2016年12月31日土曜日

私のボケ防止法

── 生活習慣の見直しと脳の活性化


 最近の私の最大の関心事は、如何にしてボケないようにするかということである。インターネット上には、認知症の初期症状を検知できると称するサイトが沢山存在する。私も一度試したことはあるが再びやろうとは思わない。傲慢だと言われるかもしれないが、健常者には馬鹿馬鹿しいほど他愛のない検査に見えてしまうからだ。定期的に検査して自己診断したい人には向いていないと思う。

 私が必要としているのは、毎日続けられてボケ防止に効果があり、かつ「自分はまだボケていない」という確信あるいは自信(たとえそれが誤解であったとしても)を与えてくれる類いのものでなくてはならない。つまり、検査ではなく予防効果があるもの(あるいは、ありそう見えるもの)を求めているのである。


▼アンチエイジング
 認知症は老化と密接な関係にあるからアンチエイジングの努力をすることが予防法としては一番効果があると言われている。最近の医学の教えるところによれば、歯周病、糖尿病、高血圧症などのいわゆる生活習慣病への対策が重要であるという。私は、そういう知識がまだ普及していない頃から自然にやっていたことが多いので、今は大変に助かっている。たとえば、

(1)歯のみがき方
 企業人だった頃は、会社で定期的な歯の検診を受けることが義務付けられていたので、検査と同時に「歯のみがき方」の指導を受けていた。そして何度指導されてもうまくできなかったみがき方が、やっと身に付いてきて自らできるようになるまでに数年を要したと思う。定年後の今でも、そのとき習ったみがき方を実践している。

(2)食事での習慣
 食習慣も結婚後はすっかりと変わった。甘味料の多い飲み物は避け、コーヒー類には砂糖など絶対に入れないようになった。その結果、自然に糖質制限の習慣が身に付いてきたように思う。相変わらず甘い物は好きだが、特別なときにしか食べないようにしている(ホントかよ? いや、たまには孫と一緒になって菓子のつまみ食いなどしてますけどね)。
 ただ、食習慣の内「よく噛んで食べる」という最も基本的で最も重要な習慣だけは、せっかちな私には無理で未だに身に付いていない。「空腹は最良のクスリ」と言われているように、空腹の時間帯が一番身体には良いらしいのだが、我慢できずにすぐ間食をしてしまう。困ったものである。

(3)定期的な運動
 昔から休日になると仕事のことは忘れようと思い運動をする習慣になっていた。それがストレス発散に効果があると知ったのはずっと後のことである。
 最近は朝起きる前にベッドの上で20分程ストレッチをしてからゆっくりと起き上がる。それから洗顔をして、ラジオ体操を含むストレッチ体操を更に20分程やっている。
 午後は天気がよければ多摩川の河原で1時間以上ウオーキングをする。昔はサイクリングやジョギングが中心だったのだが、今では女性にも追い越される程のゆっくりとした歩みになってしまっているのが口惜しい。

▼脳を使う
 昔から身に付いている生活習慣に関するものだけなら楽なのだが、頭を使ってのボケ防止も重要である。そのためには常にアンテナを高くし、その方面の新しい知識を仕入れることが重要になる。したがって新しいことを学ぶ意欲がなければならない。

 世間では、新しい「脳を活性化する方法」がいろいろと紹介されているが、私はそれらを試す前に、自分が継続して実践できるかどうかを主眼に評価することにしている。そして続けられそうなものだけを取りあえず実践してみる。継続してできそうもないものは最初から諦める。
 現在続けて実践しているのは、以下のようなものである。


(1)運動をしながら 1,000から 7 を引き続ける計算をする
 これを外出時に歩きながら、あるいは運動中に声を出して行う。声を出してやることが重要なので、通りすがりの人に“変な人”と思われないよう小声でやる必要がある。十の位と一の位を常に意識して計算を続けながら、同時に周囲への注意も怠らないようにする。これが結構難しい。隣人に出会って挨拶したり、見知らぬ人に道を尋ねられたりしたときなどは計算が続けられなくなってしまう。信号に気を付けたり、自転車を避けたりと計算の妨げになる出来事があとからあとから起こってくるが、計算を惑わされないよう最大限努力する。場合によっては一時計算を停止する必要に迫られることもある。再開するには直前に発した声が“耳に残っている”のでこれを活用するとよい。

 いろいろな事に細かく気を配らねばならないので自然と頭をマルチで使う能力が養われる。外出時の往路と復路で一回ずつ計算が成功裏に終了できれば「良し」としているのだが、これがなかなか難しい。最近やっとうまくできるようになってきたが、始めてから実に3年以上が経過している。


(2)2桁の加減算
 脳の前頭前野は、老化とともに最も早く機能低下する部位だと言われているから、ここを鍛える必要がある。それには1桁でよいから加減算を繰り返すとよいそうである。そこで私は、プログラムで乱数を発生させ沢山の問題を自動的に作り出すことにした(何桁でもできるように作ったが、とりあえず2桁にしてある)。このプログラムを使って50個の問題を使い古しのA4用紙の裏にプリントする。月の初めにそれを30日分作っておく。


(加減算の例)

 そして、毎朝コンピュータを立ち上げるときの待ち時間(*1)を利用して計算することにしている。右側に答が印字されているので、答の照合も含めて3分程で終了する。 

【注】(*1)Windows は、コンピュータの立ち上げ時間を節約するため標準では簡易版のシャットダウンが使われている。私はあえてそれは使わず、前の晩にコンピュータを閉じるとき[シフトキー]+[シャットダウン]で完全なシヤットダウンを実行しているので、毎朝約3分弱の再起動が必ず実行されるように設定されている。
(3)フリーハンドで円を描く
 加減算の問題が全問正解だったときは、何時の頃からか私はその用紙の余白に丸を描くようになった。漫画家の故手塚治虫氏は生前「マンガのアイディアはいくらでも出てくるが、年とともに円を綺麗に描けなくなった」と述べていたのを思い出した。それを真似て私も円をフリーハンドで描くことにしたのである。余白があったので、私は毎回3つの円を描いているが、うまく描けたときは日付けを記入し記録として残すことにしている。年とともに円が少しずつ歪んでいくのではないかと恐れている。


  (うまく描けた円の蒐集)

 毎日キーボードを使って文章を書いていると、字がうまく書けなくなってくる。図も同様である。円がいびつになってきたら、ボケの兆候が出てきたと覚悟せねばなるまい。


(4)文章を書く
 ボケ防止には日記をつけるとよいと聞いたことがある。私には日記など無理なので、その代わりに「要するに毎日文章をつづればよいのだ」と考えることにして、知人にこまめにメールを書くことで代用することにした。

 最近は Facebook 上でのメール交換や投稿に重点を置くようになった。しかしメールの文章というのは、くだけた感じのものが多くて内容も浅い。それに対しブログへの投稿なら少しは真面目に取り上げるべきテーマに対し考察を深めるようになる。全体の構成も考えて書く必要があるから、メールよりもはるかに頭を使う必要があると考えている。

 月に一度は、ホームページ(Knuhs の書斎)にエッセイを掲載することにしているのだが、最近は筆が鈍りがちである。やはり老化すると文章を書くのが面倒くさくなってくる傾向があるようだ。心して努力すべきであろう。


(5)名称忘れへの対策
 ボケは着実に我が身に迫ってきている。先ず、特定の物の名前がすぐには出てこなくなる。人の名前も出てこない。「そんなのボケではなく、年寄りなら皆同じですよ」と慰めてくれる人もいるが、そう言う相手も年寄りだから、多分心の中で「ボケだと認めたくない」と思っている人の意見なのである。真面目に信じてはいけない。

 そこで私は、名前が出てこなかったら直後に思い出す努力をし脳内の切れたネットワークの線を繋いで直ちに修復することにしている。どうやって名前を思い出すかと言うと、インターネット上で検索するのである。もちろん「あれ」とか「あれあれ」とキー入力しても答えは得られません、絶対に!(*2)。しかし思い出すヒントになるようなキーを複数個うまく組み合わせて入力すれば、リストアップされた記事の項目と説明文だけから結構思い出せるものである。
 忘れていることに気付いたら直ちに検索するのがコツであって、後でやろうと思ってはいけません。後でやろうと思った時には「何を忘れたのか」さえも思い出せないから。   

【注】(*2)試しに、本当に「あれ」で検索してみるとよい。そういう「あれあれ検索」が可能なプログラムを開発してほしいものだ。高齢者を助けるためのそういうアプリの開発に成功したら、貴方(女)は間違いなく大儲けできるはずですよ
 要するに私は、(4)で言及したようにボケ防止の目的でこのエッセイ書いている。そのエッセイで取り上げたテーマが、たまたま「私のボケ防止法」だったという訳である。そして読者諸兄はそれを読まされている、ということになります。まだまだボケなどには無縁の方々にとっては、真に申し訳ないことだ思っております。■

2016年12月26日月曜日

クリスマスの朝

 クリスマスの日の早朝、ベッドの中で半分眠りながらラジオを聴いていた。アナウンサーが「私は何時も最後の曲にはこれをかけることにしています」と言っている。曲名紹介の後、曲が始まった(5:50頃)。クリスマスの歌だ。ちょっといい歌だな・・・ などと思いながら聴いていた。

 しかし段々と盛り上がってきた。何だこれは! 最後の方になると、男性歌手が叫んでいる。「メリー・クリスマス!」と叫んでいる。さだまさしの声のようだ。何んという曲だろう。

 最後にアナウンサーが曲名を再び言うだろうと耳を澄ませていたら、突然コマーシャルになってしまった。残念。

 何んという曲だろう。もう一度じっくりと聴いてみたいものだ。
 そうだ、radiko に「タイムフリー」という機能があると聞いている。これでもう一度聴いて曲名を確かめることにした。

 その結果、さだまさしの「遥かなるクリスマス」という曲であることが分かった。知らなかったなぁ。クリスマスの時季しか流れないからであろうか。素晴らしいクリスマスの朝であった。


2016年12月12日月曜日

新【悪魔の辞典】(6) 強行採決

強行採決自民の、自民による、自民のための採決。

新【悪魔の辞典】(5)トランプ的勝利

トランプ的勝利大方の予想に反して勝利してしまい、その結果本人も含めて世の中を騒がせること。

2016年11月1日火曜日

《東芝のコンピュータ事業を振り返る》の作成経緯

東芝のコンピュータ事業を振り返る ( http://goo.gl/HND16y )という欄を作りました。その作成の経緯を以下に記します。

 コンピュータ黎明期に同じ釜の飯を食った仲間達が集う「電算スタメン会」という会がある。私もその一員なのだが今まで一度も出席したことがなかった。最近その集りが開催されるという連絡があり、私は初めて参加してみようという気になったのである。参加申込をすると,幹事から「黎明期の東芝電算機を中心とした紹介」をしてほしい、とプレゼンテーションを依頼されてしまった。

 幹事が、たまたま私のホームページ上の《私が使用したことのあるコンピュータの一覧》( http://goo.gl/DaT1UR )の欄を見てくれていて、それを利用して作ってくれないかという提案であった。喜んで引き受けたものの、プレゼンテーションが冒頭の15分間だということを聞いて少し気が重くなった。更に、集会の出席者がそれぞれ担当したであろう業務分野を考慮に入れなければならないと考えると、これはなかなか難しい役割だということに気が付いたのである。

 しかし限られた時間内で何とか資料を作り、当日のプレゼンテーションは無難に役目を果たすことができた。しかしその後で、多くの仲間からいろいろと盛り込んで欲しかったものを指摘された。そこで、自分でもこのままにしておくのは気が済まないと思うようになり,1ヶ月程時間を掛けていろいろな情報を集めて全体を作り直し、遅ればせながらホームページ上に公開することにしたのである。

 東芝のコンピュータ事業を振り返る
  ( http://www.hi-ho.ne.jp/skinoshita/TOSHIBAComputerS.htm )
 または、( http://goo.gl/HND16y )でアクセスすることができます。

 全体の枠組みができた段階なのでまだまだ内容に不十分なところが多い。東芝関係者の記憶を借用し、より良いものにしたいと思っている。これはまだ仮の版であると理解してほしい。

 資料提供あるいは参考意見を寄せられたい方は
   skinoshita@hi-ho.ne.jp
へ連絡をお願いします。■

2016年10月21日金曜日

新【悪魔の辞典】(4) ボク・シラン状態

ボク・シラン状態どうにも連絡が取れない状態
注意:
・老婆心ながら、「シ」にアクセントを付けて発音すると分かりやすい。 そういえば、最近ボブ・ディランがノーベル賞をとりましたね。

新【悪魔の辞典】(3) ソーリ的

ソーリ的意識的に的を外すこと
応用例:
ソーリ的答弁:聞かれてもいないことはペラペラしゃべるが、肝心の質問内容には全く答えないこと

2016年10月20日木曜日

新【悪魔の辞典】(2) KY

KY空気を読んで忖度すること
応用例:
KY国語学者: 若者が使う間違った日本語を咎めたりせず「言葉は生きているから」などと言って、いわゆる「若者言葉」に必要以上に理解を示す日本語の専門家
KYメディア:(自明なので説明は省略する)

新【悪魔の辞典】(1) 与党

与党時の権力に与する徒党
応用例:
与党ジャーナリズム:時の権力に与する報道機関
与党ジャーナリスト:時の権力に与する報道関係者
与党裁判官:時の権力に与する裁判官

2016年9月12日月曜日

度量衡の単位の覚え方

 小6の孫が「デシに追われて・・・」とつぶやいている声が私の耳に入ってきた。「えっ! それ“デシに追われてセンチミリミリ”って言うやつ?」と私は確かめてみた。間違いなくそれは、昔からある 例の度量衡の単位の覚え方を暗証しているところだったのだ。最近の若者たちはこの暗記法を知らない。学校では教えていないからである。それを孫が知っていたので、私は妙に嬉しくなってしまった。

 私の小学校時代はこれで覚えたものであるが、私が企業を定年退職し大学教師となったとき、授業でこれに触れたところ知っている学生がほとんどいなかったのは驚きであった。科学の発展にともなって、その後新しい単位がどんどん付加されていったから、今の子供達は覚えるのが大変だろうなぁ~。彼らはどうやって覚えているのだろう、と私はかねてから不思議に思っていたのである。

(図:度量衡)

 キロからミリまでの単位が定められたのは1795年である。
(図:度量衡-1)

 その後、この単位だけでは足らなくなり、1960年にテラからメガマイクロからピコまでの単位が追加された。
(図:度量衡-2)

 科学の発展は凄まじくそれでも足らなくなり、1964年にはエクサからペタフェムトからアトまでが追加された。
(図:度量衡-3)

 更にヨタゼタゼプトヨクトが追加されて現在の姿になった訳である。
(図:度量衡-4)

 我々が扱う普通の数値の大きさは、18世紀の終り頃に定められた単位の範囲内で十分であったのだ。それが、この数十年の間に急速に拡大しビッグデータの時代に突入しようとしている。こういった単位の変化からも、最近の科学の発展の凄まじさが感じ取れるのではないだろうか。

 小中学校時代ならまだいいが、高校、大学と進んだらやはり新しい単位も覚えなくてはならないことになる。すべての単位の覚え方を以下に示しておくことにしよう。


(図:度量衡の記憶法)

2016年8月5日金曜日

20年前のたわごと

 以前(20年程前のこと)【素朴な疑問】という欄で
 『新聞はなぜ「ソフトウエア」と書くのだろう
 { http://www.hi-ho.ne.jp/skinoshita/gimon04.htm }
という記事を書いたことがある。要するに「ソフトウェア」と書くか「ソフトウエア」と書くかの論争である。それが、何故か未だに読まれ続けている(しかも一日に複数回も)。

 どこが面白いのか、私はかねてから不思議に思っていた。今日、たまたま時間があったので自分も読んでみようと思い立ったのである。読んでみて、確かに面白かった。20年前にこんな「たわごと」を書き連ねていたのか、と。

 当時はテキスト入力法として「ローマ字入力」と「ひらがな入力」とが競っていた時代だった。これを読んで、現在のケータイやスマホ利用者が愛用しているであろう入力法をベースに考えると、どんな感想を持つか知りたくなったのである。

以下、本文は省略して【追記】の部分だけ紹介する。なお“悩める相談者”とは私めのことである。


【悩める相談者による追記】1997-01-27

 私がなぜこんな些細なことにこだわるのかというと、“ソフトウェア”というのは私の勤める会社の社名の一部になっているからである。よく、社内旅行などで温泉場を訪れると、団体バスで乗り付けた旅館の玄関には仰々しくも華々しくも、大きな黒い看板に白で“歓迎”の印とともに我が社の社名が大書されていたりする。それを見ると、何時も大抵はどこか字が間違っているのである。「東芝ソフトエンジニアリング御一行様」とか、「東芝ソフトウエアエンジニア御一行様」などと書いてある。こんなのはまだいい方で、「東芝ソフトエンジニヤリング御一行様」などと書かれていることもある。
 そういうのを見つけると私は、またかと思い、思わず「ニヤリ」と苦笑いしてしまうのである。

 しかし考えてみれば「ソフトウェア」も「エンジニアリング」も、彼ら旅館経営者にとってはまったく無縁な存在の言葉なのであろう。こんな些細な字の誤りなど「ニヤリ」と笑って見逃してあげるのが武士の情けというものである。

 ところが新聞紙上でこの字を見つけると、旅館経営者に対するのと同じような寛容な気持ちには決してなれない。「ソフトウェア」も「エンジニアリング」も彼らにとっては身近な話題でなければならないはずだ。とても「武士の情け」などとはいっていられないのである。

 こだわる理由はもう一つある。以前「ソフトウェアの法則」という本を書いたとき、夏目漱石「坊っちゃん」の一節を引用したことがあった。間違いのないようにと、私は夏目漱石全集を引っ張り出して詳細に文章をチェックしたのである。そして自信を持って原稿を編集者に渡したのであるが、やはり間違いを指摘されてしまった。編集者が言うには「坊っちゃん」ではなく「坊つちやん」なのだという。信じられぬ気持ちでもう一度本を出して調べて見ると、何と、確かに「坊つちやん」というタイトルになっているではないか。恥ずかしながら私はこれまで夏目漱石の名作の名を誤解していたのであった。同時に、編集者の実力の程を思い知り、ただただ恐れ入ったものである。

 こういう経験を何度かしてくると、人間どうしても正確な表現にこだわらざるを得なくなってくる。であるからして、私にとっては「ェ」と「エ」は大変な違いで、簡単には見逃せない大問題なのである。


 さて、私のこの【素朴な疑問】を掲示板上で読まれたのであろう、S氏が、これが参考になると言って私に「毎日新聞用語集」という辞典をくださった。それを見ると、Yさんが言っているように、確かに『原音で「ウィ、ウェ、ウォ」の音は、「ウイ、ウエ、ウオ」と書く』と記されている。
 しかし、新聞紙上では「ウィンブルドン」というのを実際に見かけたことがあるから、固有名詞は別扱いになっているのであろう。

 たとえば「ウェット」はこの規則では「ウエット」と表記されることになるが、前者では「ウェ」が「ッ」と跳ねるのに対し、後者では「エ」が「ッ」と跳ねることになる。これでは全く違った発音になってしまうではないか(え? 何を言っているのか分からない? 私にも分からない)。

 この新聞社の定めた規則を見ていると、ジャパニーズイングリッシュを作り出しているのは実は彼らではないかと思いたくなる。日本人にとって発音しやすいようにという観点だけで適当に表記法を変えてしまっていると、結局原語とは似て非なるものになってしまうからである。

 我々が常日頃目にしているこういった“ジャパニーズイングリッシュ”は、アメリカへ行って使ってみるとまったく通用しないことが分かる。我々はその事実を実際に体験して初めて愕然とするのである。その結果、アメリカの空港でシカゴへ行きたければ「シコーゴ」と叫べとか、フィラデルフィアへ行きたければ「フルドフィア」と叫べとか、そういう生活の知恵を学ばねばならない羽目になる(これを知らぬととんでもない所へ連れていかれてしまう可能性があるのだ)。更には、マクドナルドへ行きたければ「マクダーナル」と発音する必要があることを承知していないと、とうていビッグマックにはありつけないのである(もっとも、マクドナルドの店が見付からなくても、どうということはないが)。

 このように自分の貧しい英語力を実感するたびに、私は思うのである。この責任は日本のお粗末な英語教育だけにあるのではなく、日本の新聞社が定めた表記規則にもその責任の一端はあるのではないかと。

 ところで、この表記法に関連する問題を、私はここで更に深く掘り下げてみたいと思う。ただ、これ以下に書くことは、私が常日頃尊敬して止まない「ローマ字入力者」(ローマ字入力法を用いている人達)の気分を損ねる可能性なしとしないので、これ以下は「ひらがな入力者」だけが読むことにしてほしい。






 よろしいかな。ひらがな入力者だけですぞ(以下で「彼ら」とは、ローマ字入者のことである)。あなたの後ろから“彼ら”が覗いていないかどうか、もう一度確かめてほしい。よろしいか。

 実は私は、この新聞社の定めた規則は、新聞記者用のワープロを用いてローマ字入力する際の利便を考えて作られたものではないかと疑っている。彼らの用いるローマ字入力法では、

 「ウィ」は「WI」と入力する。
 「ウェ」は「WE」と入力する。
 「ウォ」は「WO」と入力する、と言いたいが、これは「を」または「ヲ」になってしまう。したがって「ォ」だけは単独で入力するしかない。つまり統一的でないのだ。
 「ィ、ェ、ォ」を単独で入力するには(私の周りにいる「彼ら」に教えを請うと)「LI,LE,LO」と入力するのだという。何というお粗末な規則であることか。
 だとすれば、「ウォ」としたければ「ウ」を「U」で作り、ついで「ォ」を「LO」で作らなければならない。「ォ」のときだけはこんな面倒な手順を踏まなければならないとは、何という不統一な入力法であることか。こんな不統一な操作法では、頭の固い新聞記者に覚えさせるのは無理というものである。そこで、できるだけ「ィ、ェ、ォ」を使わないで済ませようと謀議を計ったのではなかろうか。

 彼らが信奉する入力法で「ウィリアムテル」と入力したければ「ULIRIAMUTERU」とキーを叩かねばならないことになる。 ‥‥何? 「ウリリアムテル」だ? そうか、そうか、彼らは「LI」と「RI」をこのように区別して使い分ける技を身に付けていたのか。大変だなぁ、彼らは。日本人は「L」と「R」の発音を区別するのが苦手であるというけれど、その原因はこんなところにあるのかもしれぬ。それにしても彼らは何時もこんな複雑な操作をしていたのか。何と彼らは頭が良い連中であることか。頭の固い私には、到底真似のできぬ技である。

 ローマ字入力は、頭を使うので惚け防止に最適であると主張していた人がいたが、こうやって見るとどうもその説は正しいように思われる。私もそろそろ惚け防止のための手を打たねばならぬ年代になってきているが、だからといってローマ字入力だけはやりたくない。それよりも、自分が惚けているかどうかを自分で判定することが、そもそも可能なのかどうかを疑問に思い、日々思い悩んでいるところである。   

【注】私は「ローマ字入力法」をよくは知らないがローマ字入力法にも色々なバリエーションがあるようである。新聞記者用のワープロについても全く知識がない。したがって、これらの指摘はまったくの見当違いかもしれぬ。いや、そうに違いない。許されよ。

2016年7月28日木曜日

気分転換(リフレッシュ)について

      ━━ Windows をリフレッシュする
 仕事の途中で気分転換がしたくなることがある。特に研究業務に取り組んでいるようなときは集中度を高める必要があるから連続して考え続けることが求められる(素歩人徒然「集中力」参照)。それにしても、ある程度の時間が経過したらやはり一息入れてリフレッシュするのが有効であろう。

 私の経験では、気分転換にはある程度頭を使う時間を入れるとリフレッシュの効果が倍増するような気がしている(もし許されるなら、ゲームなどをするとよい)。休憩と称してダラダラと時間をつぶしているだけではリフレッシュ効果はあまり期待できない。最近の私は(もはや仕事はしていないが)気分転換が必要なときはいつも数独の問題に取り組むことにしている。それも少し難しい問題の方がよい。

 つい最近、私はラジオで脳科学者が「ワーキングメモリー(作業記憶)」のことを話しているのを聞いた。記憶には短期記憶長期記憶とがあるが、ワーキングメモリーはそのどちらでもない。ワーキングメモリーは、何かある目的を持ってやっている作業で使われる記憶で、日常生活での会話、お金の計算、あるいは創造性のある思考をするときにも使われる。ワーキングメモリーの機能が低下すると「頭のキレが悪くなった」と感じるようになるらしい。

 気分転換でワーキングメモリーが使われると、その内容が入れ替わるからリフレッシュされることになるのであろう。これは、プログラミングの世界で言うところのワーキングストレージ(作業用領域)と似ているのではないかと思う。私は自分が経験的にやっていたことと合致するので我が意を得たりと思ったのである。しかしどこが似ているのか、これだけでは読者に理解してもらうのは無理で、もう少し説明が必要であろう。

 さて、これからが本論である。
 Windows 10を使っていて、いつも気になるのは“シャットダウン”の機能のことである。確か、Windows 8 にバージョンアップしたときからだったと思うが、コンピュータの電源を入れても“再起動”がされないことに気が付いた。つまり、前日にコンピュータをシャットダウンで終了させたのに、翌日電源を入れると完全な再起動の手続きが実行されていないのだ。パソコンの起動を速くするため、手抜きのシャットダウンをしていたのである。

 コンピュータ用語辞典で「シャットダウン」の定義を調べてみたが、次の利用時に再起動が実施されるとは読み取れない。これではMS社にクレームを付ける訳にはいかないなと思った。何しろ昔から使われている用語(*1)だから、今の技術で考えると定義があいまいになってしまうのは避けられない。MS社は、起動時間を短縮するためなら手段を選ばずという方針なのであろう、用語定義の「あいまいさ」さえも利用してしまっているようだ。当時この件で異議をとなえた人はいなかったようだし、気の弱い私めは静観している内にその仕様にやむなく従うことになってしまった(つまり、毎朝自分で「再起動」ボタンを押すことになってしまったのである)。

【注】(*1)昔アメリカの研究所で MITにあるMultics システムの環境下で仕事をしていたとき、コンピュータシステムの電源を落とすことをシャットダウン(shutdown)と呼んでいるのを知った。単にコンピュータ本体の電源を落とすだけでなく、周辺機器も含めてすべてを一斉に終了させる大掛りな作業であるという印象を与えるので「格好いい呼び方だなぁ」と感心したのを覚えている。今風に言うなら「いいね」 をしたくなるほどだった。
 しかし再起動しないで毎日コンピュータを使い続けていると、一週間もしない内に何かしら不可解なトラブルが発生するようになる。そういうときは原因を追究するよりも、自然に直るのを期待して再起動してみるのがよい。MS社に報告しても反応がある訳ではないから、最初から無駄なことはしない方が賢明なのだ。それで結構通用してしまう。MS社と付きあうようになってから学んだ生活の知恵である。

 しかし、そうは言いながらも私はこのトラブルの原因が何であるか知りたくて機会あるごとに考えてきた。そして長年のプログラマとして体験から、多分こういうことではないかと思うようになった。それは、Windows のシステムは「頭のキレが悪くなり」気分転換“リフレッシュ”が必要な状態になっていたのではないか、ということである(これでやっと話の筋が見えてきたでしょうか?)。

 コンピュータ上で動くプログラムは、データを置く場所として静的な記憶域と動的な記憶域とを使い分けている。実行が始まってから必要になるものは、できるだけ動的記憶域に割り付ける方が限られたメモリーを有効に使えるのである。

 利用者のプログラムで動的な記憶域が必要になると、システムのメモリー管理プログラムに要求を出す。システムはあらかじめ確保された領域(ヒープ領域と呼んでいる)から空きを見つけて利用者のプログラムに貸し出す方式をとる。そして、使い終われば返却させる。一方、利用者は借りた記憶領域を責任を持って管理することが要求される。その記憶領域の管理(*2)
で不手際が起りやすいのである。

【注】(*2)記憶領域の管理
 ヒープ領域に割り付けられたメモリは、割り付けた側が責任をもって管理し不要になった場合には速やかに解放してシステム管理下に戻すことが前提となっている。しかし、プログラミング上ではこの解放を忘れたことが原因で不都合が起こることが極めて多い。この種のメモリ管理のミスにもとづくエラーとしては、次の3種類がある。
 ・割り当てた領域を解放し忘れる(メモリリークという
 ・既に解放された領域を参照する
 ・同じ領域を2度以上重複して解放しようとする
 この種のエラーを見つけるのは難しいけれど、普通は事前に取り除かれていると思ってよい。問題があるのは、このヒープ領域上に確保された記憶域上のデータの扱い方のほうである。
 普通は、確保されたばかりの記憶域上に何か値(通常はゼロ)が置かれていても、それはゴミであるとみなし新たに値が設定されるまでは不定であるとする。そして領域が不要になったら(データの後始末をせず!)そのままメモリー管理プログラムに返却する(この過程で、ヒープ領域内のその記憶域はゼロでない不定の値を持つようになる)。

 こういうやり方でメモリー管理をしていると、ヒープ領域は最初はゼロで埋められていても、時間の経過とともに徐々にゼロでないゴミ(不定の値)で埋められていくことになる。新たに貸し出される領域には、直前の利用者が残したデータの残骸が置かれている可能性が高まってくる。しかし、たとえゴミが残されていても管理規則を守って使っている限り何の問題も起らないはずなのである。ところが割り付けられた直後の“不定の値”をデータとして使ってしまう不心得なプログラムが存在するのである。こういう不心得なプログラムを見つけるのは極めて難しい。

 私は、ある大きなシステムの開発を担当していたとき、デバッグ中に限りメモリー管理プログラムに手を入れて、記憶域を割り付けた直後は必ずゼロを埋めておくという手を打ったことがある。こうすると確実にプログラムデバッグができることを体験的に知っていたからである。しかし常にゼロクリヤーしていたのでは実行効率は悪くなる。デバッグの最終段階でこのゼロクリヤーを外すことにした。しかしその途端にプログラムの動作が不安定になったのを覚えている。明らかに不定の値が影響を及ぼしていたのである。

 つまりトラブルの原因は、ヒープ領域のゴミを誤ってデータとして使ってしまうことに起因しているのではないか、というのが私の推測である。
 これを避けるにはヒープ領域をゼロクリヤーするしかない。つまり再起動すればよいのである。再起動という気分転換(リフレッシュ)をすれば、すべて解決してしまうのだ。こういう事態を予想して私は毎朝必ず「再起動」を指定してからコンピュータを立ち上げるようにしている(*3)

【注】(*3)Windows 10では、高速スタートアップのための「シャットダウン」が標準になっているが、再起動を含む「完全シャットダウン」に設定を変えることもできる(私は標準仕様で通す主義なので使ったことはないが)。
 皆さんも、時々は窓(ウインドウ)を開いて空気を入れ替え、リフレッシュしたらどうでしょうか。

2016年7月18日月曜日

“上/前を向いて歩こう”

 永六輔さんが亡くなった。
 久しぶりに名曲「上を向いて歩こう」をじっくりと聴いてみた。これは失恋の歌である。中村メイ子に結婚を断られたとき、永さんが涙をポロポロとこぼして泣いたのがこの歌詞が生まれた切っ掛けになったという。この歌がアメリカで「SUKIYAKI」というタイトルで歌われているのは、私にはどうにも理解できないことである。永さんも無念であったに違いない。確か、著作権料を支払われる対象にもなっていないと思う。その点でも無念であろう。

 ところで、世間では“歩きスマホ”が原因で、歩行者の間でいろいろな事故が起こり問題となっている。スマホの画面に見とれたりしないで“前を向いて”歩いてもらいたいものだ。歩きながらスマホを利用したら、システムが素早く危険を察知し“前を向いて・・・” いや “上を向いて歩こう”のメロディーが自然に流れ出るようにしたらどうであろうか。

 アメリカでは“ポケモンGO”に熱中するあまり、同じような状況になりつつあるという。いや、もっと酷いことになっているらしい。これからは“ポケモンGO”を真似たゲームがどんどん世に出てくるであろうから、増々事故が起こる確率が高くなるに違いない。この際「SUKIYAKI」の歌詞を見直し、その歌詞の本当の意味をアメリカの人々に知ってもらう必要があるのではないか。任天堂はこのゲームのバックグラウンド曲として「上を向いて歩こう」を採用すべきである。そして著作権料も支払ってあげるべきだ(余計なお世話かもしれないが・・・)。

2016年6月17日金曜日

依存症

----- コンピュータに係わる依存性
 元野球選手の覚せい剤取締法違反事件以来、我々は“依存症”というものの実態にかなり詳しくなったような気がする。
 昔は、依存症は単に“~中毒”などと呼ばれていた。アルコール中毒、ニコチン中毒、薬物中毒などいろいろあるが、要するに本人が努力さえすればやめられる類いのものと安易に考えられていたふしがある。しかし最近の科学の教えるところによれば、依存症の多くは脳に何らかの影響が及んだ結果であることが分かってきている。なかなか一筋縄では脱け出せない病気のようである。

 コンピュータの世界にもいろいろな依存症がある。ネット依存ゲーム依存メール依存スマホ依存、…。今後も新たな依存症が続々と登場してくることであろう。何事であれ、好きなことに熱中するのは良いが、度が過ぎて依存性が病的に進んでしまい「依存症」と呼ばれるようになるのは避けたいものである。


メール依存
 私が最初に依存性を意識したのはメールの利用であった。
 先ず、日々の仕事環境の中に電子メールが登場した。勤務先の全社的なメールシステムが利用できるようになり、そこで私は電子メールの基礎をその利点・欠点も含めて体験的に学ぶことができたのである。電子会議、電子掲示板、… などいろいろな交流形態があることも学んだ。そして、こんな便利なものはないと私はそのとき心底思ったのである。

 その後、一部の管理者だけは会社外から(つまり自宅から)電話を利用して会社のメールシステムにアクセスできるようになった。こうなると、帰宅後あるいは休日に家でも仕事ができるようになった。仕事関係のメールは、家から電話で会社のメールサーバーを呼び出して送信すればよい。電話回線を利用したデータ通信がまだまだ高額の時代だったので、文書をあらかじめ作っておき回線が繋がったらすぐさま送信して直ぐ切るというテクニックが必要であった。そういう、今から考えるとかなり不便な環境ではあったが、着実に私のメール依存性は深まっていった。

 休み明けの月曜日に出社してコンピュータのメールボックスを開くと、休み中に私宛てに送られてきたメールが大量に溜まっている。朝一番で最初にする仕事は、そのメールを一度に処理することであった。回答が必要なものはその場で返信を書くが、そのまま内容を読んで済ますだけのものもある。読むに値しないものも含まれているが、仕事に関係するものであるからいい加減には扱えない。お茶を飲むのも忘れて一心不乱にメールと格闘していると、それだけで午前の業務時間が終わってしまう。最初の頃はそれで物凄く仕事をしたような気になっていた。何しろ、午前中一杯脇目も振らずに業務に取り組んでいたのだから。

 しかし、あるときふと気が付いた。自分はこの間何か生産的な仕事をしていただろうかと。ただメールを処理していただけではないか。自分は、技術者として何かを生み出す仕事を期待されているのだ。メールの時間を削減しもっと生産的な仕事に取り組まなければいけないと思ったのである。それ以来私は、メールを使う時間に制限を加えるようになった。つまり、限られた時間帯だけメールと向き合うことに決めたのである。それ以外の時間帯は決してメーラーには触れないようにする。それには、普段はメール環境から距離を置くようにしよう。そう、断じて!そう決めたのである。

 インターネットの発展に伴いインターネットメールが実現し全世界的に使われるようになったのはその後のことであるから、そのかなり前から“メールの依存性”というものを意識していたことになる。しかし、依存症の本当の恐ろしさを知るようになるのは、インターネットが本格的に普及しネット依存、ゲーム依存などが原因で死者が出る事件が報じられるようになってからのことである。

 その後の科学技術の発展はメール環境から距離を置くという私の決心を脅かす様々な要因を作り出し、それとともにコンピュータに係わる環境は急速に変化していった。パソコンの普及、インターネットの常時接続、高速通信と廉価な通信料金、… そしてスマホの登場、… などである。その点では、現在のコンピュータ環境に慣れている多くの若い方々は気の毒だと思う。常に、新たな依存症の危険に曝されているのだから。

 現在でも、私の決心は「メーラーに触れるのは自分の書斎机の前に座っているときだけ」という形で継続されている。スマホなぞは、メール環境自体を常時持ち歩いているようなものであるから、私にとっては最大の敵なのである。

ゲーム依存
 もう一つ熱中したものとしてコンピュータゲームがある。パソコン黎明期の頃から各種のコンピュータゲームを体験してきた。しかし私は何かあるゲームが気に入ったとしても、同様のものを自作したいという気持ちが強くなる性格だったので、そのプログラム作りの方にすぐ関心が向いてしまう。そのため、幸いにも依存症を起こす程熱中することはなかった。

 しかしこの文章を書いていて思い出したのだが「倉庫番(*1)という有名なゲームだけは別格であった。私は当時、何か仕事に疲れると気分転換と称して倉庫番にチャレンジするのが習慣になっていた(もちろん自宅での話ですよ)。今も、久しぶりにまたやってみようかな‥‥ という気持ちになっている。もしかすると依存症寸前の状態にあるのかもしれない。
【注】(*1)倉庫内に点在する荷物を、一つずつ決められた場所に移動するゲームである。目的は単純だが、進行方向に荷物を押すことしかできない。最近の版では、最新の Windows 環境で動作するようになっている。

 しかし私が持っている倉庫番は、初期のバージョンなので現在の最新のコンピュータ環境下では残念ながら動作しない。そこで、倉庫番が動くはずの古いコンピュータ(Libretto 60 + Windows 98)を引っ張り出してきて、その上で動作させなければならない。どれ、ちょっとやってみようか。

倉庫番の画面

 倉庫番のプログラム自体は、外部ハードディスク(HD)上に大切に保存されているから、それを取り出して Libretto 上のHDに移して動作させればよい。しかし古いバージョンなのでフロッピーディスク(FD)ドライブが必要になる。以前ゲームを楽しんでいた頃は、FDドライブ付のコンピュータが普通だったが最近のコンピュータにはFDドライブなど付いていない。急遽FDドライブと3.5インチのFDとを探し出してきて接続した。よし、動いたぞ!
 やはり、こういう古い物も捨てずに取っておくべきなのだ。

フロッピーディスク(FD)ドライブ付きのコンピュータ

 私が熱中したゲームにはもう一つ3次元テトリスがあるが、これは瞬発力を競うゲームである。それに対し倉庫番は、思考力を試すゲームであり奥が深いので私の最も好きなタイプのゲームである。この原稿を書きながらも、私はまたもや気分転換が必要になったと称して倉庫番にはまり込んでしまいそうな気がしている。困ったものである。

 このように倉庫番依存症(?)が再発したのは今回が初めてではない。確か十数年前にも同じように再発していたから3度目ということになる。先回は、50画面をすべてクリヤーしても症状が治まらず、最後には自分でも新たな問題を創作したりした。それで一応症状は治まったのである。今回はどうなるであろうか。

 あっ! これ以上原稿に向き合っているひまはない。倉庫番、倉庫番、・・・・・・。■

2016年5月27日金曜日

過去の思い出

          ── SNSで永遠に投稿し続ける方法
 私が利用しているSNSでは、最近になって新しい機能が追加され、自分の過去の投稿内容の中から数年前のものを選んで「過去の思い出」として再掲示(*)するよう勧めてくれるようになった。普段から寡黙な私めは、月に数回程度しか投稿しない不熱心なメンバーであるからして、これを「ヒントを与えるからもっと熱心に投稿せよ」という怠惰な私に向けてのSNS管理者からの警告であると理解した。

 しかし過去を振り返るよりも前を向いて進むことを信条としている(えっ? 本当かよ)私めとしては、そう簡単に説得されてたまるかという意地がある。そのため、これまではそういった勧めをすべて無視してきたのである。ところがある時「再掲示」を勧められた記事の内容が、たまたま最近亡くなった友人に関係するものだったので、ふと追悼したいという気持ちになり「再掲示」することに同意したのであった。

【注】(*)詳しく調べてみると、過去の年の同じ日付けに投稿されたものが毎日表示される機能らしい。コメントを追加するだけでなく、本文そのものを編集することもできるようになっている。

 以来、再掲示の勧めに乗ることが多くなり、後ろを振り返ってばかりいる見苦しい事態になってしまっている。ところが、これが思いのほか楽しいのである。なぜかと言うと、以前何を書いたかなど本人は正確には覚えていないから、私も他の方々と同じように第三者の立場で自分の過去の文章を初めて読むような積りで読んでいる。そうすると、ほとんどの場合、私と全く同意見なのである(当たり前じゃ)。ふむ ふむ そうだ そうだ と実に気持ちよく合点しながら読めるのである。全く年寄りの独りよがりというべきであろう。

 SNSの世界で新たに「友達」となった人たちが最近増えているので「再掲示」されたものをその新しい友達に読んでもらうのは、それはそれで意味のあることだ、などと無理やりこじつけたりしている。

 ところが怠け者の私めは、ここで素晴らしいアイディアを思い付いてしまったのだ。
 この機能をうまく利用すれば、私は新たな投稿などしなくても「過去の思い出」だけでSNSの世界で生きていけるかもしれない。齢を取るとどうしても創造的なアイディアが枯渇してきて、新たな投稿の種を生み出すのに四苦八苦するようになる。もうそんな心配はしなくてよくなるのだ。

 自分のアイディアが枯渇している事実を他人に知られないよう、過去の思い出に少しばかり色付けをして新たな投稿のように見せかければよいのだ。今や人工知能を使って小説が創作できる時代である。「過去の思い出」の中で使われているキーワードのいくつかを使って、ちょっとしたコメントを創作することくらい簡単なことであろう。

 これが成功すれば、つまり「過去の思い出の自動修飾」の技術さえ確立すれば、もう私は何もしなくてもよくなるはずだ。 …などと、私めはこれからやってくる怠惰な生活を夢見ているのである。

 ところで、その結果どういうことになるのだろう。もう無い知恵を絞ったりしなくですむ。そうなると頭を使う機会も減るから、認知症になるのは早いかもしれない。あるいは何時、死んでも誰にも気づかれないから、そのまま放置され孤独死することになるかもしれない。


 うむ、それは困ったことだ。やはり、無い知恵を絞り続ける方がよいのかもしれないなぁ~。

2016年5月18日水曜日

  ── 立ったまま使う机(スタンディングデスク)

 私は兼ねてから立ったまま使える机が欲しいと思っていた。
 人間、座ったまま長い間ずっと同じ姿勢でいるのは身体によくない。熊本地震のような自然災害に合った人たちが被災地で車中泊を続けているとエコノミークラス症候群になりやすいことはよく知られている。

 私は、自然災害とは関係ないけれど、自分の不注意から同様な経験をしているのだ。その結果、血栓が右足のふくらはぎ深部にできてしまい、それを直すのに実に3年を要している。そんなこともあり、私は30分インターバル運動というのを実践することにした。書斎で椅子に座り机に向かって何か仕事をしているときでも、30分経つと必ず立ち上がって身体を動かす習慣を身に付けようとしたのである。

 しかし身体を少し動かした後、又そのまま座ってしまったのではあまり効果は期待できない。しばらく立ったままで仕事を続けられるようにしたい。そんな訳で、立ったままで普段の机と同じように使える背の高い机が欲しくなったのである。

 同じ部屋にもう一つ別の机を置く余裕などないので、隣の部屋にある本棚の上を机代わりに使うことにした。高さは申し分ないのだが残念ながら立ったまま同じ仕事を継続したいという希望の方は実現できていない。

 昔、松江市の小泉八雲記念館を訪ねたとき、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が使っていたという高い机(*1)を見たことがある。私はネット上で同じようなものがないか何度も捜してみたのだが、結局は見つけることができなかった。特注品でもよいから、あの様な机が欲しいと私はかねがね考えていたのである。

【注】(*1)私の脳裏には、椅子なしの背の高い机だけが記憶されていたが、後で調べてみると立派な椅子が付いていたようだ。小泉八雲は身長が約160cmと低い上に眼が極度に悪かったため机の面に顔を近づける必要があった。そのため背の高い机を特注したらしい。決して立ったままで使うための机ではなかったのである。
小泉八雲の机

 そんなある日、私のコンピュータ画面上に突然 の通販広告が表示された。それは私が兼ねてから欲しいと思っていたそのものズバリの机であった。これだ! これしかない! 私は早速購入することにした。現在、私の書斎の机の上に置いて便利に使っている。

書斎机の上に乗せて 

 インターネット上で何か調べたい物を検索したりすると、通販業者はその検索履歴を参考にしてその利用者が関心を持つと予想される商品を売り込もうとする。そして素早くSNSなどの画面上に同種の物の通販広告が頻繁に掲載されるようになる。私は今までそれを鬱陶しく思っていた。特に欲しい物を実際に購入してしまった後では、もう同種の広告など見る必要がない、いや見たくもない。邪魔になるばかりだ。しかし今回だけは本当にありがたいと思った。

 調べてみると、私が最初に検索して発見できなかった頃と比べて業界は著しく様変わりしていた。“スタンディングデスク”と呼ばれる商品群があり検索すればすぐ見つかるようになっていた。私の考えていたことは、少し先走りし過ぎていたのかもしれない。

 スタンディングデスクの、私なりの使い方を以下に紹介することにしよう(以下では、スタンディングデスクを“デスク”と呼び、私の書斎机は“”と区別して用いている)

▼使い方1:10段階の高さ調節が可能
(1)一番高く:
 机の上に乗せて立ったまま使える。机とデスクを一体にして使えるのが最大の利点であるが、デスクだけ別の場所に持っていって使うこともできる。


(2)少し高く:
 立ったまま新聞を広げて読むのに適している。


(3)一番低く:
 椅子に座ったまま机とデスクが同時に使える。


▼使い方2:机上スペースの有効活用
(1)複数のコンピュータ(パソコンとタブレット)を同時に使う場合、机やデスク上の空間、あるいはデスクの下にも厚い本が入る程の十分な空間があるので資料等を置くのに便利。


(2)パソコンのみの場合は、デスクを手元に引き寄せる。


(3)パソコンのみに集中したければ、デスクを更に近くに引き寄せる。


(4)パソコンのキー入力に集中したければ、デスク上でパソコン本体を手元に引き寄せる。


(5)パソコン以外の雑事に取り組むときはデスクを後ろへ押しやり、前に広い空間を作る。


▼使い方3:コンピュータ内の“デスクトップ”の使い方
 コンピュータ内の“デスクトップ”も、この際使い方を見直してみては如何でしょう。

2016年4月21日木曜日

エイプリルフール後日談

 ━━ うるう秒とうるう年
 小学生の頃、エイプリルフールといえば公式に嘘を付いてもよい日と聞いていたので、私は毎年この時期になると張り切って嘘を付いて人をだまそうと思ったものだ。しかし普段から嘘ばかり付いている(?)くせに、いざとなるとなかなか気の利いた嘘を付けないものだということを経験した。そして自分は、きっと生まれつきの正直者であるに違いないと確信した… いや、今から思うと誤解したのであった。

 当時は、新聞のニュースやラジオの番組を通じて嘘が流され、それを真に受けた人たちが大騒ぎするのが後日談として報じられ人々を楽しませてれていた。しかし最近はIT企業などの新興企業が中心になって、かなりの資金を投じて準備された嘘を流すようになってきた。会社の宣伝にもなるのであろう。最初から嘘に違いないと分かっていても、つい本気にして騙されたくなるほどの出来栄えであることがた楽しい。

 今年のエイプリルフールの前夜(3/31)、私は自分のホームページの4月分の更新作業をしていたとき、突然自分エイプリルフールの嘘を仕掛けてみたくなった。小学生時代の楽しかった思い出がよみがえってきたのである。

 丁度、カラークロック・プログラム(*1)をトップページに設定する予定だったので、これを材料にしよう思った。このプログラムは、現在時を24時間表示で「13時45分05秒」のように時々刻々とデジタル表示するものである。同時に「時」「分」「秒」の値をそれぞれ16進数表示で連結し幅6桁の16進数を作って壁紙の色として用いるプログラムになっている。時間の変化とともにバックカラー刻々と変化する様子を見て楽しでもらう積りだった。


【注】(*1)このカラークロック・プログラムは、URL="http://whatcolourisit.scn9a.org/"で見かけたものを参考にした。面白いアイディアだと思い、私も自作してみたのだが、オリジナル版と比べて色調の変化が異なっている。調べてみたらオリジナル版は16進数を連結する際に“ゼロサプレス”が考慮されていないことが分かった。こちらの方が“正調”いや“正しい色調”だと思い、自作版を私のホームページ上にアップすることにしたものである。

 そこで、更新情報を表示する【What's New】の欄に、急遽以下のように記述することにした。

 これは“うるう秒(*2)”を実施するときだけ起こることだが“59分59秒”の次にうるう秒として1秒を挿入した場合、“60分00秒”と表示させることを念頭に置いたものである。何が嘘かというと“興味深い現象”は何も起こらないことである。全く他愛のない無害なウソであるし今年はうるう秒が必要な年でもない。
【注】(*2)うるう秒
 1日の長さ(Length of Day:LOD)は、24時間×60分×60秒 = 86,400秒であるから、歴史的には1秒の長さは、1日の長さの86,400分の1と定義されてきた。しかし実際には地球の自転速度が変動するのでLODは一定ではない。その他いろいろな理由があり、それらを勘案して「うるう秒の挿入」という対応で辻褄を合わせているらしい。
 本当は「59分が切り上がる瞬間に… 」と書く積りだったのだが“60分00秒”が念頭にあったので、うっかり60分と書いてしまった。私の単純なミスであったが、これを読んだ友人のS氏が目ざとく見つけて指摘してくれるまで私は自分のミスに気が付かなかった。しかし嘘だと見抜くヒントにはなったのかもしれない。怪我の功名であった。

 ところで、うるう秒の挿入は世界同時に一斉に実施されるのが普通で、最近では日本時間で2015年7月1日に実施された。それ以後は実施されていない。いや、もう二度と見ることはないかもしれない。

 その日、日本では午前8時59分59秒の直後に1秒挿入され、8時59分60秒となった。そして9時00分00秒と時間が刻まれたのである。つまり(私も今回初めて知ったのだが)正確には“60”という珍しい表示は“”の単位で使われたのである。

 実は、うるう秒の挿入には賛否両論がある。挿入した場合の社会的影響が余りに大きいため今後は実施されないのではないかと予想される。1秒という時間が、現代社会では大きな重みを持つようになっているためである。
 コンピュータの発達で1秒間に数万回もの株の売買取引ができるようになった証券取引業界では、1秒という長ぁ~い時間があれいろいろなことができる。プログラムを利用すば、他の株の売買状況を見て瞬時に対抗する売買指示を出せるのである。
 特許権取得競争が激化する技術開発の分野でも、マイクロ秒単位のタッチの差で巨大利権の行方が左右される時代である。そういう社会で1秒という時間が世界中で一斉挿入され何らかのシステムトラブルが発生したらどうなるのか。想像するのさえ恐ろしいことである。

 この様にうるう秒の問題には未だ未解決の問題が含まれている。一方、うるう年(*3)の方も厳密には問題がある。
【注】(*3)うるう年
 グレゴリオ暦では、次の有名な規則に従って400年間に97回のうるう年を設けることにしている。
(1)西暦年が4で割り切れる年はうるう年
(2)ただし西暦年が100で割り切れる年は平年
(3)ただし西暦年が400で割り切れる年はうるう年
 この規則によってプログラム化しておけば何の問題もないように思われるが、400年間における平均の1暦年は、365+97/400=365.2425日(365日5時間49分12秒)となる。暦と季節とのずれは約3320年で1日となる。この1日をどうするかは未だ未解決の問題である。そんな先のことは考える必要はないと先送りしているだけである。それでいいのだろうか。
 私は、昔から「うるう年」というものに何かある種のいい加減さを感じていた。それが何であるかはよく分からなかったが。
 しかし今回、偶然「うるう秒」のことを調べていて、改めてそのいい加減さが分かってきたような気がする。「うるう秒」も「うるう年」ま、はたまた「閏」という漢字にしても、どうも意味がよく分からない。具合の悪いところを付け焼刃で適当に修正しているように思えるのだ。プログラムの虫つぶしと同じでまるで信用できない。

 最後に、前述のうるう秒挿入時に起こる“60”という珍しい表示はもう二度と見られないかもしれないので、私めは、遅まきながらこのカラークロック・プログラムを改訂し、毎年の4月1日(エイプリルフールの日)だけは“興味深い現象”が見られるようにした。来年の4月1日には(もし覚えていたら)是非じっくりと鑑賞して頂きたいと思います。

改訂版・カラークロック

2016年4月14日木曜日

続々・素朴な疑問:「チガカッタ」は若者言葉なのだろうか?

 以前、テレビで若い女性タレントが「チガカッタ」という表現を思わず発してしまう場面に遭遇し、ちょっと驚いた記憶がある。それを“変な日本語表現”という拙文に書いて紹介したのは今から4年くらい前の話である。その後、ラジオやテレビでこの表現を使う若者たちが次第に増えていくのを知って増々驚くと同時に、自分の現状認識の甘さを痛感するようになった。もはや単なる使い間違いではないらしいのだ。

 私の経験では「チガカッタ」という表現は、言葉をまだうまく話せない幼児が、その発育段階の途中でよく使う表現である。次第に言葉を覚え「てにをは」の使い方を身に付けるにつれて少しずつ正しい日本語を話せるようになると自然に矯正されていくものであった。しかしそれが直されることなく、そのまま成長して大人になってしまったらしい。

 先日、最近始まったばかりのラジオ番組を聞いていたら、新任のパーソナリティが、「それ、チガクナイ?」という表現を連発しているのを耳にして再び仰天することとなった。ゲストの若者が使ったのではありませんよ、パーソナリティというのは番組のホスト役ですから、その大人が使っているのです。驚きましたねぇ。

 「チガクナイ」もその発生経緯は「チガカッタ」と同根のものであろう。こういった使われ方を見ていると、おそらく使い間違いと言うより「若者言葉」の一つとみなされて大衆に受け入れられていくのかもしれない。

 若者言葉と呼ばれるものを私はできるだけ理解しよう(*)と努力してきたが、最近少し考えが変わってきている。若者が使う言葉の中の明らかな使い間違いは、しっかりと指摘して矯正してやるべきではないか。

【注】(*)理解はするが、自分で使おうとは決して思わない。
 たとえば、若者がよく使う「全然、大丈夫です」という表現にしても、本来は「全く、大丈夫です」というべきものである。これは「全然」と「全く」の使い分けができないのが原因である。あるいは「全く」という表現が存在することを知らないだけの話しかもしれない。つまり“無知”に起因するものである。若者言葉だからと一括りにして容認したりすべきではないと思う。

 ところで「チガカッタ」は若者言葉なのだろうか? それとも単なる使い間違いなのだろうか? 分からないなぁ。

2016年4月1日金曜日

2016年3月14日月曜日

「トランプ旋風」-トランプは“切り札”の大統領になれるか

 アメリカ大統領予備選挙での共和党トランプ候補の活躍が話題となっている。日本の新聞では「トランプ旋風」などと称されている。

 実業家出身なので、これまでの政治家とは異なりメディアの攻撃に対し打たれ強い。もともとスキャンダラスな話題の持ち主だったからスキャンダルを取り上げた攻撃にはびくともしないようだ。金持ちなので選挙費用に困ることはなく不正に金を受け取ったりする可能性も少ない。しかも批判攻撃に対しては素早く反論し、かなり下品な内容の個人攻撃で応える。それに懲りた相手は二度と攻撃しなくなる。頭の回転が速く、実に戦い慣れている。

 既成政治家や既得権益層(エスタブリッシュメント)に反感を持つ人々の気持ちをわしづかみにし、その支持に支えられて予想外に大量の票を集めている。今のところ共和党の大統領候補になりそうな雲行きである。言葉遣いも荒っぽい表現から次第に穏やかなものに変わってきた。本選での対抗候補を念頭に置いているようにも見える。本当にアメリカ大統領になってしまったらどうするのだろう。かなり心配である。

 実際に、トランプ大統領が出現したらどうするのか、と今から対策を考え始めている人たちも多くなってきた。カナダへの移住を検討するための問い合わせが多いとか、メキシコ国境に壁を造る費用は誰が払うか、メキシコに払わせる、いや払わない。日本の防衛費用は日本に負担させるらしい、今までの経緯を承知しているのか、等々‥‥が聞こえてくる。

 遅ればせながら、私もトランプ大統領になったらどうなるかを考えてみた。
 トランプ大統領のやる最初の決定は、多分アメリカ合衆国大統領専用機として彼自身が今使用している「TRUMP」と大書された自分の専用ジェット機を使うことにするのではないか。彼は機体に自分の名前が大書された大統領専用機に乗る最初のアメリカ合衆国大統領となるであろう。

 大統領の専用機は、通称「空飛ぶホワイトハウス」とか「エアフォースワン」とか呼ばれるが、これは特定の機種を指すのではなくコールサインのようなものである。したがって大統領が乗ればその機がエアフォースワンとなる。

 これまでのエアフォースワンには、大統領執務室、事務室、寝室、会議室等がありゲームなどでくつろぐ場所もある。慣例として時の大統領の名を記したトランプが常備されているという。当然これらは継承されるであろう。
 そこで私は、早速“President TRUMP”と記されたトランプを(もの好きにも)作ってみた。

       President TRUMP トランプ図

 機体に“TRUMP”と大書された大統領専用機の中で“President TRUMP”と記されたトランプを用いてトランプゲームに興ずるトランプ大統領、という図である。写真に撮ってSNS上に載せられたら、さぞかし楽しいことであろう。

 もっとも、アメリカでは“トランプ”とは呼ばず“プレイングカード(playing cards)”と呼ぶらしい。あれを“トランプ”と呼んいるのは日本人だけであるから、そんな写真を見て面白がるのは日本人だけかもしれない。

 “trump”とは“切り札”のことである。トランプ大統領は、はたしてアメリカの国民が求める“切り札”の大統領となれるのだろうか? 心配だ、心配だ。

2016年3月12日土曜日

パスワードは定期的に変更すべきか?

 パスワードの扱い方を教えるとき、最も基本的な注意事項は以下の4点であろう。

(1)安全なパスワードを使う(長さや字種に配慮する)
(2)同じパスワードを“使いまわし”しない
(3)パスワードは定期的に変更する
(4)パスワードを無闇にメモに残さない


 これらの注意事項は時代とともに変遷していくものであるが、最近(3)が不要であるという意見が出ているらしい。つまり「パスワードを定期的に変更する必要はない」と言うのである。これを聞いて安堵した人は多かろう。もし定期的に変更していたら、それだけ自分に負担が掛かるのだから「楽になって良い」ということであろう。

 しかし私は少し違うと思う。やはり「パスワードは定期的に変更せよ」と言い続けたい。

 パスワードを構成する文字として、英数字だけでも62文字(*1)が使えるから、8桁並べれば約218兆通り、10桁なら約84京通りの表現が考えられる。したがって、いわゆる辞書攻撃をされても簡単には破られないという考え方なのであろう。

【注】(*1)・英字の大文字、小文字の52文字
     ・数字10文字  計62文字
     ・その他、特殊記号が使える
 理論的にはそうかもしれないが、実際には利用者の多くは小文字の英字と数字だけの短いパスワードで済ませている人が多い。その結果、辞書攻撃で容易に破られてしまう。そこに「変更する必要はない」と言って解読作業に十分な時間を与えてしまったら敵に塩を送るようなものである。各自が実際に定期的に変更するかどうかは別にして、少なくとも「変更せよ」と言い続ける必要があるのではないか。

 定期的に変更しないことを推奨して一体何のメリットがあるのか、私にはまるで理解できないのである。パスワードを守ることの重要性は各人のコンピュータ利用環境によって変わるのだから、まず初心者も含めた一般ユーザーに対して正しいパスワードの扱い方を徹底させ、その上で更に高度なセキュリティーを求められる環境ではどうすべきかを個々に教育するのがよいのではないかと思う。

 沢山の異なるパスワードを抱えて四苦八苦するのは避けたいと思っている人に対し、私はもっと知恵を働かせることを推奨したい。特別に記憶力が良くなくても、ちょっとした工夫だけで多種類のパスワードをメモなしで使いこなせるようになる。その方法(*2)をここに記す訳にはいかないが。

【注】(*2)ブラックハットのハッカーに一度狙われたら、先ずもって防ぎきれない。だから「パスワードはこうすべきだ」等と声高に言って目を付けられるのは避けたい。

2016年2月19日金曜日

情報難民とならないために

 中東紛争から端を発した難民の大量流入により欧州各国は混乱をきたしているが、インターネットの世界も同じように 難民問題 を抱えている。
 質の良い情報質の悪い情報ジャンク情報)とを区別できない情報判断力に起因する格差が生じているのだ。その結果、いわゆる“情報難民”と呼ばれる人たちが急増している。所得格差の問題と同じように、インターネットの世界では情報判断力の差による“情報格差(*1)の拡大”が大きな問題となってきているのである。

【注】(*1)情報格差にもいろいろな種類がある。
 ・経済力による格差
 ・技術力による格差
 ・情報判断力による格差
 ・行動規範(倫理観)による格差
 インターネットの世界で良質の情報を得たければ、質の高い情報の発信源をよく知っておく必要がある。そういった情報源を“ハブ”として用い、そこにリンクを張ることによって常に良質の情報が得られるようにするとよい。同時に自らも情報の価値を適切に判定できる情報判断力を身に付け、その能力を磨き続けることが求められる。この情報源のハブを選び間違えると、ジャンク情報の泥沼に落ち込んでしまう可能性があるから注意が必要である。信用の置けないサイトには、興味本位で無暗に近づいたりしない方がよい。

 良質の情報を選択的に豊かに享受している人たちが居る一方で、良質な情報とジャンク情報とを区別できない人たちも沢山居る。その格差が急速に拡大し、ある分野では情報の無政府状態が出現しかねない状況になっているという。更に悪いことに、情報の良否を判断できない人のところにはジャンク情報が排他的に蓄積されていく傾向があると言われている。

 情報の良否を判断できない人たちの特長は 話を単純化したがる ことだという。それゆえ、彼らは最も知的負荷の少ない解釈法を好む。たとえば 陰謀史観 はその最たるものであろう。つまり「世の中のすべての不幸は、それによって利益を享受している悪の張本人のしわざである」とする考え方にすぐ飛びついてしまう傾向がある。しかも彼らにとっての最大の不幸は、自分が 情報難民 であるという事実に全く気が付いていない点にある。

 そうならない為には、良い情報源を手に入れることが増々重要になってくる。質の高い情報の発信者を見つけるには、日頃から新聞や書物などをよく読んで見聞を広め、信頼できる人物、評論家、あるいはジャーナリストなどを見つけておくことが重要である。同時に自らも 良き情報受信者 としての立場を築くよう努力する必要があろう。情報受信者として信頼されれば、自然に信頼できる人々の輪の中に入れてもらえるようになり 信頼できる情報 が定常的に送られてくる身分になれる(かもしれない)。

 良き情報受信者たる者は、ジャンク情報が多いと分かっている情報サイトには近づかない。たとえば、猟奇的な事件が起こり犯人と思われる容疑者が浮上すると、週刊誌や特定のサイト上に関連する真偽不明の身辺情報が溢れるようになる。私はミーハー的なところがあるから何となく覗いてみたくなるが、決して覗いたりはしない。いや、断じて覗かない(!)と自分自身に言い聞かせている。ひとたびそういう真偽不明の情報に触れてしまうと、必ず何らかの影響を受けてしまうからである。

 良き情報受信者になりたければ、インターネットの世界では常に 実名 を用いて活動すべきである。私はインターネットの世界で情報発信を始めたときから常に実名で通してきた。その代わりウェッブ上では「議論したければ実名でお願いします」と言って、匿名の人から議論を挑まれても安易に受けないよう注意している。実名で議論しないと責任ある発言が期待できないからである。
 私は自分のホームページの読者からいろいろと感想やコメントをもらうことがあるが、そういう場合はもちろん匿名であってもしっかりと対応している。しかし難しい議論にまで深入りすることはない。周知のようにインターネットの世界では(特に日本では)匿名で活動するのが主流であり、残念ながら全員が実名で自由にやり取りする環境を期待するのは不可能に近い。

 しかし Facebook が登場してからは、実名でしか登録できないシステムであることを知って我が意を得たりと参加することにした。私はこれまで HTML形式のホームページやブログを使って情報発信してきた。それに比べて Facebook の世界は不自由な点も多々あるが、「友達」や「フォロー」する人を自分で選べるので、実名を名乗って議論し合える環境を構築することができる(多分)。

 Facebook では、友人の数が増えると、直接の「友達」でなくても「友達の友達」あるいは「友達の友達の友達…」の発信した情報が共有され表示されることがある。そのため、自分の知らない分野の知識が得られ視野が広がっていく利点がある。それに伴い自然に友達の数も増えていく。「いいね」ボタンを押したり「シェア」(あるいはツイート)できるので情報共有が容易で非常に興味深いシステムだと思う。

 ただ問題があるとすれば「友達」の数が増え、その数がある限界を超えたときであろう。「友達の友達…」による情報がたまたま共有され表示されると、その中に想定外のジャンク情報が含まれていることがときどき起る。しかも「こういう事も知ってもらいたい」というようなコメントが付加されていたりするから、積極的に広めようとしている様子が読み取れる。本人はその情報がジャンクであることに気が付いていないのであろう。

 そういった明らかなジャンク情報には極力触れたくない私は、いささか気分が悪くなってくるのである。同時に、現在の著しく右傾化しつつある日本社会の現状の中にいると「もしかすると、自分の方が実は 情報難民 になってしまっているのではないか‥‥」と一瞬 疑心暗鬼に陥ることがある。Facebook を使う際は、重々気を付けたいと思う毎日である。

2016年2月3日水曜日

節分

 節分の頃になると私のホームページのあるページが頻繁にアクセスされるようになる。昨日などは38回も読まれたようである。「何だ、たったそれだけか!」と思う人がいるかもしれないが、私のホームページは田舎の過疎地にある“あばら屋”なので滅多に人が訪れることがない。これは極めて珍しいことなのである。

 この時期だけそんなに読まれる理由を私は分かっている積りだが、さすがに書かれている内容の方が心配になってきた。何しろ13年前に書いたものだったからである。

鬼と福はどちらが先なのだろう?」(2003-03-01)


 そこで、久しぶりに読み返してみた。
 なるほどそういうことか。この時季、豆を撒くときに「鬼は外、福は内」と叫ぶか「福は内、鬼は外」と叫ぶか迷っている人が多いのであろう。私は、以前自分で書いたものを読んで、あらためて教えられたりしている。何ともはや。■

2016年1月26日火曜日

続々・素朴な疑問:双子はどちらが兄(姉)か?(解決編)

 双子が生まれたとき「兄弟姉妹」をどうやって決めるのか。
昔、どこかで仕入れた知識によれば、後から生まれた方が兄(姉)になるというのが私の理解であった。何故、後から生まれた方が兄なのか、と私は素朴な疑問を持ったのを覚えている。もしかしたら、これが私の抱いた最初の“素朴な疑問”であったかもしれない。

 生まれた順番を重視するのは人間だけが持つ特性である。しかしその順番は、当事者の意思では決められないのが普通である。ただ双子や多胎児の場合のみ人為的に(それも当事者でない誰かに)決める機会が与えられることになる。

 私の身辺には双子はいないし、そもそも兄弟の順番がその後の人生に深く影響を及ぼすような高貴な家柄の生まれでもない。そんなこともあり、私はこれまであまり深くは考えたことがなかった。しかし最近知ったのだが、現在は先に生まれた方が兄(姉)となる決まりになっているのだそうである。

 昔の慣例(*)とは異なるものになってしまったのは驚きであるが、その過渡期にいた人たちの間では色々と苦労があったことであろう。いずれにしても、その決め方に何らかの合理的な理由があるのであれば、それはそれで良いのではないかと思う。

【注】(*)慣例となっていたのかどうかも私は知らない。ただ決まりがなかっただけかもしれない。 
 実際に調べてみると1874年12月13日の太政官布告により、生まれた順に兄弟姉妹が定まるとなったらしい。現在の法律ではそれがどう反映されているのか調べてみたが、私は法律に疎い方なので結局よく分からなかった。唯一見つけたのは、戸籍法の中にある「戸籍の書き方」に関する取り決めである。
戸籍法    第三章 戸籍の記載
第十四条【氏名の記載順序】
氏名を記載するには、左の順序による。
第一 夫婦が、夫の氏を称するときは夫、妻の氏を称するときは妻
第二 配偶者
第三 子
2 子の間では、出生の前後による。
 この条文中の“出生の前後”という表現から「先に生まれた方が兄(姉)」という解釈が成り立つのではないか。少し無理があるかもしれないが、少なくともそう解釈しない限りこの条文の趣旨と齟齬をきたすことになってしまうからである。しかし「齟齬をきたす」からという理由だけで“合理的な解釈”とみなすのは無理があろう。

 ところが最近、この疑問に決着をつける出来事があった。アメリカで2015年12月31日の残りわずかで女児が生まれ、2016年が明けた2分後に男児が生まれたという。この事例から「先に生まれた方が兄(姉)」の方に軍配が上がるのは当然のことであろう。

 普通、多胎児の出産では数分から一時間程度の時間差で生まれることが多いという。記録では数十時間から数十日の間隔が開いて生まれる場合もあるらしいので、誕生日や誕生年が異なる兄弟姉妹が存在することになる。素直に“生れ出た順に”というのが合理的な解釈であろう。

 長年の疑問が解けてホッとしているところである。