2015年1月28日水曜日

なぜ箸を正しく使えないか

 新聞を読んでいたら、箸を正しく使えない人が増えているという記事を見つけた。その記事によれば、箸の正しい持ち方、正しい使い方ができる人の割合は、1984年では男女ともほとんどの年代で過半数を占めていたのに、25年後の2009年には2~3割に減ってしまっているのだそうである。
 特に1940年生まれあたりを境にして、箸を正しく使えない人が増えているという。

 確かに、箸を正しく使えない子供や大人を見かけることが多くなった。テレビに登場する芸能人の中にもそういう人がいて、ものを食べる場面で「実は私、箸がうまく使えなくて…」などと恐縮しながら箸を使っているのを見たことがある。

 私は、大学のプログラミングの授業を担当していた頃、和食の食べ方を話題として取り上げることにしていた。これは、和食を食べる際に必要とされる作法を通じて、プログラム作りで必要となる「トップダウン」という考え方を教えるためであった(詳しくは「食事マナー」参照)。そして箸についても、いかに素晴らしいツールであるかに言及してきた(詳しくは「」参照)。実はその時は、正しく使えない人がこれほど多いとは思わなかったからである。

 正しく使えない人が増えた原因として、その新聞記事では次のような理由が挙げられていた。

戦中戦後の混乱期に親が子に箸のしつけをする余裕がなかった。
箸を使う食べ物そのものが減っている。
学校給食で先割れスプーンを使う頻度が高かった。
幼児期にスプーンで食事する時期が長くなり、スムーズに箸に移行しにくい。
 内閣府の調査では「箸の使い方を含めた食事のマナーを身につけている人ほど、幼い時に家族全員で夕食をとった頻度が高い」というデータがあるのだそうである。

 これらの理由はどれも、なるほどと思わせる点もあるけれど、同時にどれも納得がいかないところがある。内閣府のデータに至っては、調査などしなくても誰でもすぐ思い付く程度のものである。

 私は、箸の使い方に限らず、昔ながらの習慣やマナーが後の世代にうまく受け継がれなくなってきたのは(少し話が大きくなるけれど)戦後の教育の仕方が影響しているのではないかと思う。

 戦後、日本の教育制度は大幅に変更され、昔ながらの(体罰を含む)厳しい教育方法は否定された。そして、なぜそれを学ぶ必要があるのか その必要性を本人に説明し納得させてから教えることが求められるようになった。このやり方でも大抵のことはうまくいくのだが、うまくいかないケースもある。たとえば箸の使い方のように幼い頃はどんな食べ方をしても、美味しく食べられさえすれば良いのだと思いがちである。しかし大人になってから、箸がうまく使えなくて公の場で恥ずかしい思いを経験すると、しっかり学んでおけばよかったとその必要性に初めて気が付くことになる。

 学ぶ必要性が理解できる時期とそれを学んで身に付ける時期とが異なる場合は問題が残るのである。つまり、学ぶに最も適した時期(普通は、幼い時)にはまだその必要性が十分に理解できていない、ということがよくあるのだ。
 たとえば、ピアノやバイオリンなどの音楽的才能を伸ばしたい場合、あるいは特定の運動能力を伸ばしたい場合などである。こういったものは学校教育では限界がある。家庭で親の熱意によって、あるいは特定の集団に属しての英才教育によって対応するのが普通である。本人が納得していなくても、なかば強制的に教えることによって才能を発掘する。そのうちに本人にも学ぶ喜びと意欲が生まれてくる可能性に期待するのである。

 箸の使い方、食事マナーなどは幼い内から教え込まないと身に付かないものである。ばっかり食べ、クチャクチャと音をさせて食べる癖などは、長じてからではもはや直せない。これらのマナーを身に付けていないと、後々社会人になってから苦労することになる。これらは学校教育ではなく家庭内教育として親が教えるべき事柄である。私が小学校に入った頃は、同じクラスの子は誰もが箸を普通に使いこなしていたように記憶している。

 箸を正しく使える人が「2009年には2~3割」しかいないという事実は私にとって衝撃的(*)であった。つまり逆に言うと、正しく使えない人が7~8割を占めていることになる。その内に9割を越えることになるのではあるまいか。

【注】(*)更に言えば「1940年生まれを境にして」という点も衝撃であった。何となれば、私めは“1940年生まれ以降の世代”には含まれていないからである。私はこれまで自分の年齢にはできるだけ触れないよう注意深く文章をつづってきた積りだが、これはやはり一言言及しなければいけないと思った。もはや「箸の正しい使い方」について議論する上では、当事者ではなく過去の世代の人間であることを、ここに明確にしておくべきだと思ったからである。これからは少し(少し!ですぞ)言葉を慎もうと思う。

 少子高齢化の時代である。両親がともに正しく使えなくて“いい加減な使い方”(と、ここでは呼ぶことにしよう)をしている場合、その子供は間違いなくいい加減な使い方のまま成長することになる。長じてからその癖を直すのは、多分不可能であろう。したがって、いい加減な使い方をする人の割合はこれから加速度的に増えていくことであろう。

 正しく使える子も、学校へ行けば変な目で見られるかもしれない。「箸の変な使い方をする子がいる」となれば、いじめの対象になる可能性もある。いじめられたくないからと、正しく使える子も学校ではいい加減な使い方の子に合わせるようになるかもしれない。そして、次第にいい加減な使い方の方が“正しい使い方”となってしまうことであろう。恐ろしいことである。
 歴史が後の世代によって改変されていくのと同じように、そして用語の意味が時代とともに改変されていくように、“箸の正しい使い方”も改変されていくに違いない。恐ろしいことである。

2015年1月1日木曜日