2015年12月21日月曜日

続々・素朴な疑問 批判的に読む

 電車に乗っていて考えた。最近、電車の中で本や新聞を読んでいる人がめっきり少なくなった。スマホを利用する人が増えたからであろう。
 そんな中で、私一人は頑なに電子書籍ならぬ普通の本や新聞を読んでいるのである。こういう古くからのスタイルは車内では目立つようになり、その内に勇気を必要とする行為となっていくのだろう。

 ところで、日本の書物はほとんど縦書きが主流であるから、当然のことながら私めは顔を上下に動かしつつ(頷きながら)書物を読んでいる。以前「縦書き・横書き論」で述べたことだが、これが日本人が書物を批判的に読めない原因となっているのではないかと思う。本来、読書の姿勢としては批判的に(首を横に振りながら)読むことが大切なのだが、日本人は読んだものを何でも肯定的に(頷きながら)受け入れてしまう傾向がある。どんな書物であっても常に批判的な姿勢で読むべきであろう。

 先に触れたように、最近の若者たちはスマホを利用しているから、多分縦書きより横書きのものを読む機会の方が遥かに多いに違いない。したがって、これからは批判的に読む習慣が自然と身に付いた若者たちが増えていくことであろう。しかし残念ながら彼らは書物というものを読まないという。優秀な編集者によってしっかりと査読された後に出版される(信頼のおける)書物ではなく、ネット上の(怪しげな情報を含む)横書き情報ばかりを読んでいるのではあるまいか(あっ、そう言えばこれも横書きだな)。

 もしそうだとすれば、何事によらずネット上で他人を批判することに長けた人が増えている問題の原因は実はそこにあるのではないかと思う。スマホの利用が原因で批判的に(首を横に振りながら)思考する人が増えてきたのだとすれば、これは一大事である。スマホ利用の弊害の一つとも言えるのではないか。
 情報は批判的に読むべきか、あるいは肯定的に読むべきか、どちらがいいのだろう。分からないなぁ・・・。■
















(これは、ジョークですから真面目に反論しないでくださいね。)

2015年11月26日木曜日

続々・素朴な疑問 テロとカミカゼの違い

 欧米では、テロのことを“kamikaze”と呼んでいるらしい。一部のメディアでは、カミカゼは自爆テロやテロリストを表現する言葉として使われている。どうやら自殺攻撃(suicide attack:スーサイドアタック)のことを“kamikaze”と総称しているように思われる。

 これを伝え聞いた日本のメディア関係者は「特攻隊はテロリストとは違う」と主張している。私も最初はそう思った。しかしよく考えてみると、少し似ているところもあるなぁ~。いや、著しく似ていると言ってもよいくらいだ。

 逆に、カミカゼとテロリストとは一体どこが違うのだろう。分からないなぁ。


【テロリストと特攻隊員の違い】
●美化について
▼テロリストは「神は偉大なり」と叫びつつ銃を乱射したり自爆したりする。特攻隊員も「天皇陛下万歳」と叫びつつ敵陣に突っ込んで行き自爆する。
▼いずれも、若者たちを引き込んで誤った教育で洗脳し「お国のために(あるいは大義のために)」と信じ込ませる。若者たちは自分というものを見失ったまま死んでいく。
▼死者ともなれば「国(あるいは特定の集団)のために尊い犠牲となられた」とか「英霊」あるいは「幸せな來世がある」と言って美化し、更なる愛国者を募るのに利用する。
▼それをけしかけた者たちは、必ず後方の安全地域に居て生き残り、彼らの行為を美化し続ける。
▼この美化が、他の国(あるいは集団)からは決して理解されない。
(例えば、我々が、イスラム過激派がテロの成果を賛美するのを理解できないのと同様に、他国は、日本の指導者が靖国参拝するのを理解できないであろう。お互いに逆の立場に立って考えれば明らかである)
▼残された遺族も美化されるが、遺族がそれを喜んでいるかどうか、その本心は分からない。

●戦う相手の違い
▼イスラム過激派とは、イスラム教という宗教の名を借りて過激な行動を取る集団である。
▼特攻隊を操った集団も、その実態は日本の一部過激派集団と考えられる。
▼したがって、攻撃相手が国か特定の集団かの差はあまりない。
▼攻撃する相手が一般市民か軍隊かの差はあるが、同じ人間の死という点では同じである。
▼最近、日本の「一部過激派集団」の活動が目立つようになってきた。困ったものである。匿名で難癖を付けてくる者が居たら、それは過激派集団の一味である可能性が高い。気を付けよう。


 いろいろ考えてみたが、やっぱり分からないなぁ~。
私も、過激派集団に難癖を付けられないよう、この位にしておこう。■

2015年11月24日火曜日

続々・素朴な疑問 “W杯”

 世の中の人は“W杯”と書いて「ワールドカップ」と読んでいるらしい。私は頑固だからそうは読めず、常に「ダブリュウはい」と読むことにしている。このことは13年程前に「続・素朴な疑問(21)」“人はなぜ“W杯”を「ワールドカップ」と読めるのだろう”に書いた通りである。

  齢を重ねて私もだいぶ性格が丸くなったためであろうか、最近はこの単語に出会うと「俺も頑固よのぅ~」と心の中でつぶやきながら、やはり今でも「ダブリュウはい」と読み続けているのである。しかるに、今日の新聞を読んでいたら以下のような記事に遭遇した。

 そうです“W杯”の杯(はい)にふりがなが付いているのを発見したのである。安心してください、“はい”とありますよ。
 これを書いた新聞記者はしっかりと「ダブリュウはい」と読んでもらう積りで書いている。それにも関わらず、世の中の人はどうして「ダブリュウはい」と素直に読めないのだろう。分からないなぁ‥‥。

2015年11月18日水曜日

私のコンピュータ遍歴

      ━━ 表示方法への工夫

 以前から、自分がこれまで使ったことのあるコンピュータ類をすべて洗い出しリストアップしてみたいと思っていた。過去のコンピュータの“終活”である。

 コンピュータ(電子計算機と呼んでいた時代もあった)の名称を思い出してはメモに書き止めていたのだが、次第にその写真も集めるようになった。しかしこれがなかなか難しい。インターネット上で探しても期待したようなものが見つからないことが多かった。記憶力の低下もあって名称を正確に思い出せないものもある。

 そうやって何度も挫折しては、またしばらく時間を置いて再び挑戦するということを繰り返してきた。最初にメモを作った時のファイルのタイムスタンプを確認すると「2007-7-29 18:23」となっいるから8年以上経ってしまったことになる。その結果、折角手に入れた写真の出典も曖昧になりつつある。

 うまくまとめられない原因はどこにあるのだろう、と私は考えてみた。
 そもそも、何のためにまとめようとしているのか。それは成果が得られたら自分のホームページ上に掲載したかったのである。それなら「どのように見せるか」の方から考えた方が良いかもしれない。

 見せたいと思っても、他人のコンピュータ遍歴に関心を持つ人はそう多くはあるまい。しかし昔の仕事仲間の同僚たちが見てくれたら、間違いなく関心を持ってくれるであろう。更に表示方法を工夫すれば“もの好きな人”が現れて、少しは関心を持ってくれるかもしれないと考えたのである。

 思うに情報というものは、ただネット上に並べただけでは見てもらえない。その量が大きくなればなるほど、逆に先を読み進もうとする意欲が減退してくるものである。
 私は、博物館や美術館を見てまわっているときの経験で、膨大な展示品をただ順繰りに見てまわっているだけだと、自分が今全体のどの辺りを見ているのかが分からなくなり、そのうちに疲れ果ててしまうことがある。後どのくらいのエネルギーを残しておけばよいのか。目の前の展示品に関心が向かなくなると、ただそれだけで疲れてしまうのである。もしトップダウンに全体を見渡すことができれば、特に関心のある部分だけを集中して見ることもできるはずである。そういった不満を何時も抱えていたので、この機会に何とかその問題に取り組んで、何らかの解決策を見つけたいと思ったのである。

 そこで私は、以前ホームページのサイトマップを作製した時に用いた技術をここで活用し、表示方法を工夫してみようと思い立った。
 このような経緯で表示方法の枠組みが出来あがると、作業は驚くほど急速に進捗するようになった。盛り込みたいコンピュータの種類も増え、忘れていたコンピュータの名称も何故か急に思い出したりするようになった。登録した各コンピュータには自分の“思い出”も書き添えることにしよう。計算するための道具(計算器と呼ぶべきもの)も盛り込んでしまおう、‥‥という具合に色々なアイディアも浮かんできた。

 その結果出来あがったのが「私が使用したことのあるコンピュータの一覧私のコンピュータ遍歴(my Computer Career)である。もちろんこれで完成ではない。これからも新しいコンピュータが登場するかもしれない。忘れていたコンピュータを思い出し、突然登録したくなるかもしれない。個々のコンピュータには“コメント”を書き込む欄が用意されているので、個々のコンピュータに関して思い出したことがあれば、それを少しずつ時間をかけて書き込んでいこうと思う。まだまだ内容が更新される予定なので、更新履歴が分かるように“バージョン番号”を付すことにした。興味のある方は、是非一度見学に訪れるよう期待しています。もちろん入場無料です。■

2015年10月22日木曜日

男の沽券

★本記事のリライト版を、ホームページ上に
男の沽券
       ── 本能とプライドの関係」

として掲載しました。(2015-11-1) 
 
   ━━━ 本能とプライドの関係

 男の“沽券に係わる話”をすることにしよう。
 こう言うと大きなテーマのように聞こえるが、なに、男性が用を足す時、小の場合は立ったままするか、便座に座ってするかの問題である。私の知る限りでは、最近は「座る派」が着実に勢力を伸ばしているのではないかと思う。しかし「立ち派」もその姿勢を崩さず、頑迷な‥‥ぃゃ頑強な(と表現しておこう)保守勢力として存在し続けているのもまた事実である。

 最近の実験結果から得られたデータによれば「立ち派」によるトイレの汚れが想像以上に酷いことが明確になってきている。しかし、その事実を知っても世の男性達の多くは「自分は今まで通り」と「立ち派」にこだわる傾向がある。「男のプライド」を守ろうとしているのだ。

 斯く言う私も「男のプライド」を守っていた時期もあったが、12年程前から「座る派」に転じている。この時期を明確に覚えている理由は、家内に難病の兆候が出始めた頃であり、それ以後私はアイロン掛けトイレ掃除とを自らやることにしたからである。

 トイレ掃除をするようになって、私はその汚れの酷さに驚いた。当時私は家内との二人暮らしだったから、汚れの原因が私にあることは明白であった。そして掃除をする者が考える自然の成り行きとして、まずは汚さないようにするのが第一だと思うようになったのである。私は結婚以来、家内からトイレの使い方について一言も注意を受けたことがない。ずっと我慢し、黙って掃除をしてくれていたのである。申し訳なくて頭の下がる思いをしている。そういう次第で、この問題が広く論じられるようになるかなり前から、私はトイレの汚れを意識し「座る派」を実践していたのである。

 「立ち派」を主張する男性を見ると、私は「男のプライド」というものを理解できるから、別段批判する気は起らない。ただ「あぁ この人は普段からトイレ掃除をしたことがない人なんだ」と思うだけである。自分で掃除をするようになれば、「立ち派」を続けることは絶対にありえないと信じるからである。

 今日も私は「座る派」を実践しつつ、つくづくと考えてみた。我々人類を造られた創造主様は、いったいどのような意図を持って我々の身体を設計されたのであろう。つまり男性が排尿する時の姿勢は「しゃがみ派」、「座り派」、「立ち派」のいずれを前提にしていたのかという点である。人類がその後、洋風の便器なるものを発明し座って用を足すようになると予想していたとは思えないから、多分「しゃがみ派」と「立ち派」のいずれかを考慮していたのではないかと思う。

 恐れ多くも創造主様は、女性は「しゃがみ派」男性は「立ち派」を前提としたと考えるのが自然であろう。私は体験的にも「座る派」はありえないと思う。実は、男は座ると尿が少し出にくくなるのである。慎み深い私めは、これ以上は詳しく書かないことにする。

 私は外出時に駅の公衆トイレなどを利用することがあるが、そういう時は躊躇することなく「立ち派」に変身してしまう。この日和見的「立ち派」としての経験と合わせ考えるとき、「立ち派」の利点は排尿時に重力をうまく利用している点にあることが分かる。尿の切れがよくなるからである。慎み深い私めは、これ以上は‥‥(分かったよ!)。

 しかし、これはあくまでも私の体験に基づく考察であるからして、説得力に欠ける所があるかもしれない。しかも他の文献類でこういう説を唱えているのを見たことがないから猶更である。しかし犬の所作を見ている人なら納得してもらえると思うが、雌犬は「しゃがみ派」であり、雄犬は必ず「片足上げ派」である。犬の創造主はしっかりと区別して設計しているのだ。そして、彼ら犬達は本能にしたがって創造主の意図を正しく理解しているように見える。
 犬の創造主と人類の創造主が同じなのかどうかは分からないが、恐れ多くも創造主様は人類もうまく設計してくださっているに違いない。

 人類にそのことを代々間違いなく伝えていくには(取説などないから)本能として身に付けさせる必要がある。その結果、男は「立ち派」ということを本能的に知っているのである。そして男たちは、それを「男のプライド」あるいは「男の沽券に係わること」と考えて重視し、その習慣を死守したがるのである。■

2015年9月23日水曜日

しっぽの痛み

★本記事のリライト版を、ホームページ上に
しっぽの痛み
       ── しっぽを踏まれたことがあるか?」

として掲載しました。(2015-10-1)

 多摩川沿いにウオーキングをしながら“痛み”について考えている。
 事故等で足を失った人が、もはや存在しない足の特定の部位に痛みを感じるという話を聞いたことがある。これは実際に痛みを感じるのはその部位ではなく脳の方であることを示している。

 人類はその昔尾を持っていたと言われているが、もし現在でも尾があってそれを誰かに踏まれたりしたら、さぞかし痛いことであろう。進化の過程で失われた尾の神経の一部が今の人類の身体にまだ残っているとすれば、事故で失われた部位が痛むのと同じように「尾を踏まれた痛み」を我々は体験できるのではないか、などと“しょうもない”ことを考えながら、私は多摩川のサイクリングロードを歩き続けている。

 我々は誰しもしっぽを踏まれた経験はない。しかし今思い返してみると、私は子供の頃いじめを受ける度に何度もそれを経験していたのではないかと思うようになった。私はいじめられっ子ではなかったが、それでも子供の頃身辺にはいじめはいくらでも存在した。

 いじめを受けたとき、それが物理的な暴力によるものなら打たれたところが痛むものである。しかし言葉によるいじめではそういう痛みはない。しかし“言葉による暴力”という表現があるくらいだから、本当にこたえるのはそういう陰湿ないじめの方ではないかと思う。いじめられた本人は傷つき身体のどこかに痛みを感じているはずなのだ。しかし子供はそれを表現できない。大人になるとその種の痛みのことを心の痛みと呼んで区別する智恵を身に付けるが、子供にはまだそれができないのだ。

 とりあえず身体の不調を訴えて自分の殻の中に閉じこもろうとする。痛い部位を具体的に示せないから、子供はとりあえず「オナカが痛い」と言ってごまかそうとする。よく知られているように、いじめに合っていることを示す最初のシグナルがこれである。しかし本当にお腹が痛いのかもしれないからその区別は難しい。「しっぽの痛み」と呼んで明確に区別してくれると助かるのだが。

 いじめ問題が起こる度に、私は子供達に「そういうときは“シッポが痛い”と言うんだよ」と教えてあげたい。そうすれば、子供達はもっと具体的に痛みの原因を訴えやすくなるのではなかろうか。

 自分の心の痛みが分からない人は、しょせん他人の心の痛みなど理解できないと言われている。だから私もこの際もう一度、自分の心の痛み… いやしっぽの痛みと向き合ってみようと思う。■

2015年9月21日月曜日

続々・素朴な疑問:三権分立も理解していない?

 今の政府は立憲主義を理解(*1)していないらしいから、もしかしたら三権分立も理解していないかもしれない。
【注】(*1)理解について:物事を「知っている」あるいは「分かっている」積りでも、それを自分が実践する立場になったときその通りにできない人がいる。それは、本当には“分かっていない”、“理解していない”ということである。
 そうなると安保法制に対する違憲審査請求をしたとしても、担当する裁判官に対して政府は密かに圧力(*2)をかけるんじゃないかなぁ。そうなったら国民はどう対応したらよいのか。分からないなぁ‥‥。
【注】(*2)砂川判決では、今頃になって新たな事実が次々と判明している。

2015年9月16日水曜日

続々・素朴な疑問:ストリーミング再生

   ------ 聴き放題でよいのか

 最近、定額制の音楽配信サービスが注目されている。音楽を聴いて楽しむには、これまでは音声を記録したCDを直接購入するか、あるいはネット上からファイルをダウンロードし、パソコンやスマホ等に保存してから再生するのが主流であった。これをオフライン再生と呼ぶ。

 この新サービスでは、ネット上に置かれた音声データを逐次ダウンロードしながら、同時に再生させていく方式を取る。これをストリーミング再生と呼んでいる。

 月額で千円程度を払えば(定額制)、何曲でも自由に聴くことができるらしい。聴き放題をキャッチフレーズとしているから、音楽を頻繁に聴く人を対象にしたサービスであると言えよう。ただ、ストリーミング再生の場合は聴きたい時に、聴きたい曲を求めてインターネット上に聴きに行くという形になるから、原則としてオンライン接続(*1)で聴くことが求められる。

【注】(*1)オンラインで一度聴けば、一時的に保存されたファイルを利用してオフライン再生ができるようにしたサービスもあるらしい。

 この方式の狙いは、オンラインで聴いている時だけ利用許諾を与え、それ以外の時は与えないようにできる点にあるようだ。つまり金儲けのための巧妙な仕組みであると言えよう。

 私などは昔ながらの方式で、CDというメディア上に記録されたものを購入しないと安心できない。そのCDさえ持っていれば、著作権上の問題で将来訴えられることはない(と思う)からである。ネット上から音声ファイルをダウンロードし購入する場合も条件は同じであるが、この方式では年月の経過とともに著作権上の利用許諾権を証明するものがなくなってしまう可能性が強い。将来苦労するのではないかと他人事ながら心配になる。CDを選ぶかダウンロードを選ぶかは個人の好みの問題であると言えよう。

 海外ではストリーミング再生が普及しているらしいが、日本では将来どちらが主流になるのだろうか。
 ストリーミング再生では、聴きたい時は何時もネット接続が必要となるから、通信回線上の負荷が想像以上に大きくなるのではないかと危惧している。
 音楽配信の場合、同じ利用者が同じ曲を何度も繰り返し聴くことが予想されるから、同じ内容のデータがネット上を繰り返し飛び交っていることになる(動画配信でも同じだが程度が異なる)。一般的な情報通信の立場から考えると、これは大変な無駄ではないかと思う。送信技術がいくら進歩しても、通信速度には限界がある。我々はネット上のデータ通信量を常に減らす努力を続けなければいけないと思う。

 ストリーミング再生方式は聴き放題を重視する音楽愛好者(オタク)を相手にした金儲けの手段としては有用かもしれない。しかし一般利用者(あるいは、聴きたいものだけを聴く真の音楽愛好者?)にとっては迷惑な話である。聴き放題(あるいは、動画の場合は見放題)を許していたら、将来どうなるのだろう。こういう方式が主流になるのを看過していてよいのだろうか。理解できないなぁ。分からないなぁ・・・。■

2015年8月26日水曜日

謝罪   .......... “謝らない日本人”でよいのか?

★本記事のリライト版を、ホームページ上に
謝罪
       ── 謝らない日本人”でよいのか?」

として掲載しました。(2015-9-1)

 安倍総理の「戦後70年談話」なるものを聞いて以来、私は 謝罪 についていろいろと考えている。
 70年談話 を私はテレビを通じて聞いたのだが、長い弁舌だったわりには心を打つような山場もないまま終わってしまったような気がする。長いなぁという感想だけが残った。今までの総理談話はこんなにも長いものだったのだろうか。

 表面的にさらっと聞き流すと、世情で注目されていた4つのキーワード“植民地支配”,“侵略”,“反省”,“お詫び”はそれぞれ登場しているから、何となく分かった積りになった人も多かろう。だが、私は何か解せないところがあった。そこで、翌日の新聞に掲載された全文をしっかりと読んでみた。その結果、これは(多分、官僚が作った)“巧妙に作られた下敷き”があって、その下敷きの枠に沿って書き上げられたものではないかと思うようになった。実に巧妙に構成されていたからである。

 全体は大きく二つの部分から成り、前半では日本の戦後70年の歩みが紹介されている。侵略 については、負の側面を薄めようとしているところもあって気になるが、ここでは深入りしないことにする。
 前述の4つのキーワードはこの前半部分に出てくるのだが、よく読むと「痛切な反省と心からのお詫び」という表現の主語があいまいで、“”(安倍総理)の言葉ではなく歴代内閣の表明をただ引用しただけであることに気が付く。そして「こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないもの」であるとし“全体として引き継ぐ”という形で締めくくられている。つまり“”がお詫びをしている訳ではないのだ(実に巧妙である)。

 後半の部分は、これからの若い世代への期待と日本の世界に対する貢献が述べられている。この中に「あの戦争には 何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」という部分がある。この部分が、安倍総理が一番言いたかったことなのであろう。

 新しい世代の子どもたちは、もうこれ以上「謝らなくてよい」ようにしたい。しかしこれでは諸外国からの反発が予想されるから、同時に抜かりなくこうも言っている。「私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければならない」と。

 我々日本人にとって、常に謝り続けるのは辛いことである。だから「謝らなくてよい」となれば、誰でも共感したくなる。しかし私は、やはり謝るべき時には、何時でも心から謝罪できる人間でありたいと思う。そのためには、何について謝罪するのかをしっかりと理解していなければならない。つまり日本の歴史をしっかりと頭に入れておかなければ、謝ろうにも何を謝ればよいのか分からないからである。

 安倍総理の「過去の歴史に真正面から向き合わなければならない」という言葉とは裏腹に、日本の歴史教育は日本にとって不都合な歴史上の出来事はできるだけ教科書に載せない(あるいは触れない)方向へと動いている。不都合な歴史上の出来事を教科書に記載したりすると「自虐的歴史観」であるとして排斥され、教科書として採用されない。つまり、次の世代には教えないようにしているのである。

 その結果、日本の歴史を正しく理解していない若者が増えていくことが予想される。しかも、彼らは謝罪しなくてよいという免罪符を手に入れているから、日本の不都合な歴史上の出来事を知らず、謝ることもしない日本人がこれから続々と海外に出ていくことになる。これは由々しきことである。

 海外に行く目的が「買い物」や「観光」だけならあまり問題は起こらない。せいぜい「爆買」とか「マナー違反」でひんしゅくをかう程度であろう。しかし仕事や留学などで長期間海外に滞在する場合は、現地の人々と親しく交わる必要があり場合によっては歴史問題で意見を求められる、あるいは議論を挑まれる機会があるかもしれない。

 若者たちが日本という国に 引き籠って 外国へ出ていかなければ、多分歴史問題で自己の意見を求められる経験をすることはないかもしれない。日本に居て多くの日本人に囲まれて生活している限り、歴史問題でいくら世間に通用しない“とんでもない歴史観”を語っても恥をかくことはない(国会や地方議会の議員さんの中にそういう人が沢山いるじゃないですか)。しかし単身海外に出ていって、そういう環境に身を置いたとき、一人で自己の主張を通じて相手を説得することができるかどうか、という問題である。

 日本にとって不都合な出来事も含めて歴史上の基本的な知識を学んでいないと、国定教科書などで自国中心の歴史観を学んでいる外国人を前に、我々は正しい自己主張ができなくなる。そういう人間は卑屈になるか、あるいは無暗に反発するかいずれか両極端に走ることになろう。
 「私には分かりません」と逃げる手もあるが、それは欧米では通用しない。欧米で「ホロコーストを知らない」と言えば、相手から無知だと思われ相手にされなくなる。グローバリゼーションの時代に外国人に向かって日本の歴史や文化を説明できなければ、同じように無知だと思われることだろう。恥ずかしながら、私は何度もそういった経験をしてきたのである。

 「あの戦争に“何ら関わりがない”」と信じてきた人たちも、実際にそういう場面に遭遇すれば、実は“関わりがある”ということを納得できるであろう。日本の歴史を勉強して、必要なら躊躇することなく心から謝罪のできる人間になってほしいと思う。■

2015年8月24日月曜日

素朴な疑問:首相の女性観

 安倍首相のヤジが止まらない。

 ・5月28日の衆院特別委員会で、民主党の辻元清美氏に対し「早く質問しろよ」とヤジを飛ばした。 

・8月21日の参院平和安全法制特別委員会で、民主党の蓮舫代表代行の質問中、自席から「まあいいじゃん、そんなこと」とヤジを飛ばした。

 首相は日頃から「法案を丁寧に説明する」とか「国民に分かりやすく」とか言っている割には、実際の行動はそれとかなり乖離した行動を取っているように思う。偶然かもしれないが、安倍総理は女性議員から質問されると普段以上にエキサイトするようである。一般に女性議員の発言中はヤジを飛ばす議員が多いらしいが、これは女性に対する偏見からきているのではないか。安倍政権が成長戦略の柱として掲げる「女性の社会進出」というのもどうやらお飾りに過ぎないような気がしてきた。首相の女性観はどうなっているのだろう。分からないなぁ・・・。■

2015年7月27日月曜日

朗読・日本国憲法

音声ボタン

日本国憲法

         ‥‥朗読 木下倶子(*1)


  日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。


第二章 戦争の放棄


第九条 戦争の放棄 軍備及び交戦権の否認
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


第三章 国民の権利及び義務


第十条 国民の要件
 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。

第十一条 基本的人権の享有
 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

【注】(*1)朗読は、妻 倶子によるものです。昔朗読を趣味として習っていた頃、先生に提出するために音声録音したテープが残っていたのでそれを使いました。妻は不治の病のため気管支切開を行い現在では声を失っています。

2015年7月22日水曜日

素朴な疑問:実現可能性の研究(Feasibility Study)

 東京オリンピックの主会場となる新国立競技場の当初の計画が白紙に戻ったようである。結構なことである。しかし私はこの案をそのまま葬り去ってはいけないと思う。どこで見積もり額を誤ったのか、しっかりと検証すべきである。

 それにしても、建築業界の「見積り技術」というのは一体どうなっているのだろう。情報処理分野の見積り技術もそれほど立派なものではないが、少なくとも一千億円単位のものが突然二倍になるようなことはない。それでは、もはや“技術”とは呼べない。どんぶり勘定と呼ぶべきであろう。

 日本の官僚たちは他人の金(OPM:Other People's Money)だと青天井と思ってしまう傾向がある。しかも、オリンピックのようなビッグ・イベントでは計画が頓挫する可能性はないからこの好機を見逃す筈がない。今回はその度が少し過ぎたのではないか。東日本大震災時の復興予算流用では、我々国民は何度もだまされている。どさくさに紛れて関係のない物(たとえば競技場周辺の施設)まで密かに取り込んで予算を膨らませたのではないかと勘繰りたくもなる。

 「見積り技術」ばかりでなく、建築業界での「(予算額も含めての)実現可能性の研究」(Feasibility Study)は一体どうなっているのだろう。分からないなぁ・・・。■

2015年7月15日水曜日

クラス会:顔の焦点が合う

 5月から7月にかけて同窓会が目白押しであった。正確に言うと“同窓会”と“同期会”であるが、最後の7月に計画されていたのは高校3年時の“クラス会”だった。10年程前、高校2年時のクラス会に参加して大変楽しい思いをしたので、今回も大いに期待して参加することにした。卒業以来57年ぶりである。昔の仲間たちが私を覚えていてくれるか多少不安な気持ちもあった。

 そこで、あらかじめ卒業時の全員写真を見ながら各人の名前と顔を確認しておくことにした。しかし誰が出席するかは当日会場へ行ってみないと分からない。私も、自分の名前がすぐ分かってもらえるようにと専用の名札を胸に着けることにした(こういう会では何時も持参し用いている)。
 最近は、幹事さんがあらかじめ紐付きの名札を用意していてくれて、全員がそれを首からぶら下げて会場に入るというスタイルが多いようである。しかし折角の名札が裏返しになって読み取れないこともある。胸に止める名札ならそういう心配は無用であろう。

 当日会場へ行ってみると案の定知らない人ばかりのようである。私だけでなくお互いに相手を確認できないで戸惑っている人が多い。受付で渡された出席者の名簿を見ると、私と同じ会社に勤務していた人、中学、高校と一緒だった人、コンピュータ関係の集まりで何度か会っている人などが出席予定になっている。親しい人が結構多いようで少し安心する。しかし何といっても卒業以来初めて再会する人が圧倒的に多い。

 席に座ってから周りの人たちと協力し名前と顔を確認し合い、何とかほぼ全員の顔の確認ができた。皆さん、それぞれ素敵に齢を重ねておられるようである。60代だった10年程前のクラス会での経験とはかなり異なっている。こうして見ると、人間は70代になると急速に容姿が変わってしまうような気がしてきた。本人にはそういう自覚はないのが普通だから、他人から見たら私も同様なのであろう。

 しかしいろいろと会話を重ね各人のスピーチなどを聞いていると、時間とともに次第に記憶のネットワークがよみがえってくる。少しずつ“現在の顔”と“昔の顔”とが重なり合って、いわば“顔の焦点”が合ってくるのだ。理屈では納得していても、何となく別人(*1)のような雰囲気を感じて壁になっていたものが突然取り払われる瞬間がある。不思議なものである。しかし何故か、女性についてはまったく顔の焦点が合わなかった。

【注】(*1)人間の細胞は毎日約20%が入れ替わっていると言うから本当は別人なのかもしれない。“昔の記憶”は脳細胞から成るネットワーク構造として脳内に保存され、入れ替わることなく受け継がれていくらしい。つまり昔の 記憶だけを共有する別人と考えることもできる。
帰宅後、会場で撮った写真を整理し自作のアプリで編集する作業を行った。編集したものをウェッブ上にアップすれば自分の務め(?)は完了である。写真が欲しい人はそこからダウンロードすればよい。プリントするか否かは本人にまかせる。ただ、ダウンロードする場合は人それぞれ好みの画素数があるから、大中小3種類のファイルから選べるようにしておく。しかし問題は、参加者のほとんどがインターネットをあまり利用していない世代の人たちなのだ。まあ、私のやっている“務め”とは、単なる自己満足に過ぎないのだが。

 この作業をしている間に、私は参加者の顔の“今昔”をじっくりと比較する機会を得たのであった(大変失礼ながら)。
 元オペラ歌手だった男は、眼光炯々として素晴らしい顔立ちになっていた。信念ととも生きてきたのであろう。“男の顔”は自分でつくるものと言われているが、なるほどと思った。
 大学教授として長年活躍してきた男は、その職にふさわしい“穏和な教授”の顔立ちになっていた。企業人から大学教師に転じた私のような男にはとても身に付かない独特の雰囲気を持っている。
 中学校の頃から同級で同じコンピュータ業界にいた男は、なぜか卒業以来一度も顔を合わせる機会がなかった。インターネット上に自分の顔写真は出さない主義の人らしい。卒業以来初めて再会し彼の最近の顔を確認できたのは、私にとっては最大の成果であった。

 また何年か後に、再び会って“顔の焦点”が合うかどうか試してみたいものである。

2015年6月18日木曜日

素朴な疑問:入れ替え戦

 交流戦が終わった。昨年に引き続きパ・リーグ(*1)の圧倒的な勝利であった。
 (あまり大きな声では言えないんですけどね‥‥)私はこの時期 何時も思うんですよ。パ・リーグの最下位球団とセ・リーグ(*2)の最上位球団が入れ替え戦をやるようにしたらよいのではないか、と。なぜ、そういう提案が出てこないんでしょうね。分からない・・・。
【注】(*1)パ・リーグ(Powerful League)
       (*2)セ・リーグ(Second League)

2015年6月17日水曜日

素朴な疑問:かむ

 「かむ」と言うと、最近は「言い間違える」ことを指すらしいが、ここでは本来の意味である“噛む”についての疑問を取り上げる。

▼噛む1:
 寝床の中でラジオを聴いていたら、男性アナウンサーが握り寿司の食べ方について話していた。
・最初にシャリの旨さを味わいたい人はそのまま口に入れる。
・寿司ネタを味わいたい人は上下を逆にして口に入れる。
・両方を同時に味わいたい人は寿司を横向きにして(えっ!)口に入れる

 色々な主義の人がいるらしい。一体どれが正しい食べ方なのか、寿司屋の主人に聞きたくなったのだそうである。

 寿司屋の主人の答えは、概略以下のようなものであった(例によってウトウトしながら聴いていたから間違っているかもしれない)。
 どんな形で口に入れても構わないが、寿司は本来 口中調味(*)で食するものであるから、個々の味にこだわるのではなく、口の中で噛んで唾液とまじることによって美味しさが生まれてくる。したがって飲み込む直前が一番美味しい状態なのだそうである。それを味わうべきだということであろう。
【注】(*)口中調味 については、以下が参考になる。
 http://www.wasyokuken.com/health/kochu.html
私は半分眠りながら、なるほどと思った。飲み込む直前が一番美味しい とは至言である。テレビを見ながら、あるいはスマホをいじりながらの食事では、旨さを生む元である唾液がそもそも出てこないから美味しさも味わえないのではないか。テレビのグルメ番組でよく見かける光景だが、ごちそうを口に入れた瞬間に顔色を変えて(表情が変わるということですよ)「うまい!」とか「ヤバイ!」とか叫んでいる芸能人がいるが、彼らは「口中調味」などという概念は到底理解できないであろう。

▼噛む2:
 寝床の中でラジオを聴いていたら、ゲストの医師が、食事中は100回は噛みなさいと教えていた。一口、口に入れたら箸置きに箸を戻してゆっくりと噛み続ける。唾液とまざると消化に良いだけでなく高齢者に多い誤嚥も防げるという。唾液には活性酸素を殺す物質も含まれているので癌の予防にもなるのだそうである。この医師はしっかりと実践しているのであろう。

 私は半分眠りながら、なるほどと思った。私も子供の頃から親に「よく噛みなさい」と注意されていたが、早食いの癖だけは直らなかった。この齢になり誤嚥性肺炎に気を付けなければならない立場であるから、「100回噛み」に何度かチャレンジしてみたが、食事の時間が長くなってしまいどうも長続きしない。困ったものである。

▼そこで、ふと思った:
 100回噛みを勧める医師は寿司を食べないのだろうか。
100回噛みをした寿司は「飲み込む直前が一番美味しい」と言えるのだろうか。分からない・・・。■

2015年5月8日金曜日

30分インターバル運動のすすめ

★本記事のリライト版を、ホームページ上に
30分インターバル運動
       ── 定期的に身体を動かすことの重要性」

として掲載しました。(2015-6-1)

仕事をやめて以来、書斎の机の前に座っている時間が増えた。自分の自由になる時間が増えて大変結構なことなのだが、一つだけ気懸かりなことがある。コンピュータなどをいじっているとつい夢中になってしまい、気が付くと数時間も同じ姿勢で過ごしている自分に気が付くからである。私は深部静脈血栓症という病気を抱えているので、時々立ち上がっては身体を動かす必要がある。しかるに、私は何かに熱中すると集中力が高まって自分の関心事以外のことは忘れてしまう傾向がある。当然、身体を動かすという大事なことも忘れてしまう。

 そこで“30分インターバル運動”というのを始めることにした。これからの高齢化社会では、特に年配者には是非とも心得ていて欲しいことなのだが、それを理解してもらうためには定期的に身体を動かすことの重要性を先ず知ってもらうことが第一であると考えた。そこで、自分のミスで右脚に血栓が出来てしまった経緯を先ず紹介しておこうと思う。

◆長時間通勤
 私は大学教師をしていた頃、毎週1回は川崎市から埼玉県の久喜市にある大学のキャンパスまで電車で通っていた。JRと私鉄を乗り継いで(当初は)都合3回の乗り換えが必要であり大学まで2時間半ほど掛かる。しかし午後からの授業を担当していたので10時半頃に家を出れば午後一番の授業には間に合った。したがって、行きはそれほど苦にはならなかったが帰りはつらかった。プログラミングの授業を2コマ連続して担当していたので、貸し出したコンピュータの後片付けを責任を持ってやらなければならない。授業が終わるとぐずぐずしている学生をせきたてながらコンピュータを回収し、それをロッカーに収納して施錠するということを確実に行わねばならなかった。その間に学生から質問を受けたりする。そんなこんなで授業を終えると4時半頃になってしまう。

 それから大学のバスを利用してJRの久喜駅まで行き、往路と同じルートで帰宅することになる。帰りの電車はかなり混んでいて全く空席がない。都心に近づく頃には通勤客の帰宅ラッシュの時間と重なり増々混んで来る。家に着くのは6時半から7時頃になるが、それまでの間座ることができるチャンスは皆無である。つまり授業の始まる1時から帰宅する7時頃までずっと立ちっ放しでいなければならないのだ。これはかなりつらいことではあったが、長時間通勤には慣れているので最初の頃は体力的に何とかなっていた。

 その後何年かすると、埼京線が開通しそれを利用すると3回の乗換え(登戸、新宿、赤羽)が2回(登戸、新宿)で済むようになった。ラッシュ時の乗換えはかなり体力を要するからこれでかなり楽にはなった。しかし座れないという事情は変わらなかった。

◆痛恨のミステーク
 更に何年かして、素晴らしい解決策が見つかったのである。実は久喜駅には私鉄の東武伊勢崎線も乗り入れている。この線が、他の私鉄と相互乗り入れをするようになったのである。これを利用すると久喜駅から東武伊勢崎線の北千住を通り、更に半蔵門線で渋谷まで、そして田園都市線で溝の口まで乗り換えなしで一気に行けることになる。私鉄の溝の口駅は、私の家の近くのJR駅の隣りの駅なので後は歩いて帰宅できる距離なのだ。なんという幸運! 信じられない程の幸運に恵まれ、私は久喜駅発の電車で最初から座ったまま一直線で帰宅できることになったのである。

 このルートは距離的にはかなりの遠回りになるので乗車時間は約2時間と長くなる。そこで帰宅時だけこのルートを利用することにした。帰りで疲れていることもあり、一度利用すると以後は迷うことなくこの楽な方のルートで帰宅するようになってしまった。これが第一の間違いだったのである。

 電車の柔らかい座席に長く座っていると、つい眠たくなってしまい30分位は眠ってしまう。途中で目が覚めると後は本を読んだりして過ごすのだが、ずっと同じ姿勢でいたために腰や尻のあたりが痛い。これでは血行が悪くなると思い、私はできるだけ足先を動かしたりしていた。本当は立ち上がって身体全体の筋肉をほぐしたかったのだが、最初のうちは空いていた電車内も、都心に入り今や通勤客で満員の状態になっている。とてもそんなことをする余裕はない。
 こんなことを毎週繰り返しているうちに私は血栓症になってしまったらしいのである。注意していれば防げた筈の痛恨のミステークであった。

 最近は上野東京ラインの開業とともにJR各線の間でも相互(直接)乗り入れが行われるようになった。「北関東から熱海まで」それこそ乗換えなしの直通で行けるようになったらしい。便利ではあるが年配者は気を付けた方がよいと思う。乗り継ぎ不要というのは良いことばかりではないのである。

◆身体を動かすことの必要性
 ところで、私の深部静脈血栓症が見つかったのは偶然のことだった。たまたま脚のむくみが酷いので病院で診てもらったところ、右脚のふくらはぎの部分に血栓ができていることが分かったのである。血栓はむくみの直接の原因ではなかったが、見つかったのは幸運と言うべきであろう(むくみの原因は未だ分かっていない)。
 血栓というのは存外簡単にできてしまうものらしい。治療法は血栓をそれ以上成長させないようにすることが中心となる。以来私は抗凝血薬を毎日のみ、一日中弾性ストッキングを穿いていなければならない身となってしまった。

 医療専用の弾性ストッキングを着けると血流が良くなるのだという。血管が締め付けられて細くなったら逆に血流が悪くなるのではないかと思うが、そうではないらしい。足全体が圧迫され続けるため下肢の静脈のよどみが少なくなり、下肢静脈の血流がよくなるのだそうである。川幅の広い大きな川の水はゆったりと流れるが、川幅が狭いと水流は速くなるという理屈である(*1)
【注】(*1)ここでは血液の流れを、川の流れのアナロジーで説明した。しかし交通渋滞での車列の流れの問題解決にこのアナロジーを適用するのは理論的には可能であるが、明らかに現実的ではない。
医師の説明では、下肢の血液を心臓まで送り返すには大変な圧力が必要になり心臓の負担となる。そこで運動をすれば両脚の血管がポンプの役割を果たしくれて血液を押し上げる助けになる。しかし齢を取ると血管が固くなりポンプの役を果たす力が弱くなってしまう。そこでストッキングで絞めつけて筋肉が収縮した状態にしておけば、身体を動かすとそれが圧力となってポンプ機能を復活させることが期待できる、ということらしい。つまりストッキングを付けて両下肢を動かすことが血栓予防には特に重要なのである。

 毎朝起床すると私はまずストッキングを身に着けるのだが、これが慣れないとなかなかうまくできない。初めの頃はかなりの時間を要していた。ストッキングを一日中身に着けているのは更に大変で苦痛以外の何物でもない。特に夏の暑い季節はつらい! 本当につらいのである。暑い夏を迎えて思うのは、ただ自分の不注意に対する悔悟の念ばかりである。

◆時間間隔
 身体を動かす間隔(インターバル)を私は30分と設定したが、これは各人の事情に合わせて適当に設定するのがよいであろう。
 私がまだ企業人であった頃、毎朝の電車通勤では2時間を要していた(昔から私は長時間通勤に運命付けられていたらしい)。JR線で約36分、立川で乗り換え再びJR線で約30分という具合だった。乗り継ぎではかなりの待ち時間を要したから、これが直通で行けたら1時間で済むのにと何度思ったことか。しかし今から思うと、この長時間通勤で血栓症を引き起こさずに済んだのだから、30分というは丁度良い間隔だったのだろう。そう思って30分と設定したのである。

◆実践方法
 30分インターバル運動を実践するには、30分ごとにアラームを鳴らす時計が必要となる。昔の家には柱時計というのがあり、1時間ごとに「ボーン」という音を、その時の時間の数だけ鳴らしてくれたものである。夜中に目覚めたとき、この音を聞くと思わずその数を数えてしまい頭がさえてしまって困ったのを思い出す。こういう柱時計は30分になると1度だけ「ボーン」と鳴るようになっていた。そういう時計があるとよいのだが、現在ではなかなか手に入らないようだ。いろいろと考えた末、私はコンピュータ上の時計を用いることにした。普段から利用しているフリーソフトの「SGウォッチ」(これは素晴らしいソフトです)で試してみたところ、私の要求を十分に満たしているようである。

(SGウォッチ)

 アラームが鳴ると私はすぐ立ち上がり、スクワット(Squat)、プランク(Plank)、ダンベル(Dumbbell)、踏み台昇降(Step aerobics)などの運動の中から適当に選んで実行することにしている。自分の定めたノルマを30分ごとにやっていると、午前中だけで一日分のノルマをほぼすべて完了してしまう。午後は専ら軽い運動だけにする。お手玉をやったり、片足立ち(1分)をやったり、ただ立ち上がるだけ、だったりといろいろである。

 アラームとして何を鳴らすかも重要である。私の場合は音楽を鳴らすことにしている。何かに夢中で取り組んでいると1度のベル音のみのアラームでは気が付かない恐れがある。音楽なら安心かというとそうでもない。何かに熱中していると「あれ? いま確か音楽が鳴っていたような気がするが・・・」となることが多いのだ。慌ててタイマーの画面を確認すると今まさにアラームが鳴り終わった直後であることが分かったりする。ある程度の長さ(4分前後)のミュージック・ファイルをベル音ファイルの欄に設定しておくとよい。

 たとえば、私の場合「コンドルは飛んで行く(4分22秒)」や「この広い野原いっぱい(3分55秒)」などが丁度良い長さである。一度「さとうきび畑」を使ったことがあるが、これは10分以上なので長すぎた。アラームが終わるとすぐまた次のアラームが始まるという感じになってしまい忙し過ぎてうまくいかなかった。

 ここで“30分インターバル運動”の運動とは“Exercise”の意味ではなく、キャンペーン“Campaign”くらいの意味である。高齢社会で長生きし(たとえ持病を持っていても)健康で普通の生活が送れるようにするためのすすめである。
 そして血液の流れを良くして脳梗塞や虚血性心疾患といった循環器系の病気を起こさないようにしたいと思う。ご同輩の方々が関心を持ってくれることを切に期待しています。■

2015年4月17日金曜日

目覚し時計

★本記事のリライト版を、ホームページ上に
目覚し時計 ── 古い物の価値を見直す
として掲載しました。(2015-5-1)

私の寝室には古い目覚し時計が置いてある。貰い物なので、それがどの位の価値の物なのか今まで関心を持つこともなく、ただ使い続けてきた。すこぶる使い勝手が良くて私は大変気に入っている。
 夜中にふと目覚めたとき「今、何時頃かな?」と思うことがよくあるが、そんな時そっと手を伸ばして時計の上部に軽く触れると『4時12分です』などと女性の声で報せてくれる。アラームのオン/オフなどは手探りで簡単に切り替えられるから、就寝前に設定し忘れたことに気がついたとしても(半分眠りながら)直すことができたりする。1分間隔で連続して時間を報せる機能もあるから、昼間でもいろいろな利用法が考えられる。「おぬし、なかなかやるのう」という感じの存在なのである。

 まあ、こういった機能は大抵の目覚し時計には装備されているから別に驚く程のことではない。私が驚いたのは、これだけの機能があり しかも一日に何度も女性の声で喋らせて酷使しているのに、電池の消耗が極端に少ないことである。ここ4~5年は電池交換をした記憶がない。そして故障したことが一度もない! もしかすると、これは凄く高価な目覚し時計なのかもしれないと思うようになってきた。

 普通、電池交換をすると時間がリセットされてしまう(作業の間バックアップがないので、これは仕方がない)。そこで毎回、時間設定をしなければならなくなる。ただ困るのは、こういう事態になるのは数年に一度なので時間設定の手続きにいつまでも不案内のままで毎回手こずっていることである。時間設定の手順は、不注意で時間が変更されたりしないよう意図的に複雑な手順になっている。そのため、いつもやり方が分からず時間を食ってしまう。確か4つのボタンを同時に押しながら、もう一つの(少し離れた場所にある)ボタンを押すことによってトリガーが掛かる筈なのだが、これがなかなかうまくいかない。太い指の腹で小さなボタンを同時に4つ押すというのは結構難しいのである。詳しいやり方が本体底部に張り付けられた紙に書かれているのだが、時の経過とともに色褪せてきて、おまけに汚れが付いてしまって肝心のところが読み取れなくなってきている。そこで私は、確認した手順と方法(複数のボタンを同時に押すための自己流のコツ)とをその紙の上に手書きすることにした。

 こうして何年も愛用してきた我が大切な目覚し時計が、最近少し変なのである。あらぬ時に、突然『アラームは午前5時です』などと喋りだすようになってしまったのだ。『午前5時で‥‥』とぶつ切りになったり、『アラームは、アラームは、‥‥』と部分的に繰り返すこともある。認知症の兆候が出ているのかもしれない。

 事ここに至り、私はこの時計の寿命が そろそろ尽きる時期に近づきつつあることを悟ったのである。一体何年使い続けてきたのだろう。昔の記憶をたどっていくと、どうやら30年位になるようである。30年も使えば、そろそろ買い替えてもいいかなと思う。これと同じものが見つかったら買い替えよう。そう思ってウェッブ上でいろいろ調べてみると同じ製品の後継機種が見つかった。価格もそれほど高いものではない。しかし外装はまったく異なっている。モデルチェンジしてしまい同じものを見つけるのは困難であることが分かった。

 新しい機種に乗り換えても、多分同じように長持ちするとは思えない。最新の電子機器は性能は素晴らしいかもしれないが、長持ちしないのである。昔の機械式の構造のものは堅牢で長持ちするが、電子的な装置ではとても30年(*)はもたないであろう。
【注】(*)私めは高貴な「後期高齢者」であるからして、これから30年も長生きする予定も可能性もない。しかし不思議なもので、物を買うときは相変わらず長持ちするものを買いたいと思う。

(SEIKO TALKLINER)

 そうなると、この時計(機械式ではないが)を壊さないようにして使い続けた方が賢明であると、私めは判断したのである。

おぬし、たいした代物じゃのう。長生きせいよ

2015年3月28日土曜日

河川敷スクワッティング

★本記事のリライト版を、ホームページ上に「河川敷」として掲載しました。(2015-4-2)

 私は天気の良い日は多摩川のサイクリングロードを歩くことにしている。昔はこの場所でサイクリングやジョギングをしていたのだが、この齢では余り激しい運動はできないからウオーキング程度にしておくのが安全というものであろう。

 家を出てからしばらくは幹線道路を歩くが、東名高速の下辺りから多摩川の堤に出て川上の方へと向かうことにしている。堤の左側には多摩沿線道路が走り、右側には広大な河川敷が広がっている。多摩川の水量は豊かであるが、河川敷には普段は川の流れに影響されない豊かな自然が残されている。

 堤の上のサイクリングロードを歩きながら遠方に見える山並みや東京方面の景色を眺めるのも楽しいが、毎度のこととなるとすぐ見飽きてしまう。その点、変化の激しい河川敷の様子を細かく観察することの方がはるかに興味深くまたストレス発散にもなっているような気がする。

 河川敷は木や草原で占められているが、堤に近い部分には企業の運動グラウンドやテニスコートなどがある。最近ではフットサルを教える運動クラブの施設なども作られている。これらは公に許可を得ているものであるが、個人が不法に占拠(スクワット(*1))して自分の耕作地にしてしまっている場所も多い。
【注】(*1)スクワット(squat)と言うとインターネットの世界ではサイバースクワッティングが話題になるが、ここでの“スクワット”は本来の意味である「無断居住」、「不法占拠」のことである。
 これらの不法耕作地は、自分の領域を明確にするためなのであろう例外なく垣根で囲われている。入口には扉を付けて鍵が掛けられるようになったものもある。物置を備えていたり、廃品を利用して作られた水槽など苦心の跡が分かるので、見ているとなかなか楽しい。
長年見ていると、不法耕作地のうちでその後放擲された区画は一つもないようだし、多分同じ持ち主(?)がずっと使い続けているように見える。不法地主は自転車などでやって来ては畑の作物の手入れに余念がない。多分、近隣に住む人達なのであろう。畑の耕し方などからズブの素人の畑仕事であることがすぐ分かる。しかし中にはかなり立派な畑もある。整然とした畝作りで季節ごとに植える物を切り替えたり休耕にしたりして農作業のプロとおぼしき人もいる。成果物の野菜類を台車に載せて運んでいるのを見ると、とても個人では消費しきれない量であるから多分八百屋等を経営している人ではあるまいか。

最初の頃は批判的に見ていた私も、長年(40年位になる)見ているうちに何となく彼らに親しみを持つようになってしまった。一方彼らは、私のような通りがかりの人を見ると、苦労して作った成果物を盗もうとしているのではないかと警戒の目で見ているような気がする。これは思い過ごしであろうか。

 こういった河川敷での不法占拠耕作地については、今まで何度も新聞等で報道されてきた。最近も多摩川の事例が地方版(川崎支局)で報道されたのを記憶している。その記事を読んで、これまでは不法地主の方を(心理的に)応援していた私も、これは整理しないといけないと思うようになった。

 そろそろ管理が厳しくなるのではないかと予想していたのだが、はたせるかな2月頃から川下の方で何か大掛りな作業を連日行っている様子が見えるようになった。かなりの作業員が関わっており、車も数台止められているようだ。ウオーキングで来る度に観察していると、川下から私がいる川上の方に向かって作業場所を少しずつ移動してきている。間もなくそれが何であるかが明らかになった。不法耕作地を整地して関係者以外入れないよう柵で囲っているのであった。
よく見ると、まだ整地されていない畑には注意書きが張られた看板が立てられている。立ち退きの要請が書いてあるのであろう。いろいろな廃品が持ち込まれているので後片付けも大変なようである。大型のごみを搬出するためのトラックも来ている。ものすごく時間が掛かる作業のようだ。

 私が堤に出て歩き始める位置にまでとうとう作業が到達した。これから先はグラウンドが続くので一区切り付く地点である。作業車に掲げられている看板には発注者名が「国土交通省 京浜河川事務所」と書いてある。県か市のやっている仕事かと思っていたが国の仕事だったのだ。なるほど、多摩川は一級河川であるから当然のことながら国が管理しているのである。

 この位置から川上に向かっては、企業の運動グラウンド、テニスコート、運動クラブ等が続いているので不法耕作地は存在しない。そして更にその先には舟島稲荷神社と二ケ領用水の取水口があり、その辺りにはまた耕作地が沢山ある。

次はそこへ作業が移るのだろうか。今のところまだ作業は始まっていないようであるが、私が見慣れた畑があるので少し心配である。
 気が付くとまた不法地主の方の心配をしている自分がいる。困ったものである。■

2015年2月22日日曜日

インターネット検索でのつまみ食い

 つまみ食いというのは、実にいいものである。他の人をさしおいて一人でじっくりと賞味できる特別な行為だからであろう。ただ一つ欠点があるとすれば、それは多少の後ろめたさを伴なうことだ。大人になった今でも、それは少しも変わらないような気がする。そして、つまみ食いしたものは特に美味しく感じられる。多分、スリルという隠し味が ちょっぴり加味されるからであろう。

 私の子供の頃は終戦直後の食べる物のない時代であったから、尚更つまみ食いに対する憧れは強かったように思う。しかしどの家庭でも、当時は今よりかなり厳しい躾けがなされていたから、簡単につまみ食いができるような環境ではなかった。
 ある時、台所にある戸棚の引き戸を開けてみると小皿が一つ置いてあり、その上に小さな白い団子が三つほど「食べてください」と言わんばかりに置かれているのを発見した。一瞬食べようかと思ったが、そこはそれ、躾けのよい子(?)であった私は、もちろん手など出したりはしなかった。後で考えると、あれはネズミ退治のための“猫いらず”が入った毒団子だったのだと思う。戸棚を覗き込むこと自体が少し後ろめたい行為だったので、私は母親にそれを確かめるようなことはしなかった。つまみ食いと言うと、私はあの白い団子のことを今でも時々思い出すのである。

 インターネットの世界にも“つまみ食い”というのがある。
 我々はインターネット検索を利用して何でも簡単に調べることができる。検索システムにキーワードを入力しさえすれば、それに関連する情報をピンポイントで見つけ出してくれる。便利な世の中である。しかしインターネット検索に慣れてくると、そこで得られた情報を自分の思考を深めるために利用するのではなく、自分にとって都合の良い部分だけ抜き出して別の目的に利用するようになる(これが結構オイシイ)。

 得られたテキストの文脈全体から知識を得るのではなく、その中から自分が便利に使えそうだと思う“文脈の断片”だけを残し、それ以外の文脈はすべてそぎ落としてしまう。これが“つまみ食い”と呼ばれるものである。

 一度この便利さを経験すると、もうやめられなくなってしまう(つまみ食い依存症)。何かリポートの作成が必要になると、直ぐさまインターネット検索でつまみ食いを繰り返すようになる。そして、集めた文脈の断片を切り貼りすることによって自分の意見らしきものを構築していく術を身に付ける(コピペ依存症)。更に依存度が深まると、他人の意見を自分の意見だと勘違いするようになる。こうしてつまみ食いから得た“自分の意見”に頼るようになり、結果として非思考型の人間へと改造されていく。

 最近の若者達は本を読まないそうである。新聞記事(*)によれば、1日あたりの読書量が0分の大学生が実に4割を超えているという。本を読まない人がつまみ食い依存症になると更に困ったことになる。他人の主張に容易に乗せられてしまうからである。その結果、今話題になっている「過激な思想」にも簡単に染まってしまう。
【注】(*)大学生の1日あたりの読書量は
       0分 40.5%
       10分未満 1.8%
       10~30分 16.2%
       30~60分 20.7%
       60~90分 12.7%
       90~180分 5.1%
       180分以上 1.9%
       無回答 1.1%。

 たとえば、ある考え方を広めようと論文を作ることにしよう。これを図1で表すことにする。
(図1)

 この論文の要所には、他人の論文等からつまみ食いした断片(たとえば、①,②,③,④,⑤,⑥,⑦など)をはめ込んで議論のベースとして用いる。
(図2)

 ここでつまみ食いした部分は自分の意見ではなく、他人の意見であることを明確にしておく。ただ、自分に都合のよい形に解釈を微妙に変更してしまう場合もある。しかし読者はそれに気が付かない。いちいち原文を読んで確かめる人は少ないからである。
 つまり、公に認められている事実をベースに論文が書かれているように見せる。したがって、そこから導かれた結論は当然正しい! と思わせるためである。このようにして作られた論文(図3)は表面的にはもっともらしく見える。
(図3)

 しかし普段から書物を読みしっかりと勉強している人は、自分の頭の中に(図4)のような知識の体系ができているから騙されない。論理展開のベースとなる事実が疑わしいことにすぐ気が付く。もともと整合性のないジグソーパズルの小片(ピース)を無理やりに押し込んだものだと分かってしまう。
(図4)

 しかし本を読まず、その方面の知識の体系を身に付けていない人はたちまち騙されてしまう。そして「私はすべて読みました。そして全部、ちゃんと理解しました!」などと発言する学生がでてくるようになる(具体的な事例は「インターネット検索の功罪」を参照)。

 このように、文脈から切り離された知識を利用すれば、他人を惑わす論を展開することができる。普段本を読まず、つまみ食いに慣れていて非思考型の人は、それを逆に利用されて誤った方向へと容易に導かれていってしまう。論理の手順さえもっともらしく組み立てられていれば、ベースとして利用された事実(らしきもの)の信憑性には疑問を持たないからである。「インターネット上から得られた知識」というだけで信じてしまうようなものである。

 若者たちが、過激な思想に簡単に取り込まれてしまうのは、こんなことも影響しているのではあるまいか。

2015年1月28日水曜日

なぜ箸を正しく使えないか

 新聞を読んでいたら、箸を正しく使えない人が増えているという記事を見つけた。その記事によれば、箸の正しい持ち方、正しい使い方ができる人の割合は、1984年では男女ともほとんどの年代で過半数を占めていたのに、25年後の2009年には2~3割に減ってしまっているのだそうである。
 特に1940年生まれあたりを境にして、箸を正しく使えない人が増えているという。

 確かに、箸を正しく使えない子供や大人を見かけることが多くなった。テレビに登場する芸能人の中にもそういう人がいて、ものを食べる場面で「実は私、箸がうまく使えなくて…」などと恐縮しながら箸を使っているのを見たことがある。

 私は、大学のプログラミングの授業を担当していた頃、和食の食べ方を話題として取り上げることにしていた。これは、和食を食べる際に必要とされる作法を通じて、プログラム作りで必要となる「トップダウン」という考え方を教えるためであった(詳しくは「食事マナー」参照)。そして箸についても、いかに素晴らしいツールであるかに言及してきた(詳しくは「」参照)。実はその時は、正しく使えない人がこれほど多いとは思わなかったからである。

 正しく使えない人が増えた原因として、その新聞記事では次のような理由が挙げられていた。

戦中戦後の混乱期に親が子に箸のしつけをする余裕がなかった。
箸を使う食べ物そのものが減っている。
学校給食で先割れスプーンを使う頻度が高かった。
幼児期にスプーンで食事する時期が長くなり、スムーズに箸に移行しにくい。
 内閣府の調査では「箸の使い方を含めた食事のマナーを身につけている人ほど、幼い時に家族全員で夕食をとった頻度が高い」というデータがあるのだそうである。

 これらの理由はどれも、なるほどと思わせる点もあるけれど、同時にどれも納得がいかないところがある。内閣府のデータに至っては、調査などしなくても誰でもすぐ思い付く程度のものである。

 私は、箸の使い方に限らず、昔ながらの習慣やマナーが後の世代にうまく受け継がれなくなってきたのは(少し話が大きくなるけれど)戦後の教育の仕方が影響しているのではないかと思う。

 戦後、日本の教育制度は大幅に変更され、昔ながらの(体罰を含む)厳しい教育方法は否定された。そして、なぜそれを学ぶ必要があるのか その必要性を本人に説明し納得させてから教えることが求められるようになった。このやり方でも大抵のことはうまくいくのだが、うまくいかないケースもある。たとえば箸の使い方のように幼い頃はどんな食べ方をしても、美味しく食べられさえすれば良いのだと思いがちである。しかし大人になってから、箸がうまく使えなくて公の場で恥ずかしい思いを経験すると、しっかり学んでおけばよかったとその必要性に初めて気が付くことになる。

 学ぶ必要性が理解できる時期とそれを学んで身に付ける時期とが異なる場合は問題が残るのである。つまり、学ぶに最も適した時期(普通は、幼い時)にはまだその必要性が十分に理解できていない、ということがよくあるのだ。
 たとえば、ピアノやバイオリンなどの音楽的才能を伸ばしたい場合、あるいは特定の運動能力を伸ばしたい場合などである。こういったものは学校教育では限界がある。家庭で親の熱意によって、あるいは特定の集団に属しての英才教育によって対応するのが普通である。本人が納得していなくても、なかば強制的に教えることによって才能を発掘する。そのうちに本人にも学ぶ喜びと意欲が生まれてくる可能性に期待するのである。

 箸の使い方、食事マナーなどは幼い内から教え込まないと身に付かないものである。ばっかり食べ、クチャクチャと音をさせて食べる癖などは、長じてからではもはや直せない。これらのマナーを身に付けていないと、後々社会人になってから苦労することになる。これらは学校教育ではなく家庭内教育として親が教えるべき事柄である。私が小学校に入った頃は、同じクラスの子は誰もが箸を普通に使いこなしていたように記憶している。

 箸を正しく使える人が「2009年には2~3割」しかいないという事実は私にとって衝撃的(*)であった。つまり逆に言うと、正しく使えない人が7~8割を占めていることになる。その内に9割を越えることになるのではあるまいか。

【注】(*)更に言えば「1940年生まれを境にして」という点も衝撃であった。何となれば、私めは“1940年生まれ以降の世代”には含まれていないからである。私はこれまで自分の年齢にはできるだけ触れないよう注意深く文章をつづってきた積りだが、これはやはり一言言及しなければいけないと思った。もはや「箸の正しい使い方」について議論する上では、当事者ではなく過去の世代の人間であることを、ここに明確にしておくべきだと思ったからである。これからは少し(少し!ですぞ)言葉を慎もうと思う。

 少子高齢化の時代である。両親がともに正しく使えなくて“いい加減な使い方”(と、ここでは呼ぶことにしよう)をしている場合、その子供は間違いなくいい加減な使い方のまま成長することになる。長じてからその癖を直すのは、多分不可能であろう。したがって、いい加減な使い方をする人の割合はこれから加速度的に増えていくことであろう。

 正しく使える子も、学校へ行けば変な目で見られるかもしれない。「箸の変な使い方をする子がいる」となれば、いじめの対象になる可能性もある。いじめられたくないからと、正しく使える子も学校ではいい加減な使い方の子に合わせるようになるかもしれない。そして、次第にいい加減な使い方の方が“正しい使い方”となってしまうことであろう。恐ろしいことである。
 歴史が後の世代によって改変されていくのと同じように、そして用語の意味が時代とともに改変されていくように、“箸の正しい使い方”も改変されていくに違いない。恐ろしいことである。

2015年1月1日木曜日