2010年1月16日土曜日

好都合な真実

 情報倫理の授業の中で、私は学生に“多様性”ということを教えなければならない。つまり多様な意見の存在を認めようということである。意見を異にするからといって阻害したりせず、意見が違うことを認めた上で共存することの重要性を教えるのである。その際に、航空幕僚長の地位にいた人の書いた論文に言及したことがあった。日本が、かつて侵略国家であったか否かの論文で物議をかもし、辞任に追い込まれた事件の直後だったからである。そして、あれは公の地位にいる人の発言としては好ましくないということで問題になったのであって、私人なら何の問題も起こらない。人は誰でも自由に意見を表明できるという話をしたのである。更に、これは言わなくても良かったのだが、「他の歴史学者の著作の中から自分に都合の良い主張だけを集めてきて、自身の主張を展開しているらしい」と、どちらかと言えば批判的に、新聞紙上から得た知識を紹介したのである。もちろん、その論文をどう解釈するかは学生の皆さん個人の問題ですが、と抜かりなく言い添えておいた。

 授業が終わってから一人の学生がやってきて「先生はあの論文を読みましたか?」と質問してきた。私が読んでいないと答えると、「私はすべて読みました。そして全部、ちゃんと理解しました。先生は読んでいないのに批判するべきではありません!」と言うのであった。「私は読んでいないけど、自分の意見を述べるのは構わないと思いますよ。意見を述べるな、と発言を封ずるのは間違っています」と私は答えたのである。

 たった今、多様性について教えたばかりなのに、自分の気に入らない意見はすべて封殺しようとする姿勢が見え見えであった。最近、こういう若者が増えてきているのはよく指摘されるところである。インターネット上の掲示板などで論争が起こると、必ず誹謗中傷、暴言へと変わっていくのは誰でも知っていることだ。私がその論に関して何か論文を発表するのなら、それは当然読む必要があろう。しかし単なる意見を言うだけなら、新聞の解説記事から得た知識程度で十分であろう。私は読む必要を感じていなかっただけのことである。もっとも、大学の先生というものは学生に対し常に中立の立場でものを言うことが求められると錯覚している人も多いから、微妙な問題で自分の意見を表明する先生が珍しかったのかもしれない。

 その学生との議論はそこで終わったのだが、私は、本当はその学生にこう言ってあげたかった。もし、貴方がもっと日本の歴史を勉強していれば、簡単にはその主張に同意できなかったでしょう、と。「私はすべて読みました。そして全部、ちゃんと理解しました」という一言が気になったのである。著者の主張に不都合な真実はすべて無視し“好都合な真実”だけを集めてきて構築された主張に対し、日本の歴史をよく勉強していない人が疑問を差し挟むのは難しいであろう。ましてや反論などできるはずもない。

 ところで、我々はインターネット上の検索システムを用いて色々なことを調べられる世界にいる。その結果、学生が提出するレポートの多くが、検索結果の切り貼り(“コピペ”と言うらしい。いやな略語だ)で作られていて問題になっているのはよく知られた事実である。私自身も、ちょっと疑問に思ったことは手軽に調べられるので、検索結果から便利に知識を得ている一人である。

 しかしインターネットのない時代には、我々は書物を読むことによって多くの知識を得ていた。一冊の書物を苦労して読み、自分なりに理解し、その過程で少しずつ自分の頭の中に知識の体系を構築していったものである。つまり本を読むという作業は、その本全体の文脈をたどりながら、自分の中に新たな知識の体系を移し替えていく作業と言えるのではないか。自分が以前から持っていた知識と織り交ぜ、必要なら修正をほどこしつつ構築していくのである。

 一方、インターネットを通じて知識を得る場合は、そのような過程を通らないことが多い。検索結果から得られる短い情報からは、原文全体の文脈をたどることはできない。自分の欲しい情報だけを“つまみ食い”しているようなものだからである。知識として消化し自分のものにする前に、その記述自体を自分の知識と錯覚しダイレクトに使ってしまうのである。そして、それが習慣になってしまうと、つまみ食いされた“好都合な真実”のみを用いて、結果として“不都合な真実(主張)”をでっち上げてしまうことになる。先に述べた論文を書いた人も、それを読んで「ちゃんと理解した」と信じてしまった学生も、私自身も、たいして変わらないことを日々やっていたような気がしてきたのである。反省すべきであろう。

【追記】本文のリライト版【素歩人徒然】「インターネット検索の功罪」も参考にしてください。

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