2011年6月27日月曜日

メディアの多様化

 電車が都心の主要な駅を通り過ぎると車内は少し空いてくる。早朝の出勤時間帯を避ければ、空いている座席を見つけるのは比較的容易なようである。私は空いている座席に座り一呼吸置いてから、新聞を取り出して読み始めることにした。
 しばらくして気が付いたのだが、乗客の中で新聞を読んでいる人がほとんどいない。大抵は、ケータイの小さな画面を食い入るように見つめていたり、ボタン操作に励んでいる人ばかりである。車内で新聞を読んでいるのが自分だけの時は、さすがに肩身の狭い思いをすることがある。時々、小型の文庫本等を読んでいる人や参考書を読んでいる学生さんを見つけると、何かほっとするのである。

 昔、毎日通勤していた頃は、電車の中では本や新聞を読んで時間を過ごすのが普通だった。読む物がなければ居眠りをしていたものだ。最近の通勤ラッシュ時の車内の様子は知らないが、多分ケータイを利用して情報入手に努めている人が多いのであろう。

 毎日通勤していた頃、私はその日の朝刊を外に持って出るようなことはしなかった。家族の者が新聞を読むからである。私はと言えば、夜帰宅してから朝刊と夕刊をまとめて読むことにしていた。かなり大変な作業である。ところが、最近は私以外の家族の者が新聞を読まないようになった。日々の出来事はテレビのニュース番組やインターネット経由で知ることができる。家族の者にとって、今まで新聞で一番の役割はテレビ欄を見ることにあったらしい。それが、地デジ化でTVがデジタル化されると、テレビの放映予定などはテレビ画面上に何時でも表示できるようになった。それを利用すれば、新聞のテレビ欄などもはや不要になったのである。かくして、新聞は私だけが読む物へと変わってきた。

 そういう訳で、週に2回の出勤時に、私めも車内でその日の新聞を読むことができるようになったのである。しかし、前述したように、もはや車内は新聞を読む場所ではなくなってしまっていた。読んでいるのが自分だけの時は確かに肩身が狭い。残念なことだ。

 最近、メディアの多様化が進み、大手の新聞もデジタル化した版を有料で公開し始めている。私はその種のものをまだ一度も利用したことがないので軽々にその是非を論ずる積りはない。しかしこれだけは言えると思う。重い情報機器端末を持たされるのだけは御免だ、と。

 今まで、大学の講義のために出勤する時は、いつもかなりの量の資料類を鞄に入れて持っていかねばならなかった。その上に、授業で使うコンピュータとして自分専用のコンピュータを持参していたのである。コンピュータの重さが身に堪えるようになると、私はコンパクトで軽いコンピュータ(大抵は高価である)を購入しなければならなかった。

 ところが、昨年から大学側でコンピュータを用意していてくれるようになったので、自分で持参する必要がなくなった。コンピュータの共用はあまり気が進まないが、重い物を持たなくてすむのだから、かなり助かっている。共用コンピュータを使う際の注意(ウイルス感染などのセキュリティ対策)さえしっかりとしていればよいのである。こうしてやっと重い荷物から解放されたばかりなのに、“メディアの多様化”の影響で再び情報機器端末を持たなければならないとすれば、確かに身に堪えることであろう。私にとって、これは情報機器端末と紙の新聞と、どちらが重いかという問題なのである。私めのような年寄りには、当分の間は、紙の新聞の方が魅力的にうつるのである。

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