2010年5月21日金曜日

二分木 と ルーツヒーリング

 私は毎週1回は、K市にある大学のキャンパスへ講義のため通っている。電車で2時間以上はかかるので、電車事故などでダイヤが乱れると大幅な到着遅れとなって授業にも差し支えることになる。それを避けるため私は二つの通勤ルートを用意していて、順調に運行している方のルートを選んで大学に向かうようにしている。そのため、出勤の日は朝からラジオの交通情報に耳を傾け、家を出る直前にはインターネットで交通の事故情報を確認するのを習慣としている。

 こういった事故情報では、事故原因が“人身事故”となっていることが多い。春先など学期の初めには、特に人身事故に起因する電車事故が多発するようである。人身事故と聞いても我々は何気なく見過ごしてしまうが、たいていは飛び込み自殺であることが多いらしい。多くの人は「また事故か」と自分の被る迷惑の方に関心を向けてしまうが、その陰では人知れず悩んだ末に自身の人生に区切りをつけてしまった人がいるのかと思うと、痛ましいことだと思うのである。

 大学で若者達に接していると、彼らが青年期特有の色々な悩みを持ちつつも、着実に生きていってほしいと思う。新たな環境で学業や仕事を始める時は、いろいろとストレスに直面し悩むことも多いであろう。そういう壁を乗り越えていくための参考になればと、私は授業の中でストレスへの対処法など、多少なりとも役立つような経験談を語って聞かせることにしている。

 少し専門技術の話になるが、私はプログラミングの授業の中で二分木(binary tree)を取り上げることがある。周知のように二分木というのは1つの数値と2つのポインタ(番地)情報から成る構造体データのことである(図1参照:画像の上にカーソルを置くと図番号が表示されます)。
 この二分木の左右の枝に同じ構造の二分木を何重にもつないでいって、木構造を構築していく手法を教えているのである(図2)。 左右のポインタの指す先に何もデータが無ければ(図3、点線の矢印で示した部分の枝)、
その枝を書かないで済ますことにすると、図4のように表わせる。 

 この木構造を扱う時、私は何時も家系図に似ているなぁと思うのである。たとえば、図4の上下を逆転させた図5では、AさんとBさんが結婚して子供Xが生まれたことを示す図と考えれば家系図の表現そのままである。このXを自分だと仮定すると、将来、図6のようになるのではないかと想像することができる。

 この図6を見ながら、もし自分が若くして死んでしまったら、ここから派生する下方向への枝はすべて存在しないことになる。今ここに自殺したいと思っている人がいるとする。自分が死んでも誰も悲しむ人はいないから、と後腐れなく死んでしまいたいと考えている。しかし、たとえそう思ったとしてもこの図を見れば思い返してくれるのではないか。将来自分の子孫となるはずの人達が大変な迷惑(?)を被るではないか、と。いや、迷惑と感ずるためには存在しなければならないのだが、その存在そのものを否定されてしまうのである。そのことに思い当ってくれないものだろうか。

 昔見た「Back to the Future」という映画にも似たような場面があった。この図から、そういう教訓的な話が引き出せないものか、と私はかねがね考えていたのである。ところが、これがなかなかうまく説明できないのである。Xが存在しなければ、そこから派生する下向きの枝にぶらさがるすべての二分木が消えてしまうことになる。それを劇的に表現できるような図を作りたいのだが、まだうまくいっていないのである。2次元表示の図では、そういう家系図を作るのが難しいのかもしれない。

 もっとも、今まさに死にたいと思っている人にこんな話をしても何の効果も期待できないであろう。健全な心理状態の人に教えておいて、将来壁にぶつかった時に思い出してほしいと思うのである。残念ながら、あまり説得力のある話にまとめることはできそうにないのだが。

 ところで、先日ラジオを聞いていて偶然「ルーツヒーリング」という言葉に出合った。正確には聞き取れなかったが、多分“Roots Healing”ではないかと思う。これは自分の家系図を見て先祖の人々のことを振り返ることによって、心の癒しを得るというものである。なるほど、自分の親類・縁者や先祖の人々がどんな人生を歩んできたか、どういう足跡を残してきたかを知ることは、連帯感を育み、必ずや自分に生きる喜び、希望、勇気などを与えてくれるのではないか、と実感したのである。
 私の“二分木”による教訓話も、あながち的外れではないと勇気づけられたのであった。ルーツヒーリングを加えて、もう少し考察を進めてみようと思っているところである。
【追記】本文のリライト版【素歩人徒然】「二分木」も参考にしてください。

2010年5月9日日曜日

まっとうな日本語を身に付ける

 速読法というものがある。この技術を身に付けると文章を驚くほど速く読めるようになるらしい。大量の本を短時間で読了できるのなら、試験勉強の時など便利だろうから私もやってみたいと思わないこともない。しかしその技術の核心が、どうやら「文章を読まない」というところにあるらしい。そうだとすれば、やはり二の足を踏んでしまうことになる。

 私は、どちらかというと遅読の方である。ゆっくりと個々の文章を味わって読むような読み方をしている。こういう読み方を昧読(まいどく)と言うのだろうか。心に響くような素晴らしい文章に出合うと、その部分を繰り返し読んだりメモしたりして記憶に焼きつけようとする。後で思い返すと、どの本のどの辺りに書いてあったかまで鮮明に思い出せることもある。だから私は、速読法で文章を読まずに、ただ内容だけを短時間に把握できても、少しも有難いとは思わないのである。もちろん、評論家のように短時間に大量の文書を読みこなす必要のある人には有用な技術なのかもしれないが、特別、速読を必要としない人が、あえて速読する意味はどこにあるのだろうかと不思議に思う。しかし人には、それぞれ好みがあるから他人の読書法についてとやかく言う積りはない。

 私は自分の長い人生の間に、新聞や書物を通じて様々な文章に出合い、それをじっくりと読むことによって自らの貧弱な頭脳に少しずつ知識を蓄えてきた。そのことが自ら文章を書く上での財産となり、役立っているのではないかと思う。本当は、ただ黙読するだけでなく、声に出して読むようにしていればもっと良かったのだがと思う。声に出して読むと、脳を活性化させる(1*)だけでなく漢字の読みを確認する動機にもなり大変に有効なのである。
【注】(1*)周知のように、日本語は表意文字と表音文字で構成されている。その日本語の文章を脳でどのように処理しているかというと、まず文字列を視覚パターンとして後頭葉に描き、既知パターンとの一致を求める。一致したら頭頂葉で意味処理を行い前頭葉で論理処理を行っている。
 つづりと発音とが一致しない言語(英語等)では、頭の中だけで発音してみる過程が加わり脳の聴覚機能が働くが、日本語の仮名を読む時は聴覚機能は働かない。したがって声に出して読めば脳の聴覚に関わる部分が活性化されるのである。
 漢字の場合は文字パターンが複雑なため、最初の後頭葉でパターン処理する段階で、より広い面積が活性化され、他の言語では左脳だけで処理が済むところを右脳まで総動員して処理しなければならない。このように、日本語の文章を読むということは、他の言語に比べて脳のいろいろな部位を活性化させていることが分かる。
 日本語として正しい文章、良い文章を数多く読んでいると、我々は日本語として正しい言い回し、表現方法を自然に身に付けるようになる。それを最初から記述できなくても構わない。少なくとも読んでみて、それが正しい(まっとうな)日本語の文章であるかどうかを判断できる“文章力”は身に付くであろう。

 最近、言葉の乱れが話題になっているが、その原因の一つは本を読まなくなったからだと言われている。たとえば、若者の間で「全然かまいません」とか「全然いいです」という様な言い回しが使われていて話題になっている。“全然”の後には、否定形の表現が続くのが普通だから、使い方に間違いがあるという指摘である。こういう議論になると必ず文法的な議論になり、肯定形が続いている例を持ち出してきて「全然いいです」は正しい使い方である、というような主張が展開されたりする。

 我々は(文法学者ではないから)文章を記述する時、いちいち文法のことを意識したりせず、自分の思いを自然のままに書き連ねているはずである。したがって、読み返してみて不自然な文章は、文法的に正しいかどうかを議論するまでもなく、やはり不自然で、まずい文章なのである。それは到底、良い文章とは言えないであろう。誤解を恐れずに書けば、やはり、まっとうでない“間違った”文章なのである。

 我々は不自然な表現に出合うと、その部分が気になって読みの連続性が乱されてしまうことが多い。不自然さがひどいと、読んでいる文章全体に対する共感が得られず、場合によっては内容全体に対する信頼性さえも失われてしまうことになる。不自然さのない“まっとうな文章”であるかどうかを判断するには、沢山の文章を読んで自分の“文章力”を鍛える以外に方法はない。日々交換しているケータイ・メールのいい加減な文章ばかり読んでいても、決してこの“文章力”は身に付かないであろう。ツイッターの、つぶやき程度のいいかげんな文章を読んでいても、多分得られるものは少ないと思う。私は、プロの書き手によって作られたすぐれた文章に数多く接することを薦めたい。それを続けていれば“不自然さ”を嗅ぎわける“文章力”を自然に身に付けることができると思うのである。

 私は他人の書いた文章を査読したり、添削したりすることを仕事の一部としてやってきた。その時、読んでいて不自然なところは、できるだけ直してあげようとする。「たとえば、こう表現したらどうですか」という程度の指摘であるが。
 先の「全然かまいません」などという表現は、明らかに不自然な表現と言える。私だったら「全くかまいません」と直すところである。“全然”と“全く”の使い分けをうまくすれば簡単に解決する問題なのである。それを知らないから“全然”という表現にばかりこだわって、不自然な文章にしてしまうのではないかと思う。まっとうな文を書けるかどうかは、その人が良い文章をどのくらい多く読んでいるかで決まるのではないかと思う。もちろん私も、まだまだ勉強中の身であり、この拙文の中に「不自然な」記述があるかもしれない。その際は、ご容赦願いたい。

【追記】本文のリライト版【素歩人徒然】「日本語力」も参考にしてください。