2015年9月23日水曜日

しっぽの痛み

★本記事のリライト版を、ホームページ上に
しっぽの痛み
       ── しっぽを踏まれたことがあるか?」

として掲載しました。(2015-10-1)

 多摩川沿いにウオーキングをしながら“痛み”について考えている。
 事故等で足を失った人が、もはや存在しない足の特定の部位に痛みを感じるという話を聞いたことがある。これは実際に痛みを感じるのはその部位ではなく脳の方であることを示している。

 人類はその昔尾を持っていたと言われているが、もし現在でも尾があってそれを誰かに踏まれたりしたら、さぞかし痛いことであろう。進化の過程で失われた尾の神経の一部が今の人類の身体にまだ残っているとすれば、事故で失われた部位が痛むのと同じように「尾を踏まれた痛み」を我々は体験できるのではないか、などと“しょうもない”ことを考えながら、私は多摩川のサイクリングロードを歩き続けている。

 我々は誰しもしっぽを踏まれた経験はない。しかし今思い返してみると、私は子供の頃いじめを受ける度に何度もそれを経験していたのではないかと思うようになった。私はいじめられっ子ではなかったが、それでも子供の頃身辺にはいじめはいくらでも存在した。

 いじめを受けたとき、それが物理的な暴力によるものなら打たれたところが痛むものである。しかし言葉によるいじめではそういう痛みはない。しかし“言葉による暴力”という表現があるくらいだから、本当にこたえるのはそういう陰湿ないじめの方ではないかと思う。いじめられた本人は傷つき身体のどこかに痛みを感じているはずなのだ。しかし子供はそれを表現できない。大人になるとその種の痛みのことを心の痛みと呼んで区別する智恵を身に付けるが、子供にはまだそれができないのだ。

 とりあえず身体の不調を訴えて自分の殻の中に閉じこもろうとする。痛い部位を具体的に示せないから、子供はとりあえず「オナカが痛い」と言ってごまかそうとする。よく知られているように、いじめに合っていることを示す最初のシグナルがこれである。しかし本当にお腹が痛いのかもしれないからその区別は難しい。「しっぽの痛み」と呼んで明確に区別してくれると助かるのだが。

 いじめ問題が起こる度に、私は子供達に「そういうときは“シッポが痛い”と言うんだよ」と教えてあげたい。そうすれば、子供達はもっと具体的に痛みの原因を訴えやすくなるのではなかろうか。

 自分の心の痛みが分からない人は、しょせん他人の心の痛みなど理解できないと言われている。だから私もこの際もう一度、自分の心の痛み… いやしっぽの痛みと向き合ってみようと思う。■

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