2025年12月21日日曜日

ネット世論

 

ネット世論

    ── 世論と与論の意味の違い

 インターネットが普及して以後、“ネット世論”という言葉がよく使われるようになった。ネット世論(つまり、ネット上で大勢となっている意見)が世の中の意向を正しく反映しているかと言えば、それは明らかに否であろう。インターネットを利用する人達の中のほんの一握りの人達が、掲示板やブログ上で発言しているだけかもしれないのだ。その一方で、大多数の人達は沈黙してそれを見守っているだけ(ROM:Read Only Member)というインターネットの世界特有の現象を正しく理解しておく必要がある。場合によっては、同一人物が名前を変えて同じ主張をあちらこちらで流している(MultiPost)こともある。

 このことを、私は大学の講義の中で取り上げようとしたのだが、その説明をする前に「世論」という字を示して「普段、これを何と読んでいますか?」と学生達に尋ねてみた。すると全員が「よろん」と読むと答えたのである。別の読み方をしている学生は一人もいなかった。これは予想通りの結果ではあったが、全員がそう読んでいたのは意外であった。私は「これは“せろん”と読むのだと思いますよ」と少し控えめに述べ、それから本論へと移ったのである。

 なぜこのような質問をしたかと言うと、それは世の中の人達が(メディアも含めて)“世論”(せろん)を「よろん」と読んでいるらしいと最近になって気が付いたからである。今頃気付くとは随分ととろい話だと思われるかもしれないので、もう少し正確に書いておこう。そう発音している人が多いという事実は以前から承知していた。しかし「せろん」と読んでいる人がほとんどいないという事実に気が付いて、これは問題だと意識しはじめたというのが正確なところである。多分、貴方(女)も“世論”を「よろん」と読んでいるはずです。違いますか?

 私が“世論”という言葉に出会ったのは、正確には思い出せないが、中学生か高校生の頃ではなかったかと思う。その時、最初は「よろん」と読んだが、“与論”という言葉もあることを思い出し辞書で調べてみることにした。すると、手持ちの国語辞典には「せろん」と読むと記されていた。世論(せろん)と与論(よろん)の意味の違いを、私はこの時に学んだのである。以後、私は「世界のセ」と心の中で唱えながら「せろん」と正しく読めるようになろうと自分自身を鍛えてきた。
 したがって“ネット世論”という文字に出会っても、私は何の疑問も抱かずに「ネットせろん」と心の中で発音しつつ読んでいたのである。しかし、これがどうやら世間の動向とは著しく異なっているらしいことに気が付いた。それはテレビニュースのアナウンサーが「よろん」と発音しているのに(私は当然“与論”と解釈した)、画面上では“世論”という文字が表示されていたからである。これまでは「あれまぁ、また表示を間違えて・・・」と思いつつ、そのままにしていたのだが、アナウンサーまでもが!「よろん」と発音している事実に気が付いて心底驚いたのである。

 これは見過ごしにはできない問題であるように思えてきた。
 与論(よろん)とは、公的な関心事について理性的な討議・討論を重ねた末に導き出された社会的な合意(public opinion)のことであり、合意に至るまでには当然長い時間が必要である。逆に、一度確立されると簡単には覆らない。ある程度の期間は批判に耐え得るものであると言えよう。昔は“輿論”と表記していたが、漢字制限の影響で“与論”という字が使われるようになった。

 一方、世論(せろん)とは、情緒的な私的心情であり、一般大衆の気分あるいは人気(popular sentiments)に基づく意見・感想のようなものである。よくよく考え抜いた末の見解ではないので、時間とともに変化しやすいと言えるであろう。
 最近は、世論(せろん)を「よろん」と読む人が増えたせいか、辞書には世論の項に“慣用読み”として「よろん」という読みも加えられている。このことを知っていたので、私は学生に対して「せろんと読むのだと思いますよ」と控えめに話しておいたのである。

 この解釈に従うと、総選挙の結果のようなものは国民が考え抜いた末に投票という行為を通じて意志表示したもので、その結果は与論(よろん)と呼んでも良いのではないかと思う。したがって、少なくともその任期の間は政権が維持されてしかるべきものであろう。
 それに対し、数か月毎にメディアが実施する内閣支持率調査などの結果は、世論(せろん)と呼ぶべきものである。支持率調査の対象にたまたま選ばれて突然電話を通じて意見を求められても、十分な考察もせずに世の中の空気を読んで適当に回答している人が多いのではないか。それなら、これは人気投票に過ぎない。「あの人はKYだ」などと言って、空気が読めない存在になることを極端に恐れている人達にとって、単なる人気調査をされたに過ぎないのである。

 若い世代の人達が、世論を「よろん」と読むようになったのは仕方ないとしても、世論と与論の本当の意味の違いだけは理解していてほしいと思う。世論を「よろん」と読んで、与論の意味で用いるのは明らかに間違いである。更には、ネット世論と世論の違いの方も当然理解していなければならない。国民が良識ある判断を下せる手掛かりとなるのは、信頼性の高い順に書くと 与論 > 世論 > ネット世論 の順になるのではないかと思う。

 日本の政治の貧困は、政治家が与論ではなく世論(せろん)ばかりを気にして政治を行っているからではないか。中にはネット世論を、世論あるいは与論と勘違いして、自分は若者の間で人気があると思い込んでしまった首相もいた程である。その結果、人気投票のランク付けのように、首相が毎年交代するような国になってしまった。政治の貧困は、このような国語力の低下、つまり言葉の意味の取り違えから端を発しているとすれば、国民にもその責任の一端はあるのかもしれない。

 最近話題の尖閣諸島領有権問題でも、中国のネット世論を中国の与論と勘違いして大騒ぎしているメディアが多い。騒ぎ過ぎではないか。日本のような言論の自由が(比較的)保障されている環境では、信頼度の高い順に 与論 > 世論 > ネット世論 となろうが、言論の自由が認められていない独裁体勢の環境下では、官製の“えせ与論”、“えせ世論”がはびこっていて、我々の参考にはならない。我々が国民の生の声に接することができるのは、ネット世論しか存在しないことになる。そういう国のネット世論の信頼度を、我々はどう解釈したらよいのだろうか。私には皆目分からないのである。(2010-12-01記)■

2025年12月16日火曜日

重力の恐ろしさ

重力の恐ろしさ

── アリスは墜落死したか
▼現在‥‥
 最近の私は、日々 重力と戦っている。
 足が重い。腰が重い。肩も重い。そして口も重い(これは若い頃からだが)。今や昼間でも瞼(まぶた)が重くて普段は眼を細くして物を見ているような状況である。重みに耐えかねてか、全身の皮膚も弛(たる)んできた。筋肉も同様である。身長も少し縮んでしまったようだ。髪の毛が頭部から顔の頬や顎の部分へと移動(落下)してしまったのも、多分 重力のせいではないかと疑っている。

▼子供時代‥‥
 思えば、重力のことなど知らなかった子供の頃が懐かしい。始終飛び跳ねて野外を自由に遊びまわっていた頃は実に楽しかったものだ。高いところから跳べば下に落ちるのはごく自然なことであって、私は何の不思議も感じなかった。重力などという概念を知らなくても、落下するのは当然のこととして理解されていた。

 ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」を読んで、アリスが兎穴に落ちる場面では、初速度のままゆっくりと落下していく様子にわくわくしたものだ。アリスは落下しながら棚に置いてあるものを取り上げたり、また棚に戻したりしている。あれは明らかに重力の加速度など存在しない(あるいはゼロに近い)世界のようであった。

 子供たちが、そういう理解のまま軽い気持ちで高いところから飛び降りたりしたら、それはそれで大問題であるが、厳しい現実を知っている子供たちはそんな間違いを起こしたりはしないだろう。高いところに立つと本能的に恐怖心というものが湧いてくるからである。

 それなのに、何故か最近は学校の校舎の窓から、あるいはマンションの屋上から飛び降りたりする子供が増えてきているというではないか。

▼高校時代‥‥
 重力の厄介なところは、次第に加速度が付いてくるところにある。高校時代、物理の授業で習ったところによると、物体の落下速度は時間とともに加速度的に早くなるという。

 ここで、重力加速度の時間(t)は“”の単位で表現するのが普通で、そのことからも分かるように重力加速度は秒単位で急速に増えていく。しかし私の実感では“”の単位で変化する側面にも目を向けるべきではないかと思う。これは、高齢者になって経験してみないと分からないことではあるが。

▼厳しい現実の世界へ‥‥
 思うに、我々は重力の加速度という概念を知ってしまった頃から、夢のある幸せな世界から厳しい現実の世界へと放り出されてしまったのではないかと思う。しかし齢を重ね高齢になるまでは、決して重力の加速度の本当の怖さを身にしみて感じることはないだろうと思う。

 重力の加速度の怖さを(重力のことなど気にもしない)若者たちに知ってもらうには、これはもう絶対に「アリスが兎穴に落ちる話」を持ち出して話すしかないと私は思うようになったのである。

▼教師時代‥‥
 大学の教師をしていた頃、私はプログラミングの授業でアリスが兎穴に落ちる様子を表示する問題を教材として取り上げた。時間の経過とともに落下距離を求めて画面上にプロットしていくプログラムを作るのである。縦軸に落下距離(y)を、横軸に経過時間(t)をとり放物線状に表示してみる。これにより、急激に重力の加速度が増していく様を見ることができる筈だと考えたのである。しかし

という式をそのまま用いたのでは、余りにも急激に落下してしまい限られた画面上にうまく放物線を表示することができないことが分かった。そこで、加速度を表す係数 g を 1/10 にしたプログラムを作って用いることにした。


図:アリスの墜落プログラムの実行結果

 教育現場での話であるから「アリスの墜落死」という悲惨な結果にならないよう工夫し「アリスの墜落事故」程度で収めることにしたのである。

▼重力を逸らす方法
 人間は自然落下している間は重力を感じないが、落下して着地する瞬間にはそれまでの全重力速度に匹敵する衝撃を受けることになる。その衝撃の程度をこの実行結果からしっかりと読み取ってほしいと思ったのである。その結果、この地球上にいる限りは重力を普段少しずつ受けている状態の方が安全だということを分かってもらえる。重力は放射線と同じ様に少しの量なら良いが大量に受ける(浴びる)と危険である。同様に、重力は少量でも高齢者になるまで長期間受け続けると、これもまた危険なことになる(と、私めは信じるようになった)。

 そう信じるようになった経緯をここで説明しておこう。私の経験では、重力を長年受け続けるとその部位が痛くなることを学んだ。たとえば、立ち続けていると足の裏が痛くなる。膝が痛くなる。座り続けていると尻が痛くなる(これは本当につらい)。それなら寝ていればよいかと言えば、そんなことはない。背中が痛くなってくる。ところが起き上がれば痛みはなくなる(病院で診てもらってもどこにも異常はないという)。この痛みから逃れたかったら始終動いていると良いことを体験的に学んだ。寝ているときも時々動いていると良い(半分眠りながら寝返りを打つには、かなりの体力を要することも学んだ)。すべて動いていることが最大の防御になることが分かってきたのである。

 それでは重力による痛みに耐えるにはどうすればよいか、一部重複するところもあるが以下にまとめてみよう。日頃の生活の中で重力による痛みに耐えるには、先ず筋力をつけることが第一である。しかしこれは高齢者には限界がある。そこで、できるだけ重力をまともに受けないように“重力を逸らす技術”を身に付ける必要がある。じっとしていると身体の特定の部位に重力が集中する恐れがあるので、できるだけ重力を分散させて身体全体で受け止める努力をするとよい。最も手っ取り早い方法は、前述した通り始終動きまわっていることである。

 先日、私は高校時代の同期会に出席したのだが、参加者の中に数人だが杖を使っている方々がいた。それを見て私は「なるほど、重力を逸らすには最適の方法だ」と感じ入ったのであった。重力を3本の脚で受け止めて分散させているのだ。うまい方法ですねぇ~。



いまだに生きてる COBOL

   いまだに生きてる COBOL

 新聞を読んでいたら「どっこい生きてるCOBOL」という記事をみつけた。昔使っていたプログラム言語COBOLが今でも使われているという。さすがにCOBOLの使える技術者は少なくなり高齢のプログラマは定年で辞めていくから、若い技術者の教育も難しい状況なのだという。

 当時のことをちょっと書いてみたい。COBOL は金融機関のシステム開発の現場で使われていた言語である。銀行で使う場合はデータ処理を10進法のままで加減乗除の計算をする必要がある。特に数値の四捨五入の際に計算誤差を生じ易いから、技術計算のように2進法にして処理するのは無理なのだ。倍精度でいくら精度をあげても根本的な解決にはならない。

 金融機関に新しいコンピュータを売り込むにはベンチマークテストを通らねばならない。銀行側のプログラムを手直しなしで処理できることを求められる。あるときテストの場で同じ結果が得られないことがあった。当然こちらのコンピュータに疑いの目が向けられる。詳しく調べた結果、膨大なプログラムの中に一か所、特定の式の評価直後に問題が起きそうな部分を発見した。ようやく突き止めたその式の計算中に四捨五入による繰り上げ誤差が生じているようだ。そこで、その部分だけ実際に手計算で確認してみると当社の計算の方が正しいことが明白となった。

 しかしこれで話は終わらなかった。銀行側はトラブルの原因がそこにあることを認めたが、当社のシステムを使うと今までのお客様へ伝えていたデータ値(主に金額)が、実は間違っていたことを公にしなければならなくなる。それは困ると言うのである(利息計算の結果が間違っていたとしたら、それは由々しきことですね)。今まで通りの間違った値を出力するように修正して欲しいという。しかし、丸めの誤差の修正だけなら簡単だが、技術者の端くれとしてそのような不正行為の片棒を担ぐことには抵抗がある。

 私の役わりはここまでだったので、その後の結末がどうなったのかは知らない。