2013年5月27日月曜日

しっぽの痛み

 私は毎日70分程のウォーキングをしている。腰部脊柱管狭窄の影響で足裏にしびれがあるので、砂利道を素足のまま歩いているような感じのウォーキングである。正直に言うと、もはや“しびれ”ではなく“痛み”と言ってもいいくらいの状態である。しかし、できるだけ痛いという事実を忘れて、自然の姿勢のまま歩くよう努めている。

 最近は、その砂利の中に“釘”が混じっているのではないかと思う程の痛みに突然襲われることがある。そういう時は少し歩幅を狭めてゆっくりと歩くけれど、基本的にはそのまま歩き続けることにしている。決して立ち止まったりはしない。そうしていると、次第に“釘”の痛みは弱まっていく。

 足を怪我している場合の痛みなら、多分私は歩き続けるのは難しいと思う。しかし脊柱管が狭くなっていて、そこを通る神経が圧迫されその刺激が脳に伝えられているだけだと考えれば少しは気が楽になる。問題は、脳がそのノイズを「痛み」の信号と錯覚しているだけのことなのだ。だから私は「これはノイズだ!」「ノイズだ!」と自分自身に言い聞かせつつ我慢して歩いているのである。
 そしてその間に、自然と「痛み」というものについて考える機会が多くなっていった。

 事故で足を失った人が、今は存在しないその足の特定の部位に「痛み」を感じるという話をよく聞く。このことは、実際に痛みを感じているのはその特定部位ではなく、脳の方で感じているのだということを明白に示している。

 人類はその昔、尾を持っていたと言われている。尾を踏まれたらさぞかし痛いことであろう。進化の過程で失われたその尾の神経の一部が、もし今の人類の身体にまだ残っているとすれば、事故で失われた部位が痛むのと同じように「尾を踏まれた痛み」を我々も体験することができるのではないか。つまり、今は存在しない部位であっても「痛さ」を通じてその存在を感じることができるのではないか、などとしょうもないことを考えながら歩いているのである。

 ところで、あなたは「しっぽの痛み」を感じたことがありますか?
 えっ? そんなの感じたことはない?
 そうでしょうね。今まで一度も尾を踏まれた経験がありませんからね。
 しかし私は子供の頃から何度も経験しているような気がするのです。
 いじめにあって、しっぽを踏まれた経験が。

 身体のどこが痛いかその部位を具体的に示せない場合、子供はとりあえず「腹が痛い」と言ってごまかします。しかし大人になると、その痛みのことを「心の痛み」と言って区別する智恵を身に付けます。しかし、あれは「しっぽの痛み」と言うべきではないでしようか。

 自分の心の痛みが分からない人は、しょせん他人の心の痛みなど理解できないと言いますからね。私もこの際一度、自分の「心の痛み」と向き合ってみようと思うのです。
 「痛っ!」 また“釘”だ!