2017年2月21日火曜日

大統領の紋章


━━ トランプ大統領のモットーは?

 トランプ大統領が誕生して1ヶ月となる。先日、テレビで初の単独会見をやっているのを見たが、自画自賛とメディア批判、そして怒号が飛び交う75分間の会見は「独演会」と言った方がよいようなものであった。こういう内容の会見をこれから4年間ずっと続ける積りなのだろうか。本人は8年間は大統領の座に君臨する積りらしい。それを見続ける側も相当なストレスを感じているが、本人は分かっているのだろうか。本人は何のストレスも感じていないのかもしれない。実にタフな人物だと思う。

 先日の新聞に、アメリカ合衆国大統領の紋章に触れたものがあった。ラテン語で“E PLURIBUS UNUM”(エ・プルリブス・ウヌム)というモットーが、建国の理念である民主主義の原理を表すものであることを紹介し、トランプ大統領がこのモットーとは対極にある理念の持ち主であるようだ、という記事だった。

 その文中でモットーは「多くのものが集まってできた一つ」と訳されていたが、私はモットーとしては練れていない訳だなぁと思った(ラテン語の方は全く分からないけれど)。同時に、今は亡き友人の船津剛男氏が生きておられたら、当然一言あるだろうなと思ったのである。

 船津剛男氏は、コンピュータ関係の仕事の傍ら紋章学の熱心な研究者でもあり、私家版ではあるが「論考集:紋章とモットー」という大著をものされている。


図:「論考集:紋章とモットー」

 病気のため入院される直前に手渡された一冊を私は大切に保管している。それを取り出して調べてみると、彼は合衆国大統領の紋章のモットーを「衆を以て一と為す」と訳されていた。うむ、こちらの方がしっくりとくる。

 解説を読んでみようと思ったが、残念ながら論考集は未完であり「論考その1」から始まって「論考その5」の途中までで終わっている。目次によれば、アメリカ合衆国は、最後の章「論考その9:国家と紋章とモットー」に含まれているはずである。長い闘病生活を予想して急遽まとめられたので最後の章まで含めることができなかったのであろう。続きが読めないのは残念なことである。彼のことだから、目次に出ているものはすべて論考が完了していたものと思う。本としてまとめて公表するには、もう少し確認の時間がほしかったのであろう。それが終わらないまま未完になってしまったものと思われる。


 (図:「論考集:目次」

 彼は生前から多くの友人に、「近況報告」とか「うたたね草子」というタイトルのメールを定期的に送ってくれていたので、そういったテーマの話をしばしば聞いていた記憶がある。幸いにして、私は過去にやりとりしたメールは(船津氏のものに限らず)すべて保存しているので探せば出てくるかもしれない。私は電子メールを始めて以来、何度も使用するメーラー(Mailer)が替わってきたが、必ず古いメール類をそのままの形で受け継いできた。今使っているメーラーにも保存されている。捜してみることにしよう。

 早速「アメリカ合衆国」というキーワードで検索した結果、それらしきものが6件出てきた。



 (図:「検索結果」

 かなり読みでのある量の文章である。それらを本人への断りもなくここに表示するのは許されない行為ではあるが、船津氏の卓越した知識力を知るには最適の機会なので、無断で一部を紹介することにする。メールの文章なので論考集の文体とはかなり異なっています。

 (図:「アメリカ合衆国の紋章」

ご参考までに、アメリカ合衆国の紋章(*1)について少し解説を試みたいと思います。
 アメリカ合衆国の紋章には、色々なものが描かれております。中央にアメリカの国鳥である白頭鷲が描かれています。なお、鷲は、キリストの復活と寛大の象徴でもあり、ハプスブルグ帝国の紋章等にも用いられています。キリスト教では福音書著者の聖ヨハネ(St. Jhon)を表します。その白頭鷲の脚に注目していただくと、向かって右側の(紋章用語でsinister)脚で13本の矢を、左(dexter)脚で月桂樹の枝を掴んでいるのが分かります。鷲の頭上には、雲間に輝く13の星(star)が描かれております。鷲の胸のところには、縞(stripe)の入った旗が置かれています。さらに嘴で帯(strip)を咥えています。よくみるとこの帯には何か文字が書かれていますね。この文句こそ、アメリカのモットーです。ラテン語で次のように書かれています。E PLURIBUS UNUM(*2)(エ・プルリブス・ウヌム) Eは「・・・から」を、PLURIBUSは「多くのもの」を、UNUMは「ひとつのもの」を意味します。全体では「多くのものからひとつのものを」という意味ですが、意訳をすれば「衆を合わせ、一を為す」、すなわち「合衆為一」ということです。衆は、元々は多くの人たち大衆を意味する言葉です。明治期の日本人がアメリカのことをアメリカ合衆国と訳したのはさすがでしたね。

【注】(*1)アメリカ合衆国の紋章は、大統領が公式の演説をする時、国章が必ず演説台の前面や後方に掲げられている。
(*2)メールの原文では PLVRIBVS VNVM となっていたので修正した。

 アメリカ合国ではなくアメリカ合国なのである。“”が合わさった国ではなく、様々な人種から成る大“”が力を合わせて作った国ということであろう。トランプ大統領には是非とも知ってもらいたい事実である。彼は“”というものを読まないらしいから理解してもらうのは無理かもしれないが。

 ところで、目次によれば、アメリカ合衆国のモットー「衆を以て一と為す」の次に
 初代アメリカ大統領ワシントンのモットーとして「行為は、結果次第」(Exitus acta provant)が掲載されている。これもメールで検索してみたところ更に興味深いエピソードが書かれているメールを発見した。しかしこれ以上の無断引用は慎むことにします。

 それより私が言いたかったことは、トランプ大統領にはワシントン大統領のモットーの方が似合うのではないかということである。

  「行為は、結果次第

 それとも、トランプ大統領の現状に最も相応しいモットーを我々で考えてあげたらどうでしょうか。

 たとえば、

  「総ては、思い付きから
  「目的は、成り行きのままに
  「総て、見せかけ
  「王様は、裸
  「不都合は、総て偽情報

などどうでしょうか。

 もちろんラテン語の知識はないのでラテン語表現は専門家にまかせることにします。■

2017年2月11日土曜日

歩き方について

── 転ばないためのコツ
 
 歩きながら考えている。
 私は昔から、歩きながら考えるのを習慣としていた。歩きながら、あるいはウォーキング(以前は、ジョギングだったが)をしながら色々なことを考えている。仕事のこと、趣味のこと、何でも思考の対象としてきた。歩きながら考えていると、しばしば良いアイディアが生まれてくるものなのだ。今、私が考えているのは、歩き方についてである。つまり、歩きながら“歩き方について”考えているのである。

 と言うのは、最近歩いていて非常にショッキングな事実に気が付いたからである。普段道を歩いていたり、スポーツとしてウォーキングをしている最中に、自分が女性の歩行者(あるいは女性のウォーカー)に追い越されている事実に初めて気が付いた。歩行速度はそれ程差がないのに追い越されていく。よく観察してみると追い越して行く人と自分の足運びには大きな差はない。ほんの少し私の方が遅くなっている程度である。しかしその小さな差が、長い距離を歩く内に大きな差となって現れているのであろう。
 そこで、私は考えた。齢のせいで身体の動きが鈍くなってきているのではなかろうか。意識的に少し速く歩く努力をしてみよう。

 会社勤めをしていた頃は、何かに追い立てられるようにせかせかと急ぎ足で歩いていたものだ。しかし会社勤めをやめてからは、追い立てられることもなくなり、何事にも時間的な余裕を持って行動するようになった。以来、ゆっくりとした歩調になったのだと思う。
 それからは、努めて早足で歩くよう努力することにした。しかしある時、駅への道を急ぐ途中で、路面の小さな凹凸にけつまずき転倒してしまった。前のめりの体勢で歩いていたためか、したたかに路面にたたきつけられ両手の手のひらに裂傷を負ってしまったのである。

 そこで、また私は考えた。今まで私は、ゆったりとした気持ちで歩いている積りだったが、実は歩行速度が落ちた原因は体力的な衰えによるものではなかろうか。転んだ時も、危うく顔面から倒れる可能性があったのである。危うく両手をついて身体を支えることができたが、明らかに反射神経の方も衰えているようである。これは「歩き方」を矯正する必要がありそうである。

 思い返してみると、最近つまずいて転びそうになることが多くなっているように思う。足を十分に持ち上げないで引きずるように前に出すのが原因なのだ。もっと腿の部分を持ち上げて、前へ振り出すようにして歩かなければいけない。以来、意識的に腿を上げて歩くよう努力するようになった。しかしこれが長続きしないのである。歩きながら考える癖があるので、しばらくすると直ぐ「腿上げ」のことを忘れてしまう。

 そこで、またまた私は考えた。振り出した方の足を着地させる際に、踵の部分から接地させるようにしてはどうか。常に踵の部分に意識を集中させていればよい。この“踵着地”の方が“腿上げ”よりも意識を集中しやすい。しかも、踵着地を実行していると自然に腿上げができるような気がするのである。更に、後ろの足を力強くキックする気持ちで前方に振り出すと、更に効果的であることにも気が付いた。ただ“後足キック”も“踵着地”も、考え事をしていると、つい忘れてしまうのである。困ったことだ。

 そこで、私は再び考えた。腿上げ、踵着地、後足キックも大切だが、「大股で歩く」ことの方を重視してはどうであろうか。ウォーキングの際は常に大股で歩くことが勧められている。私の経験では、考え事をしていても大股で歩くのを忘れたりすることはない。始終意識していなくても“大股歩行”なら続けられそうに思えたのである。

 以来、私の歩行習慣は、
 ・大股歩行
 ・踵着地
 ・後足キック
 ・腿上げ


を実践することとなった。しかし意識的に実行しているのは“大股歩行”だけである。これだけは、考え事をしていても決して忘れることがない。多分、歩幅を変えるという行為は、意識的に行う必要のある行為に属するのではないかと思う。

 このような歩き方を論ずる(?)場合、手の振り方も考慮に入れなければならないが、私はウォーキングの最中に両腕を大きく振るスタイルがどうしても好きになれない。いかにも「私は運動をしています」と主張しているようで、他の通行人の迷惑にもなるし、自分では決してやりたくない動作だ。さりげなく手を振っている方がよいのではないかと思う。両腕を大きく振る歩き方をしたい人は、自転車と同じ軽車両の扱いにして、車道の左側を歩くようにしてほしいものである。

 もっとも、歩き方で一番大切なのは足元をよく見ることであろう。戸外を歩くのは屋内を歩くのと違って、常に路面に障害物があると覚悟しなければならない。ほんの少しの凹凸でもつまづく危険があるから、常に足元に気を配りながら歩くのが一番大切なことである。

 それにしても、私は生まれて来てこの方「歩き方」について、特に人から教えを受けたという記憶がない。ヨチヨチ歩きから始めて、何となく歩きだし、人並みに歩けるようになり、今日に至っているような気がする。正しい「歩き方」というものは、人生の終盤になって初めて意識的に学ぶ必要が出てくる類いのものなのかもしれない。もっとも「人生の歩き方」の方は、人生のできるだけ早い時期に考えておくべきであろうが。■