2017年5月13日土曜日

高齢者

── 電車で席を譲られる

 人間誰しも、何時かは経験しなければならないと覚悟を決めていることがある。それもあまり歓迎したくない事である場合が多い。そういう事態が突然我が身に訪れた。
 電車に乗っていて席を譲られることを始めて経験したのである。もちろん、これまでにも席を譲られたことはある。しかし明らかに高齢者であるという理由で譲られたことはなかったと思う。私の年齢からして何時かはそういう事態になることは当然予想されていた。それが現実のものになっただけのことで、そんなことは常に“突然”起きるに決まっていると言われるかもしれない。しかし私にとっては“突然に訪れた”と表現したくなるくらいショッキングな出来事だったのである。多分、心底では“予想したくない”出来事だったからであろう。

 そのとき私は、何時もの通り急行に乗って3つ目の駅で降りる積りだったから乗車時間は10分も掛からない。少し混んでいたので入り口から奥の方へと移動した。私が立った位置の前の席では女学生が熟睡している。その右側の席では30歳代と思われる外人の若者がイヤホーンで熱心に音楽を聴いている様子。私は吊革につかまりながら車窓から外を眺めることにした。

 電車は2つ目の駅を過ぎ、次は私の降りる駅になるがこの区間は急行が止まらない駅が続くので比較的長い区間である。突然、右の席の若者が「はっ!」と言うような声を発し突然立ち上がった。乗り越したことに気が付いたという風に見えたが「どうぞ」と言う声がした。私の右側に立っていた女性に席を譲るのだなと思ったが、そうではなく彼の視線は私に向いており私に席を譲りたいと言っていることが分かった。その瞬間、私はかなり動揺した。沢山の乗客が居る中で一番の高齢者と指摘されたような気がしたのである。「いや、結構です」といったんは断ったが、尚も勧められたのでその好意を無にするような失礼があってはいけないと思い「ありがとうございます」と言って座ることにした。すると若者は「ドウイタシマシテ」と返してきた。

 私は、海外から来た留学生が礼儀正しい日本人の中で生活するためのマナーをしっかりと学習しそれを実践している場面を(勝手に)想像していた。「次、降りますから」などと言って断り、折角の好意を無にしている人をよく見かけていたので、ここは日本人として彼の好意をしっかりと受け止めてあげなくてはいけないと思ったのである。

 実は「電車で席を譲る」という行為については以前から考えていたことがあった。以前教師をしていた頃、「情報倫理」の授業で毎年学生に課すレポートのテーマとして「自分の倫理観がどの程度のものか、自身の経験に照らして記述せよ」という課題を出していたのである。そして“自身の経験に照らして”と“手書き”でA4用紙一枚にまとめるという2つの条件を付けることにしていた。こうすると、学生が得意とする「コピペ」という行為がし難くなるのを経験的に知っていたからである。「CDの不正コピー」とか「ソフトウェアの不正使用」とか、学生の立場でも法に触れるか触れないかすれすれのテーマはいくらでもある。そういうテーマを取り上げてくれることを期待して課題設定しているのだが、案に相違して学生たちは「倫理」の意味を拡大解釈し「道徳」の分野に属するテーマばかりを取り上げてお茶を濁そうとする者が多かった。その際に、彼らが取り上げるテーマが横断歩道での「信号無視」と、この「電車で席を譲る」だったのである。

 私は、若者たちのそういうレポートをいやと言う程沢山読まされてきているので、最近の若者たちの電車で席を譲る行為についての考え方を知悉していた。要するに彼らは電車内で席を譲ることができないのである。「譲ろうか、止めようか」で迷う。迷ったら先ず実行されない。この外人の若者は直ぐ決断したのに、日本の若者はそれがなかなかできないのはなぜか。なぜ迷うのか、なぜ躊躇するのかというと、自分が周りの人から「いい子ちゃん」を演じていると思われたくないからなのだと言う。つまり「いい子ぶりっこ」と思われたくないのだそうである。周りの人の思惑ばかり気にしている若者が多い。「こうすべきだ」と思ったら断固実行する人が少ない。まず「周りがどう見るか」を気にしてしまうらしい。

 高齢者や身障者あるいは妊婦らしき人を見つけると、高齢者の私でも席を譲ろうとする。そのときのコツは「譲ろうか」という考えが頭に浮かんだら、迷わず立ち上がることだと思ってそれを実践してきた。あの若者も譲ろうと判断して即座に立ち上がったように見えた。日本の若者たちもこれを見習うべきであろう。

 ただ、あの若者の判断の内、相手が高齢者かどうか判断する能力だけはもう少し磨きをかける必要があるのではないかと思う。日本では高齢者かどうかの判断は大変に難しい。何しろ日本では、経済状況の変化によって「高齢者」の定義が恣意的に変わってしまう可能性がある珍しい国だからである。
 私自身も、高齢者とみなされないように精々努力することにしよう。

 私は、譲られた席に座ったまま尚も考えていた。席を譲ったのに直ぐ立ち上がり電車を降りてしまったのでは彼もがっかりするかもしれない。この区間が少し長かったことで少しは救われるかな、等と考えている内に電車はようやく駅に滑り込み、ホームに到着しようとしていた。丁度良い間合いだ。私は席を立つ際にその若者に向かって「ありがとうございました」と声を掛けてから電車を降りたのであった。私も、彼も(多分)お互いに少し良い気分になれたような気がした出来事であった。■