2014年10月28日火曜日

「生きた言葉」と「死んだ言葉」

    ━━ 新しい言葉との出会い
 日本語の慣用句の使い方について、文化庁が行った世論調査の結果が発表された。それを紹介した新聞記事を読んでいると、私はいつも自分の無知と不勉強を(密かに)恥じていたものである。ところが、今年の発表の多くは自分の理解の方が正しくて、逆に若者達(多分)の新しい解釈に驚かされることの方が多かった。これは前回発表の後、私の国語力が急に向上したとは思えないから、若者の解釈が多様になってきたと考えるべきであろう。

 たとえば「煮詰まる」は、正しくは「議論や意見が出尽くして、結論が出る状態になる」ことであるが、最近は「議論が行き詰まってしまって、結論が出せない状態になる」という意味に解釈している人が4割近くいるという。しかも一部の辞書には、この両方の意味がともに載るようになったとのことである。

 言葉というものは時代とともにその意味が変化していくものらしい。新しい意味が追加されると、その分だけ言葉の表現力が豊かになったと言える。しかし正反対(*1)の意味が追加されることになれば、世代間で意味の解釈が異なることになり、場合によっては正確な意思疎通の妨げになる恐れもある。そうなると、もはやその言葉に利用価値はなくなるのではないかと私は危惧するのである。そういう厄介な言葉は使いたくないと思うだろう。
  【注】(*1) 正反対”という立派な言葉が存在するのに、最近「真逆」などという変な言葉が使われるようになった。私めには理解し難いことである。

 同じ言葉が正反対の意味になってしまうような“おかしな解釈”が頻繁に出現するようになった背景はある程度推察することができる。
 ここでは、自分の知らない“新しい言葉”に出会ったとき、我々はどのように対応しているか(あるいは対応してきたか)を考えてみよう。

 私が「新しい言葉」に出会うのは、主に読書を通じてである。本を読んでいて未知の言葉に出会うと、まず前後の文脈との関係からその意味を推測して自分の脳内辞書に登録する。意味が分からなければ辞書で調べることもあるが大抵はそのまま読み進むことになる。中学生時代に習った国語教師のW先生からは、本の文章から「生きた言葉」を学ぶように、と教えられた記憶がある。辞書に書かれた言葉は、いわば「死んだ言葉」であり、いろいろな意味が列記されていてもどのような文脈で使われるのかは分からない。それに対し本の中で出会った場合は、前後の文脈を繰り返し読んでその意味を推測することができる。前後の文脈とともに覚えた「生きた言葉」を学ぶことの重要性を教えられたのである。更に、本の中で使われた言葉であるから、当然正しい使われ方をしていることが保証されていると思ってよい。

 ところが、最近の若者達(多分)は本を読まない世代であると言われているから、おそらく会話を通じて、あるいはネット上の文書の中で新しい言葉に出会うのであろう。会話の場合は、録音でもしない限り前後の文脈はすぐ忘れ去られ反芻できない。そうなると前後の文脈とは無関係に、その言葉だけから意味を推察しなければならない。漢字表現も同音異義語にすり替わってしまう可能性がある。その会話の中で正しく使われたという保証もない。間違って使われた場合は間違って覚えてしまう可能性が高くなる。ネット上の文書では正しく使われているかは全く保証の限りではない。結局、「死んだ言葉」ばかりを自己流で学んでいることになるのではないかと思う。こういうステップを踏んで覚えた言葉から“おかしな解釈”が生まれてくるのではあるまいか。

 新しい言葉の意味を辞書類で調べるのは、この文脈からの推察を行った後にすべきであろう。そうすれば、更に広い活用法が見つかり語彙を増やすことができるかもしれない。■