2014年12月25日木曜日

微分解析機

 先日“微分解析機」再生”というニュースが新聞各紙で報じられた。国内で唯一現存する微分方程式のアナログ計算機が、東京理科大学の近代科学資料館で70年振りに再整備され動作するようになったという内容であった。

 たまたまこの日は、同期の友人達が久しぶりに学内を見学したいというので、私は案内役を依頼され集まることになっていた。そのため、私はその新聞を読む暇もなく朝早くに家を出てしまっていた。集合場所に着くと友人の一人がこの新聞記事の切り抜きを取り出して「これを是非見たい」と言う。私はそのニュースのことは知らなかったが、最初から資料館を見学コースに入れていたので丁度良いタイミングだと思ったのである。

 そこで、卒業以来一度も大学を訪れたことがない友人もいるので、一応構内を歩き主だった建物を見学した後、近代科学資料館へと向かった。

 東京理科大学の近代科学資料館は、科学技術の発展の基礎を担ってきた計算技術の発展の歴史をたどることができるよう「計算機の歴史」が展示されている。古代から現代までの代表的な計算道具、計算機械を網羅する世界有数のコレクションを誇っている場所である。先人達がいかに努力を重ねて今日の社会を築き上げてきたか、その道筋を実物によって体感できる貴重な場となっている。また江戸時代の和算書や明治初期の理数教科書の所蔵館でもある。

 概略以下のような計算道具が展示されている。以前私が訪れた頃より更に内容が充実してきているようだ。

(1)算具・そろばん
 算木、そろばん
(2)計算尺 機械式計算機Ⅰ
 フーラー計算尺、手動計算機、クルタ計算機、アリスモメーター計算機
 電気計算機、マーチャント電気計算機
(3)機械式計算機Ⅱ 
 手動計算機、タイガー計算器
(4)電子式計算機
 電子式卓上計算機
(5)大型計算機
 Bush式アナログ微分解析機
 FACOM201パラメトロン電子計算機
 UNIVAC120(真空管を用いた第一世代コンピュータ)
(6)パソコン・コンピュータゲーム


 さて問題の微分解析機は、大型計算機のコーナーに置いてあった。見覚えがある! なつかしい! 私の在学中、2号館のお濠りが見える側のフロアーにそのまま置いてあったのを思い出した。何しろ図体が大きくて適当な置き場所がなかったのであろう。場所としてはお濠りの見える側の絶好の位置に置かれていたが、ところどころ部品が欠けていたりして到底動作しそうには見えなかった。それを動作するよう整備し直したのだから驚きである。確か、清水辰次郎先生が大阪大学から移って来られたときに持ってこられ、大学に寄贈されたものと聞いていた。

 微分解析機コーナーのそばの柱には、清水先生の写真が額入りで掲げられていた。見学している友人の中に清水先生のゼミの一員で、当時先生にお世話になった人がいたので当時のことに話が及んだ。私を含めてその場にいたほとんどの者が清水先生の「実用数学」の授業を受けていたのである。授業の課題のレポートで苦労したことも思い出された。

 解析機のそばでそんな思い出話で盛り上がっていると、近くにいた研究者の一人が我々に近づいてきて話に加わり、微分解析機の説明と再整備の苦労を自ら詳しく話してくれた。
 微分解析機は、積分器3台、入力卓1台、出力卓1台で構成されていた。当時はそこまで理解することはできなかったが、古いものをそのまま保存することの大切さ・難しさ実感したのであった。

 話に加わってくれた研究者が今度は逆に我々に質問してきた。清水先生の写真を指して「なぜ白黒写真しかないのですか?」と言う。私は一瞬びっくりしたが「当時はカラー写真はなくて、モノクロばかりだったんですよ」と答えた。

 いや、いつ撮影された写真か分からないから何とも言えないが、正確に言えば、カラー写真はあったと思う。しかし高価でかつ技術的に色調の経年変化に耐えられない時代だったから肖像写真には向いていなかったと考えるべきであろう。

 「古いものをそのまま保存することの大切さ・難しさ」というのは計算機械に限らず、あらゆる技術分野で考慮されなければならない問題だと思った次第である。
 そうだ、私の持っている「世界初のノートパソコンT1100と「初代ラップトップコンピュータ(T3100)も、いずれはこの資料館へ寄贈することにしよう。

2014年12月3日水曜日

「便器のふた」をホームページ上に掲示しました

トイレでは、便器のふたを閉じてから流す」のリライト版を「便器のふた」というタイトルでホームページ上に掲示しました。

 http://www.hi-ho.ne.jp/skinoshita/sture120.htm

2014年11月14日金曜日

トイレでは、便器のふたを閉じてから流す

 洋式トイレを使った後は、ふたを閉めてから水を流すようにすると良いそうである。このことを以前知った当初は、私もしっかりと実行していたのだが、その後なんとなくやめてしまっていた。
 最近、再びこの話を聞いたのは朝方ベッドの中でうつらうつらしながらラジオを聴いていたときである。話していたのが医者だったからか、途中から真面目に聞き始めた。したがって、どこまで正確にこの話を紹介できるか自信はないのだが、概略以下のような内容であった。

 医者が言うには、患者の喉から大腸菌が検出されたことがあり、その原因を追究することになった。そして最終的にトイレを使用したあとの水を流す時に発生するしぶきが原因だと特定したのだそうである。しぶきが飛ぶとそれが細かい霧状になって空気中を浮遊する。これが口や鼻から体内に吸い込まれる。そして、
 ・肺炎
 ・溶連菌感染症
 ・副鼻腔炎
 ・口内炎
などの原因となるらしい。
 男性用の小便器(立ってするタイプのもの)もかなりのしぶきが飛ぶので衛生的には問題がある、とのことであった。

 これ以下は、私めの感想である。
 しぶきや霧がどの位の高さまで来るのかは分からないが、大人より背の低い子供の方が被害を被る確率が格段に高くなるのではないかと思う。
 もしかすると、子供が溶連菌にやられる事例が多いのはこれが原因ではないかと思う。いくら子供に「手洗いの励行」を言っても(しっかりと実行しているのに)あまり効果がないように思われるからである。「子供は病気になりやすい」とよく言われるが、もしこれが原因であったら盲点を突かれたことになる。

 私はもう10年位前から小用の時も便座に座る習慣にしている。これは自分でトイレ掃除をするようになり、その汚れ具合のひどさを知ったからである。先ずは、汚さないように使うことが第一であると考えた。男性の中には「立ってやらなければ男が廃る」などと言う者もいるけれど、そういう人にはトイレ掃除を毎日やらせることである。

 なおも私めの感想(いや、妄想と呼ぶべきかな)は続く。
「女の子より男の子の方が病気になりやすい」という説がある(これは医学的にも信憑性が高いらしい)が、この原因ももしかすると男子用トイレ内での飛沫の霧被曝(?)が原因ではないかと思うのである。
 試しに、小便器(urinal)というものを廃止したらどうかと提案したい。そして男の子には立ったままでの小用をやめるよう教育する。外出先で小用をたすとき、公衆便所などにある壁あて式の「ストール型小便器」が利用されているが、これが衛生的に一番危険な場所ではないかと思う。飛沫がどの高さま達するのかは知らないが、幼い男の子の背の高さ位に達するのは容易に想像がつく。

 小便器の廃止という英断(文部科学大臣を説得すればよい)が下され、教育機関から小便器が一掃されれば、数年後には男の子も女の子も同じ健康状態になれるのではないか。これが更に普及し一般化すると、高速道路等の休憩所にあるトイレなどでは、男女とも長い待ち行列が発生することになるかもしれない。これも男女格差をなくすという観点から見れば、望ましいことではないかと思うが、どうであろうか。

 トイレのふたの話が、男女格差をなくすという社会問題に及んでしまった。炎上すると困るので、このくらいにしておこう。

2014年11月4日火曜日

おかしな解釈

「生きた言葉」と「死んだ言葉」のリライト版 「おかしな解釈」をホームページ上に掲示しました。

   http://www.hi-ho.ne.jp/skinoshita/sture119.htm

 寝床の中でラジオを聞いていたら、生島ヒロシさんが「煮詰まる」という言葉を使っていました。前後の文脈から、明らかに「行き詰まった」というおかしな解釈の方で使っています。“おかしな解釈”の世代間ギャップは、もうそこまで迫ってきているのですね。驚きました。

  テレビやラジオのアナウンサーが使いだすと、世代間ギャップは確実に身近な存在となってきます。もうかなり前から、NHKのアナウンサーは世論(せろん)を「よろん」と発音していますね。世論と与論(せろんとよろん)を区別できない世代間ギャップは、もう確実に私の後ろに迫っています。飲み込まれそうです。怖いですねぇ~。■

2014年10月28日火曜日

「生きた言葉」と「死んだ言葉」

    ━━ 新しい言葉との出会い
 日本語の慣用句の使い方について、文化庁が行った世論調査の結果が発表された。それを紹介した新聞記事を読んでいると、私はいつも自分の無知と不勉強を(密かに)恥じていたものである。ところが、今年の発表の多くは自分の理解の方が正しくて、逆に若者達(多分)の新しい解釈に驚かされることの方が多かった。これは前回発表の後、私の国語力が急に向上したとは思えないから、若者の解釈が多様になってきたと考えるべきであろう。

 たとえば「煮詰まる」は、正しくは「議論や意見が出尽くして、結論が出る状態になる」ことであるが、最近は「議論が行き詰まってしまって、結論が出せない状態になる」という意味に解釈している人が4割近くいるという。しかも一部の辞書には、この両方の意味がともに載るようになったとのことである。

 言葉というものは時代とともにその意味が変化していくものらしい。新しい意味が追加されると、その分だけ言葉の表現力が豊かになったと言える。しかし正反対(*1)の意味が追加されることになれば、世代間で意味の解釈が異なることになり、場合によっては正確な意思疎通の妨げになる恐れもある。そうなると、もはやその言葉に利用価値はなくなるのではないかと私は危惧するのである。そういう厄介な言葉は使いたくないと思うだろう。
  【注】(*1) 正反対”という立派な言葉が存在するのに、最近「真逆」などという変な言葉が使われるようになった。私めには理解し難いことである。

 同じ言葉が正反対の意味になってしまうような“おかしな解釈”が頻繁に出現するようになった背景はある程度推察することができる。
 ここでは、自分の知らない“新しい言葉”に出会ったとき、我々はどのように対応しているか(あるいは対応してきたか)を考えてみよう。

 私が「新しい言葉」に出会うのは、主に読書を通じてである。本を読んでいて未知の言葉に出会うと、まず前後の文脈との関係からその意味を推測して自分の脳内辞書に登録する。意味が分からなければ辞書で調べることもあるが大抵はそのまま読み進むことになる。中学生時代に習った国語教師のW先生からは、本の文章から「生きた言葉」を学ぶように、と教えられた記憶がある。辞書に書かれた言葉は、いわば「死んだ言葉」であり、いろいろな意味が列記されていてもどのような文脈で使われるのかは分からない。それに対し本の中で出会った場合は、前後の文脈を繰り返し読んでその意味を推測することができる。前後の文脈とともに覚えた「生きた言葉」を学ぶことの重要性を教えられたのである。更に、本の中で使われた言葉であるから、当然正しい使われ方をしていることが保証されていると思ってよい。

 ところが、最近の若者達(多分)は本を読まない世代であると言われているから、おそらく会話を通じて、あるいはネット上の文書の中で新しい言葉に出会うのであろう。会話の場合は、録音でもしない限り前後の文脈はすぐ忘れ去られ反芻できない。そうなると前後の文脈とは無関係に、その言葉だけから意味を推察しなければならない。漢字表現も同音異義語にすり替わってしまう可能性がある。その会話の中で正しく使われたという保証もない。間違って使われた場合は間違って覚えてしまう可能性が高くなる。ネット上の文書では正しく使われているかは全く保証の限りではない。結局、「死んだ言葉」ばかりを自己流で学んでいることになるのではないかと思う。こういうステップを踏んで覚えた言葉から“おかしな解釈”が生まれてくるのではあるまいか。

 新しい言葉の意味を辞書類で調べるのは、この文脈からの推察を行った後にすべきであろう。そうすれば、更に広い活用法が見つかり語彙を増やすことができるかもしれない。■

2014年9月26日金曜日

文章を読んでもらう方法

   -- 長過ぎる文章は誰も読まない(長文です)

 最近、本が売れていないという。特に紙の本を読む人が少なくなったような気がする。その代わりに電子書籍が読まれているのならよいのだが、必ずしもそうなっていないのではないか。誰もが携帯端末を持ち歩き、始終画面に視線を落としているけれど、ゲームをやっていたり、文章を読んでいてもそれはメールの文面であったりする。

 最近の私は、ネット上の文章を読むときはさらっと斜め読みする癖がついてしまっている。一方、紙の本を読むときは、自然と集中度が高まり「精読する」のが習慣になっているようだ。この差はどこからきているのだろうか。

 私は、文章の作成者に対する信頼度の差ではないかと思う。
 出版された紙の本ともなれば、必ず編集者や査読者がいて複数の人間による内容のチェックが行われている。それだけ内容への信頼度は高いと言える。

 分厚い本であっても、最初から読む覚悟があって読み始めたのであるから(途中で挫折することはままあるが)兎にも角にも最後まで読み通そうとする覚悟だけはできている。そして首尾よく読了すれば、かなりの知識が得られることも分かっている。作成者の名前が知られていれば、その可能性はかなりの確率で保証されていると言えるであろう。

 それに対し、ネット上の文章は読んでみないと分からない。誰の査読チェックも受けていない可能性が高いから、内容的に信頼するに足るものかどうか甚だ疑わしい。電子書籍と言っても、査読を受けずに誰でも簡単に出版できる時代である。

 読了するまでにどの位の量の文章を読まされるのかも分らない。どんな成果が得られるか分からないのに、大量の文章を読まされるのはつらいことである。作成者の名が分からない場合は、作者不詳の文章を読まされているのとたいして変わらない状態である。仮に作者の名前が分かっていても信頼度の確認までは難しい。

 ネット上でたまたま出会った文章と、あるテーマを関して探し続けた結果出会った文章とでは、読む側が持つ熱意・意欲にも大きな差が生ずるのは明らかであろう。普段、さらっと斜め読みしたくなるのは仕方のないことである。

 このように、紙の本の文章とネット上の文章とでは、その読まれ方に著しい差があることが分かる。したがって、ネット上に文章を公開する者は、自分の文章をしっかりと読んでもらいたと思ったら何らかの工夫をしなければならないことになる。

 まず、人に読んでもらいたければ、文章をできるだけ短くすることである。ネット上では、「長過ぎる文章は誰も読んではくれない」と覚悟すべきである。これはSNSの影響かもしれないが、短い文章で全体を歯切れよくまとめないと読んではもらえない時代である。長い文章だと“tl;dr”とされてしまうからだ。つまり“Too long; didn't read”の略で、「長すぎて読まなかった!」と言われてしまう。メール文化が盛んになった頃、メールで報告する際に何でも添付ファイルで送りつけておけば報告したことになると誤解していた時代があった。読んでもらえなければ、結局は報告しなかったのと同じなのである。

 タイトルも含めて「冒頭の数行の書き方で勝負は決する」と思わなければならない。しかし、こうやって「文章を短くすべし」と主張しながら、その本人はダラダラと長い文章を書き連ねているのが実態である。自分の真意を間違いなく読者に伝えたければ長文を厭わず、誤解されないよう、詳しくかかなければならない。難しい問題である。この文章の冒頭に(長文です)という断り書きを付しておいたが、これが最低限の礼儀作法なのである。

 そこで(無名で、他人から信頼もされておらず、文章も下手な)私めは、次のような方法を取っている。

(1)適度な長さの文章を作ったら、まずそれをブログ上に公開する。
(2)次にフェイスブック上に、その要約を数行にまとめて公開する。このとき、更に詳しく知りたいと関心を持ってくれた読者に備えて、ブログの文章を読めるようリンクを張っておく。
(3)1~2週間すると書き直したい部分が出てくるものである。ブログの文章全体を見直して完璧なものにしてから自分のホームページ上に掲載する。

 フェイスブックに掲載した記事はすぐ底に沈んでいって再び読まれる可能性はなくなる。ブログの記事も同じように底に沈んでいくが、普通は日付順に管理されているので比較的簡単にサルベージできるものである。それでも、その記事の存在を知らないと探し出すのは無理であろう。検索ソフトに拾ってもらうのを期待するしかない。

 一方、ホームページ上に掲載する場合は、しっかりと構造を決めて整理・分類されていれば、一般の読者でも後から容易にその記事を見つけ出してもらえる利点がある。検索ソフトに見つけ出してもらえるよう複数のキーワードを設定しておくこともできる。

 どうです、貴方(女)も試してみませんか。

2014年9月1日月曜日

自転車から身を守る法

 5つ折りにできる杖を利用して、自分の肩幅程の長さの棒を用意する。


(私の護身用の杖)
この棒の使い方のコツを、以下に列挙する。

▼普段は右手に下げて持ち、後方から来る自転車に注意を促す。
▼前方から自転車が来たら、できるだけ早い段階で杖を横向きにし、両手でしっかりと保持する。
▼両手で持つ位置はベルトの下あたりがよい。すれ違う際に必要なら上下に保持位置を変えて身を守る。
▼自転車の動きに注意を払うのは当然であるが、決して自転車を走らせている人と視線を合わせてはならない。
▼十分に広い歩道上で自転車1台、歩行者1人の状況であっても決して気を許してはならない。後方の状況によっては、すれ違う直前にお互いに接近せざるを得ない状況になるかもしれないからである。
▼特に子供の運転する自転車は、突然に方向を変えることがあるから注意が必要である。守るべき位置も下になる。

▼このように、自転車の存在には常に厳しく対応するが、歩行者には逆に最優先で進路を譲るよう心がける。

詳しくは、「護身用の杖」を参照されたい。

2014年8月12日火曜日

自転車が怖い

 先日、ウオーキング中に自転車と接触し怪我をしてしまった。
 暑さのため熱中症に対する注意が叫ばれている時期に、何もウオーキングなどしなくても… と言われるのは重々承知しているが、私は毎日運動して汗をかかないと気がすまない性格(たち)なのである。

 多摩川のサイクリングロードを1時間ほど歩いて帰路につき、家の近くの幹線道路沿いの歩道上を歩いているときに事故は起きた。この歩道は幅2メートル以上もある広い道で、普段から自転車もたくさん走っている。私はその道の右側を行儀よく歩いていたのである。向こうからも同じ側を歩いくる人が目に入ったので、遠慮深い(?)私めは早めに進路を中央側へと移すことにした。後ろから来る自転車や人に注意を払いつつ徐々に進路を左側へと移していった。相手とすれ違う間際になって、前方から突然自転車がやってきてすれ違う直前の二人の間をS字に蛇行してすり抜けていったのである。自転車はスピードを出しておりかなり危険な行為ではあったが(よくあることで)何事もなくやり過ごすことができた。しかし次の瞬間、その自転車の陰からもう1台、小学生らしき子供の乗った自転車が現れ、同じスピードで同じようにすり抜けようとした。私の振りだした右手の甲とその自転車の右ハンドルの先端とが激しくぶつかったのである。相手は振りかえりもせず、そのまま走り去ってしまった(親子連れだったのか?)。

 右手を見ると、甲の部分が打撲でみるみる膨れ上がってきている。短時間の間にこれほど急激に腫れあがるのを見るのは2度目の経験であった。1度目はアメリカでの自動車事故のときであったから、それを思い出して精神的にもかなりのショックであった。急いで家に帰り患部を保冷剤で冷やし応急手当を行った。

 それにしても、この程度の打撃でこれほどの怪我になってしまうとは、予想外のことであった。打撲でかなりの内出血をしているように見える。外部からの打撃に対して著しく弱くなっているようだ。齢を取ったせいもあるが、実は私は日頃から抗凝血薬を飲んでいて、血液が固まり難くしておく必要がある身なのである。その結果、切り傷や内出血などの出血ではなかなか血が止まらない。やっかいな身体なのである。もっともっと気を付けて行動しなければと反省した次第である。

 歩道上での自転車の怖さについては、以前「歩道を歩くのが怖い」で述べたことがあるが、後ろからやってくる自転車の怖さについて言及したものであった。しかし最近は前から来る自転車の方が怖い。それも若者だけでなく、女子学生・子供・家庭の主婦の乗る自転車の方がぶつかる頻度が高いのである。その原因は、自転車の荷台に置いてあるもの、あるいは子供を乗せるための補助具等が両側に飛び出していて、それがすれ違いざまにこちらにぶつかるケースが多いからだ。このようなとき、相手はぶつかったという認識がない。ハンドル部分さえ無事に通れば、それより後ろのことは自分には一切関係のないことで御座んす、という訳である。
 自分には責任がないと思うから大抵はそのまま行ってしまう。こちらは腕や肘の辺りに被害を受けるが泣き寝入りするしかない。

 思うに自転車の側からは、通行人というのは“腰の幅”しか意識する必要のない単なる障害物と見ているのではないか。それ以外の空間は全部自分の通れる空間だと思っているふしがある。その結果、自分の自転車のハンドル部分が通過できる隙間さえあれば、絶対にすり抜けられると信じて猛然とその狭い空間に侵入してくるのである。“腰の幅”の外側には腕が振り出される領域があることなど全く予期していないらしい。少なくとも“両肩の幅”を持つ障害物と認識してほしいのである。

 歩道上を歩いているときは自転車が怖くて仕方がない。これからは、両腕の肘から下の部位を衝撃から守る工夫をしなければならない。
 いろいろ思案した結果、家にあった女性用の杖を利用しようと思い娘に相談したところ大反対されてしまった。自転車にぶつかると相手の自転車の方が危険だと言うのである。そうかもしれないが、こちらの命も掛かっているのだから。
 何か良い護身用具(プロテクター)はないものだろうか。軽くて、強固なプロテクターを誰か考案してくれないでしょうか。

2014年7月11日金曜日

号泣県議

 不自然な日帰り出張を繰り返していた兵庫県議が、その政務活動費の詳細を問われた記者会見の場で突然泣き叫ぶ事態となった。
 昔ならローカルな珍事件としてそのまま忘れ去られてしまうところだが、今はインターネットの時代である。その映像があっと言う間に全世界に発信され、更に物議をかもすことになってしまった。何ともはや、日本人として恥ずかしい限りである。話題にするのも躊躇したくなるような出来事であった。

 この県議のことを、各メディアは“号泣県議”と呼ぶことで意志統一されたようであるが、私はこの“号泣県議”という呼び方だけは大変気に入っている。最近の若者達は「号泣」の意味を誤解しているので、それを正すのに絶好の事例が見つかったからである。

 大学の授業で情報倫理を教えているが、リポートを書かせると日本語の意味を取り違えている学生が予想外に多いことに気が付く。このままでは、社会人になったとき恥をかくことになるのではないか。それが心配で、私は授業中にできるだけ機会をとらえては、いろいろな用語の正しい読み方や本来の意味を教えている。

 それらの経験は
  「変な日本語表現(その1)
  「いい加減な日本語力
   「ネット世論
等にまとめられている。

 そこでも紹介したように、最近の若者達は「号泣」という用語をただ「泣く」という意味で気軽に用いているようだ。これは本来は「大声を上げて泣き叫ぶ」ことである。
 これは若者に限らず多くの人が意味を取り違えているように思う。先に、IOC総会の場で東京オリンピックが正式決定された際も、現地取材していた記者の一人が「私も、思わず号泣してしまいました」などとリポートしていたのが今でも私の記憶に残っている。男はそんなに簡単に号泣したりしないものだ。男が号泣してよいのは、自分の親が亡くなったとき(と財布を落としたとき)だけと昔から決まっている(性差別をなくすことを重視する現在では「男は…」の部分は不要であろうが)。

 某国の将軍様が亡くなったとき、国民が競って泣き叫んでいる姿をニュース映像で見たことがあると思う。泣き叫んで悲しみを表現することが忠誠心の証しだと考えている国であるから、国民は皆競って号泣し誰よりも派手に泣き喚くのである。国民性の違いとはいえ、傍から見ていても決して人の心を打つことはない。むしろ異様な光景であると思えてならない。
 今まで私は、この事例を挙げて学生達に「号泣」の意味を説明していたのだが、これからはただ「号泣県議」という固有名詞(?)を出すだけで、万事了解してもらえると確信している。そして、無闇に号泣したりしない立派な大人になろうと努力してくれることであろう。

 ところで、なぜ「泣く」の代わりに「号泣」という表現が使われるようになったのか。その点を少し探求してみようと思う。
 週刊誌の広告などを見ていると「号泣」という語が頻繁に使われているのに気が付く。広告では簡潔な表現が求められるから「泣く」という動詞を使うよりも名詞で止めた方が全体が簡潔になる。「泣く」という意味の名詞で適当なものがなかったので「号泣」が選ばれたのではないか、と私は推測している。その広告を見た若者達は、この「号泣」という表現の方が単に「泣く」と言うよりも格好いいと思ったのであろう。

 そこで「泣く」を意味する名詞を調べてみた。

 涕泣(ていきゅう):涙を流してなく
 嗚咽(おえつ):むせびなく
 欷歔(ききょ):すすりなく
 感泣(かんきゅう):感動してなく
 慟哭(どうこく):声を上げて嘆きなく
 哀哭(あいこく):声を上げて悲しみなく
 

 「泣く」を表現する漢字には声を発するものが多い。単に「涙ぐむ」というやさしい泣き方の名詞は見当たらないようである。私が捜した限りでは、涕泣(ていきゅう)、降泣(こうるい)くらいしかない。見慣れぬものばかりである。
 もっとポピュラーなものはないのかと自分でも考えてみた。そこで思いついたのが「落涙」である。これなら普通に使えると思うが、どうであろうか。

2014年6月26日木曜日

親知らず

 どうやら、長らく眠っていた私めの“親知らず”(第三大臼歯)が、この齢になって急に目を覚まし動き出したようである。

 実は2か月程前、口の中の左上部に口内炎ができてしまった(これは、よくあること)。その口内炎は直ぐ治ったのだが、その中心の部分にどういう訳か小さなポチッとした突起状のものが残ってしまった。2か月程経ってもその状態が変わらないので口腔外科で診てもらうことにした。

 診察してくれた医師は「これは骨ですねぇ~」と言う。つまり骨の部分が出っ張っているのだと言うのだ。予想外の診断結果に、癌だと言われるかもしれないと内心(ちょっぴり)覚悟していたので正直なところホッとしたのである。そこで「安心しました」と言ってそのまま帰ってきてもよかったのだが、どうも何か合点がいかない。骨が出っ張っているのなら以前から気が付いていた筈である。最近出っ張ってきたとしか思えない。そのとき、ふと私は気が付いた。これは親知らずではなかろうかと。

 医師もその可能性はあると私の意見に同意してくれて、早速X線写真を撮って調べてくれた。その結果、可能性は益々高くなってきたのだが、まだ確定できる段階ではない。少し様子を見ましょう、ということになったのである。

 親知らずという歯は、20歳前後に生えてくるのが普通であるという。平均寿命が短かった昔は、子供の親知らずが生えてくる前に親は亡くなってしまうから、親知らずと呼ばれるようになったらしい。

 医師よりも先に「親知らずではないか?」と気が付いたのには実は理由があった。私は歯の手入れは十分にしてきた積りなので、この齢になるまで無事にすべての歯を維持してきている。ただ残念なことに、生来左下の奥歯(第二大臼歯)が1本欠けていた。そのため、対応する左上の奥歯の方が、噛み合う相手がなくて役目を果たすことなくさびしく存在し続けていたのである。

 その歯が、長い年月の間に少しずつ下に伸びてきていた。なぜ伸びてくるのかは分からないが、下からの圧力がないのが最大の原因ではないかと思う。更に悪いことに、下に伸びた歯が少し外側に傾きだしていた。そのことに気が付かなかったので、隣りの第一大臼歯との間が少し開いてきたことにも気が付かなかった。そして両方の歯の間のみがき方が足りなかったのであろう、気が付いたときには虫歯になりかかっていたのである。その虫歯を治療するよりも(どうせ使われていない歯なら)抜いてしまった方がよい、というのが歯科医の判断であった。かくして私めは、生まれて初めて“抜歯”というものを経験することになったのである。そのとき歯医者に言われたのは、この歯の後ろに親知らずがあるから、もしかするとそれが生えてくるかもしれませんよ。そう警告されていたのである。

 親知らずも表に出たかったのであろう。それを邪魔している第二大臼歯を長年上から少しずつ押し続けていたのかもしれない。この齢になって親知らずの抜歯を受けるのかと思うと、気が重くなることである。

 年寄りになると誰でも入れ歯のお世話になるものだが、入れ歯ではなく本物の自分の歯(それも新品の!)を与えられるのだから喜ばなければいけないのかもしれない。高貴な年寄りになったことへのご褒美という風に考えられると良いのであるが。

2014年5月22日木曜日

待ち時間に読む本

 私は外出するとき何時もショルダーバッグに本を一冊入れておく。待ち時間に読むための本である。銀行でATMの行列に並んでいる時や、病院の受付あるいは診療待合室で待っている間などに取り出して読む。待ち時間に本を読んでいると、少なくともその時間を“無駄にはしなかった”ような気分になれるのである(有効に使ったとまでは思わないが)。特に、駅で電車の到着を待っているような時はすぐさま本を取り出して読み始める。慣れてくると瞬時に物語の世界に没入できる。すると、不思議なもので電車は直ぐにやって来る。

 携帯する本は、バッグからの出し入れがしやすい文庫本サイズのコンパクトなものが向いている。更に、頻繁の出し入れに耐えられるよう、あらかじめ丈夫なカバーを掛けておくとよい。
 本の種類は技術書のような難しい本ではなく、血沸き肉躍る面白い内容の本であることが望ましい。この条件さえ満たしていれば、電車は直ぐに来る! それこそ、あっという間にやって来る(これは私が保証する)。

 待ち時間向きの本として私は海外作品のリーガルサスペンス物が一番好きなのだが、最近読んだものでは本屋で偶然に見つけた「素数の音楽(*)という本が最高であった。
  【注】(*)新潮文庫「素数の音楽」マーカス・デュ・ソートイ(冨永星訳)

 周知の通り「素数」というのは数学の世界では最も注目度の高いテーマであるから、どちらかと言えば技術書という分類に属する本である。しかし素数の研究に取り組んだ数学者たちの業績、歴史、あるいはその裏にある人間臭い数々のエピソードを読んでいると、面白くて、面白くて、思わずのめり込んでしまうのである。もちろん数式も沢山登場するが(残念ながら1か所だけ数式が間違っている)、意味を理解するのにそれほど苦労することはない。

 著者のデュ・ソートイは、オックスフォード大学数学研究所の教授であり、科学啓蒙という業績により大英帝国勲章を受章している。難しい科学のテーマを分かりやすく教える特技を持っている人らしい。そういう人が書いた本であるから尚更興味深いのである。

 待ち時間に読もうとすると、以前中断した箇所から読み継ぐ際に少し戻ってもう一度読み返す必要に迫られることもある。そうやって復習している間に電車が来てしまい、結局一行も前へ読み進めないまま再び中断しなければならなくなることもある。これは過密ダイヤのせいなのかもしれないが。

 断片的に少しづつ読み進んでいくと、どうしても読了するまでに時間が掛かる。それだけ長く楽しめるとも言えるが、全体的な感銘度や理解度は少し落ちるのではないかと思う。できれば、電車が絶対に来ないところで、もう一度最初からじっくりと読んで見たいと思う。

2014年4月15日火曜日

Windows XP マシンを捨てる?

 Windows XP のサポートが終了するという事態になり、世間の動向に押されて私めも重い腰を上げざるを得なくなった。自分の手持ちのパソコンを見直すことにしたのである。
 普段から、Windows系のパソコンは常に複数台を確保し、非常事態に備えつつ自分の開発環境を守ってきた。現在は主力マシンはWin-7マシンで、補助のマシンとしてWin-XPマシンを充てている。このXPマシンの方を処分しなければならないのだ。Win-8マシンはまだ入手していなかったので、この際消費税が8%になる直前の機会を捉えて買い換えることにした。

 Win-8マシンはタブレット指向で使い難く今まで敬遠していたが、Win-8.1にバージョンアップされ少しは使い勝手も改善されたようである。かくして、私はWin-7マシンとWin-8.1マシンの利用者となった。

 しかし何か割り切れないものがある。自動車や電化製品等で欠陥が明らかになると、普通はリコールされたり、命に関わるような事故が予想される場合は最後の1台まで見付け出して代替品に無償交換するのがメーカー側の務めであるように思う。そう思ってきたから、大量のWin-XPマシンが世の中に存在しているのにソフトウェア会社(MS)側が「もはや、これまで!」とすべて買い替えるよう勧めるキャンペーンを始めたのには正直驚いた。これからは、こういう売り方をするのが主流になるのであろうか。それに対し誰も異論をとなえようとしない。これは少しおかしいのではないか。

 新聞記事では「13年間もサポートしてくれた」とか、TVニュースの女性キャスターが、ふと「無料でソフトを提供してくれればいいのに…」ともらすと(私はまったく同感なのだが)、直ぐさま批判の声が起こったりしている。全員がソフトウェア会社の側に立っているように思える。Windowsというソフトウェアに不具合があり、その作成に携わったソフトウェア会社が「もはやこれ以上は直せない」と言って投げ出してしまったのである。

 一方、それをささえるコンピュータ本体(ハードウェア)の方には何の欠陥もない! コンピュータ会社は、お客が買い替えで新たなコンピュータを沢山買ってくれればよい訳だから、ただ黙っているのが得策であろう。私もコンピュータ会社の一員であったから、その点はよく理解できる。しかし同時に、苦労して造ったマシンが何の欠陥もないのに、ただソフトがないからという理由だけであっさりと捨てられてしまう。この事態を見て悔しい気持ちにならないとしたら、それは開発に携わった技術者として少しおかしいのではないか。
(Win-XPマシン)

 私は不要になったWin-XPマシンを前にして、一人悔しい思いをしている。特にこのマシンは、大学の講義で使うために携帯に便利なようにと超薄型で超軽量のものを選んで買ったので当然高価であった。Win-Vistaマシンとして購入したが、Vista が実用にならないのでXPにダウングレードしたものである。まだ6年しか(!)使っていない。こんなデザインの良いものを、悔しい! 昔の仲間達が造ったものを簡単に捨ててたまるか。何とかこのマシンを使えるようにしたい。私はそう思いつつ思案しているところである。

2014年3月19日水曜日

メダルをかじる

 オリンピックやパラリンピックでのメダル授与式で、メダルをかじるパフォーマンスが話題になっている。私は以前から何故選手が“メダルをかじる”のか理解に苦しんでいたが、その関係の新聞記事を読んでやっと合点がいったのである。どうやらメディア関係者が選手にそういう行為をするよう要求するのが原因であるらしい。しかしメダルをかじる行為が何を意味するのかに言及したものはなかった。

 昔流行った西部劇映画の熱烈なファンなら誰でも知っていることだが、昔は金貨を手に入れたらそれが本物の金であることを確かめる必要があった。その確認のために“咬んで”みるのである。歯型が付く程度に柔らかければ本物の可能性が高いが、固くて歯型が付かなければ間違いなく偽物なのだ。決して“かじって”いる訳ではない。

 そういう習慣があったことを知っていれば、表彰式でメダルを噛む(かじるのではない!)という行為は、それが本物であることを疑っていることになるから甚だ礼を失した行為であるといえよう。ましてや、金ではない(銀メダルや銅メダルの)受賞者にメダルを噛む行為を要求するのはあり得ないことである。

 私は、メディア関係者に以下2点の間違いを指摘したい。
金メダルは“咬む”のは構わないが“かじる”ものではない。
金メダル以外のメダル獲得者にメダルを咬むことを要求するべきではない。

2014年2月8日土曜日

リケジョ

 “リケジョ”という言葉が流行っている。小保方晴子さんのSTAP細胞に関する研究成果の劇的な報道があった後は、尚更話題になる機会が増えたように思う。
 リケジョとは、理科系の科目を学んでいる(あるいは、学んだことのある)女性を指しているが、そういう経歴を持つ職業人(主に、技術者、研究者等)に対しても使われているようである。確かに、理科系の科目を専攻する女性は、比率的には理科系男子より数が少ないかもしれない。しかし専攻する科目によっては女性の方が多い科目も存在する。

 世間では、将来の進むべき方向を「理系か」,「文系か」という二者択一で選ぶ傾向があり、女性は文系のコースに進むのが普通だと考える ある種の偏見のようなものがあるのだろう。それなら、文系に進む男子の数は少ないかというと、必ずしもそうとも言えない。その証拠とはならないけれど、文系男子を“ブンダン”とか“ブンメン”とか呼んで特別視する造語は(私の知る限り、今のところ)存在しないじゃないですか。

 “リケジョ”という表現は、理系の女性を一括して表現できる便利な言葉だと私も思う。しかし、このようなカナ表現の4文字造語はどうもいただけない。初めて聞いたとき、直ぐその意味を理解できないからである。それに対し“就活”,“婚活”,“終活”などの造語は、使い慣れている生活という言葉から容易に意味を想像することができる。カナ文字だけの表現ではそうはいかない。日本人は漢字という表意文字を持っているのだから、もう少し表現方法を工夫したらどうかと思うのである。

 以前、書道をやっている母親から“”という字を教えてもらったことがある。女偏の付く字にはあまり良い意味がない。
”,“”,“”,“”,・・・
”という字にしたところで、“”は常に“”に居るものだという封建的な考え方から発する字なのである。しかし“”という字は「けん」と読み「女をみがく(磨く、研く)」という良い意味があるというのである。つまり、

 (女 + 研) 女研 妍

ということである。
 これを真似て、女偏の付く新しい漢字の造語を作ったらどうか。たとえばリケジョは、(女+理)系、つまり“女理”あるいは (女+里)(*)、つまり“女里2”と書いて表現するのである。
【注】(*)(女+里)という文字は存在するが、ここには表示できない。

 たとえば、小説の中などで、
 「ワタシ、女里系なんですぅ~
というように用いる。
 「ワタシ、リケジョなんですぅ~
などと表現する女性がどこにいるというのか?

 今や我々は、日本語ワープロを用いて文章を書ける環境にいるのだから、ちょっとしたアドインソフトを用意すれば、誰でも簡単にこういった漢字の造語を作れる時代になったのではないかと思う。

 (男 + 理) ⇒ 男理
 (女 + 理) ⇒ 女理女里
 (女 + 研) ⇒ 女研妍

 貴方(女)いや、…貴娚も挑戦してみては如何?■

2014年1月20日月曜日

“ながらスマホ”の時代

 歩きながらスマートフォンを使うことを「歩きスマホ」と呼ぶようになって間もないのに、もうこの言葉が国語辞典等に取り上げられているという。驚きである。これは、歩きスマホという行為が世間に及ぼす影響の大きさを示すものでもあろう。歩きながらケータイを使うのに比べて、スマホの場合ははるかに危険な行為であることが分かってきたからである。

 「走りスマホ」と言うのもある。これは、マラソンや駅伝の選手がスマホを活用して自分の予想ラップタイムを確認したり、コーチからの指示をメールで受け取ったりするのに利用する行為(そんな訳ないだろ)… ではなく、自転車で走りながらスマホを利用することを言う。まあ「自転車スマホ」と呼ぶ方が分かりやすいかもしれない。

 私は先日、この「自転車スマホ」をしている人にたまたま遭遇してしまった。それはそれは見事にスマホを使いこなしているように見えた。両腕を肘のところで曲げて自転車のハンドルの上に置き、肘から下の腕の部分だけでハンドル操作をする。そして空いている両手でスマホを持ち指先で画面操作をしながら時々前方に視線を走らせる(実は、このとき私としっかりと視線が合ってしまったのだ)。このようにして、ゆっくりと、ゆっくりと自転車を走らせていたのである(決して真似をしてはいけません)。

 「授業中スマホ」と言うのもある。授業中、講義も聞かずに机の下あるいは机上に置いたスマホの画面を指の先でつついている姿をよく見かけるようになった。もちろん私は「授業中スマホ」を禁止しているのだが、そんな注意は聞きもしない。注意した直後は止めた振りをするが、しばらくするとまたスマホに没入してしまっている。困ったことである。
 「久しぶりにスマホに90分間触らないでいました」という感想を寄せた学生もいた。他の授業の先生は、まったく注意をしていないらしい。

 企業人から大学教師に転じた当座、私は授業中の私語(おしゃべり)に悩まされたものだが、ある年を境にして授業中の私語がまったくなくなった。後から気が付いたのだが、それはケータイが流行りだした頃であった。私語するよりケータイで遊んでいる方がはるかに楽しかったのであろう。このように、携帯端末の存在が授業に及ぼす影響は年々大きくなってきている。そして今年は、スマホの存在(とその性能)が授業に影響を及ぼした年として後々まで記憶されるのではないかと思う。「授業中スマホ」を禁止しても、もはや守られなくなった年として。

 更に、スマホの充電能力が貧弱なので授業中に充電しようとするけしからん輩が増えてきたことである。家で十分に充電しておいても、大学へ行くまでの電車の中で使い、授業中にも使い、休憩時間にも使い…していると、その日の午後になるともう電池切れになってしまうのだという。したがって常に学生達は電源を求めて歩き回っている。いつでも充電、どこでも充電… と。

 私は「情報倫理」の授業中に、教室の後ろの方まで歩いていった折に教室の隅のコンセントに2台のスマホが接続されて充電中であるのを発見した。こういう行為を「盗電」と呼ぶことを事前に教えていたのであるが。
 授業のついでに充電していると言うよりも、充電のついでに講義を聞いているという感じなのである。

 食事中のスマホ、授乳中のスマホ、デート中のスマホ、… 。
 恋人同士が手をつないで歩きながら、それぞれの空いている方の手にスマホを持ち、それぞれがスマホを指で巧みに操っている。これが普通の風景となる日も近いのではないか。いよいよ「ながらスマホ」の時代になったということであろう。