2009年5月29日金曜日

ソフトウェアの法則 から
【設計変更の法則】

 変更可能なものは、永遠に変更され続ける。
 変更不可能なものも、時間が許す限り変更され続ける。

2009年5月24日日曜日

ソフトウェアの法則 から
【マシンの世代に関する法則】

 最新のマシンを持っている人は、それを自慢できる。
 一世代前のマシンを持っている人は、
   それを使うことにまあ我慢ができる。
 二世代前のマシンを持っている人は、
   それを使うことに何とか耐えられる。
 三世代前のマシンを持っている人は、
   それを使うことに耐えられない。
 四世代前のマシンを持っている人は、
   それを使っていることをもはや公言できない。
 五世代前のマシンを持っている人は、
   持っていることを自慢できる。

2009年5月21日木曜日

裁判員制度スタート

 裁判員制度が始まった。
 日本では、立法、行政、司法の三権のうち、立法権と行政権は議員内閣制のもとで国民の意思が反映されるようになっている。しかし司法権だけは、これまで裁判官というプロの法律家にまかされてきた。ただ最高裁の裁判官のみは、任命後初の衆議院議員総選挙の際に国民審査という洗礼を受けるが、これで国民の意思が反映されているとは言えない。国民が、陪審員や裁判員として司法参加するのは、先進国では標準となりつつあるから、日本もやっとそういう制度を取り入れて先進国の仲間入りをしたと言えるであろう。

 ただ、そういう難しい話は別にして、国民の大多数にとって関心があるのは自分が裁判員に選ばれた場合の対応の仕方ではなかろうか。私も裁判員の候補に指名されたらどうしようかと思うことがある。しかし幸い(?)なことに、奇しくも裁判員制度がスタートした日の前日に、私めは指名を断ることができる正当な理由(詳しくは書かぬが)を一つ手に入れることになった。それを行使するかどうかは別であるが。

 アメリカには陪審員制度というのがあるが、プロジェクトメンバーが陪審員に指名されると仕事の進捗にも影響してくる。それにまつわる思い出を書いた エッセイ があるので参考にしてほしい。日本の職場でも、裁判員に指名されたので仕事を休まねばならぬ人がこれから増えることであろう。

2009年5月13日水曜日

ソフトウェアの法則から
【自然治癒の法則】

 プログラマの熱い期待にもかかわらず、プログラムの欠陥(虫)が自然に直ることはない。

2009年5月9日土曜日

叱られ方を知らない若者たち

 最近の新入社員教育研修では「叱って育てる」がキーワードになっているという。ゆとり教育の世代には「優秀だが、競争心に欠け、叱られ慣れていない」若者が多いからだそうである。私自身も、ここ数年教育現場にいて、確かにそれを感じてきた。最近の若者たちは、叱られることに慣れていない。だから、たまに叱られると予想外の反応を示す。

 私は講義中に、叱らなければならない場面になることがしばしばある。一般に、叱るには二通りの方法がある。一つは、叱る学生を一人決めて代表者として叱る。いわば一人に犠牲になってもらい、それ以外の学生たちは間接的に叱るのである。もう一つは、誰とは言わずに全員を叱る。当然、叱られる覚えのない学生も含まれるが、それは当然分かっていることである。
 ところが一人を代表して叱ると、それをやっているのは私だけではありませんとか、他にもやっている人がいるから叱ってほしい、叱らないのは一貫性に欠けているなどと不満を言ってくる。
 一方全員を叱ると、私はそんなことはしていないのに先生は一方的に決めつけていると不満を述べる。要するに、普段叱られた経験がないから、叱り方に二通りの方法があって、それを私が使い分けていることすらも知らないのである。

 これは、ゆとり教育による弊害というよりも、少子化による影響ではないかと思う。長年教育環境で過ごしてきた彼らは、学校側にとっては大切なお客様である。少子化傾向の強い昨今では、益々大切に扱わねばならない存在である。どんな些細な不満でも学校側は最大限対応してあげようと努力する。こうして彼らは普段からチヤホヤされて育ってきているのである。
 我々の世代は体罰など普通であったが、現在は“お客様”に対して体罰などもっての外である。理不尽な要求にも一生懸命に対応しなければならない。子供と親が一緒になって、学校側に不平不満を言い立てる。モンスターペアレントなどと言われている。彼らは社会人になって初めて、本格的に叱られることを経験する。しかし自分が長年過ごしてきた学校という環境が、極めて特異な世界であるという事実には気が付かない。そして入社後1か月くらいで耐えられなくなり、ゴールデンウィークの休み明けとともに出社しなくなってしまう。これを五月病という。

2009年5月6日水曜日

ソフトウェアの法則
【謝罪の法則】

 謝りに行く人は、事態の深刻さを正確には把握していない人の方がよい。

2009年5月5日火曜日

2009年5月4日月曜日

ソフトウェアの法則【トラブル対策上の基本的問題点】

 トラブル対策の責任を持つ人は、虫を修正する技術を持たない。
 虫を修正する技術を持っている人は、トラブル対策の責任を持たない。

2009年5月2日土曜日

O.K.CORRAL の写真


●この壁の向こう側が“馬囲い場”です。建物のように見えますが、壁だけです。“牧場”のイメージなど皆無です。実際に見たら誰でも「誤訳だ」という私の主張に納得するでしょう。

2009年5月1日金曜日

OK牧場とO.K.CORRAL

 “OK牧場”と言えば、ガッツ石松の決めぜりふであるが、本当は西部劇映画“OK牧場の決闘”のタイトルとして有名である。
 米国アリゾナ州南東のメキシコ国境近くにあるトゥームストーン(Tombstone:墓石)という町で、保安官ワイアット・アープとクラントン一家が決闘したという史実に基づく映画であることは周知のとおりである。
 私は大学の講義の中で、これを教材にして「バーチャルの世界と現実の世界の違いをはっきり認識していないと困ったことになる」という教訓的事例の紹介に利用している。どのように“OK牧場”から教訓的事例を引き出しているかは、本論と関係ないので控えるが、詳しく知りたい人は、http://www.hi-ho.ne.jp/skinoshita/sture30.htm を参照されたい。
 授業でこの話題に触れた後で、学生の一人が「OK牧場というのは心理学用語ですよ!」と言ってきた。先生はそんなことも知らないのですか、という非難のニュアンスを含んでいる。確かに心理学の分野では“OK牧場”という用語は特別な意味を持っているらしい。しかしそれが語源であるという指摘は完全に間違っている。
 映画の“OK牧場”の原語は“O.K.CORRAL”である。“Corral”とは、馬を入れておく囲いのようなものを指し、いわゆる牧場の意味はない。事実、トゥームストーンは駅馬車の中継点であったから、駅馬車を曳いて長い道のりを走ってきた馬を休ませる場所として使われてきた。実際の決闘は“O.K.CORRAL”と呼ばれる馬囲いの中で行われたのである。しかし映画のタイトルが“OK馬囲いの決闘”では様にならないと考えたのであろう、日本では“OK牧場”と訳されたのである。
 心理学の分野では「O.K.」や「not O.K.」を矩形の中に書いて表現するらしい。この表現を考案した米国の心理学者は、確かに大変しゃれた命名をしたと思う。まさに矩形の囲いだからである。しかしそれを日本語化するとき(多分日本の心理学者が訳したのではあるまいか)“O.K. Corral”を“OK牧場”と誤訳してしまったのである。その結果、西部劇映画(人種差別の問題があり、最近は作られなくなった)に詳しくない若者たちは、“OK牧場”と言うと、その出典は心理学用語であると信じてしまったのであろう。もしかすると学生たちは、「ガッツ石松は心理学にも詳しい」と誤解しているのかもしれない。困ったことである。