ありがたいことである。これぞ、素晴らしい日本の技術力の差ではないかと思う。ただし、吸いとる機械の方の技術か、カットしてくれた理容師さんの腕の方の技術か、そこのところは定かではない。
【追記】本文のリライト版【素歩人徒然】「床屋談義」も参考にしてください。

2011年6月27日月曜日

Intenet Explorer 9?

 最近、Intenet Explorer のバージョンを9にアップしたら不具合が多くて難渋している。MS社にクレームをつけても効果は期待できないから、ここで愚痴をこぼすだけの方が、まだストレス発散という効果が期待できるようだ。
●ブログに投稿しようと文面を入力し、いざ公開しようと【投稿を公開】のボタンを押しても投稿できない(反応がない)。仕方がないので Google のブラウザ「クローム」を用いて投稿している。
●略称URLのサービスとして Beam.to を利用しているがバージョン9との相性が悪くて表示が乱れる。最近 Beam.to の方も改定されているので、トラブルの原因がどちらにあるのか、皆目見当もつかない。
あ~ぁ

メディアの多様化

 電車が都心の主要な駅を通り過ぎると車内は少し空いてくる。早朝の出勤時間帯を避ければ、空いている座席を見つけるのは比較的容易なようである。私は空いている座席に座り一呼吸置いてから、新聞を取り出して読み始めることにした。
 しばらくして気が付いたのだが、乗客の中で新聞を読んでいる人がほとんどいない。大抵は、ケータイの小さな画面を食い入るように見つめていたり、ボタン操作に励んでいる人ばかりである。車内で新聞を読んでいるのが自分だけの時は、さすがに肩身の狭い思いをすることがある。時々、小型の文庫本等を読んでいる人や参考書を読んでいる学生さんを見つけると、何かほっとするのである。

 昔、毎日通勤していた頃は、電車の中では本や新聞を読んで時間を過ごすのが普通だった。読む物がなければ居眠りをしていたものだ。最近の通勤ラッシュ時の車内の様子は知らないが、多分ケータイを利用して情報入手に努めている人が多いのであろう。

 毎日通勤していた頃、私はその日の朝刊を外に持って出るようなことはしなかった。家族の者が新聞を読むからである。私はと言えば、夜帰宅してから朝刊と夕刊をまとめて読むことにしていた。かなり大変な作業である。ところが、最近は私以外の家族の者が新聞を読まないようになった。日々の出来事はテレビのニュース番組やインターネット経由で知ることができる。家族の者にとって、今まで新聞で一番の役割はテレビ欄を見ることにあったらしい。それが、地デジ化でTVがデジタル化されると、テレビの放映予定などはテレビ画面上に何時でも表示できるようになった。それを利用すれば、新聞のテレビ欄などもはや不要になったのである。かくして、新聞は私だけが読む物へと変わってきた。

 そういう訳で、週に2回の出勤時に、私めも車内でその日の新聞を読むことができるようになったのである。しかし、前述したように、もはや車内は新聞を読む場所ではなくなってしまっていた。読んでいるのが自分だけの時は確かに肩身が狭い。残念なことだ。

 最近、メディアの多様化が進み、大手の新聞もデジタル化した版を有料で公開し始めている。私はその種のものをまだ一度も利用したことがないので軽々にその是非を論ずる積りはない。しかしこれだけは言えると思う。重い情報機器端末を持たされるのだけは御免だ、と。

 今まで、大学の講義のために出勤する時は、いつもかなりの量の資料類を鞄に入れて持っていかねばならなかった。その上に、授業で使うコンピュータとして自分専用のコンピュータを持参していたのである。コンピュータの重さが身に堪えるようになると、私はコンパクトで軽いコンピュータ(大抵は高価である)を購入しなければならなかった。

 ところが、昨年から大学側でコンピュータを用意していてくれるようになったので、自分で持参する必要がなくなった。コンピュータの共用はあまり気が進まないが、重い物を持たなくてすむのだから、かなり助かっている。共用コンピュータを使う際の注意(ウイルス感染などのセキュリティ対策)さえしっかりとしていればよいのである。こうしてやっと重い荷物から解放されたばかりなのに、“メディアの多様化”の影響で再び情報機器端末を持たなければならないとすれば、確かに身に堪えることであろう。私にとって、これは情報機器端末と紙の新聞と、どちらが重いかという問題なのである。私めのような年寄りには、当分の間は、紙の新聞の方が魅力的にうつるのである。

2011年6月10日金曜日

ETを探す方法

 新聞を読んでいたら、地球外生命(ET)を探すことを目的とした米カリフォルニア州での世界最大級のプロジェクトが、資金難から活動の停止に追い込まれているというニュースを見つけた。主な財源は、連邦政府や州政府の補助金だったらしいが、事業仕分けされてしまったのであろう。今時、こんなプロジェクトがまだ生き残っていたのかと驚きの方が先に立つ。

 地球から数千光年あるいは数万光年の距離の中に知的生命体がいないとしたら、その先にいる知的生命体からたとえ反応が返ってきたとしても、それは数千年あるいは数万年後のことになる。こう考えて天文学者達は電波を発信するのをやめ、ひたすら地球外生命体からの電波を受信する立場に方針変更したのである。

 私はこの判断は妥当なものだと思う。しかし私が疑問に思うのは、もしこれが人類にとって“妥当な判断”なら、地球外の知的生命体にとっても同じように“妥当な判断”となるのではないか。

 詳しくは【続・素朴な疑問】「天文学者はなぜ電波を発信しないのだろう?」を参照してください。

2011年5月23日月曜日

古い電子機器の扱い

 先日、テレビ番組の制作企画をしている会社から私の持っているT1100(世界初のノートパソコン)を貸し出してくれないか、という問い合わせがあった。海外向けの機器だったので日本ではなかなか持っている人がいないらしい。持っていても貸し出しには応じてもらえないのだそうである。私は貸し出してもよいと思ったが、テレビ番組で電源を入れて使ってみる試みを考えているらしいのでお断りすることにした。

 古い電子機器は電源を入れても動作しないのが常識である。自分では一度も使わないで、大切に保存してあるところに意味があるのであって、電源をいれて壊されてはかなわない。いずれ、開運!なんでも鑑定団に出そうかと思っていたが、電源が入らないアンティーク品など価値がないと言われそうだからやめておく方が無難であろうか。

2011年5月20日金曜日

返事のできない学生

 最近、名前を呼ばれても返事のできない学生が多い。
 講義中に、授業を活性化させる目的で、学生に対し簡単な質問を発することがある。100名程の大人数ともなると学生の名前と顔を全員覚えている訳ではないので、出席名簿を見ながら適当に名前で指名する。しかし名前を呼んでも反応がない。出席していないのかと思いながらもう一度呼ぶと、やっと、おずおずと、手を肩の辺りにまで上げて、私ですという反応を見せる。これでやっと本人を確認できることになる。この間に声を発することはない。むしろ不思議そうな、そして少し迷惑そうな顔をしていることが多い。そこで、もう一度最初から質問をやり直さなければならない。簡単な質問だから答を得てすぐ本論に入りたいのに、予想外に時間が掛かってしまうことになる。そういう学生が増えてきているのは先刻承知していたが、今年は特に多いようである。

 目上の人から名前を呼ばれたら、すぐさま「ハイ」と応えて反応するのが常識であろう。こういう常識を家庭で親が教えていないらしい。しかも学校では、そういう学生を先生が注意しない。だから社会人になっても、そういう常識、礼儀が身についていない困った大人ができてしまうのである。その結果、大学という社会人になる直前の段階で(企業出身の私めのような先生が)教えてあげなければならない事態になってしまうのである。嘆かわしいことである。

 そこで私は、課題で提出されたレポートを名前を呼びながら個々に返却することにした。今までは一括して教員室前の返却箱に入れておけばよかったのであるが、そうすると他人の評価結果が分かってしまうし、レポートの一部が(特に、成績の良い人のものが)行方不明になったりするので問題があった。そういう背景があったので、今年から手渡しで返却することにしたのである。同時に、名前を呼ばれて返事をしない者には、個々に注意してみることにした。効果があるかどうかは分からないが。

 全員の名前をフルネームで読み上げるのも結構大変な作業である。最近は、読み方が分からない変わった名前の人が多い。自分の名前を誤って読まれると気分の悪いものであるから、私はできるだけ正確に読もうと努力する。名前だけでは男女の区別がつかないものもあるから、男性なら“君”、女性なら“さん”付けで呼び分けるのも結構難しい。先生の方も、もっと勉強しなければいけないようだ。やれやれ…。

2011年4月23日土曜日

見せたくない情報、見せる必要のない情報

 東日本大震災における被害の実情が次第に明らかになっていくにつれて、私は自分にも何かできることはないかと思うようになった。しかしボランティアをするには齢を取り過ぎているので、義援金の寄付をする程度のことしかできない自分が何とももどかしく思われる。
 被害の状況を伝えるテレビ画面を見ながら、私は現場を直接見ることもなく遠くにいてメディアを通じて得た知識だけで被災の実態が分かった様なつもりになるのだけはやめておこうと自戒している。しかし同時に、それとはまったく関係のない“どうでもよいこと”ばかり考えていたのをここに白状しなければならない。以下それについて記しておこうと思う。

・どうでもよいこと1「がれきとは」
 被災地では、大量のがれきの後始末に苦慮しているという。テレビ画面で見る被災地の様子からもその実態が分かるような気がする。ただ、私が知っている“がれき”という言葉の持つ印象とは大分様子が違うようだ。
 がれきとは瓦や小石などのことで“瓦礫”と書くべきところだが、「礫」が常用漢字に含まれないので「がれき」とひらがな表記するようになった。テレビ画面で見る“がれき”は、日本家屋の残骸から生じた木材や壁土、流された自動車、家具など雑多な生活用品で占められているように見える。燃やそうと思えば燃えるものが多い。私の想像するがれきとは、倒壊した建物のコンクリートやレンガの破片などで、燃やしても燃えない物という印象がある。

 最近は“がれき”という言葉は「捨てても構わない物」の意味で用いられているらしい。言葉の持つ意味が時代とともに変わっていくのは、それはそれで仕方のないことだが、ひらがな表示にしないで“瓦礫”という漢字表記のままだったら「割れた瓦がお互いに擦られ、砕かれて小石になった様」が想起され、決してこのように誤用されることはなかったろうと思う。
 つまり、表意文字である漢字で“瓦礫”と書かない(漢字により想起される情報が隠された)ことによって、“がれき”の解釈が柔軟に行えるようになったのである。言葉の表記法というのは実に難しいものである。

・どうでもよいこと2「被害の実態」
 被災地の状況を報せるテレビ画面を見ているうちに、私は実際の状況とは少し違うのではないかと疑問を持つようになった。それは「画面があまりにも整い過ぎている」からである。誤解されることを恐れずにあえて書けば、少し「美し過ぎる」と感じたのである。実際は、もっともっと過酷な状況にあるのではないか。
 先ず、被災者の遺体が発見される場面や、収容される場面が皆無である点だ。たまに生存者が発見される場面(滅多にないが)は放映されるのに、遺体の収容される場面がないので何となく死傷者のいない、しかしそれでいて激しく損壊された災害現場を見ているという印象を与えている。

 実際は、想像を絶する程の過酷な現場なのであろう。そういう過酷な映像は注意深くカットされて“きれいに修正された”場面ばかりが放映されているように思える。
 これを情報隠蔽と言ったら言い過ぎであろう。一般の視聴者に見せるのは望ましくない悲惨な場面もあろう。子供が見たら心に傷を残すような場面もあるであろう。そういう場面はカットするのが普通の判断である。しかし我々大人の視聴者は、画面には出てこないけれど、そういう過酷な現場が存在したことを理解しなければならないと思う。

 つまり、我々の周りには、見せたくない情報、あるいはあえて見せる必要のない情報が溢れている。それらを無分別に公開したら、ウイキリークスの例をあげるまでもなくいろいろと支障が出てくるのは明らかである。しかしどれを公開しどれを非公開にするか、つまり公開の是非を判断するのは大変に難しい。災害現場に限らず、我々の周りには常に、見せてよい情報と見せる必要のない(あるいは、見せない方がよい)情報とがあることを理解すべきである。

 プログラミングの世界ではこれを“情報隠蔽”(information hiding)と言うが、隠蔽と言うと何か悪いことをしているようで気にする人もいるから、ここでは“情報を隠す”と表現しておこう。たとえば、Cプログラムの世界では、

    #include  <stdio.h>

のようにインクルードファイルを指定して(*)、その記述が必須ではあるが初心者は知らなくてもよい情報は別の場所に置いて見えないようにする。つまり、一般の人には見せる必要のないものとして隠してしまい、プログラムを単純にして問題の核心に迫れるようにする。こうやってプログラムを分かりやすく、美しく見せる手段が用意されているのである。
  【注】(*)
   C++ の世界では、
     #include  <iostream>
     using namespace std;
   のように指定する。

 初心者プログラマは、その存在を知らなくても構わないがある程度のプログラミング能力を備えてきたら、当然そういうものの存在を理解し、その内容にも関心を向けるべきであろう。
 これと同じように、我々は大震災の被害状況を伝える(美しく仕上げられた)テレビ画面を見せられても、その裏に隠された被害の実情を正しく読みとる能力を持てるようになりたいものである。
【追記】本文のリライト版【素歩人徒然】「情報を隠す」も参考にしてください。

2011年3月13日日曜日

ウェッブデータの後始末

 家内が入院して一か月以上になる。手術を受けて何とか危機を乗り越えてくれたようである。手術後の二日目、病室を見舞うとかなり元気になっていて安心したのだが、その瞬間に大地震に襲われた。東日本大震災の始まった瞬間である。

 直ぐに看護師が病室に走り込んで来て、酸素マスクを取り出し必要なときには何時でも装着できるような体勢を取った。しっかりと訓練されているようで心強い。私は壁に寄りかかって自らの身体を支えつつ看護師と一緒に揺れるベッドを押さえていた。看護師は、この病院の建物は耐震設計になっているから大丈夫ですと言ってくれたが、それでも長い時間、不安な思いで激しい揺れに身を任せるしかなかった。

 最近、身辺整理のことが頭を離れないでいる。家族の病気に直面し自分自身も何時病院のお世話になるか分からない身である。病気ばかりでなく、こういった大地震のような災害や交通事故に遭遇し、突然この世におさらばしなければならないことになるかもしれない。私に、もしものことがあれば、多分残された者たち(家族、親族)が何とか事後の整理をしてくれるであろう。しかし私が個人的にインターネット上に構築してきたデータの後始末までは期待できない。かねてから、私はウェッブ上のデータの後始末について、いずれ考えなければいけないテーマだと思っていたのである。東日本大震災に直面したこの機会に、私は本気で考えてみようと思ったのである。

 たとえばホームページが、ある一定期間更新されない状態になると、その旨自動的に表記されるようにしてはどうか。長年、私のホームページ上のエッセイを愛読してくださった見知らぬ多くの方々に、更新できなくなった理由をちゃんと説明しておきたいのである。それができれば、思い残すことが少しは少なくなるであろう。そういう注意を喚起する方式を、HTMLファイル上で考えてみよう。高価なアプリケーションプログラム等を購入しなくても、そのようなプログラムは簡単に作れそうな気がしたのである。何しろ、私めは「昔プログラマ」であることを誇りにしているのだから。

 たとえば、1か月間更新されないと、次のように表示する。
 最後に更新されて以来 1か月以上が経過しています。

【注意】
 おそらく、このホームページの著者のアイデァが枯渇してきたためではないかと思います。少し時間的な余裕を与えてあげて、静観するのがよいと思います。アイデァの衰えが回復してきた頃に、また機会があれば訪問してください。

じゃ また / See you.

 6か月以上更新されないと、次のように表示する。
 最後に更新されて以来 6か月以上経過してしまいました。

【お詫び】
 このホームページの著者が怠けている可能性が濃厚です。でも、善意に考えてあげましょう。もしかすると病気で入院中なのかもしれません。入院中で、容易にはインターネットアクセスができない状態なのかもしれません。あるいはアイデァが尽きたのではなく、寿命が尽きつつあるのかもしれません。少し時間をおいて、また訪問してみてください。

じゃ また / See you again.

 更に、1年間以上更新されないと、次のように表示する。
 最後に更新されて以来 もう1年以上経過しています。

【警告】
 このホームページの著者は、もしかすると亡くなっているかもしれません。その場合、このホームページは以後更新されることはありません。閉鎖されることもあり得ます。早めに、書斎内を詳細に見学しておくことをお勧めいたします。
 そろそろ私め(プログラム)も覚悟を決めておく必要がありそうです。実に残念なことであります。

では では / Bye.

 更に、数年間以上更新されないと、次のように表示する。
 最後に更新されて以来 とうとう2年近くが経過してしまいました。

【お礼と報告】
 これはかなり深刻な事態です。おそらく、このホームページの著者の寿命が尽きたものと思われます。生前の著者に対するご厚情に対し、著者に代わり私め(プログラム)からも厚く御礼申し上げます。

 なお、香典を送りたい方は、

 ○○銀行○○支店 普通預金口座 番号 XXXXX

へお振り込みいただければ幸いです。

 ただし、万一、この判断が間違っていた場合(何しろプログラムが判断したことですから充分にあり得ます)送金された香典は返却いたしません。その場合は同額をタイガーマスク(伊達直人)名義で児童養護施設に寄付させて頂きますので、ご容赦いただきたいと思います。

さようなら / Good bye.

 これらを表示するためのアルゴリズム(手順)は、私めのホームページ上に(2011年4月1日付で!!)公開する予定である。関心のある方は利用してみてください。ただし、間違いがあって早々に香典が届いたりしても私めは一切責任は負えませんので自己責任で試みてください。
【追記】本文のリライト版【素歩人徒然】「身辺整理」も参考にしてください。上記のアルゴリズムが紹介されています。

2011年2月18日金曜日

ごみの分別

 私めの住んでいる地区では、普通ごみの収集日は月曜、水曜、金曜の週3日である。その日の朝になると、抜かりなくごみ箱を通りの所定の場所に出しておかなければならない。収集車の音を聞いてから慌てて出しに行く(時々ある)という醜態は演じたくないからである。

 以前はどんなごみでも構わず出せたのだが、最近は資源ごみの再利用をしやすいよう出す側であらかじめ分別することが求められている。普通ごみ以外の物はまた別の日に出さねばならない。そのルールをよく覚えていないと回収されずに路上にそのまま残されることになる。間違って出し回収されなかった物を自分の家に持ち帰るのは実に惨めなものである。

 普通ごみ以外の物としては、
・資源物
 (空き缶、ペットボトル、空きびん、使用済み乾電池など)
・小物金属
 (30センチ未満の金属製品、かさ、針金ハンガーなど)
・粗大ごみ
 (30センチ以上の金属製品、50センチ以上の家具類など)
などで、それぞれ収集日が決められている。粗大ごみは有料である。

 回収の対象とされない物もある。
・処理が困難な物
 (重い物、長い物、処理作業に危害を及ぼす物、有害物質)
・ボタン式電池・充電式電池
・在宅医療廃棄物
・パソコン
・自動二輪車
・家電4品
 (エアコン、テレビ、冷蔵庫・冷凍庫、洗濯機)
・携帯電話

 これらは購入店あるいはメーカーに依頼する必要がある。あえて捨てると不法投棄という犯罪行為とみなされる。

 このような細かいルールをよく覚えていないと恥をかくことになる。以前の、何でも自由に出せた頃が懐かしい。

 さて、これからが本論である。
 コンピュータの世界でも、我々は「ごみを捨てる」という行為を毎日繰り返している。時には、一度捨てた物をごみ箱の中を漁って探し出し、再び取り戻してきたりしている。誰も見ていないとはいえ、いや、浅ましき行為と言うべきであろう。
 男は、一度捨てた物は(たとえ、それがお金であっても)決して拾ったりはしないものだ。とは言え、やはり大切なものは拾って元に戻す方がいいに決まっている。どうせ誰も見ていないのだから。

 私は、システムがそなえている通常の“ごみ箱”とは別に、圧縮型のごみ箱を自作して用いている。ここに捨てるのは主にメール類である。毎日多量の迷惑メールが届くので、それを一括してこの“圧縮ごみ箱”に廃棄する。しかし本来受け取るべきメールが、誤って迷惑メールとみなされてしまうこともあるので、安全のために圧縮ごみ箱の中身は1か月間くらいは保管しておく必要がある。

 迷惑メールの中には、当然ウイルスメールも含まれているから、自分は廃棄した積りでいてもウイルス検索プログラムによってそれが検出されてしまうことがある。捨てた物に対して「ウイルス発見!」と大声で騒ぎたてられるのは困ったことである。そこで私は、迷惑メールを圧縮ごみ箱の中で圧縮してから保存することにしたのである。しかし最近のウイルス検索プログラムは、お節介にも圧縮ファイルの中までチェックしてくれる。大きなお世話と言うべきであろう。更に、最新の Windows 7 システムは圧縮ファイルの中まで(エクスプローラ上で)見えるようにしてくれる。しかも解凍しなくても、その中のファイルを読み出せるようになっている。これも大きなお世話である。

 最近、私が教えている学生から課題に関するメールが、迷惑メールとして扱われ圧縮ごみ箱に捨てられるということが起こった。指定のアドレスを用いて規則通りに送れば決してそのような間違いは起こらないようになっているのだが、学生が規則に従わずウェッブアドレスを用いて、しかも締切後に送ってきたため見逃してしまったのである。ルール違反だから放っておいてもよかったのだが、そこは武士の情け、圧縮ごみ箱の中を捜してあげることにした。しかしこれが予想外に大変な作業であった。課題メールの発信日が正確には分からない上に、迷惑メールの中には発信日時を偽っているものがあるので時系列にそって捜すことができない。しかも1つのメールが1つのファイルとして構成されているので、検索作業も容易ではなかったからである。

 この時の経験から、私はコンピュータの世界で物を捨てる場合も“分別してから捨てる”ようにすべきではないかと思うようになった。
 その日の迷惑メールをすべてまとめて束ね、その年月日を名前とする圧縮ファイルの“束”を作る。そしてその束を圧縮ごみ箱に放り込んで、更にもう一度全体を圧縮するのである。二度圧縮すると、さすがのウイルス検索プログラムも、Windows システムも手が出せないようである。呵々。
 こうしておくと、ごみ箱を漁る必要に迫られても、束の名前から日付(これは Windows 7 下で見える)が分かるから、迷惑メールの束の候補を2~3束見つけ出して、その中身を調べれば済むことになる。
 これからは、ごみ箱の中身すべてをひっくり返して“ごみにまみれて”捜すというような、浅ましい行為はしなくて済むであろう。

【追記】本文のリライト版【素歩人徒然】「ごみの分別」も参考にしてください。

2011年1月20日木曜日

住所について

 今年も、年賀状交換という日本独特の習慣を通じて、お互いの安否を確認し合うという行事が滞りなく完了したようである。例年と違い、私は喪中の人にも“寒中お見舞い”の形ではがきを出すことにした。実は昨年末、市の方針により私の住んでいる地区の住居表記が変更されたので、それを連絡する必要があったからである。

 今までは町の名称に続けて“地番”として高々4桁くらいまでの数字を書くだけでよかった。しかしそれでは、特定の家を一意に識別するのが困難になってきたのであろう。新しい方式では町名の後に、例えば“3-15-19”のように数字を区切って書き連ねる形式になった。正確には“丁目1519号”のように書くべきところだが、それを略記したものである。これは町を“丁目”で区分けして、その中のブロックごとに“番”に当たる数字を割り振り、その中の個々の家に番号を振って“号”として表記している訳である。手紙等であて先を書くときは、
 3-15-19
あるいは
 3の15の19
等と書かなければならないことになる。更にマンション等の集合住宅では“棟”番号や“階数と部屋”を示す番号(普通は3桁程度)が必要になる。したがって、
 3-15-19-4-302
というような長い表記になってしまうこともある。

 コンピュータ・プログラミングの世界では、物に名前を付ける時はその内容が分かるよう表意文字を用いることが推奨されている。単に数字による番号付けで物を区別するのは最も拙劣な命名法とされているのである。それぞれの地域の特徴ある街区の名称が失われ、このように番号化されていくのは(プログラミングの立場からも)実に残念なことである。昔プログラマの無念の想いを込めて、住居表示の変更通知を兼ねた賀状には、次のような法則を書いておいた。

 【変更通知の法則】
  ・どんな変更も、最初は「たいした影響はない」
   ように見える。
  ・したがって、変更を通知しても誰もそのことに
   関心を払わない。
  ・変更にともなうトラブルが発生すると、初めて
   問題の重要性が理解される。
  ゆえに、変更を伝えるのは無駄である。


 さて、本論に戻ろう。
 縦書きを原則とする日本では、はがきや封筒に相手先住所を書くとき、数字だけは横書きにしなければならないので不便を感じることが多い。漢数字を用いて縦書きにするという手もあるが“11”を“一”“一”と縦に書くと“二”と読み違えられる可能性もあるのでやっかいである。今までは「不便だなぁ」と思いながら相手の住所を書いていたが、これからは自分の住所もそういう書きにくい表記になってしまったことになる。

 今回の住居表記の変更にともない、私の本籍も変わってしまった。以前は愛知県に本籍があったのだが、書類作りで何かと不便なので数年前現在の住所に移したのである。その後は現住所と本籍が一致しているので、手続き的にはかなり楽になった。しかし今回分かったことは、住居表記の変更により現住所と本籍が異なる以前の状況に戻ってしまったことである。その理由は、本籍というのは特定の家に結びつくものではなく、土地に結びついているものだからである。特定の家に結びつけるための“号”を含む住所表記には馴染まないことになる。昔、愛知県にあった本籍地も、気が付いたら交差点の真ん中になっていたということも起こり得るのである。この結果、私は新しい現住所と本籍の住所とをそれぞれ覚えなければならないことに相成った。

 我々は、日頃様々な住所表記を使い分けている。したがって、これしきの事で驚いてはいけないのであろう。たとえば、本籍はその土地と結びついたものであるが、これを使う必要があるのは公的書類の作成などで記入を求められる場合くらいのものであろう。
 一方、現住所は今住んでいる場所に結びついているものであるから、これが普通は一番使われる頻度が高い。住んでいなくても別荘や妾宅を所有している人なら、更に住所が必要となる(妾宅とは表現が古いなぁ)。

 一方、電子住所というものもある。これは土地や家ではなく、個人に結びついた住所であると思えばよい。携帯可能な電子住所は24時間どこからでも連絡が取れる住所と言える。本籍や現住所よりも、これからは電子住所の方がはるかに使用頻度の高いものになっていくであろう。しかも、誰でも(別荘や妾宅とは縁のない人でも)複数の電子住所を持つことが許される。うれしいではないか。
 こうなると“住む所”という意味の“住所”という表記は、実態にそぐわなくなってきているように思う。我々はこれを単に“アドレス”とか“メールアドレス(メアド)”と呼んでいるが、この曖昧な表現の方が無難なのかもしれない。■
【追記】本文のリライト版【素歩人徒然】「住所」も参考にしてください。