2020年12月29日火曜日

今だから話そう「人種差別」


・Knuhsの書斎 から転載

── アメリカにおける人種差別


▼人種差別
 アメリカでは、黒人差別の問題が起こると“Black Lives Matter”(BLM)という表現を使って盛んにアピールするようになった。BLMは日本語に翻訳すると「黒人の命も大切だ」という意味になるらしい。何んとも、こなれていない訳ではある。

 「黒人の命“”大切だ」ではなく「黒人の命“”・・・」と表現するところが重要なのだそうである。“”では黒人以外の命は大切ではないのか?! と異論が出てくるから“”にしたのだという。日本語の表現でこんな議論がなされていると知ったらアメリカの人たちは驚くことであろう。

 英語の“Matter”は「問題」とか「重大な事」という意味だから「大切だ」とか「大事だ」と解釈しても構わないが、ここでは単に「○○問題」として固有名詞のままの方が自然で、かつ使い勝手も良くなるのではないかと思う。

 更に言えば、アメリカにおける人種差別では単に白人が黒人を差別するという単純なものばかりではなくもっと重層的である。同じ白人でもいろいろな人種が混じっている国だから白人間でも差別が存在する。人種とは関係なく貧富の差で差別されたり、差別される者が更に弱い者を見つけて差別するという場合もある。もちろん日本人も差別の対象となっている。

 つまりアメリカにおける人種差別では、すべての階層に渡って何らかの差別が存在している。それらは必ずしも命に係わるものばかりではなく、いじめや嫌がらせ、無実の罪に陥れるといったものまで様々なものが含まれている。そういうものを無視して“Black Lives Matter”と言って黒人への差別だけを取り上げるのはいかがなものかとも思う。したがって日本で言及するときは“黒人”も“命”も省いて単に「人種差別問題」と表現すべきではないかと思うのである。

 私が仕事でアメリカに長期滞在していた頃の体験では、差別の程度は今とたいして変らないように思う(差別に関する私の当時の感度が鈍かったのかもしれないが)。しかしトランプ大統領以降の、あのあからさまな差別的発言や差別的政策には正直、驚かされている。

 たとえば、警官による黒人への差別的な扱いは昔からあった。最近急に数が増えた訳ではない。今まで公になっていなかったものが暴露されるようになっただけのことである。これには日本人のある発明が寄与している。

 携帯電話の技術的進歩の過程でカメラ機能が付加されたのは日本人技術者の努力によるものである。スマホにカメラ機能が常備されるようになった結果、身近に起った出来事の多くは、たまたまその場に居合わせた人のカメラで撮影される機会が増えた。ちょっとした暴行事件でも簡単に映像データとして残されるようになった。

 それまで目撃証言と言えば、警察関係者からのものばかりだったから、事実が隠蔽されることが多かった。それがスマホのお陰で証拠が明るみに出るようになったのである。リアルな映像情報の存在は、想像以上に強力な決め手となることを我々は学んだのである。

▼私の体験したこと
 アメリカ生活が長くなりいろいろな体験を重ねる内に、気が付くと自分も同じように人を人種で区別し常に警戒的な目で見ていることに気が付いた。
 以下に、私の体験のいくつかを紹介してみよう。

(1)事例1
 私が滞在していた当時のソフトウェア会社や研究所などでは、技術者同士で議論をしていても黒人の技術者が席を外すと、残った白人がその黒人の悪口を言うという場面によく出くわしたものである。私はそれを聞いていて人種差別の一端に触れたような気がしていやな気持になったものだ。そして、もう少し仲良く出来ないものかと思ったりした。

 後から考えると、当時のアメリカのソフトウェア会社や研究所内の職場では滅多に黒人技術者の姿を見掛けることはなかったような気がする。黒人の女性事務員はよく見かけたが。これも人種差別の結果であることに気が付いたのは、その後十数年経ってからである。

(2)事例2
 研究所で仕事をしていた当時のことである。日本人技術者3人で夜遅く帰ろうとして駐車場に出て、自分の車の置いてある場所へ向かって歩いていた。夜も遅いので車の数も少なくなっていたので遠くから自分の車が見える。よく見ると車のボディーが何か変にキラキラと光っているようだ。不思議に思って近づくとリアウインドウのガラスがすべて粉々に打ち砕かれてなくなっているではないか。ガラスの破片がボディーの上や車内の後部座席の上一面に散らばっていた。暗くて破片がよく見えないので危険である。後部座席には乗れそうにない状態になっていた。

 昼間、車を駐車させたとき近くで黒人の若者たちがたむろしてこちらを見ていたのを思い出した。「やられた!」証拠はないが彼らの仕業に違いない。

 3人で使っている車なので、全員前の座席に座って私が仲間を順番に自宅まで送って行ったのを覚えている。レンタカー屋で借りた車だから事故保険に入っているので金銭的な被害はないからよいが、悔しい思いだけは残った。

 その他、昼休みに運動を兼ねて街中を歩いていると、遠くから黒人の子供達に石を投げられたこともある。そういうときはいちいち反応せずに無視するに限る。そういうことが度々起こると精神的にかなりタフでないと生きて行けないと思うようになる。そして自然に黒人には警戒心を持つようになっていった。気が付くと自分も差別心をもっていることに気が付いたのである。

 それまでは、夜帰宅してから家の近所をジョギングしたりしていたが、これは極めて危険な行為であることをアメリカの友人に教えられた。以後、夜の運動はしないことにした。

(3)事例3
 アメリカで生活するには常に車が必要である。長期間の滞在予定が決まっていれば車はリースで借りるのが費用の点で望ましい。しかし私のように技術者として派遣された場合は、滞在期間がはっきり決まっていないことが多い。プロジェクトの成否によって決まるからである。プロジェクトが突然打ち切られる場合もあるから長期間借りるのはかなりリスキーである。

 そこで私は、普通は1ヶ月単位でレンタカーを契約することにしていた(これは会社の指示でもあった)。毎月契約の切れる直前にレンタカー屋へ行って再契約していたのだ。車好きの人なら、いろいろな種類のアメ車に乗りたいと思うだろう。毎月異なる車を借りればよいのだからこんな贅沢な借り方はない。しかし私は仕事の方を優先しなければならない立場だから、安全運転のためには使い慣れた同じ車を使い続ける道を選んだのである。

 あるとき再契約に行くと、レンタカー屋の女性の係員が出て来て私の乗ってきた車をチェックすると言いだした。今までそんなことを要求されたことは一度もない。女性係員は外に出て来て私の乗ってきた車体の周りを一周して観察し始めた。そして「ここにキズがある」とか「ここにも擦った跡がある」と難癖を付け始めたのである。「それは借りたときからあった瑕だ」と主張しても一向に聞き入れようとしない。書類に細かく記入している。明らかに嫌がらせである。東洋人だと差別的に扱われることを私はしばしば経験していた。

 私は黙って見ていることにした。たとえ瑕が付いていても保険でカバーされるから少しも困らないと分かっていたからである。

 書類への記入が終わったところで、彼女は私の契約書を見てある項目を読んで慌てることになった。そこには“Full Coverage”(事故を起こしても全面的に保障される契約)という項目があり、その頭にチェック印が付いているのに気が付いたからである。

 彼女が今作ったばかりの書類をどう扱うか、私は黙って見ていることにした。作った書類が無駄になったときはその人の見ている前で破棄するのがルールである。彼女は悔しそうにその紙を破り捨てたのであった。私は「ザマ~みろ」と言いたかったがグッと堪えた。実は、そんな上品(?)な言葉の英語表現を知らなかったので、何も言えなかったのである。

 後で考えたのだが、あの時、日本語でよいから「ざまあみろ」と叫んでいたら、かなりの鬱憤を晴らすことができたのにと思った。私は、悔しいときは日本語で叫んで憂さを晴らすとよいことを、このとき学んだのであった。

▼企業人の注意すべきこと
 本稿ではアメリカにおける「人種差別」を取りあげた。この程度のことならなぜ今まで取りあげなかったのかと疑問に思う人がいるかもしれない。

 アメリカでの人種差別については、これまで私はエッセイの類いでは触れたことがない。それは企業人として触れてはならないテーマだったからである。その理由は、東芝のようなワールドワイドに事業を展開している会社の一員である以上は、他国の恥部に触れるようなことを書いてはいけないことになっていた。たとえ書く場所が社内報のような内輪のものであっても、現地法人に勤めているその国の人たちもまた会社の一員なのである。彼らが読んで気を悪くする可能性のある記事の取り扱いに関しては慎重でなければならない。

 そのために、社外に文書を発表する際は必ず会社の許可を得てから発表する規則になっている。
 最近のように、ネット上でSNS等に気楽に投稿する人が多い時代では、余計なことを“つぶやいて”何かと物議を醸して世間を騒がせている人が多いのは周知のとおりである。企業に属する方々は、社外に公開する文書の管理について増々扱い難くなる時代に生きていることを自覚し、油断なさらぬよう注意されたい。